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第4章 終わりと始まり
第21話 襲来
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そうして二日の馬車の旅は、見たこともない景色や行ったことの無い町村を通り過ぎ、途中二か所の町で夜を明かして、目前にカーロの国境砦を見据えるところまであっという間にやってきた。
「ミヒャーレ国王の体調が心配だったけれど、この旅も無事終わりそうだ」
ミヒャーレを離れて一週間は過ぎている。高齢ということもあって不安もあったが、思いの外元気なご老人で、この道程を楽しんでいる様子だった。
「カーロの国境砦を過ぎれば、南に下り半日しないところに大漁港である首都があるはずです。きっとカーロ国王が盛大に歓迎して下さるでしょう」
自国で式典を行いたいと言い出したくらいだ。沢山の人々の歓迎の催しと御馳走が待っているのだろう。
見たこともない他国の文化に触れる期待に胸を膨らませていると、先頭を行く騎士達が国境砦に着いたようで馬車が止まった。通行手形を渡して承認が取れたら、門が開いてカーロへ入国できる。
「……可笑しいですね。今回入国審査は不要のはず。隊列を確認したら開門してもらえるという話になっていたはずですが」
そう言われて、確かに半月ほど前のカーロ国王との手紙のやり取りでそう手配するが、不手際があった場合のための通行手形と言って送られてきたことを思い出した。何か行き違いでもあったのだろうか、と思い窓の外を覗いた瞬間だった。
「伏せてッ!」
イェルクの声と同時に馬車の床に横倒しにされる。そして、窓の割れる音と車の壁に何かが複数当たる音が聞こえた。
「敵襲―ッ! 剣を取り、王を守れぇッ!」
外でヴァルテリの張り上げる声が聞こえた。剣がぶつかり合う音、叫び声、馬の嘶きが近付いてくる。「敵」とは一体何者だ。
「ニコデムス様、敵は前方からやってきているようです! ここは危険です、後方の紅獅子団のところまで逃げましょう!」
イェルクが扉を開け放ち、伏せている僕を引き上げて外に飛び出した。
戦場のど真ん中に放り出されたようだった。激しい剣戟の音と倒れる兵、主を失ってどこかへ走り去る馬と、矢の降る音。先程までの長閑な田園風景は何処かへ消え去ってしまった。
「があああぁぁッ!」
と、その瞬間奇声を上げて、馬車の陰から村人が槍の切先を僕に向けて走ってきていた。避ける暇も無かった。
後ろに倒れると同時に、肉を貫く鈍い音がした。僕はただ地面に座り込んで呆然と前を見ているしかなかった。
「ニコデムス様、お逃げ下さい……!」
苦しそうな、必死なイェルクの声で正気に戻る。イェルクの足元に血がぽたぽたと落ちて、彼の背中から腰の辺りが赤く染まっていく。その中心で地に濡れた刃の切先が見えた。
「あ、がぁッ……!」
イェルクの背の向こう側から呻き声が聞こえる。震える足で起ち上がると、彼の右手に短剣の柄が握られていた。それは、村人の喉を真っ直ぐに突き刺している。
「ここは、私が……引き受けます……!」
村人が血を噴き出しながら倒れる。彼の眼は虚ろで、正気を保っていなかった。一年前に見た、吸血鬼化した敵兵の遺体に見られた眼と同じだった。
「イェルク……でも……血が……」
「大した怪我ではありません……! 私など捨て置き早くオルジシュカの元へ……!」
彼の身体を伝え落ちる血が、彼の影を形取るように広がっていく。イェルクは背を向けたまま槍を引き抜くと、次の襲撃に備えて短剣を構えた。前方から声が近付いてくる。
「早くッ……!」
その必死な声に、頬を引っ叩かれるような痛みと心臓が捥がれるような痛みが走る。頭の中を、吊り上がった眼を糸のようにして優しく微笑むイェルクの顔、二人で十六年共に歩んできた道程、思い出が次々と浮かんで溢れ駆け巡った。
「嫌だ……! 君を独り置いてなど行けない!」
