空想街見聞録

時津橋士

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荒廃都市探索(下)

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 二人は月明かりに足音を響かせながら歩いた。やがて前方に大きな建物が見えてきた。近づいてみるとそれは旅人がこの小さな町で見かけたどの建物よりも大きいようであった。屋根は所々に大きな穴をあけ、コンクリートの壁にはあちらこちらに歪なひびが走っていた。しかし、幸いにも建物は崩れることの無いままにその形を保っていた。月夜の下に存在するそれは静かな美しさを纏っていた。
 老人は入り口と思われる、朽ちて左半分の失われた大きな扉の前で足を止めると、振り返って口を開いた。
「ここは、町で唯一の劇場でした。主に、巡業で町にやってきた劇団などが利用しておりました。そんなときには、見ての通り、そう大きな劇場ではありませんが、大勢の人が詰めかけましてね、随分と賑わったものですよ。さて、少し入りましょう。何、崩れる気づかいはございませんよ」
旅人は老人に従い、扉の向こうへと足を踏み入れた。途端、辺りの照明が僅かな光を放った。割れた電球の中にちぎれたフィラメントが弱弱しく輝いていた。埃と錆とにまみれたチケット売り場を横目に、廊下を進んだ。かつては絨毯が敷かれていたのであろう、床にはその残骸がかろうじてワインレッドの色を残して張り付いていた。壁沿いにはひび割れた、大きな鉢が、乾燥しきった観葉植物の亡骸を入れたまま置かれていた。そんな在りし日の成れの果てに見入った。そんな様子を老人は憂いをもった表情で眺めていた。崩落した屋根から月の光がおぼろげな柱となって差し込んでいた。
 やがて二人は客席へと通じる扉の前に至った。老人の細腕がそれを軽々しく開けると、三百に満たない客席の向こうに舞台が見えた。
「エフの九と十です」
老人はそれだけ言うと一人、客席へと向かった。旅人にはしばらくの間老人の言葉の意味するところが分からなかったが、老人が座席に腰を下ろし、手招きしているのを見てようやく理解した。旅人は老人の隣の座席F10に腰を下ろした。舞台の正面の席で、そこだけ不自然に綺麗であった。舞台の床にはそこかしこに穴が開き、幕はぼろぼろに破れていた。ちょうど真上の屋根がなくなっている為、長い間、雨露にさらされていたのであろう、苔の類も目に付いた。
「かつて、一度だけ素人の劇団がここで公演をしたことがありました」
老人がそう言うと、舞台に照明が差した。
「演劇の好きなロミという少女が一人おりましてね、彼女が中心になって一度きりの劇団が立ち上げられたのですよ。立ち上げた、と、言うのは簡単ですがね。随分と苦労しておりましたよ。一年目、彼女の声は誰にも届きませんでした。二年目、それでも彼女はあきらめず、同志を募り続けていました。ようやく、僅かですが人が集まってきました。そのうちにだんだんと役者がそろい、裏方が揃い、脚本も形になってゆきました」
老人が懐かしそうに語っている間、舞台ではロミと思われる一人の少女が劇団を立ち上げよう奔走していた。上手から下手へ、下手から上手へ自作のチラシを配って団員を募っていた。暗転。ロミの部屋と思しき様子に様変わりした舞台で、少女は机に向かっていた。時折立ち上がり、歩き回る。また机に向かう。どうやら脚本を書いているようだ。暗転。街中でまたチラシを配っている。しかし、今度は一人ではない。ロミと近い年代の小柄な少年と大柄な少年が一人ずつと眼鏡をかけたおとなしそうな少女も仲間に加わっていた。暗転。
「しかし、その年。不幸なことに大きな台風がこの町を直撃しましてね。多くの人が亡くなり。町中のあらゆる建物が壊されました。この劇場も例外ではなく。団員は全員無事ではあったものの、もう演劇どころではありませんでした。中には町を出て行く者もいました。悲惨なことに、当時ロミがやっとのことで描き上げた脚本も、どこへ行ったのやら、分からなくなっていました。結局、一年の間、団員は皆町の復興に追われ、劇団としての活動はできませんでした」
舞台でも青黒い照明の下で団員が銘々家を、友を、家族を失った苦悩に苛まれていた。次々に舞台から人が退場し、とうとうロミがただ一人取り残された。暗転。
「ようやくこの町が日常を取り戻した頃、再び団員としてロミのもとに集まったのは彼女が最初期に劇団に引き入れた三人だけでした。しかし、それでも彼女たちは諦めませんでした。再び皆で団員を募り、脚本を書き直しました。結局最終的な劇団のメンバーもといた人数のほんの一握り程度でした。それでも、何とか公演の日が定まり、この劇場の使用許可も下りました。また、団員が少なかったため、劇場の職員が照明や音響の補助を買って出ることになりました。そして、公演当日。大道具も小道具も衣装も、全て団員たちが精いっぱい準備しました。もちろん、一流には程遠い出来でしたが、それでも、立派でしたよ。残念だったのは」
老人はそこで言葉を切った。まだ、舞台に照明はつかない。
「公演の当日。旅の大道芸人達が広場にやってきたのです。彼らのショーが始まる時間、それはまさにロミたちの劇団の公演開始の時間でした。劇場はもちろんただで借りていたわけではありませんでしたから、公演日程をずらすことなどできませんでした。
 
