110 / 143
RE108 信用と偏見
しおりを挟む
八坂にいた頃は、当たり前にこなしていたルーティーン。
実家では「朝稽古」と呼ばれていた軽い運動のあと。シャワーでさっぱりと汗を流した鏡夜が、中庭側に壁のない廊下へ出ると。そこから僅かに見下ろす中庭のソファセットには、お仕着せに身を包む扶桑式の手で、食事の用意がすっかり調えられていた。
鏡夜の視線に気付いた扶桑は数メートルの距離を保ったまま丁寧に一礼すると、傍に置いていたワゴンとともに姿を消す。
鏡夜にはまったく理解できない感性だが。テーブルの上に(扶桑を転移させるのと同じ要領で)直接、料理の盛り付けられた皿や食器を転移させる方が簡単でも、わざわざワゴンに乗せて運び、オートマタに配膳させるという手間をかけた方が贅沢であり、ティル・ナ・ノーグ規準で丁寧なもてなしなのだというのが、ここのところすっかりお喋りになった伊月の言。
通路から中庭へ下りた鏡夜が、L字に折れたソファの短く、狭い方へ座り、静かに手を合わせると。同じソファのもう一辺に座っていたキリエが、腕に抱え、膝に乗せた伊月の体を控えめに揺らす。
「伊月、ごはんは?」
鏡夜がすっかり意識のないものと思っていた伊月は、さして大きくもないキリエの声に反応して、うっすら目を開けた。
「………………」
ぼんやりと焦点の定まらない(見ようによっては、起き抜けで寝惚けているようにも見える)視線がふらふらと彷徨い、結局また伏せられて。
「いま、いいところなの」
「伊月」
甘ささえ滲むような声で、伊月のことをやんわり咎めながら。キリエが伸ばした手に、魔力で形作られた「手」がたっぷりとジャムの塗られたパンを差し出す。
「だから――」
目を閉じたまま開いた口にパンを押し込まれ、むぐりと言葉を途切れさせた伊月。
その体に、抜けきっていた力が戻る。
「…………」
ぱち、ぱち、と瞬いているうち、だんだんと焦点の合っていく瞳。
「ぼんやり」から「正常」を通り越し、やがては鋭さを帯びた視線がキリエをひと睨みして、口元のパンへと落ちる。
中途半端に噛みついていたパンを、伊月はさも不服そうな顔で噛み切った。
その顎がもぐもぐと動いているうち、唇についていたジャムをキリエの指が拭う。
伊月が食べかけのパンを受け取ろうと伸ばす手は、するりと躱され目当てのものには届かなかった。
「あーん」
そして、再び口元へと近付けられるパン。
「…………」
自力で起こしかけていた背中を――ぽすん、と――また、キリエの腕に預けて。勝手にしろとばかり、目を閉じた伊月は投げやりに口を開いた。
すっかりキリエの好きなようにさせている伊月の本体が、甲斐甲斐しく口元へ差し出されるパンを食べるだけのお人形と成り果てているうちに。インスミールが屋根のよう枝葉を広げる中庭へ、奈月を乗せた〔イチイバル〕――無骨な外見のワルキューレ――がふわりと下りてくる。
タイル張りの地面すれすれの高さで静止した〔イチイバル〕から身軽に飛び下りた奈月は、自分の膝に乗せた幼子へご機嫌で給餌を続ける吸血鬼を、盛大な呆れの滲む表情で一瞥した。
手元に呼び出した魔導円へ〔イチイバル〕を押し込んだ奈月は、そのまま中庭の外へと歩き出す。
「鏡夜、いいものあげる」
双子とキリエが座っているソファの傍を通りがけ。体の後ろへ回った女の手が取り出し、鏡夜の膝へと落としていったのは、なめし革の鞘に収められた小振りのナイフ。
「――なに、これ」
口の中に入っていたものをごくりと飲み込んだ鏡夜が振り返る頃。奈月は中庭を囲むよう作られた柱廊に上がっていた。
「竜胆丸の代わりー」
肩口でひらひら手を振る女の後ろ姿が、ダイニングキッチンの入口を通り越し、廊下と脱衣所とを隔てる扉の向こうへと消える。
「竜胆丸?」
ソファの上で捻っていた体を戻すと、伊月の世話を一段落させたキリエが鏡夜のことを見ていた。
「八坂で使ってた、付喪憑きの刀」
「護家の討滅士が生まれた時にもらうっていう、守り刀? そういえば、お前も伊月も持ってないね。向こうに置いてきたの?」
「護家を離れるなら、置いてくるも何もない」
おそらく、今更喚んだところで竜胆丸が応えることもないだろうと。鏡夜は使い慣れ、手に馴染んだ得物に対してなんの未練もなく考える。
護家の討滅士にとって最初の一振り――自身の守り刀――は特別だと、そう言い聞かされて育ちはしているものの。鏡夜にとって、討滅士という身分はただ、生きるために求められる役割でしかなかった。