イェルクの前に立ち、地面に転がっていた血に濡れた槍を拾う。槍などまともに握ったことはない。槍術を簡単に習ったことがあるだけだ。非力な僕では吸血鬼相手に勝てるわけがない。
それでも、守られるだけの、弱い王でいたくはなかった。大切な人を置いて逃げるような、勇気も覚悟もない、そんな人間でいたくなかった。王として失格だとしても、一生を悔いるような生き方だけは、したくない。
「ぐううう……」
どさ、という重い物が地面に落ちる音がした。音の方を見ると、騎士の一人が口から血を流して歩いてくる。しかしその者の眼を見た時、それがもう人でなくなっていることが分かった。彼は、仲間の血を啜ったのだ。
吸血鬼と化した男と目が合う。鋭い歯を見せ、舌なめずりをしながらこちらによたよたと近付いてくる。槍を強く握り締めて構えた。
「ッが……ぁ……」
僕と吸血鬼の間を影が過ぎる。と同時に男の首が地面に転がった。
「王! イェルク様!」
駆け寄って来る銀の甲冑の男を見て、力が抜けた。槍がからんと音を立てて地面に落ちる。ヴァルテリだ。
「王、御怪我は!」
「僕は何ともない! イェルクが……!」
そう言って振り返った時には、イェルクは地面に力無く頽れ伏していた。
「イェルクっ……!」
地面に座り込み、彼の上半身を抱える。服が血に滲みて真っ赤に染まっていた。
「……忘れていましたよ……今の今まで……」
か細い声でそう言って、震えるイェルクの手が僕の頬を撫でた。いつの間にか零れ落ちていた涙を拭ってくれたのだ。
「貴方は本当は……泣き虫なんでしたね……」
そう言って微笑を浮かべるイェルクの手を握った。繋いでいないと、今にも消えて無くなりそうな気がして恐ろしかったから。
「……でも芯の強い……貴方の、母君に……良く似ている……」
僕を通してどこか遠く、昔を懐かしむように僕の顔を見詰める。
「立派になられましたな……本当に……」
生まれた時からずっと僕の傍に居た。初めて歩いた時も、食べ物を口にした時も、喋った時も、きっと一緒だった。
挨拶の仕方も、テーブルマナーも、世界が丸いことも、花や鳥の名前も、紳士的な振る舞いも、歌も、何もかも、全部、イェルクから教えてもらった。
目のことで酷い仕打ちを受けて泣いていた時も、イェルクは泣き止むまで僕を抱き締めて優しく背を撫でてくれた。彼が周囲から僕のことで同じように煙たがられていると知ったのは、物心がついてきて自分の置かれている立場を理解し始めた頃だ。イェルクは僕を守るために、途方もない苦労を強いられている。そう思った僕はその時から、ただ泣いて縋るだけでいることを止めた。だから、こうやって泣くのは、アシュレイが居なくなったあの日を除けば、ずっと昔のことだ。
イェルクが痛みに顔を顰め、ごほごほと咳き込むと血が口から溢れた。掌に、腕に、胸に、感じる彼の体温が段々と冷たくなっていく。
「最後に一つだけ……無礼を許してくれますか……?」
「何でも許すよ……だから、どうか……いかないで」
冷たいイェルクの手が僕の両頬を包み込んだ。
「愛していた……ニコデムス……息子のように……お前を……」
慈愛に満ちた微笑みに息が詰まって、ここに繋ぎ止めようとするようにイェルクの身体を強く抱き締めた。
「僕も、愛しているよ、イェルク……ずっと父のように想っていた……君は、僕の大切な家族だ……」
涙を拭ってイェルクの顔を覗き込みながら、精一杯の笑顔を作った。イェルクはゆっくりと手を離すと僕を見て目を糸のように細めて、この世の幸いを全て手に入れたかのように笑った。
そしてそれきり、動かなくなった。
「……イェルク……」
泣き喚きたかった。泣いて亡骸に縋って、ずっと蹲っていたかった。
でも、僕は王だ。強い王になると、そう決めたから。イェルクに、立派だと言ってもらえるような、彼が誇れるような、そんな王で在らなければならない。
「……ヴァルテリ、ごめん。ぐずぐずしていたから逃げ損ねたね」
