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夢海 -痛-
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深夜。楓は自分のアパートメントに帰ってきた。彼は手早く風呂に入り、歯を磨き、床に就いた。早く眠りたかったのだ。しかし誤解してはいけない。彼は何も一日の疲れをとるために眠るのではない。彼が眠るのは夢のためである。楓は自らが望む通りの夢を見ることができた。しかし、ここにおいても誤解してはいけない。彼が毎晩のように見る夢は決して面白いものではなかった。それはとても苦しい夢であった。しかし、楓はその夢を好んだのだ。
楓は生暖かい闇の中を漂っていた。その体は重力を忘れたかのようだった。何の音も聞こえない、耳が痛くなるような静寂であった。楓は目を開けた。周りは薄い闇。時々小さな気泡が細かに動きながら昇った。ここは海中であった。暗い海の中、力を失った楓の体が当てもなく浮遊していたのだ。しばらくの間、楓はぼんやりと目を開けたまま海中に身をゆだねていたが、やがて身を翻し、海底のほうへとどんどん泳いでいった。ここは楓の作り出した海、どこに何があるのかは彼自身がよく分かっていた。
やがて楓は海底に降り立った。素足に滑らかな砂の感覚が伝わってきた。彼は重苦しい水の抵抗を感じながらも、暗い海底を歩き出した。程なくして石段が現れた。僅か数段ほどの小さなものだ。その先には石畳の道が続いている。楓は石段を登り切り、少し立ち止まっていたが、やがて石畳の道へと足を踏み入れた。刹那。足に鋭い痛みが走った。硝子の破片をいくつも踏みつけたかのような痛みである。実はこの石畳には割れた貝殻がその刃物のような割れ口を上にして、いくつも埋まっていたのだ。楓の顔はほんの一瞬、苦痛に歪んだ。しかし、それは同時に笑みを零したかのようにも見えた。彼が歩みを止めることは無かった。足の裏の皮膚が破れる感覚を確かめながら彼は二歩、三歩と歩みを進めていった。足元では彼の血が水の中に流れ出し、鮮やかな紅い煙のように揺らめいていた。しかし、それも束の間、楓が次の一歩を踏み出すと揺らめきはどこへともなくかき消え、また新たに紅い揺らめきが生まれるのであった。楓はこの感覚を喜んで享受した。痛い、という感覚を彼は喜んだ。彼は痛みに対して安心を見出していたのだ。
痛みには何の対価も必要ない。ただ受け入れればよいのだ。幸せ、喜び、快楽。これらは楓にとって必ず対価の伴う、憂鬱なものであった。一度これらを感じ取ってしまうと、楓はその対価に恐怖した。これから自分はどれ程に苦しまねばならないのか。それを考えると楓は恐ろしくてならなかったのだ。だから彼にとって、対価を必要としない痛みは心の休まる安心であったのだ。
歩みを進めるにつれ、貝殻は鋭さを増し、大きくなっていった。楓は時々、手ごろな貝殻を見つけるとそれをゆっくりと踏み躙った。貝殻は砕け、幾辺もの鋭い欠片が楓の皮膚に突き刺ささり、その肉を抉った。楓は痛みに歪んだ笑顔で長い時間をかけてそれを楽しんだ。
しばらくすると、楓はようやく足を止めた。すでに足元には暗く紅い淀みが生まれていた。そのうち、楓は石畳を勢いよく蹴り、水中に身を委ねた。そうして楓は心の中で友を呼んだ。無論、夢の中で彼が作り出した友だ。果たしてそれは現れた。楓とそう変わらない大きさをもった二匹の鮫である。楓はその鮫たちを愛し、鮫たちもまた楓のことを愛していた。鮫は初めのうちは楓の周囲を遊泳していた。彼らが楓の周りに水流を作ると紅い煙がきれいに揺らめいた。楓は共に腕を伸ばした。鮫は愛しい友のため、鋭い歯の並んだ大きな顎で、その腕の肉を食い破った。肉の一部は楓の皮膚につながったままで、ぼろぼろの雑巾のようになっていた。楓の身に確かな痛みが訪れ、紅い煙が綺麗に舞った。それから二匹の鮫は交互に楓の腕を、脚を、腹を食い破っていった。その力強さのために、楓の体は水中を激しく動き回った。体中に焼けるような痛みを感じながら、楓は幸福の中にいた。友に導かれるままに安心を享受し、水中に浮遊していた。
とうとう鮫が楓の首筋に噛み付いた。そうして最大限の慈しみをもってその身を食いちぎった。紅が舞う。もはや痛みは無かったが、それでも尚、楓は幸せであった。楓の体は僅かな浮力を得た。そうして海底のほうに紅い煙を撒きながら、少しずつ、海面へと昇って行った。体はほとんど動かなかったが、楓は僅かに動く、ぼろぼろの腕で友に手を振った。友は嬉しそうに泳ぎ回ると、やがてどこへともなく消えた。
楓の体はゆっくりと、しかし確実に海面へと向かっていた。徐々に明るくなって行く。楓にとって見たくもない明るさであったが、もう、体は動かなかった。楓は観念した。今日の夢はここまでだ。短い幸せの時間もついに終わってしまった。また来よう。もう目を閉じていても眩しいほどだ。体も重力を纏い始めた。鳥の鳴き声。嗚呼、朝だ。
楓は生暖かい闇の中を漂っていた。その体は重力を忘れたかのようだった。何の音も聞こえない、耳が痛くなるような静寂であった。楓は目を開けた。周りは薄い闇。時々小さな気泡が細かに動きながら昇った。ここは海中であった。暗い海の中、力を失った楓の体が当てもなく浮遊していたのだ。しばらくの間、楓はぼんやりと目を開けたまま海中に身をゆだねていたが、やがて身を翻し、海底のほうへとどんどん泳いでいった。ここは楓の作り出した海、どこに何があるのかは彼自身がよく分かっていた。
やがて楓は海底に降り立った。素足に滑らかな砂の感覚が伝わってきた。彼は重苦しい水の抵抗を感じながらも、暗い海底を歩き出した。程なくして石段が現れた。僅か数段ほどの小さなものだ。その先には石畳の道が続いている。楓は石段を登り切り、少し立ち止まっていたが、やがて石畳の道へと足を踏み入れた。刹那。足に鋭い痛みが走った。硝子の破片をいくつも踏みつけたかのような痛みである。実はこの石畳には割れた貝殻がその刃物のような割れ口を上にして、いくつも埋まっていたのだ。楓の顔はほんの一瞬、苦痛に歪んだ。しかし、それは同時に笑みを零したかのようにも見えた。彼が歩みを止めることは無かった。足の裏の皮膚が破れる感覚を確かめながら彼は二歩、三歩と歩みを進めていった。足元では彼の血が水の中に流れ出し、鮮やかな紅い煙のように揺らめいていた。しかし、それも束の間、楓が次の一歩を踏み出すと揺らめきはどこへともなくかき消え、また新たに紅い揺らめきが生まれるのであった。楓はこの感覚を喜んで享受した。痛い、という感覚を彼は喜んだ。彼は痛みに対して安心を見出していたのだ。
痛みには何の対価も必要ない。ただ受け入れればよいのだ。幸せ、喜び、快楽。これらは楓にとって必ず対価の伴う、憂鬱なものであった。一度これらを感じ取ってしまうと、楓はその対価に恐怖した。これから自分はどれ程に苦しまねばならないのか。それを考えると楓は恐ろしくてならなかったのだ。だから彼にとって、対価を必要としない痛みは心の休まる安心であったのだ。
歩みを進めるにつれ、貝殻は鋭さを増し、大きくなっていった。楓は時々、手ごろな貝殻を見つけるとそれをゆっくりと踏み躙った。貝殻は砕け、幾辺もの鋭い欠片が楓の皮膚に突き刺ささり、その肉を抉った。楓は痛みに歪んだ笑顔で長い時間をかけてそれを楽しんだ。
しばらくすると、楓はようやく足を止めた。すでに足元には暗く紅い淀みが生まれていた。そのうち、楓は石畳を勢いよく蹴り、水中に身を委ねた。そうして楓は心の中で友を呼んだ。無論、夢の中で彼が作り出した友だ。果たしてそれは現れた。楓とそう変わらない大きさをもった二匹の鮫である。楓はその鮫たちを愛し、鮫たちもまた楓のことを愛していた。鮫は初めのうちは楓の周囲を遊泳していた。彼らが楓の周りに水流を作ると紅い煙がきれいに揺らめいた。楓は共に腕を伸ばした。鮫は愛しい友のため、鋭い歯の並んだ大きな顎で、その腕の肉を食い破った。肉の一部は楓の皮膚につながったままで、ぼろぼろの雑巾のようになっていた。楓の身に確かな痛みが訪れ、紅い煙が綺麗に舞った。それから二匹の鮫は交互に楓の腕を、脚を、腹を食い破っていった。その力強さのために、楓の体は水中を激しく動き回った。体中に焼けるような痛みを感じながら、楓は幸福の中にいた。友に導かれるままに安心を享受し、水中に浮遊していた。
とうとう鮫が楓の首筋に噛み付いた。そうして最大限の慈しみをもってその身を食いちぎった。紅が舞う。もはや痛みは無かったが、それでも尚、楓は幸せであった。楓の体は僅かな浮力を得た。そうして海底のほうに紅い煙を撒きながら、少しずつ、海面へと昇って行った。体はほとんど動かなかったが、楓は僅かに動く、ぼろぼろの腕で友に手を振った。友は嬉しそうに泳ぎ回ると、やがてどこへともなく消えた。
楓の体はゆっくりと、しかし確実に海面へと向かっていた。徐々に明るくなって行く。楓にとって見たくもない明るさであったが、もう、体は動かなかった。楓は観念した。今日の夢はここまでだ。短い幸せの時間もついに終わってしまった。また来よう。もう目を閉じていても眩しいほどだ。体も重力を纏い始めた。鳥の鳴き声。嗚呼、朝だ。
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