35 / 75
観月脩編
最終話 終わった恋の続き
しおりを挟む
その日から、俺は一度も先生と話をしなかった。学校内で話し掛けられそうになったこともあったけれど、俺が無視を決め込んでひと月ほど経った頃、先生は海外の大学に客員教授として招かれることになって、大学からも姿を消した。
そして春、妹が医大に入学した頃、先生が結婚したという噂が立った。十以上も年下の美しい女らしい、と。
それからは全く話を聞くことも無いまま、俺は大学を卒業し、在学中に教員免許を取得していたので高校の教師を目指した。本当はそのまま大学院に上がって研究者の道に進みたかったけれど、それには金が足りない。そこで企業に勤めるのではなく、教師を選んだのは、多分鳥海先生のことがあったからだろう。
優しい先生の姿が、きっと俺の理想的な先生像になっていた。
だからだろう。教師として勤めることになった時、俺は金縁の鎖のついた眼鏡を買った。レンズは色付き。蛍光灯が、眩しくないように、と。
高校に勤務し始めて、俺はかつての先生のように振る舞った。そうすると、誰も彼もが俺を慕うようになった。
しかしその平穏も長くは続かない。俺のことを好きだという男子生徒が現れた。風岡一温という、大人しい自己主張をしない生徒だった。
俺とのセックスに興味が湧いているようだったから、ちょうどいいと思って相手をした。
でも、本当に誰でもいいと言うなら、そいつを選ぶことは無かっただろう。俺がかつて「先生」に恋をしたことを彼に重ねたのだ。そして、風岡の笑った顔が、少し先生に似ていたから。
変われるかも、と少し思った。いつまでも先生の背中を追い駆けている日々から、抜け出せるかもしれない、と。俺が、かつての自分のような彼を、好きになることができたなら。
唐突にそれは終わりを告げた。風岡と関係を持ち始めて十ヶ月ほど経った頃、「生徒と淫らな関係を持っている教師がいる」と告発があったと言うのだ。そしてそれは「同性愛者だ」と。
俺は疑われ、何とか淫行については証拠もなく言い逃れできたが、ゲイであることは知られてしまい、育児休暇中だった先生の復帰もあり、俺は退職することになった。
そして次の就職先を探していたある日の夜、「息子が貴方に会うために家を飛び出した」と連絡があった。「訴えない代わりに、もう二度と息子に関わらないで欲しい」と。
デジャヴを感じずにはいられなかった。俺はまた、同じことをするのだ。
俺に会いに来た風岡に、俺は傷付くと分かっている言葉を並べ立てた。風岡が別れ際、見せた表情は、あの日の先生のようであり、俺のようでもあった。
店のドアが開く度、俺は何かを期待しているのかもしれない。この行きつけのバーのいつもの席に座って、もし隣に座ってくる奴が――、と。
でも、そんなもしもは四年たった今も、起こっていない。これからも、きっと起こらないだろう。それでもここに来てしまうのは、俺が自分で握り潰した愛を、捨てられないでいるから。
ウィスキーのグラスを回していると、隣に誰かが座った。期待せずにそちらに視線を向けると、いつぞやか寝たことのある男だった。
「今日どう? 暇? 前回凄く良かったから、また突っ込んで欲しいんだけどぉ」
ちょっと頭皮の薄い四十半ばの男。おっさんは良かったらしいが、がばがば過ぎて俺の方は大して気持ち良くなかった。
「いや、今日は飲みに来てるだけだから、また今度」
「そんなこと言ってぇ、僕のケツマンが恋しかったんじゃないのぉ?」
あの時正気じゃなくなるくらいベロベロに酔っ払ってたとしか思えないくらいキモいな、こいつ。面倒になって席を立ち、出入り口に向かう。後ろから何か罵られた気がするけど無視するに限る。
店のドアを開けて、一歩外に出た瞬間、どんと誰かに強くぶつかってよろけた。
「……脩、君……」
駄目だ、と思った。顔を上げてはいけない。きっと俺は戻れなくなる。あの時、あの人の腕を掴んだ時のように。
でも、俺は見たかった。あの後一度も見られなかったあの人の顔が、今どんな表情をしているのかを。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。金縁の眼鏡を掛けたその人が、あの優しい微笑を浮かべて、俺を見詰めていることを希望して。