周りを見ると四人の吸血鬼がじりじりと近付いて来ていた。
「大丈夫です。この人数ならお守りできます」
ヴァルテリはそう言って剣を構えた。身体の中心に一本の剣が突き立っているような美しい姿勢で、しかし彼の中で煮え滾る憎悪が、切先から溢れ出しているようだった。
「はぁッ!」
腹の底から唸るような声を上げて、剣を振るう。一太刀で手前の一人の首を落とすと、同時に仕掛けてきた二人のうちの片方の槍を素早く剣で叩き折り、もう一人の腹に蹴りを食らわせて後続の一人を巻き添えに吹き飛ばした。
武器を失って飛び掛かってきた男を払い除けるようにして首を刎ね、地面に転がっている残る二人にも一振りで止めを刺した。
あまりの早業に、息を吐く暇が無い。この一戦だけで、彼が我が国随一の騎士であることを理解するのに充分だった。
「前方の敵はほぼ殲滅しましたが、どうやら囲まれているようです。後方の紅獅子団と連携を取って一時退避するのが良いかと」
遠くから火柱が立ち上るのと同時に断末魔の声が聞こえ、また、近くに居たらしい吸血鬼の頭が目の前に吹き飛んできて、何者かが近付いてくるのが分かった。ヴァルテリが剣にこびり付いた血を払い落とし、再び構える。
「ニコちゃん!」
その聞き慣れた声に目を見開いた。黒のローブに身を包んだ赤い髪に紅い眼の美しい顔立ちの子供、そして黒のローブに全身を隠した大斧を持った大男が走り寄ってくる。その後ろから共に戦っていたのだろう騎士達の姿も見えた。
「アリ、ロビン……!」
駆け付けた瞬間、アリは見えない眼で僕が誰を抱いているのかを認識したのだろう。ロビンの腕を握り、悲痛な表情で顔を伏せた。
「わらわが、もう少し早く気付いていたら……カーロで奴らが動いていることを知っていたのに……」
ノエが前に言っていた、二人に似た人物がカーロで目撃されたと言っていたが、それは正しかったのだ。『聖母の遺児』の情報を掴んで、居所を調べていたのだろう。
「アリは何も悪くないよ。僕が――」
「誰のせいでもない……だからこそ、空虚なのだ」
緑の美しい眼でこの凄惨な光景を眺めながら、ロビンが悲しげに言った。沢山の戦いを、人の死を見てきて、彼らの目的である『聖母の遺児』の殲滅すら虚しいだけのものなのだろう。
ロビンはイェルクの前に座り頭を垂れると、冷たくなった彼を抱きかかえて立ち上がる。
「前方の吸血鬼は殲滅、この戦いを仕掛けた『遺児』の一人も倒した。あとは吸血鬼の残党だけだ。後方の様子が気になる」
ロビンの言葉に、ヴァルテリの顔が引き攣る。そこで紅獅子団、ミヒャーレ国王のことが思い浮かんだ。
「あれ、加勢しようと思ったらもう終わってんのか」
声の方を見ると、ノエが双剣をぐるぐると回して腰に差していた。ヴァルテリと目が合うと呑気に手を挙げたが、突然走ってきた彼に抱き付かれてよろめいた。
「何? 俺の心配してくれたわけ?」
「そうだ! 当然だろう……!」
おどけた表情をしていたノエは、必死にしがみ付くヴァルテリを抱き寄せて微笑む。
「俺は死なねえって言ったろ。あんたみたいな恋人を置いて、逝ける訳ねえや」
ヴァルテリを優しく引き離すと、ノエはロビンに抱かれたイェルクを見て固まった。そして大きく息を吐くと僕の前に真っ直ぐ歩いて来て、肩に手を置く。
「後方は敵数が少なかった。オルジとモーリスが簡単に殲滅したよ。ミヒャーレ国王は今朝発った町に向かって脱出した。ソニャが付いてるから安心しろ」
「良かった。こっちもアリとロビンの加勢もあって収束したよ」
「そうか」と言って二人の顔を見、それ以上何も聞かなかった。
「隊列を組み直し、僕達も町に戻ろう。この状態でカーロに入るわけにもいかないから」
立ち上がり、周囲を見渡す。騎士団の面々が、悲壮感を露わにして立っていた。ついさっきまで仲間だった者を手に掛けた者もいるだろう。疲れ切った表情で剣を握っている。
「皆は馬を探してきて、移動の準備を頼むよ。そう遠くまで行っていないはずだから。怪我人の治療はアリに頼んでも?」
