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陽川花火編
第三話 再会①
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――何も期待するな。何も希望するな。
失った、捨てた。そう思いながら、その総てを諦めきれずに未練がましく浸っていた罰だ。
あの頃と、少し白髪の量が増えたこと以外、変わらない姿で俺の名を呼んだその人を半分突き飛ばすようにして店を出た。
全力で走れば、あの人は追っては来られない。歓楽街をいい歳した大人が走っていると、何かの事件かと勘違いして、黒服やら風俗嬢やらが俺を見るので、自然と足が静かな方へ向かった。
流石に限界がきて足を止める。気付くとホテル街の真ん中にいた。このまま振り切れるといいと思う。
――本当に?
店に戻りたかった。あの頃に戻れるなら。しかし、そんなことは到底無理だ。
俺はもう狡い大人で、未練を断ち切るためにと言いながら、そんな下らないもののために一人の人間を深く傷つけてしまった。それにあの人は既婚者だ。元に戻れるわけがないし、そんなことが許されるわけがない。
息を整える。目の前のラブホテルの照明が目に染みて擦った。――行こう。
「良かった……」
背後から聞こえた声に、反射的に振り返っていた。その人は、肩を上下させながら、ずれた銀縁の眼鏡を整え、苦しそうに眉根を寄せた。
「ずっと……あの日、君を追い駆けなかったことを、後悔していた……」
――聞くな。何も聞かずに、そのまま行け。
そう頭の中で叫ぶ声に、従うべきだ。そうするべきだ、と思う。
しかし、身体が動かなかった。俺の身体の深いところに刻まれた傷が、両脚を麻痺させているかのように。魂が、彼の言葉を、声を、欲しがっていた。
「君の不貞にショックを受けていたのもあります。しかしそれ以上に……自分という人間が許せなかった」
あの日の夜のことを、昨日のように覚えている。悲しみも苦しみも痛みも、先生の言葉も表情も、自分の言葉も、傷付けるために取った軽薄な行為ですら。総てが色褪せることなく思い出せた。
「私の優柔不断な行動で、君を傷付けたことを後悔しなかった日はありません。私は君を心から愛――」
「今更、何言ってるんですか、先生」
今日は眼鏡も煙草も無い。表情を隠すことも、感情をコントロールすることもできない。俺は目を合わせないように遠くに視線を遣る。
身を守るために身に付けていた武器や防具のようなもの。しかしそれすら、先生の影を追ったものに過ぎなかった。自分を構成する要素の一つになってしまうくらいに、深く入り込んでいる。
「口説けば靡くと思ってる? 俺が未だにあんたのことを想っているとでも?」
偽れ、自分の本心なんか絶対に見せるな。失敗すれば、俺はまた叶わない夢を見て絶望することになる。
「自惚れるのも大概にしてくださいよ。五年近くも前に別れた恋人を想い続ける馬鹿、いるわけないでしょ。そんな下らない真似するくらいなら、さっきのキモいおっさんとセックスした方が数倍マシだわ」
嘲笑を浮かべる俺を真っ直ぐに見詰める瞳に、気圧されそうになりながら、自分を奮い立たせ、顔を背けそうになるのを必死に耐えた。
「……そんな都合のいいことは思っていません。私も、あの頃とは違う」
――ああ、自惚れていたのは、俺の方か。
先生は後悔していると言っていた。きっと、あの日のことが足枷になって、前に進めないのだろう。俺との関係を修復したいわけではない。過去の遺恨を払拭したいだけなのだ。
「気にする必要ないですよ。深刻な顔してますけど、俺は何とも思ってないんで。思ってるとすれば、既婚者じゃなきゃ一晩くらいお願いしたかったなーってくらいですかね。今日はまだ誰ともヤってないし」
軽蔑を誘うような物言いをするのは、得意だ。そういう自分を演じるのも、得意になった。この数年で俺は、自分の望む狡くて汚い大人になった。きっと、そんな大人は傷付かないだろうと思ったから。
「……では、お願いしても構いませんか」
表情は変えず、真っ直ぐに俺の方に歩み寄る。思わず身構える俺に、手を差し出した。
失った、捨てた。そう思いながら、その総てを諦めきれずに未練がましく浸っていた罰だ。
あの頃と、少し白髪の量が増えたこと以外、変わらない姿で俺の名を呼んだその人を半分突き飛ばすようにして店を出た。
全力で走れば、あの人は追っては来られない。歓楽街をいい歳した大人が走っていると、何かの事件かと勘違いして、黒服やら風俗嬢やらが俺を見るので、自然と足が静かな方へ向かった。
流石に限界がきて足を止める。気付くとホテル街の真ん中にいた。このまま振り切れるといいと思う。
――本当に?
