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曇天クロスロード その1
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真っ白なスクリーンのように曇り空はその奥にある太陽の光を薄く、まばらに世界へと拡散させていた。しばらくの間、雨は降りそうになかったものの、青空が顔を覗かせることもないように思われた。田淵恵子は世の中の大多数と同じような冴えない表情でタカネハイツの三〇二号室を後にした。黙って空を見上げた彼女であったが、その表情が動くことは無かった。傘は持たないまま通りへと出た。
今日は彼女の休日であった。しかし、社会人生活を初めて十年。繰り返される灰色の日常は彼女のプライベートの色をも奪ってしまっていた。今の恵子には特別に苦しいことも無ければ心が弾むようなことも無かった。今日も休日の昼過ぎになると決まっていくことにしているカフェへと義務感のように重い石化した自発心をもって向かった。
「あの、すみません」
バス停まで来ると初老の男に声をかけられた。腰はしゃんと伸びているが変わった杖を手にしていた。外国製のようで持ち手が鳥の頭になっていた。
「この辺りにケーキを売っているような店はありませんかな」
「ケーキ屋、ですか。そういえば最近、駅前の商店街に一つできましたよ。おしゃれで新しい店ですから、商店街まで行けばすぐ分かると思います」
「そうですか、どうもご丁寧に。ありがとうございます」
そこまで言うと男は空を仰いだ。
「なんとも、すっきりしない天気ですな」
「そうですね。このところ、こういう日が多くて。いっそ降るなら降ってくれればいいんですけどね」
「確かに、そうですな。天にも何か気の塞ぐようなことがあったのかもしれませんな。次に雨が降れば、天も思い切り泣くことができたという訳でしょうな。いや、長々と失礼。では、ありがとうございました」
男は微笑むと駅の方へと歩いて行った。
曇り、か。恵子は重い空模様に思いを馳せた。晴れることもなく、雨が降ることもなく、ただどんよりとしている空は彼女の目にはさっきまでよりも一層悲しいもののように映った
今日もカフェは混んでいなかった。店内のテーブル席の一つに若い夫婦がいた。窓際の席には大学生くらいの若い男が一人、本を読んでいた。恵子はその大学生の二つ隣の席に腰掛けた。通りを眺めることができ、なおかつ首を少しひねれば木造り暖かさが伝わってくるレトロな店内を見渡すことのできるこの席は彼女にとっての定位置であった。
「いらっしゃいませ。メニューです」
いつもと同じ女性店員がメニューと水を持ってきた。
「お決まりになりましたらお声かけください」
恵子は見慣れたメニューに目を落とした。ほとんどの場合、彼女はアメリカンコーヒーを飲むことにしていたが、時折、期間限定の飲み物を注文することもあった。これが彼女の石化した自発心のささやかな抵抗であることに彼女は気が付いていなかった。
「あ、」
期間限定の飲み物はミックスジュースであった。メニューにある写真には幼稚で懐かしい色の液体に満ちたずんぐりした大きなガラスのコップがあった。
注文を終えた恵子は何気なく大学生の方を見やった。本を読んでいた。左手で文庫本を持っていた。右手で優しく頁をめくった。恵子はちらりと見えたその本の題名を知らなかった。そしてそんな本を読んでいる大学生がこの世の全てを知っているように思えた。そうでなくとも読書に集中する彼の目はとても賢そうに見えた。彼の目の前には写真で見た、ずんぐりした大きな空のグラスが置かれていた。
「お待たせしました。ミックスジュースです」
まさに写真通りの物が恵子の目の前に置かれた。店員が「ごゆっくり」と言い残して下がった後も、彼女はしばらくの間ミックスジュースを眺めていた。彼女はもはや以前にミックスジュースを飲んだのがいつなのか、思い出せなかったがそれでも懐かしく感じた。店内の暖房のため、コップは既に汗をかいていた。ストローを差し込んだ。氷がガラガラと安っぽい音を立てた。限りなく液体に近い、かすかなとろみのついた半液体をかき混ぜるとマイルドな色の流れの中に無数のつぶつぶと細かい泡とが見えた。そのつぶつぶの内のいくらかが最上部の氷の表面に引っかかった。コップに鼻を近づけてみると、バナナ、リンゴ、モモ等、様々な果物の混ざり合った良い香りがした。本当はこの良い香りの為にはマスカットがとても良い働きをしていたのだが、恵子は気が付かなかった。
一口、飲んだ。牛乳とバナナの配分が多い、恵子が好む味だった。恵子はよく知らないものの「ハイカラ」な味だと感じた。そしてそのハイカラな液体は彼女の舌に心地よいほどすんなりと浸透していった。恵子自身の体がこの味の飲み物を求めているようだった。しばらくの間、ほとんど無に近い心境で彼女はそれを飲み進めた。ミックスジュースは彼女の舌から膵臓の末端にまで染み込んですっかりと吸収された。コップの三分の二が減ったのに気づき、彼女はコップを机に戻した。視線を感じて顔を向けると隣の大学生と目が合った。耳が熱くなるのをしっかりと感じて、彼女は目の前の通りへと向きなおった。外はさっきよりも暗くなっていた。それは決して日が傾いたからではなく、恵子は窓から空をのぞき込むと黒く鈍い雲が広がりつつあった。天が泣けるのかも、恵子はそう考えると少し心が温かくなるのを感じた。もちろん、自分が傘を持ってきていないことを忘れていたわけではなかった。
カラン。
コップの中で氷が動いた。恵子はミックスジュースが薄まってしまうことに淡い恐怖を感じ、ストローを使わずに一気に飲み干した。底に溜まっていたつぶつぶが口に流れ込んでくるのが心地よかった。
「よろしければ傘、お貸しいたしましょうか」
会計が終わると女性店員がそう言ってくれた。
「いえ、結構です。雨が降り出すまでには帰れますから」
この時、恵子は「たまには雨に降られるのも悪くない」と考えていたが、それは口に出さなかった。
さあ、帰りにDVDでも借りて家でゆっくり見よう。恵子は暗い町へと出て行った。自分の口角が上がっていることに、まだ彼女は気が付いていなかった。
今日は彼女の休日であった。しかし、社会人生活を初めて十年。繰り返される灰色の日常は彼女のプライベートの色をも奪ってしまっていた。今の恵子には特別に苦しいことも無ければ心が弾むようなことも無かった。今日も休日の昼過ぎになると決まっていくことにしているカフェへと義務感のように重い石化した自発心をもって向かった。
「あの、すみません」
バス停まで来ると初老の男に声をかけられた。腰はしゃんと伸びているが変わった杖を手にしていた。外国製のようで持ち手が鳥の頭になっていた。
「この辺りにケーキを売っているような店はありませんかな」
「ケーキ屋、ですか。そういえば最近、駅前の商店街に一つできましたよ。おしゃれで新しい店ですから、商店街まで行けばすぐ分かると思います」
「そうですか、どうもご丁寧に。ありがとうございます」
そこまで言うと男は空を仰いだ。
「なんとも、すっきりしない天気ですな」
「そうですね。このところ、こういう日が多くて。いっそ降るなら降ってくれればいいんですけどね」
「確かに、そうですな。天にも何か気の塞ぐようなことがあったのかもしれませんな。次に雨が降れば、天も思い切り泣くことができたという訳でしょうな。いや、長々と失礼。では、ありがとうございました」
男は微笑むと駅の方へと歩いて行った。
曇り、か。恵子は重い空模様に思いを馳せた。晴れることもなく、雨が降ることもなく、ただどんよりとしている空は彼女の目にはさっきまでよりも一層悲しいもののように映った
今日もカフェは混んでいなかった。店内のテーブル席の一つに若い夫婦がいた。窓際の席には大学生くらいの若い男が一人、本を読んでいた。恵子はその大学生の二つ隣の席に腰掛けた。通りを眺めることができ、なおかつ首を少しひねれば木造り暖かさが伝わってくるレトロな店内を見渡すことのできるこの席は彼女にとっての定位置であった。
「いらっしゃいませ。メニューです」
いつもと同じ女性店員がメニューと水を持ってきた。
「お決まりになりましたらお声かけください」
恵子は見慣れたメニューに目を落とした。ほとんどの場合、彼女はアメリカンコーヒーを飲むことにしていたが、時折、期間限定の飲み物を注文することもあった。これが彼女の石化した自発心のささやかな抵抗であることに彼女は気が付いていなかった。
「あ、」
期間限定の飲み物はミックスジュースであった。メニューにある写真には幼稚で懐かしい色の液体に満ちたずんぐりした大きなガラスのコップがあった。
注文を終えた恵子は何気なく大学生の方を見やった。本を読んでいた。左手で文庫本を持っていた。右手で優しく頁をめくった。恵子はちらりと見えたその本の題名を知らなかった。そしてそんな本を読んでいる大学生がこの世の全てを知っているように思えた。そうでなくとも読書に集中する彼の目はとても賢そうに見えた。彼の目の前には写真で見た、ずんぐりした大きな空のグラスが置かれていた。
「お待たせしました。ミックスジュースです」
まさに写真通りの物が恵子の目の前に置かれた。店員が「ごゆっくり」と言い残して下がった後も、彼女はしばらくの間ミックスジュースを眺めていた。彼女はもはや以前にミックスジュースを飲んだのがいつなのか、思い出せなかったがそれでも懐かしく感じた。店内の暖房のため、コップは既に汗をかいていた。ストローを差し込んだ。氷がガラガラと安っぽい音を立てた。限りなく液体に近い、かすかなとろみのついた半液体をかき混ぜるとマイルドな色の流れの中に無数のつぶつぶと細かい泡とが見えた。そのつぶつぶの内のいくらかが最上部の氷の表面に引っかかった。コップに鼻を近づけてみると、バナナ、リンゴ、モモ等、様々な果物の混ざり合った良い香りがした。本当はこの良い香りの為にはマスカットがとても良い働きをしていたのだが、恵子は気が付かなかった。
一口、飲んだ。牛乳とバナナの配分が多い、恵子が好む味だった。恵子はよく知らないものの「ハイカラ」な味だと感じた。そしてそのハイカラな液体は彼女の舌に心地よいほどすんなりと浸透していった。恵子自身の体がこの味の飲み物を求めているようだった。しばらくの間、ほとんど無に近い心境で彼女はそれを飲み進めた。ミックスジュースは彼女の舌から膵臓の末端にまで染み込んですっかりと吸収された。コップの三分の二が減ったのに気づき、彼女はコップを机に戻した。視線を感じて顔を向けると隣の大学生と目が合った。耳が熱くなるのをしっかりと感じて、彼女は目の前の通りへと向きなおった。外はさっきよりも暗くなっていた。それは決して日が傾いたからではなく、恵子は窓から空をのぞき込むと黒く鈍い雲が広がりつつあった。天が泣けるのかも、恵子はそう考えると少し心が温かくなるのを感じた。もちろん、自分が傘を持ってきていないことを忘れていたわけではなかった。
カラン。
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「いえ、結構です。雨が降り出すまでには帰れますから」
この時、恵子は「たまには雨に降られるのも悪くない」と考えていたが、それは口に出さなかった。
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