そして春、妹が医大に入学した頃、先生が結婚したという噂が立った。十以上も年下の美しい女らしい、と。
それからは全く話を聞くことも無いまま、俺は大学を卒業し、在学中に教員免許を取得していたので高校の教師を目指した。本当はそのまま大学院に上がって研究者の道に進みたかったけれど、それには金が足りない。そこで企業に勤めるのではなく、教師を選んだのは、多分鳥海先生のことがあったからだろう。
優しい先生の姿が、きっと俺の理想的な先生像になっていた。
だからだろう。教師として勤めることになった時、俺は金縁の鎖のついた眼鏡を買った。レンズは色付き。蛍光灯が、眩しくないように、と。
高校に勤務し始めて、俺はかつての先生のように振る舞った。そうすると、誰も彼もが俺を慕うようになった。
しかしその平穏も長くは続かない。俺のことを好きだという男子生徒が現れた。風岡一温という、大人しい自己主張をしない生徒だった。
俺とのセックスに興味が湧いているようだったから、ちょうどいいと思って相手をした。
でも、本当に誰でもいいと言うなら、そいつを選ぶことは無かっただろう。俺がかつて「先生」に恋をしたことを彼に重ねたのだ。そして、風岡の笑った顔が、少し先生に似ていたから。
変われるかも、と少し思った。いつまでも先生の背中を追い駆けている日々から、抜け出せるかもしれない、と。俺が、かつての自分のような彼を、好きになることができたなら。
唐突にそれは終わりを告げた。風岡と関係を持ち始めて十ヶ月ほど経った頃、「生徒と淫らな関係を持っている教師がいる」と告発があったと言うのだ。そしてそれは「同性愛者だ」と。
俺は疑われ、何とか淫行については証拠もなく言い逃れできたが、ゲイであることは知られてしまい、育児休暇中だった先生の復帰もあり、俺は退職することになった。
そして次の就職先を探していたある日の夜、「息子が貴方に会うために家を飛び出した」と連絡があった。「訴えない代わりに、もう二度と息子に関わらないで欲しい」と。
デジャヴを感じずにはいられなかった。俺はまた、同じことをするのだ。
俺に会いに来た風岡に、俺は傷付くと分かっている言葉を並べ立てた。風岡が別れ際、見せた表情は、あの日の先生のようであり、俺のようでもあった。
店のドアが開く度、俺は何かを期待しているのかもしれない。この行きつけのバーのいつもの席に座って、もし隣に座ってくる奴が――、と。
でも、そんなもしもは四年たった今も、起こっていない。これからも、きっと起こらないだろう。それでもここに来てしまうのは、俺が自分で握り潰した愛を、捨てられないでいるから。
ウィスキーのグラスを回していると、隣に誰かが座った。期待せずにそちらに視線を向けると、いつぞやか寝たことのある男だった。
「今日どう? 暇? 前回凄く良かったから、また突っ込んで欲しいんだけどぉ」
ちょっと頭皮の薄い四十半ばの男。おっさんは良かったらしいが、がばがば過ぎて俺の方は大して気持ち良くなかった。
「いや、今日は飲みに来てるだけだから、また今度」
「そんなこと言ってぇ、僕のケツマンが恋しかったんじゃないのぉ?」
あの時正気じゃなくなるくらいベロベロに酔っ払ってたとしか思えないくらいキモいな、こいつ。面倒になって席を立ち、出入り口に向かう。後ろから何か罵られた気がするけど無視するに限る。
店のドアを開けて、一歩外に出た瞬間、どんと誰かに強くぶつかってよろけた。
「……脩、君……」
駄目だ、と思った。顔を上げてはいけない。きっと俺は戻れなくなる。あの時、あの人の腕を掴んだ時のように。
でも、俺は見たかった。あの後一度も見られなかったあの人の顔が、今どんな表情をしているのかを。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。金縁の眼鏡を掛けたその人が、あの優しい微笑を浮かべて、俺を見詰めていることを希望して。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
26
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる