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第十章 天泣

第十章 第五話

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「じゃあ、峰ヶ崎が儂を雇ったのも後ろめたさからではなく……」
「戦友の子供が困ってたから手を差し伸べたんだろ」
 紘彬の言葉に田中がうつろな笑い声を上げた。

「儂は恩人を手を掛けた上に会社まで乗っ取ったのか……。その結果、子供が兄弟を殺すことになった。因果応報とはこの事だな」
 陽平はそう言うと両手を紘彬の前に出した。

「殺人罪の時効は廃止になったって言ってたな。儂も逮捕……」
「さっき時効廃止は即日施行されたって言ったろ。なんでだと思う? 時効に掛かる事件を少しでも減らすためだ」
 施行前――時効廃止成立前日までに公訴時効が来ていた事件はそのまま時効になった。
 成立から施行まで時間がいたらその分だけ時効になってしまう事件が増える。
 その為の即日施行だったのだ。

「廃止前の殺人罪の公訴時効は二十五年だったし、二十五年に延長される前の二〇〇四年までは十五年。海外にいる間は時効が停止するが四十年以上外国にたんじゃない限り時効だ」
 田中尚子はまだ二十五年経ってなかったから田中剛は逮捕されたが、田中陽平が殺害した三人については八十年代前半に時効が成立している。

「……逮捕出来ないから父のことを教えたのか? 父に捨てられたと知って苦しませるために」
 田中陽平の声が震えていた。
「曾祖父が生きていれば知っていたはずだからだ」
「え?」
 紘彬が内ポケットから手紙を取り出した。

「健次氏は妻子とは別にあんたを受取人にした生命保険に入ってた。これは健次氏が亡くなった後、弁護士が曾祖父に送ってきた手紙だ」
「生命保険?」
「一応あんたには申し訳ないって思ってたらしいな。弁護士はあんたを見付けられなくて曾祖父に居場所を知らないか問い合わせの手紙を送ってきてた」
 田中健次は、紘彬の曾祖父(紘信)が先祖の代から東京に住んでいて道場主だったことを戦地で聞いて知っていたし、再会した時、引き上げ後に新宿に家を買って道場も再建したと言う話もしていた。
 健次は弁護士が陽平を見付けられなかった時の為にそれを教えてあったから紘信の住所は探し出せた。

「手紙が届いた時、曾祖父は既に死んでたから手紙は封を切られることがないまま最近まで仕舞しまってあったんだ」
 紘彬が手紙を差し出す。
「さっき、息子が大学に入った年に不渡りが出てずっと危ない状態が続いてたって言ってたな。息子が大学に入ったのは八十年代だろ」
 この手紙が来たのも八十年代だと言って陽平の前に置いた。
「その保険金を受け取っていれば危ない状態が続くこともなく、息子に援助してやることが出来たかもな」
 紘彬はそう言って立ち上がると、うなだれている陽平に背を向けて会議室を後にした。

 蒼治は自分の部屋で荷造りをしているところだった。
 ノックの音で蒼治が顔を上げると、ドアを開け放してあった戸口に紘彬が立っていた。

「紘兄、どうしたの?」
「真美ちゃん一家の殺害を依頼した犯人を逮捕した」
 蒼治が目を見開く。
 紘彬は蒼治とベッドに並んで座ると事件の顛末てんまつを話した。

 紘一と桃花は遠ざかっていくバスを見送っていた。
 あのバスに蒼治が乗っている。
 蒼治は外国に旅立っていった。
 二人は蒼治の見送りに来たのだ。
 友人達やチームメイトとの別れは数日前にませたらしい。

「紘ちゃん、蒼治君が彼女と旅行に行こうと思ってたの、知ってた?」
「うん」
「理由は聞いた?」
「え? 彼女と旅行に行きたいからじゃないの?」
「蒼治君、海外に行くって決めたからなんだって。外国に行ったらフラれちゃうかもしれないけど、それでもサッカー選手になりたいからせめて思い出作りにって」
「そうだったんだ」
 真美が生きていても別れる事になっていたかもしれないが、それでもせめて旅行に行って思い出を作れていれば、と思わずにはいられなかった。
「私も行くことにした」
「え、どこに?」
「外国の叔母さんのとこ。ずっと前から叔母さんに誘われてたの」
「そうなんだ」
 大久保は確実に手に入るわけでもない夢を追い掛けるのはつらいからと諦めた。
 父はそれも一つの道だと言っていた。
 けれど、やはり夢を追い掛けている姿はまぶしく見える。
 叔母がいるとは言っても他に知り合いのいない、言葉も通じない外国に移住するのは勇気がいるだろう。
 その勇気をふるい起こせるのはかなえたい夢があるからだ。

「あのね、私、ずっと紘ちゃんのこと好きだったの」
「えっ!?」
「高田馬場で助けてもらうよりもずーっと前から。だから行くか迷ってたの」
 桃花の告白になんと答えれば良いのか分からず戸惑っていると、
「でも行くことにした。私もヴァイオリニストになりたいから。だから今は答えなくていいよ」
 と言った。
「いつか私がヴァイオリニストになって戻ってきた時、紘ちゃんがフリーだったら答え聞かせて」
「その頃には俺のことなんか忘れてると思うけど」
 紘一が苦笑した。
「忘れてなければでいいよ、お互いに。私、紘ちゃんの方から告白してもらえるくらいすごいヴァイオリニストになって帰ってくる!」
「……やっぱり羨ましいな」
「何が?」
「夢があるって事。夢を目指してる人が羨ましいよ。桃花ちゃんに相応ふさわしくならないと告白したくても出来ないから、俺もやりたいこと見付けなきゃね」
「うん!」
 桃花が元気よく頷いたとき、頬に水滴が当たった。
 二人は同時に空を見上げた。
 青空からぽつぽつと雨粒が落ちてくる。

「晴れてるのに……」
天泣てんきゅうだね」
「天泣? お天気雨てんきあめとは違うの?」
「天気雨や狐の嫁入りと同じ意味だよ。晴れてる時に降る雨の事、空が泣いてるみたいだから天泣って言うんだって」
「そうなんだ」
 それきり二人は黙って雨の降る青空を見上げていた。 ――完――


[記事]
彩恵りり「ベートーヴェンは鉛中毒ではなかった!?家系の秘密も判明!? "ホンモノの髪の毛" 探しから始まった研究」LabBRAINS
https://lab-brains.as-1.co.jp/enjoy-learn/2023/03/44913/
[原著論文]
Tristan James Alexander Begg, et.al. "Genomic analyses of hair from Ludwig van Beethoven". Current Biology, 2023. DOI: 10.1016/j.cub.2023.02.041
https://www.cell.com/current-biology/fulltext/S0960-9822(23)00181-1
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