 その日、この劇場にやってきたのは一部の団員の家族と、数人の劇場関係者だけでした。ロミたちは、がらがらの観客席に向けて、数年がかりで作り上げた劇を披露しました。だから、ほとんど知られていないんですよ、この劇場で唯一なされた素人劇団、花火座の公演は」

 舞台に明かりがつくと、花火座の公演が始まった。
 人の「信じる力」をもとに天使が人同士の縁を結ぶ、という内容であった。天使たちは縁を壊そうと企む悪魔を打ち倒し、やがて一組の男女が結ばれた。なんということもない演劇。台本の出来が抜群に優れていたわけでも、役者の演技が特に見事であったわけでもなかった。しかし、それでも旅人は感動した。三十分ほどの公演が終わると、カーテンコール。劇団員が舞台に揃い、一同に礼をした。旅人は拍手を送った。

 照明と共に花火座は消え、月光だけが残った。何の物音もしない観客席。旅人はしばらくの間、朽ちた座席から動かず、黙って舞台を見ていた。しばらくすると、老人が立ち上がり、黙って劇場を出て行った。旅人は座席に座ったままであった。

 やがて、老人は劇場の出口で旅人を迎えた。
「ほら、あそこに小高い丘がありますでしょう。あれを超えると、直に次の町に出ます」
そう言うと、老人は再び歩き出した。丘に近づくにしたがって、建物は次第に少なくなっていった。夜の帳が下りてそう時間は経っていないはずあるが、無人の町を顧みる度に、旅人は今が真夜中であるかのような錯覚に陥った。
虫の声が、次第に増えていった。そう長くない道のりであったが、二人は少々時間をかけて丘の頂上に至った。
「ここから、町が一望できるんですよ。あの辺がモキタの食堂。こっちにあるのが絵描きのいた木。劇場は、ああ、思ったより近くにありますね」
 僅かな街灯の灯りが点々と見えた。旅人がその光景を眺めていると、やがて、僅かに見えていた灯りも一つ、また一つと消えていった。最後の一つが消え、町は月光の慈愛の中、深い眠りについたようであった。旅人は町から目を離すことなく、老人に語り掛けた。
「あなたは、」
虫の声。風。
「もう、お気づきでしょう。
私は、マラミス。この荒廃した町の記憶そのものです」
彼の声が穏やかな力強さを帯びて静寂の中に放たれた。
 その後の静寂は長かった。旅人には町が次第に深い眠りに落ちて行くのがはっきりと分かった。旅人は漠然とこの町の記憶、その行く末を案じた。

 本当は、と言うとマラミスが旅人に向きなおった。
「本当は貴方にこの町であった、たくさんのことをもっとお話ししたかった。中央広場の時計の秘密。新月の夜に少女のもとに届いた不思議な手紙のこと。平和な町にたった一度だけ起こったあの恐ろしい内戦のこと。ああ、それから、入り江に迷い込んだ子鯨のことも。きりがありませんよ」
マラミスは目を閉じ、ため息とともに首を振った。
 「マラミスは、本当に良い町でした。ここを一度訪れた人はマラミスの景観や住人とのふれあいをいつまでも忘れず、それを語り継いでくれた。不思議なことに、その話を聞いた人までもがここを訪れたかのように感じたそうです。マラミスは人々の心の中にも栄えたのです。そうしてマラミスはいつしか「追憶の町」と呼ばれるようになった。どうです、良い呼び名ではありませんか。
 しかし、その追憶の町もとうとう滅んでしまいました。もうマラミスを知っている者はこの世界にあなたと私だけです。残念ですが、仕方のないことです」
そこまで語ると、マラミスは確かに笑みを浮かべた。
「私はこれを悲しいとは思いません。マラミスがこのまま失われてしまってもね。
 誰も覚えていなくても、知らなくても、未来に何も残らないとしても、追憶の町マラミスは確かに、確かに存在したのです。こればかりは誰にも変えられませんよ」

 虫の声はいつしか止んでいた。冷たい風が辺りの草を揺らした。

「しかし、そういいながらも私はやはり誰かの心にこの追憶の町を留めておきたかったのでしょうな。だからこそ、こうやってあなたをお引き留めしてまで町の案内を申し出たのです。もし、よろしければいつの日か、何処か遠くの町でこのマラミスのことをお語りください」
そう告白したマラミスの声は消え入りそうな響きを持っていた。そしてどうやらそれは彼の感情のせいだけではないように思われた。「さて、随分とお時間をとらせてしまいました。お付き合いいただき、ありがとうございました。そっちの道を抜けると、次の町までは直ぐです。何も危険はございませんが、どうぞお気をつけて」
そう言ってマラミスは頭を下げた。旅人はその幽かな老人の示した方に目を遣った。小さな森へと小道が続いていた。再び、彼が振り向いた時、老人の姿は無かった。
 
 旅人は黙ってその場に立ち尽くしていたが、やがて取り出したランタンに火をともすと、小道へと入っていった。ランタンの火が、森の奥に消えた。
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