「もちろん」
安らかに微笑んで眠るイェルクの顔を覗き込んで、
「もう少しで帰れるよ」
と囁いて、ヴァルテリの指示に従って動く騎士達と、運ばれてきた怪我を負った騎士達の治療を始めたアリを見詰めた。
「ミヒャーレ国王の体調が心配だったけれど、この旅も無事終わりそうだ」
ミヒャーレを離れて一週間は過ぎている。高齢ということもあって不安もあったが、思いの外元気なご老人で、この道程を楽しんでいる様子だった。
「カーロの国境砦を過ぎれば、南に下り半日しないところに大漁港である首都があるはずです。きっとカーロ国王が盛大に歓迎して下さるでしょう」
自国で式典を行いたいと言い出したくらいだ。沢山の人々の歓迎の催しと御馳走が待っているのだろう。
見たこともない他国の文化に触れる期待に胸を膨らませていると、先頭を行く騎士達が国境砦に着いたようで馬車が止まった。通行手形を渡して承認が取れたら、門が開いてカーロへ入国できる。
「……可笑しいですね。今回入国審査は不要のはず。隊列を確認したら開門してもらえるという話になっていたはずですが」
そう言われて、確かに半月ほど前のカーロ国王との手紙のやり取りでそう手配するが、不手際があった場合のための通行手形と言って送られてきたことを思い出した。何か行き違いでもあったのだろうか、と思い窓の外を覗いた瞬間だった。
「伏せてッ!」
イェルクの声と同時に馬車の床に横倒しにされる。そして、窓の割れる音と車の壁に何かが複数当たる音が聞こえた。
「敵襲―ッ! 剣を取り、王を守れぇッ!」
外でヴァルテリの張り上げる声が聞こえた。剣がぶつかり合う音、叫び声、馬の嘶きが近付いてくる。「敵」とは一体何者だ。
「ニコデムス様、敵は前方からやってきているようです! ここは危険です、後方の紅獅子団のところまで逃げましょう!」
イェルクが扉を開け放ち、伏せている僕を引き上げて外に飛び出した。
戦場のど真ん中に放り出されたようだった。激しい剣戟の音と倒れる兵、主を失ってどこかへ走り去る馬と、矢の降る音。先程までの長閑な田園風景は何処かへ消え去ってしまった。
「があああぁぁッ!」
と、その瞬間奇声を上げて、馬車の陰から村人が槍の切先を僕に向けて走ってきていた。避ける暇も無かった。
後ろに倒れると同時に、肉を貫く鈍い音がした。僕はただ地面に座り込んで呆然と前を見ているしかなかった。
「ニコデムス様、お逃げ下さい……!」
苦しそうな、必死なイェルクの声で正気に戻る。イェルクの足元に血がぽたぽたと落ちて、彼の背中から腰の辺りが赤く染まっていく。その中心で地に濡れた刃の切先が見えた。
「あ、がぁッ……!」
イェルクの背の向こう側から呻き声が聞こえる。震える足で起ち上がると、彼の右手に短剣の柄が握られていた。それは、村人の喉を真っ直ぐに突き刺している。
「ここは、私が……引き受けます……!」
村人が血を噴き出しながら倒れる。彼の眼は虚ろで、正気を保っていなかった。一年前に見た、吸血鬼化した敵兵の遺体に見られた眼と同じだった。
「イェルク……でも……血が……」
「大した怪我ではありません……! 私など捨て置き早くオルジシュカの元へ……!」
彼の身体を伝え落ちる血が、彼の影を形取るように広がっていく。イェルクは背を向けたまま槍を引き抜くと、次の襲撃に備えて短剣を構えた。前方から声が近付いてくる。
「早くッ……!」
その必死な声に、頬を引っ叩かれるような痛みと心臓が捥がれるような痛みが走る。頭の中を、吊り上がった眼を糸のようにして優しく微笑むイェルクの顔、二人で十六年共に歩んできた道程、思い出が次々と浮かんで溢れ駆け巡った。
「嫌だ……! 君を独り置いてなど行けない!」
イェルクの前に立ち、地面に転がっていた血に濡れた槍を拾う。槍などまともに握ったことはない。槍術を簡単に習ったことがあるだけだ。非力な僕では吸血鬼相手に勝てるわけがない。
それでも、守られるだけの、弱い王でいたくはなかった。大切な人を置いて逃げるような、勇気も覚悟もない、そんな人間でいたくなかった。王として失格だとしても、一生を悔いるような生き方だけは、したくない。
「ぐううう……」
どさ、という重い物が地面に落ちる音がした。音の方を見ると、騎士の一人が口から血を流して歩いてくる。しかしその者の眼を見た時、それがもう人でなくなっていることが分かった。彼は、仲間の血を啜ったのだ。
吸血鬼と化した男と目が合う。鋭い歯を見せ、舌なめずりをしながらこちらによたよたと近付いてくる。槍を強く握り締めて構えた。
「ッが……ぁ……」
僕と吸血鬼の間を影が過ぎる。と同時に男の首が地面に転がった。
「王! イェルク様!」
駆け寄って来る銀の甲冑の男を見て、力が抜けた。槍がからんと音を立てて地面に落ちる。ヴァルテリだ。
「王、御怪我は!」
「僕は何ともない! イェルクが……!」
そう言って振り返った時には、イェルクは地面に力無く頽れ伏していた。
「イェルクっ……!」
地面に座り込み、彼の上半身を抱える。服が血に滲みて真っ赤に染まっていた。
「……忘れていましたよ……今の今まで……」
か細い声でそう言って、震えるイェルクの手が僕の頬を撫でた。いつの間にか零れ落ちていた涙を拭ってくれたのだ。
「貴方は本当は……泣き虫なんでしたね……」
そう言って微笑を浮かべるイェルクの手を握った。繋いでいないと、今にも消えて無くなりそうな気がして恐ろしかったから。
「……でも芯の強い……貴方の、母君に……良く似ている……」
僕を通してどこか遠く、昔を懐かしむように僕の顔を見詰める。
「立派になられましたな……本当に……」
生まれた時からずっと僕の傍に居た。初めて歩いた時も、食べ物を口にした時も、喋った時も、きっと一緒だった。
挨拶の仕方も、テーブルマナーも、世界が丸いことも、花や鳥の名前も、紳士的な振る舞いも、歌も、何もかも、全部、イェルクから教えてもらった。
目のことで酷い仕打ちを受けて泣いていた時も、イェルクは泣き止むまで僕を抱き締めて優しく背を撫でてくれた。彼が周囲から僕のことで同じように煙たがられていると知ったのは、物心がついてきて自分の置かれている立場を理解し始めた頃だ。イェルクは僕を守るために、途方もない苦労を強いられている。そう思った僕はその時から、ただ泣いて縋るだけでいることを止めた。だから、こうやって泣くのは、アシュレイが居なくなったあの日を除けば、ずっと昔のことだ。
イェルクが痛みに顔を顰め、ごほごほと咳き込むと血が口から溢れた。掌に、腕に、胸に、感じる彼の体温が段々と冷たくなっていく。
「最後に一つだけ……無礼を許してくれますか……?」
「何でも許すよ……だから、どうか……いかないで」
冷たいイェルクの手が僕の両頬を包み込んだ。
「愛していた……ニコデムス……息子のように……お前を……」
慈愛に満ちた微笑みに息が詰まって、ここに繋ぎ止めようとするようにイェルクの身体を強く抱き締めた。
「僕も、愛しているよ、イェルク……ずっと父のように想っていた……君は、僕の大切な家族だ……」
涙を拭ってイェルクの顔を覗き込みながら、精一杯の笑顔を作った。イェルクはゆっくりと手を離すと僕を見て目を糸のように細めて、この世の幸いを全て手に入れたかのように笑った。
そしてそれきり、動かなくなった。
「……イェルク……」
泣き喚きたかった。泣いて亡骸に縋って、ずっと蹲っていたかった。
でも、僕は王だ。強い王になると、そう決めたから。イェルクに、立派だと言ってもらえるような、彼が誇れるような、そんな王で在らなければならない。
「……ヴァルテリ、ごめん。ぐずぐずしていたから逃げ損ねたね」
周りを見ると四人の吸血鬼がじりじりと近付いて来ていた。
「大丈夫です。この人数ならお守りできます」
ヴァルテリはそう言って剣を構えた。身体の中心に一本の剣が突き立っているような美しい姿勢で、しかし彼の中で煮え滾る憎悪が、切先から溢れ出しているようだった。
「はぁッ!」
腹の底から唸るような声を上げて、剣を振るう。一太刀で手前の一人の首を落とすと、同時に仕掛けてきた二人のうちの片方の槍を素早く剣で叩き折り、もう一人の腹に蹴りを食らわせて後続の一人を巻き添えに吹き飛ばした。
武器を失って飛び掛かってきた男を払い除けるようにして首を刎ね、地面に転がっている残る二人にも一振りで止めを刺した。
あまりの早業に、息を吐く暇が無い。この一戦だけで、彼が我が国随一の騎士であることを理解するのに充分だった。
「前方の敵はほぼ殲滅しましたが、どうやら囲まれているようです。後方の紅獅子団と連携を取って一時退避するのが良いかと」
遠くから火柱が立ち上るのと同時に断末魔の声が聞こえ、また、近くに居たらしい吸血鬼の頭が目の前に吹き飛んできて、何者かが近付いてくるのが分かった。ヴァルテリが剣にこびり付いた血を払い落とし、再び構える。
「ニコちゃん!」
その聞き慣れた声に目を見開いた。黒のローブに身を包んだ赤い髪に紅い眼の美しい顔立ちの子供、そして黒のローブに全身を隠した大斧を持った大男が走り寄ってくる。その後ろから共に戦っていたのだろう騎士達の姿も見えた。
「アリ、ロビン……!」
駆け付けた瞬間、アリは見えない眼で僕が誰を抱いているのかを認識したのだろう。ロビンの腕を握り、悲痛な表情で顔を伏せた。
「わらわが、もう少し早く気付いていたら……カーロで奴らが動いていることを知っていたのに……」
ノエが前に言っていた、二人に似た人物がカーロで目撃されたと言っていたが、それは正しかったのだ。『聖母の遺児』の情報を掴んで、居所を調べていたのだろう。
「アリは何も悪くないよ。僕が――」
「誰のせいでもない……だからこそ、空虚なのだ」
緑の美しい眼でこの凄惨な光景を眺めながら、ロビンが悲しげに言った。沢山の戦いを、人の死を見てきて、彼らの目的である『聖母の遺児』の殲滅すら虚しいだけのものなのだろう。
ロビンはイェルクの前に座り頭を垂れると、冷たくなった彼を抱きかかえて立ち上がる。
「前方の吸血鬼は殲滅、この戦いを仕掛けた『遺児』の一人も倒した。あとは吸血鬼の残党だけだ。後方の様子が気になる」
ロビンの言葉に、ヴァルテリの顔が引き攣る。そこで紅獅子団、ミヒャーレ国王のことが思い浮かんだ。
「あれ、加勢しようと思ったらもう終わってんのか」
声の方を見ると、ノエが双剣をぐるぐると回して腰に差していた。ヴァルテリと目が合うと呑気に手を挙げたが、突然走ってきた彼に抱き付かれてよろめいた。
「何? 俺の心配してくれたわけ?」
「そうだ! 当然だろう……!」
おどけた表情をしていたノエは、必死にしがみ付くヴァルテリを抱き寄せて微笑む。
「俺は死なねえって言ったろ。あんたみたいな恋人を置いて、逝ける訳ねえや」
ヴァルテリを優しく引き離すと、ノエはロビンに抱かれたイェルクを見て固まった。そして大きく息を吐くと僕の前に真っ直ぐ歩いて来て、肩に手を置く。
「後方は敵数が少なかった。オルジとモーリスが簡単に殲滅したよ。ミヒャーレ国王は今朝発った町に向かって脱出した。ソニャが付いてるから安心しろ」
「良かった。こっちもアリとロビンの加勢もあって収束したよ」
「そうか」と言って二人の顔を見、それ以上何も聞かなかった。
「隊列を組み直し、僕達も町に戻ろう。この状態でカーロに入るわけにもいかないから」
立ち上がり、周囲を見渡す。騎士団の面々が、悲壮感を露わにして立っていた。ついさっきまで仲間だった者を手に掛けた者もいるだろう。疲れ切った表情で剣を握っている。
「皆は馬を探してきて、移動の準備を頼むよ。そう遠くまで行っていないはずだから。怪我人の治療はアリに頼んでも?」
「もちろん」
安らかに微笑んで眠るイェルクの顔を覗き込んで、
「もう少しで帰れるよ」
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