影の弾正台と秘密の姫

月夜野 すみれ

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秋 十

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〝白露に つつじをかさね まつ虫は 菅の野原で 片袖ぞ振る〟 

白露しらつゆに……」
 織子は詠じ掛けて躊躇ためらった。

 袖を持っている(自分がつつじの君だ)という返歌を読んだものの、義母の夫(管大納言・匡の父)は匡を春宮に入内させたいと願い出ると決めたらしい。
 春宮が(おそらく一度だけ)匡の声を褒めたというのを聞いて大納言もその気になったのかもしれない。
 貴晴は織子を匡だと思っているようだし、そうなると入内してしまうのに気を持たせるような返事をするのは良くないような気がするのだ。

 織子が大納言の大姫ではないと分かっても貴晴は好きでいてくれるか分からない。
 従五位下ということは貴晴は大納言の後ろ盾を期待しているのかもしれない。
 だが大納言(養父)の方は散位らしい従五位下の貴族を婿にする気があるかどうか。
 というか婿にしてくれたとして貴晴の後ろ盾をしてくれるかどうか分からない。

 何しろ返事をしないどころか文を見もせずに捨てている状態では……。

 織子は溜息をいた。


 貴晴は管大納言の邸の前に来ていた。
 歌を詠じる声はしない。

 つつじの君じゃないのか……?

 違うのだとしたら訳の分からない歌を贈ってよこす男だと思われただろう。

 それで返歌を詠んでくれないのか?

 もしくは別の女性宛の歌を贈られたと思われて――大姫とつつじの君が別人ならその通りなのだが――嫌われたとか。

 あるいは……。

 春宮への入内を決めたから他の男への歌を詠むのはやめたとか……。

 大姫とつつじの君が同じ女性で、しかも振られてしまったのだとしたら命懸けで内大臣の姫を守る意味がない。

 大姫の入内が決定したら出家しよう……。

 貴晴は溜息をいた。


 貴晴と隆亮は内大臣家で隆亮が持ってきた書き付けを調べていた。
 ここ数年の公卿とその家族の記録である。
 公文書の類は持ち出せないから必要な分を書き写してもらったものだ。

「誰にこれだけ調べさせた?」
 貴晴が訊ねた。
「私がやったとは思わないのか?」
「これだけの量を書き写せるだけの時間はなかっただろ」

 役人というのは忙しいのだ。
 貴晴が散位だと思われているのは弾正台だと言えないからというだけではない。
 参内せずに昼間からほっつき歩いているからというのもあるのだ。
 弾正台の官舎は内裏にあるし役人もいるから他の弾正台の官人は参内しているはずである。

 大赦の後、公卿やその家族に不審な死に方をした者を調べているのだが中々見付からない。
 群盗に殺されたものの病死と届けを出した者もいるだろうし、逆に何もないのに休む口実に居もしない家族の死だというものもいるらしい。

 貴晴と隆亮は書き付けの山に埋もれて途方に暮れていた。

「もう何日にもなるのに内大臣の姫は箏を弾かないんだな」
 書き付けを見るのに飽きたらしい隆亮の言葉に、
「もう何日にもなるのに、お前の方塞かたふたりはまだ終わってないのか?」
 貴晴もうんざりしながら答えた。

 この中から不審な死に方をした者を見付けて更にそこから内大臣の姫が狙われている理由を推測するのは無理なんじゃないか?

「いや、妻の機嫌を損ねてしまってな。かといって右大臣家うちやもう一人の妻の家からだと内裏が方塞りなんだ」

 そういえば右大臣家から見て内裏の方角に金神がいると言っていたな……。

 金神ということは一年間だ。

「右大臣はどうしてるんだ?」
 貴晴の手伝いが仕事の隆亮はともかく、右大臣が一年も参内しないわけにはいかないだろう。
「妻の家から参内してる」
 隆亮が答えた。

 母親ではない女性の家では隆亮まで行くわけにはいかないか……。

「おかげで母上の機嫌が悪くて……」
 隆亮がぼやく。

 大貴族の妻も大変だな……。

 その点、貴晴の父は木っ端役人だから母は他の女性に嫉妬しなくてすむ……と思い掛けて、そもそも焼き餅を焼ける立場ではなかったことを思い出した。

 たった一人の子供の父親が他の男だからな……。

「まぁ、いつまでも内大臣の家にいるわけにもいかないから明日は別邸に行くよ」
 隆亮が言った。

 最初からそうしろよ……。

 と突っ込みたかったがお陰で退屈しなかったのも事実だ。


 翌日――


 貴晴は隆亮と一緒に右大臣家の別邸に来た。
 昼間は内大臣の邸にいる必要がないから貴晴も自分の邸に帰るので、ついでに乗せてもらったのである。
 それと、右大臣家ではしばらく使っていない邸だというから、もしかしたら群盗が勝手にねぐらにしていないかもう一度確かめさせてもらおうと思ったのだ。

 近くまで行くと弦の音が聴こえてきた。

「箏の音……」
 右大臣家の別邸の中からだ。

「お前の妹が来てるのか?」
「貴族の姫が箏を弾きに別邸に来たりするわけないだろ」

 それもそうか……。

 管大納言の大姫のように歌会に出るというのでもない限り、貴族の姫は普通は邸から出たりしない。
 というか歌会に出るのもかなり珍しいのだ。

 ……ん?
 待てよ……。

 歌会はともかく、貴族の姫が庭で歌を詠じたりするか……?

 乳母子に頼んで詠じてもらっているということはあり得るだろうが……。

 つつじの君と会った時、女性は二人いた。

 もしかして、つつじの君は乳母子か侍女なのか……?
 だから返歌が詠めずにいるのか?
 懸想文けそうぶみの相手は大姫で、つつじの君は大姫ではないから……。

「私の知らない妹がいたのか?」
 隆亮の声で貴晴は我に返った。隆亮はなんとも言えない表情を浮かべている。

 複数の妻を持つのは珍しくないし、母親が違えば別居しているから異母妹だとることすら知らないことはある。

「どうする?」
 貴晴は隆亮に訊ねた。

 姫が住んでるなら亡くなっていない限り妻(姫の母親)も一緒に暮らしているはずだ。
 家族、それも女性が住んでいる邸を群盗にねぐらとして提供しているとは考えづらい。
 右大臣の姫なら相応の婿を取りたいだろうし、それなら何をするか分からない群盗は近付けたくないだろう。

 いくら隆亮の父の持っている邸とは言え未婚の姫のいるところに乗り込むのも気が引けるし……。
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