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しおりを挟む「しばし、2人きりにしておくれ」
老人の声が震えながら願うと、黒いローブ姿の男たちは無言のまま退室していく。まるで今夜が峠のような重苦しい空気に、嘘を吐いた罪悪感を覚えそうだ。
薄目を開けて窺う。そこにいた老人は弱々しさなど残っていない。忌々しいとばかりに、憎悪に満ちた目でイーリオを見ている。その眼差しは、エストールに成績で負けたイーリオを罵倒する、今は亡き皇妃の目と同じだ。使えない駒を蔑視する目だと、イーリオは知っている。
黒いローブを纏った連中は、グラナル公爵は情に厚い、慈悲深い人間だと信じていたようだが、間違いなく目の前のこちらが本性だろう。亡き娘同様、外面だけは良いらしい。
「いつまで寝たフリをするつもりだ」
憎悪を隠すつもりもない鋭い眼孔をイーリオは鼻で笑い飛ばした。
「善人のふりはしなくていいのか?」
「貴様が失敗したせいで、儂の権威は失墜したのだぞ!わかっているのか!」
もう少し公爵が若ければ、もう少し身体の自由が聞くのならば、彼は迷わずイーリオを殴っただろう。脚が悪いのか、杖で床を討ち鳴らすだけで椅子から立ち上がることもない。
アレス皇子が偽物だとバレなければ公爵を筆頭にした派閥は栄華を極められたと、どうも本気で思っているらしい。そんな夢見る老人を嘲笑せずにはいられない。
「失敗したのはアンタの娘だろ。俺がアンタの手駒になった覚えはないね」
どのみち、イーリオに龍の特性はない。遅かれ早かれ後継者争いには負けていた。
公爵は元々現皇帝の叔父だったはず。公爵自身、龍の特性がなかったために後継者争いに破れた一人だ。しかも、龍の特性について何も知らされていない。つまり、当時の皇帝の信用を得られなかったということ。
納得出来ず、今度は孫を皇帝にして返り咲くつもりが、娘の犯罪があらわになったことで落ちぶれた。あるのは名ばかりの爵位だけ。
「大方、毒ガスなどではなく、自死しようとでもしたか。愚かな」
「あ゛?何でアンタみたいなクズのせいで俺が命を粗末にしなきゃなんねぇんだよ」
イラッときて、思わず反論せずにはいられなかった。思い浮かぶのはエストールの眼差しだ。誰よりもイーリオを愛していると雄弁に語る眼差し。まるで、イーリオにしか価値のない世界で生きているかのような目をする危うい男を置いて死ねるわけがない。
「生意気な。ただ飾られてさえいれば国が手に入るというのに、何が不満だ!なぜ儂に従わぬ!」
「アンタに未来はないから」
龍に、人間如きが勝てるわけがない。何も知らぬというのは哀れだが、幸せなことでもある。
「イーリオの言う通りだ」
ぬ、と現れた異形の手が、老人の背後からその頭部を手中に収める。ちょうど握り締められるサイズ感のそれの顔面に鋭く長い4本の爪の先が向けられた。老人は顔色を失い、放心するばかり。
黒い鱗が生えた、4本指の、鋭い金色の爪を持つ大きな龍の手だ。
エストールがいる方角が、イーリオには何となく分かっていた。その気配が近づいてくるのも察知していた。そのため、特に驚きはない。
「今の俺たちが隠れんぼしても全く面白みがないな」
子供の頃、謁見の間で隠れんぼをして、自分より大きな国宝の花瓶を割ったことを思い出す。鬼役のエストールは悪くないのに、イーリオと並んで叱られてくれた。隠れんぼを提案した自分が悪いのだとイーリオを庇ってくれた。あの時、隣にあった温もりの心強さ。思えばあれが初恋だったのかもしれないと、イーリオは思い至った。
今では離れていても互いの位置がわかるのだから隠れんぼが成立しない。それが少しだけ嬉しくて、少しだけ切ない。
「さすがに暢気すぎやしないか、兄さん。隠れんぼって何………」
溜め息と共に呟かれる。心配かけたのは悪かったと思うが、重要な気づきである初恋のキーワードに呆れられると、イーリオとしては面白くない。そのついでのように、鳴り響くような頭痛の存在を思い出す。
「───エルには絶対教えてやらん」
そもそも、イーリオの大切な初恋の思い出なのだから教える必要もないだろう。
白目を剥き、口から泡を吐いた公爵が転がる。それを一瞥すると、鳴り響く頭痛と向き合うように目を閉じる。口から長めの呼気が吐き出された。元凶の公爵が倒れたことでようやく心の底から安堵できたのかもしれない。
「顔色が悪い」
イーリオの頬に躊躇いがちに触れるエストールの手は、ひんやりと冷たい。まだ手が龍化したままなのだろう。
「名前、呼べよ」
時々思い出したように「兄さん」と呼ばれるのも悪くは無いが、今はエストールの口から名前を聞かせて欲しい。
アレス皇子でもない、アレス皇子の身代わりでもない、他の誰でもない名前を。
他の誰からでもなく、エストールに呼ばれたい。
「イーリオ、帰ろう」
それは駄々をこねて家出した幼子を宥めるかのような響きで。イーリオはイーリオのままで良いのだと肯定されているようだ。
「キスしたい、エル」
「はいはい」
ちゅ、と額に軽くエストールの唇が触れる。物足りなくて、口寂しくて。いっそイーリオからエストールの唇を奪ってやりたいのに、熱と戦う身体は思うように動いてくれない。
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