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第四章 宿雨

第四章 第二話

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「あの、桜井さん、さっきの……」
 如月は遠慮がちに訊ねた。
「……子供が生まれたって知らせ受けた人、引き揚げ船の中で病気になって船を下りてすぐ入院したらしい。曾祖父ちゃんが東京に戻ってきたら死んだって知らせが届いてたって書いてあった」
「それは……日本まで帰ってきてたのに無念だったでしょうね」
 如月が同情するように言うと、紘彬はしばらく黙っていた。

 それから、
「……何年後かに仕事で西日本に行ったら、道でばったり出会でくわしたって」
 と言った。
「え……生きてたって事ですか?」
「ああ」
「知らせが間違いで良かったですね」
「そう……だな」
 紘彬は曖昧に答えたあと再び黙り込んだ。
 どうやらあまり喜べるような状況ではなかったらしい。
 都市部はどこも焦土しょうどしたのだ。
 紘彬の口振りだと普通の家だったようだし、家財道具が全て灰になってしまったのなら無一文で路頭に迷っていたのかもしれない。

 あるいは病気の後遺症で働けなくなったか……。

 そういえば子供が生まれた後の話も聞いていない。
 生きて帰ってきたものの家族は空襲で全員亡くなっていたという可能性もある。
 如月はそれ以上は詮索しない事にした。

 仕事が終わり、紘彬は一人で帰宅する途中だった。
 地下鉄の出口から蒼治が出くるのが見えた。

「よ、蒼治」
 紘彬が声を掛けると蒼治が振り返って片手を上げた。
 二人は家に向かって一緒に歩き出した。
「紘兄、聞いていい?」
「おう」
「その……もし、やってない事で会社をクビになりそうになったとき濡れ衣を晴らすにはどうしたらいいの?」
「やってないって事を証明するしかないだろうな」
「もし証明出来なくてクビになったら?」
「労働組合があるなら組合に訴えるとか、労働基準監督署に訴えるとか」
 紘彬が首をかしげながら答えた。
 蒼治は「実は……」と言って話し始めた。

 蒼治の彼女――真美の父親が勤めている会社の倉庫から高額商品が盗まれた。
 その商品がそこにあると知っていたのも、倉庫内に入るのに必要な暗証番号を知っているのも一部の人だった。
 暗証番号を知っている人全員が倉庫に搬入された事を知っていたわけではないから、本来なら暗証番号を知っている者の中から搬入の事を知っていた人間を見付け出せば済むのだが、最初の盗難の時は一人に絞り込めなかった。
 そこで社員それぞれの暗証番号を変えた。
 誰の暗証番号が使われたか分かれば次に商品が盗まれたとき入った人間が割り出せるからだ。

 そしてまた盗まれた。
 そのとき使われたのが真美の父親の暗証番号だったのだ。
 それで真美の父親は窮地きゅうちに立たされているらしい。
 当然だが真美の父親はやっていない。
 相当な高額商品ではあるのだが犯罪者になるリスクを負ってまで盗むほどではない。
 真美の父親には養わなければならない妻と娘がいるのだ。
 しかも娘(真美)は私立大学に入学したばかりである。
 盗まれた商品を売った金だけでは到底暮らしていけない。
 盗難が発覚して真美の父親が捕まり、会社をクビになったら一家三人が路頭に迷うのだ。

「真美は盗聴とかハッキングとか、お父さんとは関係ない方法で泥棒が暗証番号知ったんじゃないかって」
「まぁ有り得るだろうな。そこまでしなくても場所と暗証番号さえ分かれば盗めたなら、話しているのを誰かに聞かれたって可能性もあるわけだし。盗難届は?」
「出てるって。それで刑事さんが聞き込みに来てお父さんが疑われてるんじゃないかって心配になったみたいなんだ……」

 割に合うほどではないというのは間違いないだろう。
 暗証番号の入力程度で入れるような警備のところにそこまで高額なものを置くはずがない。
 もっとも、大企業にも関わらず驚くようなザル警備のところや、安全策がガバガバで信じられないような事故を起こしたりする事があるから絶対無いとも言い切れないのだが。
 金庫のキーの横に暗証番号を書いた付箋が貼ってあったなどと言う冗談のような話も珍しくない。
 しかし既によその刑事が捜査しているのなら紘彬にはどうしようもない。
 本当に冤罪えんざいで捕まったのなら、なんとかして再捜査して真犯人を見付けることも出来るだろうが、疑われている〝かもしれない〟という程度では手の打ちようがない。
 捜査をしなければ疑いを晴らす事も出来ないのだ。
 紘彬には蒼治に「進展があったら教えてくれ」と言う以上の事は言えなかった。

「演奏、すごかったね!」
 はしゃいだ声で桃花が言った。
 コンサートからの帰り道だった。
「そうだね」
 紘一が笑顔で頷いた。
「叔母さん、やっぱりすごい! あのね、ソロの時、叔母さん、こうやってたでしょ」
 桃花が身振りで示す。
「こうして……」
 弦の使い方やビブラートのかせ方、ホールの音響を意識した演奏方法などを興奮した様子で話しているのを紘一は黙って聞いていた。

「……あ、ごめん、こんなことに夢中になるなんておかしいよね」
 紘一が微笑みを浮かべたのを見た桃花が謝った。
「そんな事ないよ」
「でも今、笑ったでしょ」
「それは桃花ちゃんがうらやましかったからだよ」
「何が?」
「俺、やりたいこととか将来の夢とか何もないし、思い付かないから桃花ちゃんや蒼ちゃんみたいに熱中出来るものがある人、羨ましいんだ」
「何もないの? 全然?」
「サッカー、ちょっとやってみたいなって思ってたけど、それも蒼ちゃんが楽しそうにやってるのを見て憧れただけかもなのかもしれないし」
「切っ掛けは蒼治君でもいいんじゃないの?」
「うん、でも……」
 紘一が言い淀んだ。
 桃花が小首をかしげて紘一を見上げる。

「俺、帰宅部だし、急いで家に帰る必要ないんだからサッカーやりたければサッカー部に入ればいいだけだよ。なのに未だに入ってないのは本気じゃないからじゃないかな」
「私は部活やってないから知らないんだけど、入るのに何か難しいことする必要があるの? テストとか」
「入部届に名前書いて出すだけだよ。その程度のことをするか迷う時点で本気じゃないって事じゃないかな。みんな軽い気持ちで入ってるんだから迷うほど大変な事じゃないのに俺はそれすらしてない」
 紘一の言葉に桃花が考え込むような表情を浮かべた。
「ごめん、こんな話の方が退屈だよね」
「そんな事ないよ! やりたい事、見付かるといいね」
「ありがと」
 そう言って笑みを浮かべた時、桃花の家の前に着いた。
 紘一は桃花に別れを告げると自宅へ向かった。
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