上 下
8 / 26

8 優しさ

しおりを挟む



 抗わないことを、従うことを選んだのは過去のアーネ。流された方が楽だったからだと、離れた今ならわかる。抗う気になればいくらでも抗えただろう。証拠を揃えて上級メイドのトップに現状を訴える、とか。

 そうしなかったのはアーネだ。怒る理由がない。

 アーネ自身、怒りなどの感情が微塵も残っていないことに驚いている。働いていた当時は理不尽に対する不満ばかりだったのに、離れただけで当時の気持ちがアッサリ過去のものになるなんて予想もしなかった。

「心配してくださって有難うございます」

「いやいや、アンタ能天気すぎるでしょ!何で喜んでるの!?」

 何故か半泣きになりながら前後に揺さぶってくる。そんなに病んでいるように見えるのだろうかと苦笑するしかない。

「だって、貴女が優しいから」

「馬鹿なことばかり言ってないで!嫌なことは嫌って言うの!嫌だって顔をするの!アンタを見ていると自分を見ているようで嫌なのよ!」

 他の高爵位の令嬢メイドたちから仕事を押し付けられていた彼女。彼女もまたアーネに仕事を押し付けていたが、そうしなければ、彼女は善人ぶるのかと罵られて一層酷い扱いを受けただろう。

「貴女の行いが本心でなかったと知れて、とても嬉しく思います」

 アーネに恨まれることで、彼女は過去の自分を罰したかったのかもしれない。本当は恨んで憎んだ方が彼女の心は救われるのかもしれない。しかし、残念ながらアーネには怒るという機能が欠けている。人間として欠陥品なのだ。死にやしないので、それに対して思うことは無いが、目の前の彼女は違うらしい。

「…アンタと話していると調子が狂うわ!仕事に戻る。精々幸せになりなさいよ」

 喧嘩を売るかのような口調で言い残し、彼女は立ち去る。アーネはご機嫌で手を振り、彼女の姿が見えなくなると、数歩先の曲がり角を覗き込んだ。

「…立ち聞きですか?」

 前髪で顔を半分隠した青年が、仏頂面で壁によりかかっている。

「因縁をつけられているようなら助けに入ろうと思ったんだが、途中から随分とおかしな方向に話が流れていたな」

 呆れたように溜め息を吐き出す姿に、いつもの底抜けに明るい様子は見られない。

 アーネはキョロキョロと周囲を見渡した。周囲に人がいる様子はない。

「………どうした?」

「今ならエストって呼んでも大丈夫かな、と」

「───よくわかったな」

「ウィルお兄様は、邸宅だと元気そうに振る舞っていますが、実際は外出が困難なほどお身体が弱っているようにお見受けします。顔色も悪いですし、わたくしの前では午後のお茶以外食事をとろうとはしません。───毒で傷ついた臓腑までは回復していないのでは?」

 疑念を抱いたところで、本人にも養父母にも訊ねることはできない。アーネに心配をかけまいとする彼らの心が痛いほど伝わってきて、痛いほどに優しいから。

 エストは小さく頷いた。俺のせいだとでも言いたげな表情で。でも、アーネにそれを否定する機会を与えてはくれない。彼もまた残酷なまでに優しい人だ。

 ニッと笑って話題を変えてくる。

「で、俺の事をお兄様とは呼んでくれないのか?」

 頭に置かれたエストの手が熱い。

 たかが呼び名だ。呼ぶことに何の問題もない。しかし、何故か、モヤモヤとしたものが胸に突っかえる。必要がないなら、呼びたくはない。

「そんなことより、何故ここに?」

「アーネの様子を見に来たんだよ。ウィルがいない分、なかなか仕事を抜け出せなくてな」

 逸らした会話に気づきながらも、エストは追求せずこたえてくれた。だからアーネもエストが何者なのかは追求しない。

わたくしも、貴方がどうしているか心配でした」

 なにせ彼は命を狙われているらしいので。

「ありがとう。君も元気そうで良かった」

 アーネの顔に影を落とし、エストからの口付けが降ってくる。前回は頬だった。しかし今日は唇に触れる。

 不思議と互いに照れなどはない。ただ触れて、離れて。それだけのこと。

「また、な」

「ええ、また」

 甘酸っぱさなどない。単なる挨拶だ。



 VIPルームに戻ると、養母は少しだけ寂しそうに笑いながら紅茶を嗜んでいた。

「愚息には会えたかしら?」

「───はい」

 もしかしたら事前に店内の廊下を人払いしていたのかもしれない。元子爵令嬢は、アーネが来ることを知り、敢えて残っていたのかもしれない。憶測に過ぎないし、確かめるのも野暮だ。

