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第四章 宿雨
第四章 第五話
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「そりゃ、音楽も才能は必要かもしれないけど……頑張ればなんとかなるんじゃないか?」
腹黒く聞こえそうだから口には出さなかったが、世界的に活躍しているヴァイオリニストの叔母という強力なコネがあれば音楽家の末端に名を連ねることくらいは出来るのではないだろうか。
コンクールの選考には口出しできないとしても音楽家としてやっていくくらいは可能な気がする。
叔母から自分の元に来るように勧められているというなら、それは実力を見込まれての事だろう。
それならコネだろうと練習を怠りさえしなければなんとかなりそうに思える。
「でも最近、先生にダメ出しされてばっかで……落ち込むようなこと言われながらやってたらヴァイオリンが嫌いになっちゃいそうで……」
確かに、好きで打ち込んでいるものほど批判され続けると却って嫌になるというのは分かる。
蒼治もサッカーでそうなり掛けた時期があった。
「コンクールの時も、いざステージに立ったらすごく緊張しちゃって上手く弾けなかったし」
「…………」
「私がやりたいのはヴァイオリンを弾くことで、人前で演奏することじゃないんじゃないかなって……。そりゃ、拍手されたら嬉しいけど……」
確かに人前で演奏することだけが音楽家の仕事ではない。
蒼治も外国へ誘われていなかった頃はプロになれなかった時に備えて教員免許を取る予定だった。
蒼治がプロになれなかったらコーチか部活の顧問になろうと考えたのと同様に、桃花もアマチュアのままでもいいのではないかという迷いが生じているようだ。
アマチュアが趣味で弾く分には失敗したところで誰かに咎め立てされることはないだろう。
音楽家にしろスポーツ選手にしろ頑張れば必ずなれるというわけではない。
実力の他に運も必要だ。
今は普通の会社員でも正規雇用は狭き門らしいので大差はないのかもしれないが。
「そう言えば蒼ちゃん、旅行は? いつ行くの?」
「今週の土曜に彼女の家に行ってご両親に紹介してもらうから、その後で誘ってみようと思ってる」
「そうなんだ! 上手くいくと良いね!」
「ありがと」
そんな話をしているうちに桃花の家に着いて二人は別れた。
如月は派出所に入っていった。
「あ、あんた! なんで、ここに……」
以前、名刺を渡したホームレス――清水久が驚いた表情で立ち上がった。
「連絡があったんです」
如月は清水にそう答えると、
「どうしたの?」
と巡査に訊ねた。
「彼が逃げる時、これを捨てたので」
派出所の巡査が如月が清水に渡した名刺を机に置いた。
「済まねぇ。捕まった時、迷惑掛けねぇようにって思って捨てたのが裏目に出ちまった」
清水が申し訳なさそうに謝った。
「気にしなくて良いよ」
「知り合いですか?」
「うん、何があったの?」
「不審な男がうろついているという通報があったので行ってみたら、この男がいたので職務質問しようとしたところ逃走を図り、その時この名刺を捨てたのに気付いたので回収しました」
「君、一人? もう一人の巡査は?」
「まだ不審者がいるという通報があったので、そちらへ」
「つまり、通報した人が言ってた不審者は彼じゃないって事?」
「それは……もしかしたら複数の不審者がいたのかもしれないので……」
巡査の歯切れが悪かった。
「この辺ってそんなに治安が悪いの?」
「あ、その……」
「どの辺り?」
如月の問いに巡査が住所を答える。
住宅街の真ん中辺りだ。
通報を受けた場所の近くで最初に見付けたのがホームレスだったから彼だろうと言う思い込みで捕まえてしまったというところか。
レイシャル・プロファイリング――要は偏見である。
「何かしているところを見たわけじゃないんだよね?」
「はい」
「なら、これは任意なんだから帰っていいんだよね」