店に戻りたかった。あの頃に戻れるなら。しかし、そんなことは到底無理だ。
俺はもう狡い大人で、未練を断ち切るためにと言いながら、そんな下らないもののために一人の人間を深く傷つけてしまった。それにあの人は既婚者だ。元に戻れるわけがないし、そんなことが許されるわけがない。
息を整える。目の前のラブホテルの照明が目に染みて擦った。――行こう。
「良かった……」
背後から聞こえた声に、反射的に振り返っていた。その人は、肩を上下させながら、ずれた銀縁の眼鏡を整え、苦しそうに眉根を寄せた。
「ずっと……あの日、君を追い駆けなかったことを、後悔していた……」
――聞くな。何も聞かずに、そのまま行け。
そう頭の中で叫ぶ声に、従うべきだ。そうするべきだ、と思う。
しかし、身体が動かなかった。俺の身体の深いところに刻まれた傷が、両脚を麻痺させているかのように。魂が、彼の言葉を、声を、欲しがっていた。
「君の不貞にショックを受けていたのもあります。しかしそれ以上に……自分という人間が許せなかった」
あの日の夜のことを、昨日のように覚えている。悲しみも苦しみも痛みも、先生の言葉も表情も、自分の言葉も、傷付けるために取った軽薄な行為ですら。総てが色褪せることなく思い出せた。
「私の優柔不断な行動で、君を傷付けたことを後悔しなかった日はありません。私は君を心から愛――」
「今更、何言ってるんですか、先生」
今日は眼鏡も煙草も無い。表情を隠すことも、感情をコントロールすることもできない。俺は目を合わせないように遠くに視線を遣る。
身を守るために身に付けていた武器や防具のようなもの。しかしそれすら、先生の影を追ったものに過ぎなかった。自分を構成する要素の一つになってしまうくらいに、深く入り込んでいる。
「口説けば靡くと思ってる? 俺が未だにあんたのことを想っているとでも?」
偽れ、自分の本心なんか絶対に見せるな。失敗すれば、俺はまた叶わない夢を見て絶望することになる。
「自惚れるのも大概にしてくださいよ。五年近くも前に別れた恋人を想い続ける馬鹿、いるわけないでしょ。そんな下らない真似するくらいなら、さっきのキモいおっさんとセックスした方が数倍マシだわ」
嘲笑を浮かべる俺を真っ直ぐに見詰める瞳に、気圧されそうになりながら、自分を奮い立たせ、顔を背けそうになるのを必死に耐えた。
「……そんな都合のいいことは思っていません。私も、あの頃とは違う」
――ああ、自惚れていたのは、俺の方か。
先生は後悔していると言っていた。きっと、あの日のことが足枷になって、前に進めないのだろう。俺との関係を修復したいわけではない。過去の遺恨を払拭したいだけなのだ。
「気にする必要ないですよ。深刻な顔してますけど、俺は何とも思ってないんで。思ってるとすれば、既婚者じゃなきゃ一晩くらいお願いしたかったなーってくらいですかね。今日はまだ誰ともヤってないし」
軽蔑を誘うような物言いをするのは、得意だ。そういう自分を演じるのも、得意になった。この数年で俺は、自分の望む狡くて汚い大人になった。きっと、そんな大人は傷付かないだろうと思ったから。
「……では、お願いしても構いませんか」
表情は変えず、真っ直ぐに俺の方に歩み寄る。思わず身構える俺に、手を差し出した。
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