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いち
しおりを挟む植物から絞り出した貴重な油、それを染み込ませた松明から発せられた火は芳醇な花の香りを漂わせている。最高級の綿花で織られた掛け布の赤が幾重にも揺らぎ、多様な顔を見せる。神聖な祭壇。その前で膝を着く夫妻の表情は暗い。
「この子は神に嫁ぐ。ご神託は絶対だ」
神を絶対とし、神の声を聴く一族が王族を名乗って統治する国。その成り立ち故に、王族だからこそ神託からは逃れられない。例えそれが待望の長子を生贄にしろという、身を引き裂かれるような辛いものであったとしても。夫である前に王なのだと自負する男は同じ目線にある妻の顔を見つめて断言した。
分かっていたつもりで、何も理解していなかったのだと、他家から嫁いできた王妃は涙に暮れながら、大きくなったお腹をさする。
「じゅ、純潔の雌山羊では代わりになりませんか?」
王妃には神の声が聞こえない。神ではなく、目の前の夫に縋り付き、言葉を紡ぐ。代案を願うなど神への不敬だと答えなくてはいけないのに、王の唇は震えるだけ。声を出せば王もまた泣き出しそうだった。
「別の娘ではいけませんか?」
国の為に神の下その身を苦行に曝すからこそ、王族を名乗り、それに相応しい贅沢な生活が可能なのだ。それを忘れ、別の家族に苦しみを押し付けようとする王妃の発言に、神と呼ばれる存在は嘲笑う。
───母の子への想いに応えよう。
初めて聞く重たいような擽ったいような不思議な声に王妃は周囲を見渡す。一方で王妃の耳に届いた声は王には届かず、王は突然狼狽え始めた妻の名を呼ぶ。
───子の代わりに、夫を差し出すことを許す。
王妃は唇を戦慄かせた。姿なき声は優しく王妃の耳に纏わりつく。
───子か、夫か、選べ。
見えない赤子が腹を蹴る。国の事を思い浮かべることもせず、王妃はこの時、ただの女として、ただの母として、口を開いた。
「─────」
妻の声は震えていた、そこには迷いがあるように聞こえた。しかし、男を見つめる女の目には迷いなどない。
神は、応えた。
瞬きすらしないうちに、目の前の世界が一転した。王は唖然とする。節の目立つ木の板を貼り合わせて作られた高床式の建物内にいたはずなのに、一面開けた空間が目の前にある。麻を編んだ衣類しか身に纏ったことのない王は、床に敷かれた布の滑らかさに瞠目し、思わず手を彷徨わせる。触り心地は素晴らしいが、この世の物とは思えず、自分のような矮小な存在が触れていいものではないと慄く。
「ようこそ、私の生贄」
祖国の神殿にある彫像を彷彿とさせる美丈夫が現れた。どこから現れたのか、いつの間にか目の前にいた。朝陽を溶かしたような白金の長い髪が揺れる様は神々しい。言葉を忘れて見入っていると、美丈夫の長い指に、手に、顎を掬われて捕らわれる。
「いけ、にえ…?」
声すら奪われて、思うように発する事が難しい。
「そうだ、アジェルよ。お前たち夫妻は私の課した試練に敗れた」
触れられた箇所から身体が冷えていく。
「試練…?」
「代替わりした王に子供が出来ると、私は必ず子を生贄にしろと言うのだ。是と答えれば良し。その覚悟を忘れるなと告げるだけで試練は終わる。覚悟もない者に王になる資格などない」
「……………」
アジェルは、自身が王としての資質を問われ、それに添えなかったのだと知り、脱力した。父王や先祖が繋いできた国の要を途絶えさせてしまったのだと、自覚して目を伏せる。
「試練に敗れた国は私の加護を失った。通常ならそれだけ。しかし、お前の妻は大胆にも夫を生贄として神に捧げることを強く願った」
「そんな、まさか!?」
質の悪い冗談だと美丈夫の手を振り解く。
「彼女の、自分とお腹の子供を見逃せという願いの代償としてお前を身請けした。交渉は成立している」
「そんな…」
神の守護と、国の中心たる王を突然失った国はどうなっているのか。
王が突然いなくなれば複数の者達が権力を求めて揉めるだろう。加えて懸念されるのは飢饉だ。神の守護なしでどれだけの作物が育つか。更に国の護りがなくなったのを察知した周辺国に攻め入られることだろう。
絶望に打ちひしがれるアジェルの顎を、美丈夫の手が再度掬い上げる。虚ろな眼差しでされるがままだったアジェルだが、口と口が合わさり、厚い舌が差し入れられると我に返って美丈夫を突き離そうと手を動かした。全力を込めてもビクともしない存在に、恐怖を覚えて背筋が凍る。最早本能で逃げなくてはならないと確信し、思い切り歯を立てる。
「!」
厚い舌は流石に鋼鉄製などではなかったらしく、驚いた美丈夫が引き下がった。安堵の息をつく暇もなく、アジェルは震える足で立ち上がり、走り出す。決して振り返らずに。走って、走る。
「ふふ、鬼ごっこか。我が生贄は可愛らしいことだ」
美丈夫の眼下に暮らす人間の平均寿命はおよそ50歳。アジェルは18歳と、人間社会では大人として扱われる年齢だが、千年以上生きる美丈夫から見れば子供同然でしかない。子供が遊んで欲しがっているのだ、応えないわけにはいかないだろう。
捕まえたら、どう躾てやろうか。人が勝手に神と呼ぶ、人ならざる存在でしかない美丈夫は、愉悦に満ちた笑みを浮かべて動き出した。
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