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末への川
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夏の特に暑い時分。とある旅人が田舎道を歩いていた。遥か頭上の太陽から容赦なく降り注ぐ日差しが旅人と足元のアスファルトを熱していた。旅人は足を止め、荷物の中から水の入ったボトルを取り出して咽喉を潤した。すっかりぬるくなってしまった水でも、何とか渇きを癒すことができた。どこかで一休みしなければ、と、暑さですっかり参ってしまった頭でそんなことを考えながら、旅人は足を進めた。
その後、旅人は自分がどこをどう歩いたのやらよく覚えていなかった。それはもちろん暑さと疲れの為であったのだろうが、あるいは何かしらの超自然的な力が働いたのかもしれなかった。とにかく、次に旅人がはっきりとした自我を取り戻した時、彼は川べりに立っていた。幅の広い川に流れていたその水はどこかに違和感を覚えるほどに透き通っていた。ふと振り返ると、遠くに土手が見えた。それは不自然なほどに高い土手であったが旅人にはすぐにそんなことが気にならなくなった。その土手から彼が立っている川岸まで、足首程の高さに薄緑色の雑草に交じって赤と黄の花が点々と咲いていた。旅人はしばらくこの景色に見とれていた。この時、彼の頭上彼方では大きな入道雲が浮かび、また二羽の鷹が幾度となく声を上げながら大空に輪を描いていたが、当然これに気が付くはずもなかった。
ふと、若葉の香りを含んだ夏の風が吹き渡った。それが旅人の髪を揺らした時、彼は幸せな呆然から自身を取り戻した。そして、小さな不自然にようやく気が付いた。この一面に茂っている雑草の色合いに不自然な美を感じたのであった。彼は足元の薄緑のうちの一本を優しく手折った。そしてすぐさまにそれが普通でないことを直感した。もちろん、旅人には植物に関する知識があるわけではない。しかし、そんな彼をもってしても容易に判断できるほど、その植物の不思議は明らかなものであった。葉から茎まで、まるでガラス細工のように透明な薄緑であったのだ。その一方で手触りは柔らかく、旅人は今までにこのような植物は一度として目にしたことが無かった。それ程までに美しかった。
旅人は再び川の方へと目を向けた。この時、旅人はようやく暑さを思い出し、その不自然なまでに透き通った水へと手を浸した。思ったよりも僅かにぬるい水であった。さらさらとした細かな砂が指に触れた。そのまま砂の中に手を入れようとした途端、指先に硬いものが触れた。砂の中に何かが埋もれているらしい。旅人は丁寧に近くの砂を払い除けた。掌を軽く動かすだけで砂は容易に舞い上がり、流されていった。砂を払いつくしてみると、細い竹をいくつも並べた簀子のようなものが現れた。それもかなり長いようだ。ふとそれを目で追うと、川岸のものは砂に埋もれていたものの、先の方ではその姿をしっかりと現しており、対岸まで簀子が水底でつながっているように見えた。最も、川幅が広いために本当に対岸までつながっているかは定かでなかった。それでも旅人はほとんど何かに導かれるようにして川の中に足を踏み入れた。水は仄かに冷たく、優しかった。素足に簀子のしっかりとした感覚を受けた。旅人は荷物を持ったままもう片方の足も川の中へと入れた。簀子に残った僅かな砂の感覚も心地よかった。足に川の緩やかな流れを受けたまま、旅人は一歩一歩、確かめるようにして歩いた。足元を見ていると、岸の植物が水中にも咲いていた。岸のものと比べると数は少なく、その丈も短かったものの、流れに従って揺れるその姿はいかにも優美であった。依然として足元の簀子が途絶えることはなく、川は旅人の膝程の深さになっていた。旅人は足元の植物が揺らめく様や、砂が舞い上がる様を見ながら、やはりゆっくりと歩みを進めた。やがて川の底には新たに生物が現れるようになった。それは光沢のある体を持った、カブトムシやクワガタやコガネムシと言った甲虫に似た姿をしていた。もちろん、水底を這うようにして動いていたから本物の甲虫であるはずはないのであるが、そうとしか形容のできないものであったのだ。透き通った水のために、足元のこのような光景は余すところなく目にすることができた。甲虫たちは旅人には一切構うこともなく、あるものは水中の植物を食み、あるものは砂の中へと潜っていった。しかし、一匹たりとも簀子に上がってくるものは無かった。足元の簀子が途絶えた。しかし、一歩足を踏み出したところから、また簀子の道が続いていた。旅人はその簀子の途絶えている砂の上で立ち止まると顔を上げた。気が付くと、腰まで水に浸かっていた。ちょうど今立っている砂地が川の真ん中であるようだった。両岸はどちらも遠かった。
旅人はその場でしばらく考え込んだ。この川は何なのだろう。向こう岸には何があるのだろう。そんな単純な疑問は、やがて希薄な恐怖を呼び起こした。このまま、向こう岸まで行ってもよいのだろうか。しかし、その考えは突如として中断せられた。旅人の足に何かが触れたのである。驚いて目を向けると、それは帯のような体を持った魚であった。長さは旅人が両の腕を広げた程もあり、白い体はほんのり透けて、その中には彼の骨が芸術的なまでに綺麗にはめ込まれていた。魚はすぐに川下の方へと泳ぎ去っていった。その姿は旅人がいつか見たレウトケパルス、という魚によく似ていた。そんなことを考えていると今度は海月が現れた。掌ほどの三匹の海月。それぞれが、ゆわりと傘を動かしながら、やがてどこへともなく消えていった。
海月の消えていった方を眺めていると背後から水音が聞こえた。旅人が振り返ると手をつないだ二人の人物が近づいてきていた。母親とその娘のように見えた。幼い娘は胸のあたりまで水に浸かっているが、ほとんどそれを気にかけていないようであった。何やら母親と会話をしていたようであったが、程なくして母親の方が旅人に気づいた。旅人は軽く会釈をすると声をかけた。
「この辺は、綺麗で良いところですね」
「ええ、本当に。そうですね」
母親と娘はしばらく旅人と並んで辺りを眺めていた。やがて母親が先に行ってもよろしいかしら、と問いかけた。旅人が、どうぞ、と道を譲ると彼女は娘の手を引き、旅人の立っている砂地を越して簀子の道へと進んでいった。しばらく進むと、母親が娘の方を向き
「もう末(すえ)が近いからね」
と語りかけた。娘は満面の笑みで頷くと、二人はまた連れ立って歩き始めた。
やがて親子はどんどん先へと進み、そのうちに川から上がり、川岸を抜け、土手の向こうへと姿を消した。旅人は親子の姿が消えてからも、しばらく川の真ん中に立ち尽くしていた。
川の水は仄かに冷たく、恐ろしいほどに透き通っていた。
その後、旅人は自分がどこをどう歩いたのやらよく覚えていなかった。それはもちろん暑さと疲れの為であったのだろうが、あるいは何かしらの超自然的な力が働いたのかもしれなかった。とにかく、次に旅人がはっきりとした自我を取り戻した時、彼は川べりに立っていた。幅の広い川に流れていたその水はどこかに違和感を覚えるほどに透き通っていた。ふと振り返ると、遠くに土手が見えた。それは不自然なほどに高い土手であったが旅人にはすぐにそんなことが気にならなくなった。その土手から彼が立っている川岸まで、足首程の高さに薄緑色の雑草に交じって赤と黄の花が点々と咲いていた。旅人はしばらくこの景色に見とれていた。この時、彼の頭上彼方では大きな入道雲が浮かび、また二羽の鷹が幾度となく声を上げながら大空に輪を描いていたが、当然これに気が付くはずもなかった。
ふと、若葉の香りを含んだ夏の風が吹き渡った。それが旅人の髪を揺らした時、彼は幸せな呆然から自身を取り戻した。そして、小さな不自然にようやく気が付いた。この一面に茂っている雑草の色合いに不自然な美を感じたのであった。彼は足元の薄緑のうちの一本を優しく手折った。そしてすぐさまにそれが普通でないことを直感した。もちろん、旅人には植物に関する知識があるわけではない。しかし、そんな彼をもってしても容易に判断できるほど、その植物の不思議は明らかなものであった。葉から茎まで、まるでガラス細工のように透明な薄緑であったのだ。その一方で手触りは柔らかく、旅人は今までにこのような植物は一度として目にしたことが無かった。それ程までに美しかった。
旅人は再び川の方へと目を向けた。この時、旅人はようやく暑さを思い出し、その不自然なまでに透き通った水へと手を浸した。思ったよりも僅かにぬるい水であった。さらさらとした細かな砂が指に触れた。そのまま砂の中に手を入れようとした途端、指先に硬いものが触れた。砂の中に何かが埋もれているらしい。旅人は丁寧に近くの砂を払い除けた。掌を軽く動かすだけで砂は容易に舞い上がり、流されていった。砂を払いつくしてみると、細い竹をいくつも並べた簀子のようなものが現れた。それもかなり長いようだ。ふとそれを目で追うと、川岸のものは砂に埋もれていたものの、先の方ではその姿をしっかりと現しており、対岸まで簀子が水底でつながっているように見えた。最も、川幅が広いために本当に対岸までつながっているかは定かでなかった。それでも旅人はほとんど何かに導かれるようにして川の中に足を踏み入れた。水は仄かに冷たく、優しかった。素足に簀子のしっかりとした感覚を受けた。旅人は荷物を持ったままもう片方の足も川の中へと入れた。簀子に残った僅かな砂の感覚も心地よかった。足に川の緩やかな流れを受けたまま、旅人は一歩一歩、確かめるようにして歩いた。足元を見ていると、岸の植物が水中にも咲いていた。岸のものと比べると数は少なく、その丈も短かったものの、流れに従って揺れるその姿はいかにも優美であった。依然として足元の簀子が途絶えることはなく、川は旅人の膝程の深さになっていた。旅人は足元の植物が揺らめく様や、砂が舞い上がる様を見ながら、やはりゆっくりと歩みを進めた。やがて川の底には新たに生物が現れるようになった。それは光沢のある体を持った、カブトムシやクワガタやコガネムシと言った甲虫に似た姿をしていた。もちろん、水底を這うようにして動いていたから本物の甲虫であるはずはないのであるが、そうとしか形容のできないものであったのだ。透き通った水のために、足元のこのような光景は余すところなく目にすることができた。甲虫たちは旅人には一切構うこともなく、あるものは水中の植物を食み、あるものは砂の中へと潜っていった。しかし、一匹たりとも簀子に上がってくるものは無かった。足元の簀子が途絶えた。しかし、一歩足を踏み出したところから、また簀子の道が続いていた。旅人はその簀子の途絶えている砂の上で立ち止まると顔を上げた。気が付くと、腰まで水に浸かっていた。ちょうど今立っている砂地が川の真ん中であるようだった。両岸はどちらも遠かった。
旅人はその場でしばらく考え込んだ。この川は何なのだろう。向こう岸には何があるのだろう。そんな単純な疑問は、やがて希薄な恐怖を呼び起こした。このまま、向こう岸まで行ってもよいのだろうか。しかし、その考えは突如として中断せられた。旅人の足に何かが触れたのである。驚いて目を向けると、それは帯のような体を持った魚であった。長さは旅人が両の腕を広げた程もあり、白い体はほんのり透けて、その中には彼の骨が芸術的なまでに綺麗にはめ込まれていた。魚はすぐに川下の方へと泳ぎ去っていった。その姿は旅人がいつか見たレウトケパルス、という魚によく似ていた。そんなことを考えていると今度は海月が現れた。掌ほどの三匹の海月。それぞれが、ゆわりと傘を動かしながら、やがてどこへともなく消えていった。
海月の消えていった方を眺めていると背後から水音が聞こえた。旅人が振り返ると手をつないだ二人の人物が近づいてきていた。母親とその娘のように見えた。幼い娘は胸のあたりまで水に浸かっているが、ほとんどそれを気にかけていないようであった。何やら母親と会話をしていたようであったが、程なくして母親の方が旅人に気づいた。旅人は軽く会釈をすると声をかけた。
「この辺は、綺麗で良いところですね」
「ええ、本当に。そうですね」
母親と娘はしばらく旅人と並んで辺りを眺めていた。やがて母親が先に行ってもよろしいかしら、と問いかけた。旅人が、どうぞ、と道を譲ると彼女は娘の手を引き、旅人の立っている砂地を越して簀子の道へと進んでいった。しばらく進むと、母親が娘の方を向き
「もう末(すえ)が近いからね」
と語りかけた。娘は満面の笑みで頷くと、二人はまた連れ立って歩き始めた。
やがて親子はどんどん先へと進み、そのうちに川から上がり、川岸を抜け、土手の向こうへと姿を消した。旅人は親子の姿が消えてからも、しばらく川の真ん中に立ち尽くしていた。
川の水は仄かに冷たく、恐ろしいほどに透き通っていた。
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