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第三節「杯の魔女、あるいは神敵【魔王】の帰還」
SCENE-061 脂肪は水に浮く(第三節完)
しおりを挟むちょっとだけ、のつもりがすっかり長引いて。
なんなら気持ちよく寝落ちまでかましてしまった伊月が目を覚ます頃には、とっぷりと日が暮れていた。
日没といっても、ティル・ナ・ノーグの空に星の類いは浮いていないので、ただの慣用表現でしかいないのだが。
太陽や月といった天体の代わりに、ティル・ナ・ノーグでは〝王庭〟と呼ばれる〝人造王樹の管理下にある空間〟を支えているインスミールの枝明かりが昼は眩く、夜はほのかに世界を照らしている。
空を見上げればそこに見て取ることができる魔力の輝き。
世界樹が〔アングルボダ〕へと代替わりする前。
〔ユグドラシル〕の時代には当たり前に見られていた景色が、ティル・ナ・ノーグの空には広がっている。
「おふろ……」
「お前が入りたがると思って、用意はしてあるよ」
寝起きに掠れた声で要求した伊月を抱き上げて。奈月が伊月を連れて行ったのは、イシュナフの奥宮ではなく、エヴナ庭の屋敷にある風呂場の方だった。
今日まで一度も足を踏み入れたことがなかったはずなのに、勝手知ったる他人の家とばかり手際良く伊月の世話を焼き、半分ほど屋根がかかっている外風呂の、場所によって湯温が違う湯船の程良い場所に浸からせて。
ちゃぽん、と伊月の隣へ滑り込んできた奈月は伴侶に甲斐甲斐しい吸血鬼というより、子供に過干渉な母親か面倒見のいい姉といった風情を醸し出している。
「奥宮のお風呂でもよかったのに。なんでこっち?」
「お前が自分で建てた家だから、向こうよりも好きかと思って」
ふぅん、と気のない相槌を打ちながら。かけ流しの湯にずるずると肩まで沈んでいった伊月が空を見上げると。すっかり夜の色へと変わった天蓋に、インスミールの枝明かりが美しくきらめいていた。
好きか嫌いかで言えば。伊月はもちろん、エヴナ庭の屋敷に設えたこの露天風呂を気に入っている。
「気持ち良くてまた寝そう……」
「そろそろ上がろうか」
ばしゃっ、と湯船の中で立ち上がった奈月に、濡れた体を危なげもなく抱き上げられて。そのまま脱衣場へと運ばれていく。
タオルをかけたスツールに座らされた伊月が、寝惚け眼を落とした先。
肉付きが薄く、すらりと伸びた足からは、ほんの何時間か前、ベッドに連れ込まれるまでは確かにあったはずの吸血痕――爪先から膝上にかけて、薔薇の蔓が絡みついているかのような模様を浮かび上がらせていた魔力の痕跡――が、綺麗さっぱり消えてなくなっていた。
ゆっくりと瞬いた伊月が顔を上げ、壁に据え付けられた鏡へと目を遣れば。半日足らずで綺麗さっぱり消えてしまったものとよく似た魔力痕が、伊月の首から下、上半身の左半分を重点的に、肌を覆い尽くす勢いで広がっているのが見て取れる。
「――そのままにしておいても、いい?」
両手で持ったタオルを広げながら抱きしめてくる奈月の懇願めいた言葉に、伊月はまぁいいんじゃない、と気のない答えを返した。
伊月が消して、と言えばドラクレアはそのとおりにするだろうから。それが今である必要は、特にない。
ドラクレアが伊月の意思を最大限尊重すると、わかっているから。ドラクレアのすることに、伊月も寛容になることができた。
「前は黒姫奈が吸血鬼に憑かれてることを隠しておきたかったから痕を残さないで、って言ったのよ。今は隠さないといけない理由もないし、むしろ奥宮に出入りしてる私がなんの痕もつけてなかったらおかしいでしょ」
「何もおかしいとは思わないけど、この痕を消さなくていいなら理由はなんだっていいよ」
今ではもうすっかり癒えている、奈月が伊月につけた咬み傷のあった場所へとくちづけて。伊月と鏡越しに目を合わせた奈月が嬉しそうに笑って見せる。
昔の自分の顔なのに。
それを可愛い、と思ってしまったあたり、伊月もだいぶ毒されていた。
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