討滅士として振る舞わなければ「日代の女が生んだ男女の双子」を政の道具として求める日代を抑えられず、「護家の跡取り」として育てられるよりもっと不本意な目に遭わされると聞かされ、実際そうなのだろうと理解してもいた。
だから、望まれるがまま、自分たちにとって最善の環境にしがみついていた。――ただ、それだけのこと。
「私の守り刀なんて短刀だから、傍に置いてたら大変よ」
ぱちりと、キリエの腕の中で前触れもなく目を開けた伊月が、おもむろに手を伸ばす素振りで、魔力の「手」に飲み物の入ったグラスを催促する。
「どうして?」
「女が持つ短刀は、命じゃなくて尊厳を守るためのものだから。それが付喪憑きともなれば、主人の貞操が危ないときにすっ飛んできて心臓を一突き、なんてよくある話よ」
「は?」
その膝に腰掛け、両の腕に囲い込まれ、どこまでがどちらのものか分からないほどに余剰魔力を混ぜ合わせた状態で(要するに、これでもかと「べったり」としながら)。キリエほど上等な人外の神経を逆撫でして、よくもまあ楽しげに笑っていられるものだと。危機感など露程も滲まず、いたって軽い伊月の声音に、鏡夜は思わず感心した。
「もし遮那王を連れて来てたら、キリエに囓られる度に刺される破目になってたわね」
キリエと比べてしまえばさすがに見劣りするが。遮那王も大概、伊月には甘かった。
あの刀なら、キリエと差し違えてでも伊月を守ろうとしても、鏡夜は驚かないが。一般的な「護家の刀」としては伊月の話した通りなので、触らぬ鬼になんとやら。
鏡夜は我関せずと、手元のナイフに視線を落とした。
「――魔力を通してみて」
浴室から戻ってきた奈月が、伊月そのものの距離感で鏡夜の隣に座る。
鞘から僅かに抜き出したナイフを眺めていた鏡夜が、言われたとおりにすると。刃渡りが十五センチもない小振りのナイフは、鏡夜が意識して動かした魔力をぐんぐん吸い上げた。
「なに、これ」
「竜の牙よ。本物なんて見たことないけど、キリエが言うなら間違いないでしょ」
「これが……?」
その勢いに不穏な物を感じて。
鏡夜が咄嗟に遮断しようとした魔力は、すぐ隣に腰を下ろした奈月からの干渉によってむしろいっそう勢いを増し、大食らいのナイフへ湯水のように注がれていく。
「魔力ならキリエがいくらでも供給するから、ケチらないの」
鏡夜の素の魔力に、伊月の素の魔力の一切合切を足してもまだ足りない。――そんな、魔術師でもない鏡夜が一度に扱うには大きすぎる規模の魔力を飲み干して、ようやく。自らの飢えを満たした竜牙のナイフは、その刃に魔力を纏わせた。
「大量の魔力を扱う感覚にはおいおい慣れていけばいいわ」
器を満たしてなお注がれ続け、溢れた魔力が、奈月の干渉によってナイフそれ自体よりも刃渡りの長い魔刃を形成する。
「よさそうね」
奈月が何をもってそう判断したのか、鏡夜にはさっぱりわからなかった。
「キリエ、鏡夜に上着」
透明なグラスを両手に持って、みるからにもったりとした飲み物をちびちびやりながら、その視線は目の前に立ち上げた表示領域へ向けっぱなしの伊月。
膝に乗せた幼子のことを、その些細な挙動さえ見逃すのは惜しいとばかり、熱心に見つめていたキリエが、奈月に声をかけられ顔を上げる。
蜂蜜色の視線がちらりと鏡夜の装いを確かめて。眠り竜のペンダントから溢れ出すキリエの魔力が瞬くほどの間に形を変えたのは、奈月がソファの背もたれに放り出しているものと遜色のないバリアジャケット――魔術師が身に纏う、上等な防具――だった。
「出かけるの?」
「パンフレットには目を通した?」
「リベライアの? 一通りは……」
「入学式は来月だけど、寮には今日から入れるの。部屋だけ貰ったらあとは好きにしていいから、とりあえず行くだけ行きましょう」
奈月に手を引かれ、鏡夜が立ち上がると。伊月もキリエの膝から下りて、奈月の制御をキリエへ渡す。
「縮むなら今のうちよ」
肩越しに振り返った伊月が告げると。その後を追いかけて立ち上がったキリエの、双子からは見上げるほどに高い背丈はみるみる縮み、あっという間に伊月と並んだ。
合わせて丈の詰まったローブのゆったりとした袖口から、ちらりと覗く指先。
キリエが伸ばした手を見もせずに躱した伊月は、わかりやすく拒まれたことでしょんぼりと落ちた腕に、自分から腕を絡めて足を止めた。
「インスミール、沖の浜のレジデンスに送って」
中庭の開けた場所へ出た四人をまとめて範囲内に収める規模の魔導円が描き出されて間もなく、周囲の景色が一変する。
[沖の浜セントラルタワー レジデンス
A.A.7525/8/29 09:37]
「ニライカナイへ」