「はい」
如月は名刺を手に取った。
「これは捨てた物だから別だけど、所持品検査で違法に押収した物は犯罪捜査でも違法とされて証拠品として認められないよ。捜査の妨害になりかねないから職務質問や所持品検査は慎重にやってね」
如月はそう言うと、清水を促して外に出た。
「その……ホントに済すまねぇ」
清水が頭を下げた。
「いいよ」
如月はそう言って名刺を手渡した。
「なんで住宅街にいたの? もしかしてご家族でも……」
「いや……」
清水は口を噤み掛けて如月に助けられたことを思い出したようだ。
「俺、昔リストラされて、再就職先が見付からなくてホームレスになっちまったんだ」
「面接に行ったんじゃないよね?」
「この前、俺をクビにした社長を見掛けて……つい、後を付けちまって……そしたら、あいつ良い家に住んでて……」
自分をクビにしたヤツには家があるのに、こっちは毎日ゴミ箱を漁って生きている。
そう思うとどうしても恨みが湧いて何度か家の様子を見に行ってしまったのだという。
「俺、逮捕されてた方が良かったのかもしれねぇな。なんか仕出かしちまう前ぇに」
「なんにもしてないんじゃ逮捕されたところですぐに釈放されるから意味ないよ」
如月の落ち着いた声に清水が苦い笑みを浮かべた。
「あなたが自分が何かやらかすのを防ぎたいって言うなら名前聞いとくけど」
「清水……」
「あなたの名前は覚えてる。そうじゃなくて社長の方。その社長に何かあったら真っ先に自分が疑われるって思ったらあと一歩のところで踏み留まれるんじゃない?」
「田中。田中陽平」
平凡すぎて名前だけじゃ特定出来ないかも……。
如月の表情を読んだ清水が苦笑して、
「会社の名前は峰ヶ崎株式会社だよ」
と付け加えた。
「会社名まで分かってりゃ同一人物かどうか分かるだろ」
「ありがと。一応、署にある俺のパソコンに入力しておくけど、心配する必要はなさそうだね」
「わざわざこんなとこまで来させて済まなかったな」
「言ったでしょ。防犯も警察の仕事だって。俺はこれで給料もらってるんだから気にしなくていいよ」
如月はそう言うと清水と別れた。
腹黒く聞こえそうだから口には出さなかったが、世界的に活躍しているヴァイオリニストの叔母という強力なコネがあれば音楽家の末端に名を連ねることくらいは出来るのではないだろうか。
コンクールの選考には口出しできないとしても音楽家としてやっていくくらいは可能な気がする。
叔母から自分の元に来るように勧められているというなら、それは実力を見込まれての事だろう。
それならコネだろうと練習を怠りさえしなければなんとかなりそうに思える。
「でも最近、先生にダメ出しされてばっかで……落ち込むようなこと言われながらやってたらヴァイオリンが嫌いになっちゃいそうで……」
確かに、好きで打ち込んでいるものほど批判され続けると却って嫌になるというのは分かる。
蒼治もサッカーでそうなり掛けた時期があった。
「コンクールの時も、いざステージに立ったらすごく緊張しちゃって上手く弾けなかったし」
「…………」
「私がやりたいのはヴァイオリンを弾くことで、人前で演奏することじゃないんじゃないかなって……。そりゃ、拍手されたら嬉しいけど……」
確かに人前で演奏することだけが音楽家の仕事ではない。
蒼治も外国へ誘われていなかった頃はプロになれなかった時に備えて教員免許を取る予定だった。
蒼治がプロになれなかったらコーチか部活の顧問になろうと考えたのと同様に、桃花もアマチュアのままでもいいのではないかという迷いが生じているようだ。
アマチュアが趣味で弾く分には失敗したところで誰かに咎め立てされることはないだろう。
音楽家にしろスポーツ選手にしろ頑張れば必ずなれるというわけではない。
実力の他に運も必要だ。
今は普通の会社員でも正規雇用は狭き門らしいので大差はないのかもしれないが。
「そう言えば蒼ちゃん、旅行は? いつ行くの?」
「今週の土曜に彼女の家に行ってご両親に紹介してもらうから、その後で誘ってみようと思ってる」
「そうなんだ! 上手くいくと良いね!」
「ありがと」
そんな話をしているうちに桃花の家に着いて二人は別れた。
如月は派出所に入っていった。
「あ、あんた! なんで、ここに……」
以前、名刺を渡したホームレス――清水久が驚いた表情で立ち上がった。
「連絡があったんです」
如月は清水にそう答えると、
「どうしたの?」
と巡査に訊ねた。
「彼が逃げる時、これを捨てたので」
派出所の巡査が如月が清水に渡した名刺を机に置いた。
「済まねぇ。捕まった時、迷惑掛けねぇようにって思って捨てたのが裏目に出ちまった」
清水が申し訳なさそうに謝った。
「気にしなくて良いよ」
「知り合いですか?」
「うん、何があったの?」
「不審な男がうろついているという通報があったので行ってみたら、この男がいたので職務質問しようとしたところ逃走を図り、その時この名刺を捨てたのに気付いたので回収しました」
「君、一人? もう一人の巡査は?」
「まだ不審者がいるという通報があったので、そちらへ」
「つまり、通報した人が言ってた不審者は彼じゃないって事?」
「それは……もしかしたら複数の不審者がいたのかもしれないので……」
巡査の歯切れが悪かった。
「この辺ってそんなに治安が悪いの?」
「あ、その……」
「どの辺り?」
如月の問いに巡査が住所を答える。
住宅街の真ん中辺りだ。
通報を受けた場所の近くで最初に見付けたのがホームレスだったから彼だろうと言う思い込みで捕まえてしまったというところか。
レイシャル・プロファイリング――要は偏見である。
「何かしているところを見たわけじゃないんだよね?」
「はい」
「なら、これは任意なんだから帰っていいんだよね」
「はい」
如月は名刺を手に取った。
「これは捨てた物だから別だけど、所持品検査で違法に押収した物は犯罪捜査でも違法とされて証拠品として認められないよ。捜査の妨害になりかねないから職務質問や所持品検査は慎重にやってね」
如月はそう言うと、清水を促して外に出た。
「その……ホントに済すまねぇ」
清水が頭を下げた。
「いいよ」
如月はそう言って名刺を手渡した。
「なんで住宅街にいたの? もしかしてご家族でも……」
「いや……」
清水は口を噤み掛けて如月に助けられたことを思い出したようだ。
「俺、昔リストラされて、再就職先が見付からなくてホームレスになっちまったんだ」
「面接に行ったんじゃないよね?」
「この前、俺をクビにした社長を見掛けて……つい、後を付けちまって……そしたら、あいつ良い家に住んでて……」
自分をクビにしたヤツには家があるのに、こっちは毎日ゴミ箱を漁って生きている。
そう思うとどうしても恨みが湧いて何度か家の様子を見に行ってしまったのだという。
「俺、逮捕されてた方が良かったのかもしれねぇな。なんか仕出かしちまう前ぇに」
「なんにもしてないんじゃ逮捕されたところですぐに釈放されるから意味ないよ」
如月の落ち着いた声に清水が苦い笑みを浮かべた。
「あなたが自分が何かやらかすのを防ぎたいって言うなら名前聞いとくけど」
「清水……」
「あなたの名前は覚えてる。そうじゃなくて社長の方。その社長に何かあったら真っ先に自分が疑われるって思ったらあと一歩のところで踏み留まれるんじゃない?」
「田中。田中陽平」
平凡すぎて名前だけじゃ特定出来ないかも……。
如月の表情を読んだ清水が苦笑して、
「会社の名前は峰ヶ崎株式会社だよ」
と付け加えた。
「会社名まで分かってりゃ同一人物かどうか分かるだろ」
「ありがと。一応、署にある俺のパソコンに入力しておくけど、心配する必要はなさそうだね」
「わざわざこんなとこまで来させて済まなかったな」
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如月はそう言うと清水と別れた。
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