アネモネの花

藤間留彦

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観月脩編

第五話 幸せは泡沫のごとく③

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 どうしてここに? というか、何で俺を知ってる? 流石に俺のことを知ってるのは可笑しい。混乱して、どう言葉を発すればいいかわからない。

「ここでは何ですので、車の中でお話ししても宜しいですか。貴方も聞かれては不都合なお話もあるでしょうから」

 先生の妹にしては少し若く見えるが、俺も末の弟はまだ小学生だし、年の離れた兄妹だとしても不思議ではない。それに、俺と先生の繋がりを知っているのなら、話を聞かないわけにはいかなかった。

「……分かりました」

 俺は先生の妹と名乗る女と共に、ベンツの後部座席に乗り込んだ。運転席との間に仕切りがあって誰が居るかも見えないが、車はどこへ向かうかも分からないままゆっくりと動き出した。

「兄や私、鳥海家は江戸時代から続く商家。兄は親の反対を押し切って学者になりましたが、それが許されたのは彼が次男だったから。そして家名を汚すことはしないと誓ったからです」
「……何が言いたいんですか」

 先生の話し方や作法を見ていると、育ちが良いのは分かっていた。けれど、こんな由緒正しい家柄だとは思いもしなかった。しかし、それと俺と、何が関係あるというのだろう。

「単刀直入に申し上げます。兄と別れてくださいませんか」

 女は正面を向いたまま無感情に言い放った。

「兄には婚約者が居るのです」
「……え……?」

 別れてくれ、と言われて呆然としているところに、続いて「婚約者」などという言葉が飛び出して頭が真っ白になる。

「その方は元華族の名家で関西にある海運会社の社長令嬢です。父のビジネス上、重要な会社の御息女ですし、願ってもない縁談でした」

 と、言葉を切ると、額に手を置き聞こえるほど大きな溜息を吐いた。

「正直、男性と交際していると知った時は眩暈がしました。女性と少し遊ぶ分には目を瞑ろうか思いましたが、相手が男だなんて……嘆かわしい」

 女の言葉が本当なのか、俺には知る術がなかった。俺は先生の家族を知らない。家庭事情どころか、今までどうやって生きてきたかも知らない。婚約者が居るのか居ないのかも、俺は真実を知る術がない。何も、聞かなかったから。

「貴方のような人には解らないでしょうけれど、鳥海家に同性愛者が居ると世間に知れたら、兄の婚約破棄と賠償請求だけでは済まされないんです。会社に大きな損害を与えることになります」

 脳裏に過った。先生が会議だと言って、よく関西に行っていたこと。最近頻繁に会えない理由に関西の大学に行くことを挙げていたこと。偶然だと思う。婚約者に会うために、行っていたわけじゃない。本当に仕事だ。まず婚約者なんているはずはない。嘘だ。

 先生を信じたい。俺を見るあの瞳に、嘘はなかった、と。

「知らねえよ! 別にあんたや芳慈さんの実家がどうなろうと、俺には、俺と芳慈さんには関係ないんだよ!」

 声を荒げて、大きな声を出さなければ、俺の内に芽生えた先生に対する不信を振り切ることはできなかった。別にいい。他のことなんてどうだって。

「そうなれば、先方から貴方への慰謝料請求があると思いますが、構いませんね」
「何で俺が――」
「婚約破棄の原因は貴方ですから。二百万くらいでしょうか。支払って頂くことになると思いますので、どうぞご用意ください」

 ――二百万。唐突に飛び出した金額に、思考が停止する。その金を、俺はどうやって用意する?

 芳慈さんの顔が浮かんだ。あの人に縋ろう、と思ってしまった。卑しい。なんて卑しく醜いんだろう。

「もし、貴方が兄と別れてくださるんでしたら、話は別です」

 と、女は鞄の中から玩具か何かのように札束を取り出し、俺と女の間のシートの上に置いた。

「こちら手切れ金です。お納めください」

 帯のついた束が二つ。顔を上げると、女と目が合う。俺がじっと札束を見ている様子を見られていた。

「気兼ねすることはありません。正当なお金です。兄が婚約者との交際の合間に貴方と交際してしまったのは兄の不遜によるもの。貴方には受け取るだけの権利があります」

 妹の顔が浮かんだ。家族のために大学進学を諦めようとしている、誰よりも頭が良くて、賢くて優しい、俺の自慢の妹。幼稚園の頃、将来の夢の欄に「おいしゃさん」と汚い字で書いていたことを思い出す。

 ――この金があれば、あいつはずっと夢見ていた医者になれるじゃないか。

 気付くと、俺は震える手で金を握り締めていた。胸の奥がずきずきと痛んで、息もまともに出来ない。

「物分かりの良い方で助かります。未来があるわけでもない同性同士の恋愛より、懐を肥やしてくれる確かなものの方が価値がある、と私も思います」

 女は紙袋を渡し、俺はその中に二百万の紙の束を入れた。

「このことは兄には内密にお願いします。お金を渡したとなれば、私が怒られますから」

 その後、俺をアパートの前に俺を降ろし、女は会った時と同じように一礼した。

「そう、兄に借りているお金の御返金も必要ありませんので」

 女は思い出したようにそう言うと、ベンツに乗って何事もなかったかのように去っていった。

 俺は女に渡された金を持って近くの銀行に行き、父の銀行口座宛てに全ての金を送金した。

 ――手切れ金を受け取ってしまった。それはつまり、俺は先生と別れなければならない。どうやって。第三者によるものが原因じゃないと、どうやって思わせる? 先生の婚約者の存在が許せない? いや、婚約者の話をしたら、誰から聞いたか聞かれてしまう。どうする?

 携帯を取り出す。電話帳を開いて、何か思いつかないかと考えを巡らす。誰か。

 そして、俺は見つけた名前に、一つ方法を思い付く。それは、俺にはあまりに似合いの理由で、反吐が出そうだった。
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