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陽川花火編
第三話 再会④
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もう一度先生は大きく溜息を吐いて、俺を真っ直ぐに見た。その瞳の中に、悲しみと慈愛を湛えて。
「でも無理でした。裸の彼女を相手にしても、抱くことさえできなかった。君を……脩君を、まだ愛していたから」
息が、詰まりそうだ。この人は、俺が風岡一温にしたことと同じことをしている。俺と同じ痛みを負って、今目の前に居る。
「妻は一年ほどで家を出て行きました。誰にも言わないで欲しいというメッセージがあったので、彼女の思いを尊重して、連絡を待ちました。私も研究のためにアメリカを離れることができませんでしたから。そして、今月連絡が来て離婚が成立し、研究発表会も終わって落ち着いたところでしたので、親類への報告と手続きのために一時帰国をしたというわけです」
混乱している。何が正しいのか分からない。自分が先生の妹から聞いた話と、先生が話したことに大きく乖離があって、何を信じるべきか分からない。しかし、真実を知るには、俺の知っていることを話さなければならない。俺の伝えられたことが、もし事実でないなら――俺はあの時先生を信じ切れなかったことを、後悔することになるだろう。
「……正直に話すと、先生の妹という女性からは、決められた婚約者が居て、俺の存在が邪魔になるから別れてくれと言われました。それだけなら突っ撥ねられたんですが、婚約破棄になれば損害賠償やら慰謝料やらが発生するというようなことを言われて……当時金に困っていたこともあり、金を受け取って関係を終わらせると誓約しました」
先生は寝耳に水と言った様子で驚いていたが、何か納得するように「そうですか」と呟いた。
「その女性は黒髪を肩くらいまで伸ばした、小柄で色白の女性ではありませんでしたか」
「そう、だと……俺とさほど変わらない、若い女で――」
先生が憤るように顔を歪ませるのを見て、俺が会った女が誰だったのか思い至り、言葉の最後の方は尻すぼみに消えていった。
「妹は私の二つ下で、若い頃はモデルをしていました。小柄で若かったとしたら、少なくとも私の妹ではありませんね」
――あの時、俺は選択を間違えた。他人の話を全部鵜呑みにして、脅しに屈して、金に目が眩んで、先生を信じることができなかった。できたはずなのに、選択しなかった。先生が好きだと、思っていたはずなのに。
「久しぶりに会って、脩君は私を『先生』と呼びましたね」
言われてみれば、二人でいる時は、学校以外ではずっと「芳慈さん」と呼んでいたから、不意に出たとは言え不思議だ。
「脩君は、当時から私と距離を取っていたように思います。いつか別れが来ると、心の何処かで思っていたのではないですか?」
はっとして、息を呑んだ。ずっとこの幸せが続くといい――そう思いながら、俺は先生との年齢差、立場や経済面の違いから、このままではいられないだろうという悲観的な想いを心の奥に抱いていたのだ。
あの時あの選択をしたのは、家族が大切だったからじゃない。先生に婚約者が居たことがショックだったからじゃない。俺が、先生を想い続ける自信がなかったからなのだと気づいてしまった。
「でも無理でした。裸の彼女を相手にしても、抱くことさえできなかった。君を……脩君を、まだ愛していたから」
息が、詰まりそうだ。この人は、俺が風岡一温にしたことと同じことをしている。俺と同じ痛みを負って、今目の前に居る。
「妻は一年ほどで家を出て行きました。誰にも言わないで欲しいというメッセージがあったので、彼女の思いを尊重して、連絡を待ちました。私も研究のためにアメリカを離れることができませんでしたから。そして、今月連絡が来て離婚が成立し、研究発表会も終わって落ち着いたところでしたので、親類への報告と手続きのために一時帰国をしたというわけです」
混乱している。何が正しいのか分からない。自分が先生の妹から聞いた話と、先生が話したことに大きく乖離があって、何を信じるべきか分からない。しかし、真実を知るには、俺の知っていることを話さなければならない。俺の伝えられたことが、もし事実でないなら――俺はあの時先生を信じ切れなかったことを、後悔することになるだろう。
「……正直に話すと、先生の妹という女性からは、決められた婚約者が居て、俺の存在が邪魔になるから別れてくれと言われました。それだけなら突っ撥ねられたんですが、婚約破棄になれば損害賠償やら慰謝料やらが発生するというようなことを言われて……当時金に困っていたこともあり、金を受け取って関係を終わらせると誓約しました」
先生は寝耳に水と言った様子で驚いていたが、何か納得するように「そうですか」と呟いた。
「その女性は黒髪を肩くらいまで伸ばした、小柄で色白の女性ではありませんでしたか」
「そう、だと……俺とさほど変わらない、若い女で――」
先生が憤るように顔を歪ませるのを見て、俺が会った女が誰だったのか思い至り、言葉の最後の方は尻すぼみに消えていった。
「妹は私の二つ下で、若い頃はモデルをしていました。小柄で若かったとしたら、少なくとも私の妹ではありませんね」
――あの時、俺は選択を間違えた。他人の話を全部鵜呑みにして、脅しに屈して、金に目が眩んで、先生を信じることができなかった。できたはずなのに、選択しなかった。先生が好きだと、思っていたはずなのに。
「久しぶりに会って、脩君は私を『先生』と呼びましたね」
言われてみれば、二人でいる時は、学校以外ではずっと「芳慈さん」と呼んでいたから、不意に出たとは言え不思議だ。
「脩君は、当時から私と距離を取っていたように思います。いつか別れが来ると、心の何処かで思っていたのではないですか?」
はっとして、息を呑んだ。ずっとこの幸せが続くといい――そう思いながら、俺は先生との年齢差、立場や経済面の違いから、このままではいられないだろうという悲観的な想いを心の奥に抱いていたのだ。
あの時あの選択をしたのは、家族が大切だったからじゃない。先生に婚約者が居たことがショックだったからじゃない。俺が、先生を想い続ける自信がなかったからなのだと気づいてしまった。
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