天井近くのモニターへちらりと目を遣り、現在地を確認した伊月は、閉鎖式ポータルの扉を開けようともせず本命の目的地を告げた。
〈〔ハイブラゼル〕へのエントリーには、リベライアプロジェクトへの参加が条件付けされています〉
――ちりんっ。
念話を限定術式化した魔術――〔サークルトーク〕――によるアナウンスとともに、小さな鈴を鳴らしたような音がして。ポータルの中にいる四人の前へ、一律に小さな通知が現れる。
[方舟学園プロジェクトへの参加を希望しますか? Y/N]
元々そのつもりでいたのだろう伊月。そんな伊月の傍を離れるつもりがないキリエと、今はキリエに動かされている奈月。
ポータルの中にいた鏡夜を除く三人は、示し合わせたようなタイミングで自分の前に浮かぶダイアログに触れ、リベライアプロジェクトへの参加を表明した。
「リベライアに入学しないと、〔ハイブラゼル〕に入れない?」
「そうよ。リベライアがある〔ハイブラゼル〕の第二世界で学生じゃないのは、デミドラシルの眷属だけ。――わかりやすくていいでしょ?」
伊月に対するスタンスは表向き、キリエと似たり寄ったりの鏡夜も、遅れて目の前に浮かぶダイアログへと触れる。
もちろん、選択は「YES」。
転移の条件が満たされると、ポータルの床一面に描かれた魔導円は再び励起して――
実家では「朝稽古」と呼ばれていた軽い運動のあと。シャワーでさっぱりと汗を流した鏡夜が、中庭側に壁のない廊下へ出ると。そこから僅かに見下ろす中庭のソファセットには、お仕着せに身を包む扶桑式の手で、食事の用意がすっかり調えられていた。
鏡夜の視線に気付いた扶桑は数メートルの距離を保ったまま丁寧に一礼すると、傍に置いていたワゴンとともに姿を消す。
鏡夜にはまったく理解できない感性だが。テーブルの上に(扶桑を転移させるのと同じ要領で)直接、料理の盛り付けられた皿や食器を転移させる方が簡単でも、わざわざワゴンに乗せて運び、オートマタに配膳させるという手間をかけた方が贅沢であり、ティル・ナ・ノーグ規準で丁寧なもてなしなのだというのが、ここのところすっかりお喋りになった伊月の言。
通路から中庭へ下りた鏡夜が、L字に折れたソファの短く、狭い方へ座り、静かに手を合わせると。同じソファのもう一辺に座っていたキリエが、腕に抱え、膝に乗せた伊月の体を控えめに揺らす。
「伊月、ごはんは?」
鏡夜がすっかり意識のないものと思っていた伊月は、さして大きくもないキリエの声に反応して、うっすら目を開けた。
「………………」
ぼんやりと焦点の定まらない(見ようによっては、起き抜けで寝惚けているようにも見える)視線がふらふらと彷徨い、結局また伏せられて。
「いま、いいところなの」
「伊月」
甘ささえ滲むような声で、伊月のことをやんわり咎めながら。キリエが伸ばした手に、魔力で形作られた「手」がたっぷりとジャムの塗られたパンを差し出す。
「だから――」
目を閉じたまま開いた口にパンを押し込まれ、むぐりと言葉を途切れさせた伊月。
その体に、抜けきっていた力が戻る。
「…………」
ぱち、ぱち、と瞬いているうち、だんだんと焦点の合っていく瞳。
「ぼんやり」から「正常」を通り越し、やがては鋭さを帯びた視線がキリエをひと睨みして、口元のパンへと落ちる。
中途半端に噛みついていたパンを、伊月はさも不服そうな顔で噛み切った。
その顎がもぐもぐと動いているうち、唇についていたジャムをキリエの指が拭う。
伊月が食べかけのパンを受け取ろうと伸ばす手は、するりと躱され目当てのものには届かなかった。
「あーん」
そして、再び口元へと近付けられるパン。
「…………」
自力で起こしかけていた背中を――ぽすん、と――また、キリエの腕に預けて。勝手にしろとばかり、目を閉じた伊月は投げやりに口を開いた。
すっかりキリエの好きなようにさせている伊月の本体が、甲斐甲斐しく口元へ差し出されるパンを食べるだけのお人形と成り果てているうちに。インスミールが屋根のよう枝葉を広げる中庭へ、奈月を乗せた〔イチイバル〕――無骨な外見のワルキューレ――がふわりと下りてくる。
タイル張りの地面すれすれの高さで静止した〔イチイバル〕から身軽に飛び下りた奈月は、自分の膝に乗せた幼子へご機嫌で給餌を続ける吸血鬼を、盛大な呆れの滲む表情で一瞥した。
手元に呼び出した魔導円へ〔イチイバル〕を押し込んだ奈月は、そのまま中庭の外へと歩き出す。
「鏡夜、いいものあげる」
双子とキリエが座っているソファの傍を通りがけ。体の後ろへ回った女の手が取り出し、鏡夜の膝へと落としていったのは、なめし革の鞘に収められた小振りのナイフ。