 だからアーネは心から無邪気に微笑むだけ。

「そう、良かったわ」

 養母も満足気に微笑むだけ。





「長男のソリュート・ジェノールだ。帰国が遅れてしまい、すまなかった」

 留学中の長兄は、まるで軍人のような体格の良さだ。思わず養父を見遣る。養父はひょろっとしており、正直体格は似ていない。その代わり目元が似ている…ような気もする、たぶん。

「アリネリアです、宜しくお願いします」

「帰国がお披露目の当日だなんて薄情な息子ね」

 アーネの隣で養母が頬を膨らませている。わかりやすくムクれる母から、ソリュートは視線を逸らした。

「親不孝者で申し訳ありません」

「はは。大丈夫ですよ、兄上。兄上の分までアーネが親孝行してくれますって!」

 ウィルが無責任なフォローを入れるので、アーネは苦笑した。



 ───その発言の意味を知るまであと少し。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

逆行令嬢は聖女を辞退します

仲室日月奈
恋愛
――ああ、神様。もしも生まれ変わるなら、人並みの幸せを。 死ぬ間際に転生後の望みを心の中でつぶやき、倒れた後。目を開けると、三年前の自室にいました。しかも、今日は神殿から一行がやってきて「聖女としてお出迎え」する日ですって? 聖女なんてお断りです!

悪役令嬢は森で静かに暮らします。

あみにあ
恋愛
辺り一面が真っ赤な炎に染まってき、熱風が渦巻き、黒煙が舞い上がる中、息苦しさに私はその場で蹲った。 動く事も出来ず、皮膚が炎に触れると、痛みと熱さに意識が次第に遠のいていく。 このまま死んでしまう……嫌だ!!! そう思った刹那、女性の声が頭に響いた。 「私の変わりになってくれないかしら?」 そうして今までとは全く違う正解で、私は新しい命を手に入れた。 だけど転生したのは、悪役の令嬢のような女性。 しかも18歳に愛する人に殺される悲惨な最後らしい。 これは何とか回避しないと……ッッ。 そんな運命から逃れる為悪戦苦闘するお話です。

【完結】お見合いに現れたのは、昨日一緒に食事をした上司でした

楠結衣
恋愛
王立医務局の調剤師として働くローズ。自分の仕事にやりがいを持っているが、行き遅れになることを家族から心配されて休日はお見合いする日々を過ごしている。 仕事量が多い連休明けは、なぜか上司のレオナルド様と二人きりで仕事をすることを不思議に思ったローズはレオナルドに質問しようとするとはぐらかされてしまう。さらに夕食を一緒にしようと誘われて……。 ◇表紙のイラストは、ありま氷炎さまに描いていただきました♪ ◇全三話予約投稿済みです

みんなが嫌がる公爵と婚約させられましたが、結果イケメンに溺愛されています

中津田あこら
恋愛
家族にいじめられているサリーンは、勝手に婚約者を決められる。相手は動物実験をおこなっているだとか、冷徹で殺されそうになった人もいるとウワサのファウスト公爵だった。しかしファウストは人間よりも動物が好きな人で、同じく動物好きのサリーンを慕うようになる。動物から好かれるサリーンはファウスト公爵から信用も得て溺愛されるようになるのだった。

命を狙われたお飾り妃の最後の願い

幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】 重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。 イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。 短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。 『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。

ゆるふわな可愛い系男子の旦那様は怒らせてはいけません

下菊みこと
恋愛
年下のゆるふわ可愛い系男子な旦那様と、そんな旦那様に愛されて心を癒した奥様のイチャイチャのお話。 旦那様はちょっとだけ裏表が激しいけど愛情は本物です。 ご都合主義の短いSSで、ちょっとだけざまぁもあるかも? 小説家になろう様でも投稿しています。

【完結】誰にも相手にされない壁の華、イケメン騎士にお持ち帰りされる。

三園 七詩
恋愛
独身の貴族が集められる、今で言う婚活パーティーそこに地味で地位も下のソフィアも参加することに…しかし誰にも話しかけらない壁の華とかしたソフィア。 それなのに気がつけば裸でベッドに寝ていた…隣にはイケメン騎士でパーティーの花形の男性が隣にいる。 頭を抱えるソフィアはその前の出来事を思い出した。 短編恋愛になってます。

転生おばさんは有能な侍女

吉田ルネ
恋愛
五十四才の人生あきらめモードのおばさんが転生した先は、可憐なお嬢さまの侍女でした え? 婚約者が浮気? え? 国家転覆の陰謀? 転生おばさんは忙しい そして、新しい恋の予感…… てへ 豊富な(?)人生経験をもとに、お嬢さまをおたすけするぞ!

処理中です...