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しおりを挟む案の定、エストールの衣服は上下ともサイズが大きい。シャツの袖もスラックスの裾も、捲りあげないとならない。身長はあまり変わらないはずなのに脚の長さを見せつけられ、イーリオは顔を引き攣らせた。ウエストもイーリオの方が細いらしく、ベルトが必要だ。しかし、渡されたベルトでは、欲しい場所にサイズ調整の穴がない。
「……………」
鏡を見なくてもわかる。とても不格好だ。何度目かの溜め息を飲み込む。
トントン、とノックされ、思わず舌打ちした。ギリギリまで時間を稼ぎたいところだが、そうもいかないようだ。
『アレス皇子?』
「………服のサイズが合わぬ。ベルトすら、な。どうにかするからもう少し待て」
事実ではある。
さて。これから、どうするか。不意に足元がふらついて壁に軽く頭を打ち付けた。異様に眠くなってきた。そろそろ、また体内で変化が起こり始める時間らしい。よりによってこのタイミングで、と呻く。そのままズルズルと壁に寄りかかったまま座り込んだ。
『物音がしましたが、どうなさいました?アレス皇子?』
ノックの音が響く。しかし、もう指先ひとつ動かせないほど眠い。眠くて眠くて仕方ない。侵入者たちの目の前で無防備に眠るよりはマシだろうか。
「───お前たちは逃げろ!俺は毒ガスを吸ってしまったようだ、動けない」
『今助けます!』
「バカか!お爺様の手足となるお前たちは公爵家の宝だ!お前たちを死なせるわけには───」
『アレス皇子!!』
何だろう、この茶番。イーリオは自分で叫びながら、酷く冷めた心地で眠気に抗っていた。密室の浴室と脱衣所に毒ガスって何だ、どこから出てくるんだ、などとツッコミどころが満載である。何より驚いたのは、
───え、マジで信じたの???
連中のリアクションである。切羽詰まった声でガチャガチャとドアノブを回してくる。
───えぇー、よく信じたな?
取り敢えず、このまま引き下がって貰えれば、目の前の危機は脱することができる。
そのままイーリオの意識は途切れた。
隣国の使者に足止めされていたエストールが駆けつけた時には、皇太子妃の部屋はもぬけの殻だった。倒れていた侍従とメイドは別室で手当を受けている。カーペットに染み付いた血の痕、壊された浴室のドア、脱衣所に放られたバスローブ。
イーリオの姿がない。それだけで、エストールは全身の血が沸騰し、目の前が赤く染まる。気を抜くと、腕が膨れ上がり、龍の鱗が生えそうになる。何も知らぬ近衛騎士たちの前で人間を辞めるわけにはいかないと、冷静な理性がエストールを諌める。
グラナル公爵が隣国と繋がっている証拠を掴むために敢えて泳がせていた。それを逆手にとられたのが忌々しい。
「すぐに公爵家を捜索致しますか?」
怯えのような動揺を滲ませつつ、片膝を付き頭を垂れる騎士。エストールはそんな彼を一瞥することなく、公爵家とは全く逆方向の壁を見遣る。正確にはその先に、その方角に、イーリオの気配を感じ取っていた。
「あちらには確か、グラナル公爵家の分家があったな。グラナル公爵の弟が当主を務めていた家だったか」
グラナル公爵が口うるさい実の弟を殺害し、ついでとばかりに自分の行った不正の証拠を死んだ弟に擦り付けて。それを信じた領民たちに幼い甥が追い詰められるのを散々眺めてから、助けに入り、自身に心酔させる。そういった手口でグラナル公爵は絶対的な忠誠を誓う手駒を増やしてきたのも調査済みだ。
「恐らく、その分家跡地にイーリオはいる」
本来公爵の甥が継ぐはずだった財産も屋敷も、全てグラナル公爵が所有している。言葉巧みに甥を洗脳し、誘導したのだろう。
貴族社会は綺麗なだけでは成り立たない。グラナル公爵のような野心家も全体のバランスをとるためには必要だ。だから生かしておいたのに、奴は触れてはならない、龍の逆鱗に触れた。
眠っている間に事態が好転しているといいな、なんて。イーリオは楽観的に願っていたけれど、目を開ければ古臭い傷んだ天井で。
全身が熱くて、頭が重くて、思考がまとまらない。どうやら熱を出しているらしい。寝汗を吸った衣服が肌に張り付いて気持ち悪いし、同じく寝汗を吸った掛布が重くて冷たくて不快だ。
城でも高熱を出していたらしいが、途中で目が覚めたことはなかったはず。イーリオの眠りを妨げないよう、どれだけ気をつかって入念に看病されていたのかがよくわかった。
「あぁ、孫にようやく会えたというのに、なんてことだ………」
白々しいほど、弱々しい老人の声がする。
「旦那様…、申し訳ございません。どんな理由があろうとアレス皇子から目を離すべきではございませんでした」
「まさか、あの状況でアレス皇子に毒を盛られるとは───」
土壇場で吐いた毒ガスという嘘がしっかり信じられたらしい。昏倒したのも、高熱を出しているのも、全て有りもしない毒ガスのせいという結論のようだ。有りもしない毒ガスなので、当然解毒剤も存在しない。故に、彼らの声はどこまでも悲痛なのだろう。
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