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ホッチキスをかまえた男
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ベランダの窓を叩き破り、風と共にナイフを構えた強盗が押し入ってくるのを一目見て、こりゃいかんと山口治は思った。別れた女房は言わずもがな、一括払いで購入したばかりのオフロードバイクのことが念頭に浮かび、なぜもっと丹精込めて愛せないんだ、愛してやれなかったんだ、と心が痛んだ。だが、治は気を取り直した。いいから何かしゃべるべきだ。彼の見た所、強盗も彼同然に震え上がっている。
破壊された窓から午後のしめっぽい風が吹きすさび、元恋女房の編んでくれたレースのカーテンがその前ではためいている。テレビの前のソファの上から、たった今まで眠り込んでいた治はあわてて立ち上がる。
まさか人がいるとは思っていなかったらしい、物騒な侵入者が一歩前に出ると、床に散らばった砕けたガラスがきしんだ。立ち上がったものの、凍りついていた治は黒板に爪を立てたようなその音にビクッとして、手に持っていた(とは気が付かなかった)リモコンを取り落とした。
強盗もまた、自分の踏んだガラスの音に驚き、かつよろめいていた。
治が相手の利き腕──その先には馬鹿でかいアーミーナイフ───目指して両手を差し伸べる。強盗、のけぞって、ナイフを一振り──。
「うわっ!」治は飛びのき、立ち上がったばかりのソファに倒れ込む。
どしんと背中をぶつけ、鋭い痛みに、左手首を押さえる。指の第二関節あたりに、ほとんど水平に十センチばかし、真っ直ぐに赤い線が入ったのだ。掌いっぱいに、あっという間に血がこぼれる。
「左手なんだ!」
侵入者が叫んでいる。
「左手なんだ! 左手なんだ! 右手じゃないから良かったろうが!」
「悪いが、俺は左ききなんだよ!」
治は立ち上がり、屈強な侵入者に食ってかかった。なんだって人間は、自分より傷の少ない相手を見ると、こうも勇気がわいてくるんだ、と考えながら。
「俺はな、会社に勤めていないんだ…。この両手で飯を食ってる。保険にも入っていない。ライターなんだ。最近じゃエディターとも言うがな。週四日、受注をうけて色んなテーマを元に、一日に平均五万もの文字をパソコンに打ち込むのが仕事なんだ。テキストデータってお前に分かるか? 分からないだろ! ナイフを向けられた人間の気持ちを考えようともしないんだろ、お前みたいな奴はな!」
強盗はナイフをまた、今度は横に払った。治は顔を引きつらせて、自分の鼻に触れてみた。指はめり込んだ。暴力をふるった男が、自分のしたことを目の当たりにすると、神様に向かって懇願するような叫びを洩らして、己の入ってきた出口に向かって二歩、横に逃げる。治の鼻は半分ちぎれて、指がめり込むと垂れ下がったのだ、まるで逃げる磁石のようにツイッと。
治は痛みに耐えかね、右手を握り、足を踏み鳴らした。火が点いたように鼻が痛い。涙をポロポロ流しながら、彼は強盗を注意深く観察した。治はそっと手を後ろに回し、やつがいよいよ逃げ出そうと背を向けた瞬間、腰をひねり落ちていたリモコンを拾って、ふりむきざま、当たれとばかり渾身の力をこめて奴に投げつけた。
それは泥棒のこめかみに当たり、仰天した奴は、窓の出口を外れて、テレビの横の壁に体ごとぶつかった。治は奴のTシャツをつかむと後ろへ引き戻して、窓とは反対の部屋の奥、食器棚に向かって投げつけた。強盗はその間も凶器を振り回し、治は顔と腕と胸にしびれるような感覚を覚えていたが気にしなかった。彼の目的はただ一つ。破れて出来た入り口を、シャッターを下ろして閉じてしまうことだ。部屋の向こうにすっ飛んだ侵入者が、雪崩れ落ちる皿やグラスに手足をバタつかせている間にそれは成功した。部屋は突然薄暗くなった。
二人の荒っぽい息が互いの鼓膜に伝わった。
「人殺し」
治が呟いた。強盗は歯を食いしばった。
「人殺し、人殺し、人殺し」
