アネモネの花

藤間留彦

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風岡一温編

第四話 関係の終わり⑤

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「未成年に淫行を働いた同性愛者の教師が居るって学校に伝えたのよ。匿名の情報ってことにして。学校側は淫行の事実は確認できなかったものの、同性愛者の教師が居たことは教えてくれたわ」

 全身の血が、一気に冷たくなっていくような気がした。

観月脩みづきしゅうって、人気の若い先生だったそうじゃない? 今学校でどういう扱いをされているのか分からないけれど」

 これだけは、と思っていた。僕が先生に迷惑を掛けるような真似はしたくない、と。

 クラスでの接触は決してしなかったし、化学準備室を訪れる時は、周りに他の生徒が居ないことを確認していた。僕の我儘に先生を付き合わせて、犯罪者にはしたくなかったから。

 僕は自分の部屋にあった鞄を引っ掴んで、家を飛び出した。後ろから制止する母の声が聞こえたけれど、気にも留めなかった。
 せめて、こんな酷い事態になったことを謝りたかった。そして最後に、「さよなら」を言えたら。それで僕は、また淡々と熟すだけの日々に、戻れる。

 鞄の中に入っていた通学定期で、駅の改札口を通過し、電車に乗り込んだ。定期には繁華街へ行って帰ってくるだけのチャージ金額が残っていた。

 僕の足は真っ直ぐに、先生と何度も待ち合わせをしたバーに向いて走り始める。
 華やかなネオン街も強面の黒服の男達も、もう怖いとは思わない。この街は、僕の不釣り合いな片想いさえ、包み込んでくれたのだから。

 店のドアを開けると同時に、視線を向けられるのももう慣れた。僕がこの店の中で声を掛けるのは、いつだって一人だけだから。薄暗い店内の照明の中でも、僕はその後姿を見付けることが出来た。

 でも、いつもカウンターに座っているあの人は居なかった。店の端から端まで見回しても、何処にも。

「ねえ君、一人?」

 肩を叩かれ、驚いて振り返ると、少し頭の薄い小太りの男の人が立っていた。見たことも無いし、知り合いでもない。

「暇ならちょっと遊ぼうよ」

 そこで僕はどうして声を掛けられたのか分かった。
 男が肩に置いていた手を背中、腰、そして尻へと動かして、僕の尻をいやらしい手つきで撫で回したからだ。全身の毛が逆立つ。

「おい、おっさん出入り口塞ぐなよ」

 目の前の男性が押し退けられる。そして、店に入ってきた男は僕の腕を掴んで店から引っ張り出した。
 あの男性に触れられた時の嫌悪感は消え去って、喜びが僕の心を満たしていった。

 路地裏の誰も居ない場所まで来ると手を離し、持っていた煙草に火を点ける。

「……観月、先生……」

 嗅ぎ慣れた銘柄の匂いが、辺りに広がる。涙が滲むのは、煙草の煙が目に入ったせいだろうか。

「お前、もうあの店来んなよ。俺が行けなくなるだろうが」

 舌打ちをして、深く煙草の煙を吸い込む。白の長袖シャツに細身のスキニーパンツという格好は、今までで一番ラフな、というか部屋着のまま出てきたような印象だ。

「……すみませんでした」

 僕は先生に深く頭を下げた。先生が見下ろしているような視線を感じる。

「僕の我儘のせいで、先生を巻き込んで……本当に――」
「ああ、いい迷惑だよ、ほんと」

 低くくぐもった、苛立ちと嘲笑を含んだ声に、僕は顔を上げた。

「どこの誰か知らねえけど、淫行を働いた同性愛者の教師が居るって電話があったらしくて? 今学期もあと一週間だっていう時に校長に呼び出し食らって、結婚してない男性教師は俺しかいねえから、お前だろって滅茶苦茶なこと言われたわ」

 先生は努めて平静を保とうとしているようだったが、しかし時折、口の端が自嘲気味に歪んだ。

「その淫行の相手はお前じゃねえかってとこまで、お前のクラスの担任は突っ込んできたぜ? 急に学校来なくなったからってさ」
「そん、な……」

 先生はまだ残っている煙草を地面に落として踏むと、ポケットから色付きの眼鏡を取り出した。

「だから私は言ったんですよ、風岡君」

 ――ああ、駄目だ。先生が眼鏡を掛けたら、もう「真実」は語られることは無い。

「私が同性愛者であることは認めます。しかし、私は同性愛者であることを知った君に淫らに言い寄られて、困っていたんです。従わないと白紙でテスト用紙を出すぞ、噂を流して学校にいられないようにするぞと脅されてさえいた、と」

 今、どんな表情でその言葉を紡いでいるのだろう。薄暗い路地では、先生の色付きの眼鏡はサングラスのように濃くなっていて、その向こうの瞳を見ることは叶わなかった。

「……君のクラスの子が、君が白紙で答案を出すのを見たと証言してくれましたよ。吹奏楽部の子が、化学準備室に押し掛ける君の姿を何度か見た、とも。君はあまり同級生によく思われていなかったようですね」

 胸が締め付けられるように痛く、上手く呼吸ができない。先生の冷たく感情の通わない言葉が、僕の心臓に棘のように突き刺さった。

「学校を転校すると聞きましたが、それは正解ですよ。この話のあと、学校では君がホモの変態だとか酷い噂が流布されていましたから。通い続けるのは――」
「せんせい……」

 色んな感情が溢れて、苦しくて、震えた。でも、声を絞り出した。
 今言わなければ、伝えなければ、僕達が会うことはもうないのだから。

「……どうして、僕だったんですか? 僕が……昔の自分に、似ていたから……?」

 次の瞬間強い力で胸倉を掴まれ、壁に押し付けられる。背中に鈍い痛みが走ったが、僕は先生から目を逸らさなかった。

 レンズの向こうの瞳は、きっと今、揺れている。

「誰でも良かったに決まっているでしょう? 自分が特別だと思いたいでしょうけれど、私は君みたいに馬鹿で従順な子を傷付けてストレスを解消したかっただけです」
「……嘘だ……先生、本当のことを……言って……」

 涙が溢れて先生の顔が良く見えない。ヘーゼルの瞳が、今どんな色をしているのか知りたかった。怒りなのか、悲しみなのか、憐みなのか、それとも別の感情の色なのかを。

 先生の手が離れ、僕は力なくその場に崩れ落ちるように座り込んだ。

「私も永田先生が復帰されるので学校を辞めることになりました。もう会うことも無いでしょう」

 先生が僕から背を向けてそう言った後、小さな金属音が聞こえた気がした。

「……お前みてえな馬鹿見てると、虫唾が走るんだよ」

 僕はただ、去っていく先生の後姿を見詰めた。
 先生はきっと、僕に何かを期待をしていたのではないだろうか。遠く彼方に置いてきたものを、拾い上げるための「何か」を。



 でも僕は、先生が縛られている鎖から解放するための鍵を持っていなかった。
 ただ、愛されたいと想うだけの、馬鹿な僕では。

 先生が最後、瞳に映していた感情の色が、僕には分かった。

 ――失望だ。全部、全部、何もかも――無駄だった。

 絶望の、底の無い真っ暗な海に沈んでいく。身体が、心が、冷え切っていくのを感じた。

 僕も失ったのだ。仄かに抱いていた、希望を。

 僕はそこからどうやって家に帰ったかを覚えていない。その時母に何を言われたのかも、それから引っ越すまでの日々をどう過ごしたのかも。

 もう、総てが、如何でもよかった。
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