「――なに、これ」
口の中に入っていたものをごくりと飲み込んだ鏡夜が振り返る頃。奈月は中庭を囲むよう作られた柱廊に上がっていた。
「竜胆丸の代わりー」
肩口でひらひら手を振る女の後ろ姿が、ダイニングキッチンの入口を通り越し、廊下と脱衣所とを隔てる扉の向こうへと消える。
「竜胆丸?」
ソファの上で捻っていた体を戻すと、伊月の世話を一段落させたキリエが鏡夜のことを見ていた。
「八坂で使ってた、付喪憑きの刀」
「護家の討滅士が生まれた時にもらうっていう、守り刀? そういえば、お前も伊月も持ってないね。向こうに置いてきたの?」
「護家を離れるなら、置いてくるも何もない」
おそらく、今更喚んだところで竜胆丸が応えることもないだろうと。鏡夜は使い慣れ、手に馴染んだ得物に対してなんの未練もなく考える。
護家の討滅士にとって最初の一振り――自身の守り刀――は特別だと、そう言い聞かされて育ちはしているものの。鏡夜にとって、討滅士という身分はただ、生きるために求められる役割でしかなかった。
討滅士として振る舞わなければ「日代の女が生んだ男女の双子」を政の道具として求める日代を抑えられず、「護家の跡取り」として育てられるよりもっと不本意な目に遭わされると聞かされ、実際そうなのだろうと理解してもいた。
だから、望まれるがまま、自分たちにとって最善の環境にしがみついていた。――ただ、それだけのこと。
「私の守り刀なんて短刀だから、傍に置いてたら大変よ」
ぱちりと、キリエの腕の中で前触れもなく目を開けた伊月が、おもむろに手を伸ばす素振りで、魔力の「手」に飲み物の入ったグラスを催促する。
「どうして?」
「女が持つ短刀は、命じゃなくて尊厳を守るためのものだから。それが付喪憑きともなれば、主人の貞操が危ないときにすっ飛んできて心臓を一突き、なんてよくある話よ」
「は?」
その膝に腰掛け、両の腕に囲い込まれ、どこまでがどちらのものか分からないほどに余剰魔力を混ぜ合わせた状態で(要するに、これでもかと「べったり」としながら)。キリエほど上等な人外の神経を逆撫でして、よくもまあ楽しげに笑っていられるものだと。危機感など露程も滲まず、いたって軽い伊月の声音に、鏡夜は思わず感心した。
「もし遮那王を連れて来てたら、キリエに囓られる度に刺される破目になってたわね」
キリエと比べてしまえばさすがに見劣りするが。遮那王も大概、伊月には甘かった。
あの刀なら、キリエと差し違えてでも伊月を守ろうとしても、鏡夜は驚かないが。一般的な「護家の刀」としては伊月の話した通りなので、触らぬ鬼になんとやら。
鏡夜は我関せずと、手元のナイフに視線を落とした。
「――魔力を通してみて」
浴室から戻ってきた奈月が、伊月そのものの距離感で鏡夜の隣に座る。
鞘から僅かに抜き出したナイフを眺めていた鏡夜が、言われたとおりにすると。刃渡りが十五センチもない小振りのナイフは、鏡夜が意識して動かした魔力をぐんぐん吸い上げた。
「なに、これ」
「竜の牙よ。本物なんて見たことないけど、キリエが言うなら間違いないでしょ」
「これが……?」
その勢いに不穏な物を感じて。
鏡夜が咄嗟に遮断しようとした魔力は、すぐ隣に腰を下ろした奈月からの干渉によってむしろいっそう勢いを増し、大食らいのナイフへ湯水のように注がれていく。
「魔力ならキリエがいくらでも供給するから、ケチらないの」
鏡夜の素の魔力に、伊月の素の魔力の一切合切を足してもまだ足りない。――そんな、魔術師でもない鏡夜が一度に扱うには大きすぎる規模の魔力を飲み干して、ようやく。自らの飢えを満たした竜牙のナイフは、その刃に魔力を纏わせた。
「大量の魔力を扱う感覚にはおいおい慣れていけばいいわ」
器を満たしてなお注がれ続け、溢れた魔力が、奈月の干渉によってナイフそれ自体よりも刃渡りの長い魔刃を形成する。
「よさそうね」
奈月が何をもってそう判断したのか、鏡夜にはさっぱりわからなかった。
「キリエ、鏡夜に上着」
透明なグラスを両手に持って、みるからにもったりとした飲み物をちびちびやりながら、その視線は目の前に立ち上げた表示領域へ向けっぱなしの伊月。
膝に乗せた幼子のことを、その些細な挙動さえ見逃すのは惜しいとばかり、熱心に見つめていたキリエが、奈月に声をかけられ顔を上げる。
蜂蜜色の視線がちらりと鏡夜の装いを確かめて。眠り竜のペンダントから溢れ出すキリエの魔力が瞬くほどの間に形を変えたのは、奈月がソファの背もたれに放り出しているものと遜色のないバリアジャケット――魔術師が身に纏う、上等な防具――だった。
「出かけるの?」