息を吸い込む一瞬の静寂の後、喉の奥から、気が狂ったように叫びながら、やぶれかぶれの男は治に突進した。
治はソファの後ろに置いてあったプラスチックのゴミ箱を拾うと、同じように叫びつつ片手で、前にそれを掲げた。侵入者の太い腕の一撃は、易々とそれを吹っ飛ばし、ガードを失った治の腹に、深々とアーミーナイフは…突き立たなかった。
もう片方の手で、床に散らばっていたガラスの破片の中でも大きなものを、治は拾い上げてパジャマの中にしこんでいた。ナイフははじかれ、床に落ちて二人のどちらにも見えなくなった。
強盗は眼を見開いて治を見、治は雄叫びを上げて相手に飛びかかった。二人は床に倒れて、のたうち、最後にはどちらともなく(恐らくほとんど同時に)見つけたナイフへ向かってジリジリとした攻防を繰り広げた。傷ついた鼻がひねり上げられると(意識が遠のくほどの激痛)、治は奴の股間に手を伸ばし、ずっと伸ばし、付け根をひねり上げた。それで、治は生まれて初めて正真正銘の一等賞をとることができたのだ。
--こんちくしょう、やってやったぞ、こんちくしょう。
彼は股間を押さえて転がっている侵入者の首筋にナイフを当てると、「ゆっくり立つんだ、さもないと胴体と首が行き別れになるぜ」と、息を殺してささやいた…。
強盗であり、侵入者である男は、目で治の動きを追っていたが、やがて、あきらめた。身体中をナイロンの紐でもってソファにくくりつけられ、口はしっかりガムテープで、三重に覆われていた。
哀れな姿、自由を奪われた男は、二階からこの家の主が降りてくるの聴いて、目覚めた。彼は、どうして、こんなことが起こってしまったのかと途方に暮れた。──そして、開いていくドアの向こうに立っている治を見て、パニックに陥った。漏らしそうだった。
治は片手で扉を押し開け──だらりと下がったもう片方の手の先に、ホッチキスを握っていた。それは、カチカチカチ、と軽く、かみ合わされていた。
カチン・カチン・カチン
かみ合わされ、終わる音が三度響くと、同じ数だけ床に小さな金属片が転がった。治は足元に置いたままのナイフを、ホッチキスではさむとテレビの前の床にそっと置いた。
「ナイフは本当の痛みじゃない」
治は言った。そして自分の体のあちこちをさすった。出血は止まらないでいるものもあるようだが、この男は手当てをしようともしない。
囚われ人は、自分の命を自由にできる男の言おうとしていることに耳をすました。
「あんた、俺にナイフを向けたのは間違いだったよ。だって俺は、そんなものでやられるよりも、もっと傷ついているんだもの。血が出たから、なんだっていうんだ。鼻がちぎれたから、なんだっていうんだ。人には、傷つけられるよりも、痛いものが、あるんだよ」
治はテレビに向かって歩いていくと、テレビ台の中のビデオデッキを動かしてからモニターの電源を点けて外部入力チャンネルに回した。画面には、緑の芝生が映り、次に九十度画面が持ち上げられて、今より二歳ほど若々しい治と、髪の長い彼の妻と、彼らが自分らの体の前に一人ずつ抱えている双子の赤ん坊とが映った。
断熱シートの上に弁当と水筒が置かれていて、夫婦は向き合ってあぐらをかいているが、そこに五、六十歳台の女性が入ってきて、治から赤ん坊を取り上げた。
口をふさがれて何も弁解できない男は思った。じゃあ、このビデオを撮影しているのは、こいつか、こいつの女房の、父親だろうな…。
「赤ん坊はいなくなった。女房もいなくなった。なあ、あんた。武器ってどういう代物か考えたことはあるかい? あんたに切りつけられながら思ったんだが、そいつは全然痛くなかったよ、まったくね。
「武器っていうのは、一番楽な殺し方をしてくれるものだ。そうじゃないか? 強い、本当に強い武器ほどね。だが現実の、人生の痛みはそうじゃない」
カチ・カチ・カチ。治が近づいてくる。やっと、分かった。こいつが言おうとしていることはつまり──。
「人生の痛みはナイフで切られるような、あっさりしたもんじゃない。もっと、なぶられるものさ。繰り返し、繰り返しやって来る。そして、決して離れてくれない。俺は段々と死んでいく。段々とだ。段々と、死ぬのさ」
ホッチキスをかまえた男は、身動きの出来ない男の耳に、凶器を──見方によっては鰐の口に見えなくもない──さし入れた。
「ゆっくり、ゆっくり、死んでいくのさ。きっと、君にも分かるだろう」
偶然にも二人は、同時に目を閉じた。
ガチン。
破壊された窓から午後のしめっぽい風が吹きすさび、元恋女房の編んでくれたレースのカーテンがその前ではためいている。テレビの前のソファの上から、たった今まで眠り込んでいた治はあわてて立ち上がる。
まさか人がいるとは思っていなかったらしい、物騒な侵入者が一歩前に出ると、床に散らばった砕けたガラスがきしんだ。立ち上がったものの、凍りついていた治は黒板に爪を立てたようなその音にビクッとして、手に持っていた(とは気が付かなかった)リモコンを取り落とした。
強盗もまた、自分の踏んだガラスの音に驚き、かつよろめいていた。
治が相手の利き腕──その先には馬鹿でかいアーミーナイフ───目指して両手を差し伸べる。強盗、のけぞって、ナイフを一振り──。
「うわっ!」治は飛びのき、立ち上がったばかりのソファに倒れ込む。
どしんと背中をぶつけ、鋭い痛みに、左手首を押さえる。指の第二関節あたりに、ほとんど水平に十センチばかし、真っ直ぐに赤い線が入ったのだ。掌いっぱいに、あっという間に血がこぼれる。
「左手なんだ!」
侵入者が叫んでいる。
「左手なんだ! 左手なんだ! 右手じゃないから良かったろうが!」
「悪いが、俺は左ききなんだよ!」
治は立ち上がり、屈強な侵入者に食ってかかった。なんだって人間は、自分より傷の少ない相手を見ると、こうも勇気がわいてくるんだ、と考えながら。
「俺はな、会社に勤めていないんだ…。この両手で飯を食ってる。保険にも入っていない。ライターなんだ。最近じゃエディターとも言うがな。週四日、受注をうけて色んなテーマを元に、一日に平均五万もの文字をパソコンに打ち込むのが仕事なんだ。テキストデータってお前に分かるか? 分からないだろ! ナイフを向けられた人間の気持ちを考えようともしないんだろ、お前みたいな奴はな!」
強盗はナイフをまた、今度は横に払った。治は顔を引きつらせて、自分の鼻に触れてみた。指はめり込んだ。暴力をふるった男が、自分のしたことを目の当たりにすると、神様に向かって懇願するような叫びを洩らして、己の入ってきた出口に向かって二歩、横に逃げる。治の鼻は半分ちぎれて、指がめり込むと垂れ下がったのだ、まるで逃げる磁石のようにツイッと。
治は痛みに耐えかね、右手を握り、足を踏み鳴らした。火が点いたように鼻が痛い。涙をポロポロ流しながら、彼は強盗を注意深く観察した。治はそっと手を後ろに回し、やつがいよいよ逃げ出そうと背を向けた瞬間、腰をひねり落ちていたリモコンを拾って、ふりむきざま、当たれとばかり渾身の力をこめて奴に投げつけた。
それは泥棒のこめかみに当たり、仰天した奴は、窓の出口を外れて、テレビの横の壁に体ごとぶつかった。治は奴のTシャツをつかむと後ろへ引き戻して、窓とは反対の部屋の奥、食器棚に向かって投げつけた。強盗はその間も凶器を振り回し、治は顔と腕と胸にしびれるような感覚を覚えていたが気にしなかった。彼の目的はただ一つ。破れて出来た入り口を、シャッターを下ろして閉じてしまうことだ。部屋の向こうにすっ飛んだ侵入者が、雪崩れ落ちる皿やグラスに手足をバタつかせている間にそれは成功した。部屋は突然薄暗くなった。
二人の荒っぽい息が互いの鼓膜に伝わった。
「人殺し」
治が呟いた。強盗は歯を食いしばった。
「人殺し、人殺し、人殺し」
息を吸い込む一瞬の静寂の後、喉の奥から、気が狂ったように叫びながら、やぶれかぶれの男は治に突進した。
治はソファの後ろに置いてあったプラスチックのゴミ箱を拾うと、同じように叫びつつ片手で、前にそれを掲げた。侵入者の太い腕の一撃は、易々とそれを吹っ飛ばし、ガードを失った治の腹に、深々とアーミーナイフは…突き立たなかった。
もう片方の手で、床に散らばっていたガラスの破片の中でも大きなものを、治は拾い上げてパジャマの中にしこんでいた。ナイフははじかれ、床に落ちて二人のどちらにも見えなくなった。
強盗は眼を見開いて治を見、治は雄叫びを上げて相手に飛びかかった。二人は床に倒れて、のたうち、最後にはどちらともなく(恐らくほとんど同時に)見つけたナイフへ向かってジリジリとした攻防を繰り広げた。傷ついた鼻がひねり上げられると(意識が遠のくほどの激痛)、治は奴の股間に手を伸ばし、ずっと伸ばし、付け根をひねり上げた。それで、治は生まれて初めて正真正銘の一等賞をとることができたのだ。
--こんちくしょう、やってやったぞ、こんちくしょう。
彼は股間を押さえて転がっている侵入者の首筋にナイフを当てると、「ゆっくり立つんだ、さもないと胴体と首が行き別れになるぜ」と、息を殺してささやいた…。
強盗であり、侵入者である男は、目で治の動きを追っていたが、やがて、あきらめた。身体中をナイロンの紐でもってソファにくくりつけられ、口はしっかりガムテープで、三重に覆われていた。
哀れな姿、自由を奪われた男は、二階からこの家の主が降りてくるの聴いて、目覚めた。彼は、どうして、こんなことが起こってしまったのかと途方に暮れた。──そして、開いていくドアの向こうに立っている治を見て、パニックに陥った。漏らしそうだった。
治は片手で扉を押し開け──だらりと下がったもう片方の手の先に、ホッチキスを握っていた。それは、カチカチカチ、と軽く、かみ合わされていた。
カチン・カチン・カチン
かみ合わされ、終わる音が三度響くと、同じ数だけ床に小さな金属片が転がった。治は足元に置いたままのナイフを、ホッチキスではさむとテレビの前の床にそっと置いた。
「ナイフは本当の痛みじゃない」
治は言った。そして自分の体のあちこちをさすった。出血は止まらないでいるものもあるようだが、この男は手当てをしようともしない。
囚われ人は、自分の命を自由にできる男の言おうとしていることに耳をすました。
「あんた、俺にナイフを向けたのは間違いだったよ。だって俺は、そんなものでやられるよりも、もっと傷ついているんだもの。血が出たから、なんだっていうんだ。鼻がちぎれたから、なんだっていうんだ。人には、傷つけられるよりも、痛いものが、あるんだよ」
治はテレビに向かって歩いていくと、テレビ台の中のビデオデッキを動かしてからモニターの電源を点けて外部入力チャンネルに回した。画面には、緑の芝生が映り、次に九十度画面が持ち上げられて、今より二歳ほど若々しい治と、髪の長い彼の妻と、彼らが自分らの体の前に一人ずつ抱えている双子の赤ん坊とが映った。
断熱シートの上に弁当と水筒が置かれていて、夫婦は向き合ってあぐらをかいているが、そこに五、六十歳台の女性が入ってきて、治から赤ん坊を取り上げた。
口をふさがれて何も弁解できない男は思った。じゃあ、このビデオを撮影しているのは、こいつか、こいつの女房の、父親だろうな…。
「赤ん坊はいなくなった。女房もいなくなった。なあ、あんた。武器ってどういう代物か考えたことはあるかい? あんたに切りつけられながら思ったんだが、そいつは全然痛くなかったよ、まったくね。
「武器っていうのは、一番楽な殺し方をしてくれるものだ。そうじゃないか? 強い、本当に強い武器ほどね。だが現実の、人生の痛みはそうじゃない」
カチ・カチ・カチ。治が近づいてくる。やっと、分かった。こいつが言おうとしていることはつまり──。
「人生の痛みはナイフで切られるような、あっさりしたもんじゃない。もっと、なぶられるものさ。繰り返し、繰り返しやって来る。そして、決して離れてくれない。俺は段々と死んでいく。段々とだ。段々と、死ぬのさ」
ホッチキスをかまえた男は、身動きの出来ない男の耳に、凶器を──見方によっては鰐の口に見えなくもない──さし入れた。
「ゆっくり、ゆっくり、死んでいくのさ。きっと、君にも分かるだろう」
偶然にも二人は、同時に目を閉じた。
ガチン。
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