「パンフレットには目を通した?」
「リベライアの? 一通りは……」
「入学式は来月だけど、寮には今日から入れるの。部屋だけ貰ったらあとは好きにしていいから、とりあえず行くだけ行きましょう」
奈月に手を引かれ、鏡夜が立ち上がると。伊月もキリエの膝から下りて、奈月の制御をキリエへ渡す。
「縮むなら今のうちよ」
肩越しに振り返った伊月が告げると。その後を追いかけて立ち上がったキリエの、双子からは見上げるほどに高い背丈はみるみる縮み、あっという間に伊月と並んだ。
合わせて丈の詰まったローブのゆったりとした袖口から、ちらりと覗く指先。
キリエが伸ばした手を見もせずに躱した伊月は、わかりやすく拒まれたことでしょんぼりと落ちた腕に、自分から腕を絡めて足を止めた。
「インスミール、沖の浜のレジデンスに送って」
中庭の開けた場所へ出た四人をまとめて範囲内に収める規模の魔導円が描き出されて間もなく、周囲の景色が一変する。
[沖の浜セントラルタワー レジデンス
A.A.7525/8/29 09:37]
「ニライカナイへ」
天井近くのモニターへちらりと目を遣り、現在地を確認した伊月は、閉鎖式ポータルの扉を開けようともせず本命の目的地を告げた。
〈〔ハイブラゼル〕へのエントリーには、リベライアプロジェクトへの参加が条件付けされています〉
――ちりんっ。
念話を限定術式化した魔術――〔サークルトーク〕――によるアナウンスとともに、小さな鈴を鳴らしたような音がして。ポータルの中にいる四人の前へ、一律に小さな通知が現れる。
[方舟学園プロジェクトへの参加を希望しますか? Y/N]
元々そのつもりでいたのだろう伊月。そんな伊月の傍を離れるつもりがないキリエと、今はキリエに動かされている奈月。
ポータルの中にいた鏡夜を除く三人は、示し合わせたようなタイミングで自分の前に浮かぶダイアログに触れ、リベライアプロジェクトへの参加を表明した。
「リベライアに入学しないと、〔ハイブラゼル〕に入れない?」
「そうよ。リベライアがある〔ハイブラゼル〕の第二世界で学生じゃないのは、デミドラシルの眷属だけ。――わかりやすくていいでしょ?」
伊月に対するスタンスは表向き、キリエと似たり寄ったりの鏡夜も、遅れて目の前に浮かぶダイアログへと触れる。
もちろん、選択は「YES」。
転移の条件が満たされると、ポータルの床一面に描かれた魔導円は再び励起して――
0
お気に入りに追加
34
あなたにおすすめの小説
選ばれたのは美人の親友
杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。
束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。
だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。
そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。
全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。
気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。
そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。
すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
王が気づいたのはあれから十年後
基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。
妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。
仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。
側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。
王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。
王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。
新たな国王の誕生だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる