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夏 十
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「え?」
「一人、逃げた者がおりましたので後を尾けさせました」
由太が言った。
〝逃げた〟のではなく〝逃がした〟のだろう。わざと。
「よくやった」
貴晴は由太にそう言うと、女性の方に向き直った。
「郎党に送らせます」
貴晴がそう言うと、
「車も牛も無事です」
由太が言葉を添えた。
郎党を待っている間に牛車と牛を調べたようだ。
貴晴は頷くと、
「それでは」
と言って由太と共に歩き出した。
「あ……」
織子が声を掛ける前に男性は供の者と一緒に行ってしまった。
手の中に残された袖に目を落とす。
お名前も聞けなかった……。
向こうも織子や匡のことを知らないはずだ。
匡は歌会に出ているから男性が匡と会ったことがあればどちらかが気付くはずだ。
だが二人共そんな素振りは見せなかった。
以前、牛車の中で歌のやりとりをしたのは貴晴だと分かったが、その貴晴は匡に文を贈ってきている。
そして今の男性は誰なのか分からない。
私って殿方とは縁がないのかな……。
織子が義母の家にいることを知っているのは義母の家族だけだ。
使用人達も知っているが、半分使用人のようなものだと思われているのか噂は流していないようだ。
もっとも、噂が流れていて文を貰えたとしても紙がないから返事は書けないのだが。
このまま一生一人で過ごすのかな……。
都に来る前のように一人寂しく……。
都に戻ってくる前も戻ってきてからも大して変わらない。
というか危険な目に遭う分、戻る前より悪くなっている。
出家して寺に入れば他に尼僧がいるはずだから少なくとも一人で寂しいということはないだろう。
次にお寺での歌会に着いていった時に出家しちゃおうかな……。
織子は溜息を吐いた。
貴晴は祖父の家に向かっていた。
ふと見ると躑躅の花が咲いているのが目に映った。
今の姫は可愛いかったな……。
つつじの襲がよく似合っていた。
これが〝垣間見〟というものか……。
垣間見たと言うにはしっかり見たが。
「躑躅花 匂へる君を 我想ひ 襲を涙で くれなゐに染む」
貴晴はつつじの花を見ながら歌を詠んだ。
管大納言の大姫からこのまま無視され続けるなら今のつつじ襲の姫でも……。
貴晴はそこまで考えてからハッとした。
しまった……!
名前を聞いてない!
邸の場所が分かっている〝垣間見〟と違って出先――それも攫われてきたところで会ったのだから誰なのか知りようがない。
となると、やはり管大納言の大姫しかいないか……。
まぁいくら顔が好みでも良い妻の条件は趣味が合って良い話し相手、相談相手になれることだ。
後は裁縫や染色が上手いことである。
貴晴は出世を望んでいるわけではないから親の財力や地位はどうでもいい。
というか、約束通りの官位を貰えるなら従三位。
普通の下級貴族の息子では妻の親が手伝ってくれたとしてもよほど優秀でない限りまず無理な官位である。
本来なら出世は妻の親に支援してもらうものなのに、貴晴は先に出世の階段を上り詰めなければ求婚すら出来ないのだ。
「織子様、それは?」
牛車の中で匡に訊ねられた。
捨ておいてくれと言われたものの、織子はつい袖をそのまま持ってきてしまったのだ。
「今助けて下さった方のお袖です」
織子が答える。
「そう。まぁ、あんなところにいるような人ならそうそう新しく仕立てられないでしょうからね」
見下したような匡の言葉に織子は袖に目を落とした。
手触りからするとかなり上等な物のように思える。
あの男性は強がりではなく、本当になくても困らないという感じだったが――。
「貴晴、どうした?」
祖父が訊ねた。
二年前のことがあって以来、貴晴の方から邸を訪ねてきたのは初めてだから意外に思ったのだろう。
「内裏のことについてお伺いしたいのですが」
貴晴が言った。
「何を知りたいのだ」
祖父が訊ねる。
「春宮のお妃様に決まった姫のことです」
「内大臣の姫か。何があった」
「群盗に二度も狙われました」
「貴族の姫が次々と狙われているという話は聞いておる」
祖父が答えた。
「二度も狙われたこともですか? 内大臣の姫だけが」
「内大臣の姫だけ?」
祖父が聞き返した。
その事は聞いていなかったらしい。
「他の姫は一度失敗した後は狙われていないと。少なくとも今のところは」
「群盗ではないと考えておるのか?」
「私を弾正台に補したのはそうお考えだからでは?」
「お前を弾正台にというお話が来たのは内大臣の姫が狙われる前だ」
祖父の言葉に、そういえば呼び出しを無視し続けていたから隆亮に花見だと偽わられて連れて行かれたのを思い出した。
「内大臣の姫が狙われたのは他の姫の親がやらせたと思うておるのか? 群盗ではないと?」
「群盗なのは間違いないと思いますが、雇われたと言う事は十分考えられます」
貴晴が答えた。
「群盗というのはそんなに簡単に雇えるのか?」
「それは私にも……ただ、おおよその当たりだけでも付けたいと思いまして、いくつかお教えいただければと……」
貴晴がそう言うと、
「私に答えられることなら答える。分からないことがあれば詳しい者を紹介しよう」
祖父が言った。
「由太、管大納言の邸の前を通るように言ってくれ」
帰り道、貴晴がそう言うと由太はすぐに牛飼童に指示を伝えた。
さっき、あの女性を見て〝垣間見〟を思い付いたのだ。
姿を見て真剣に思うようになってしまってから春宮への入内が決まってしまったりしたら目も当てられないが――。
「近くでお止めしましょうか?」
由太の言葉に、
「頼む」
貴晴が答えた。
「藤が枝を――」
女性の声に貴晴は思わず足を止めた。
この塀の向こうは管大納言の邸である。
歌を詠じる声は築地塀の向こう――管大納言の邸の中から聴こえて来る。
「――宿にせむとて ほととぎす 今はいずこで 汝は鳴くなりと」
あの時、牛車で貴晴の歌に下の句を付けた声だ。
〝藤が枝を 宿にせむとて ほととぎす 今はいずこで 汝は鳴くなりと〟
(ここを我が家にしたいと仰っていたあなたは今どこで他の女性に愛を囁いているのでしょうか?)
これは私への返歌だ……。
文を見て返歌も詠んでくれていたのだ。
だが返事は来ていない。
「従五位下だからか?」
身分が低いから親や乳母達に止められているのかもしれない。
だったらもっと昇ってやるまでだ……。
返歌を詠んでくれたいたという事は脈がないわけではないはずだ。
もっと官位が上がればきっと……。
「一人、逃げた者がおりましたので後を尾けさせました」
由太が言った。
〝逃げた〟のではなく〝逃がした〟のだろう。わざと。
「よくやった」
貴晴は由太にそう言うと、女性の方に向き直った。
「郎党に送らせます」
貴晴がそう言うと、
「車も牛も無事です」
由太が言葉を添えた。
郎党を待っている間に牛車と牛を調べたようだ。
貴晴は頷くと、
「それでは」
と言って由太と共に歩き出した。
「あ……」
織子が声を掛ける前に男性は供の者と一緒に行ってしまった。
手の中に残された袖に目を落とす。
お名前も聞けなかった……。
向こうも織子や匡のことを知らないはずだ。
匡は歌会に出ているから男性が匡と会ったことがあればどちらかが気付くはずだ。
だが二人共そんな素振りは見せなかった。
以前、牛車の中で歌のやりとりをしたのは貴晴だと分かったが、その貴晴は匡に文を贈ってきている。
そして今の男性は誰なのか分からない。
私って殿方とは縁がないのかな……。
織子が義母の家にいることを知っているのは義母の家族だけだ。
使用人達も知っているが、半分使用人のようなものだと思われているのか噂は流していないようだ。
もっとも、噂が流れていて文を貰えたとしても紙がないから返事は書けないのだが。
このまま一生一人で過ごすのかな……。
都に来る前のように一人寂しく……。
都に戻ってくる前も戻ってきてからも大して変わらない。
というか危険な目に遭う分、戻る前より悪くなっている。
出家して寺に入れば他に尼僧がいるはずだから少なくとも一人で寂しいということはないだろう。
次にお寺での歌会に着いていった時に出家しちゃおうかな……。
織子は溜息を吐いた。
貴晴は祖父の家に向かっていた。
ふと見ると躑躅の花が咲いているのが目に映った。
今の姫は可愛いかったな……。
つつじの襲がよく似合っていた。
これが〝垣間見〟というものか……。
垣間見たと言うにはしっかり見たが。
「躑躅花 匂へる君を 我想ひ 襲を涙で くれなゐに染む」
貴晴はつつじの花を見ながら歌を詠んだ。
管大納言の大姫からこのまま無視され続けるなら今のつつじ襲の姫でも……。
貴晴はそこまで考えてからハッとした。
しまった……!
名前を聞いてない!
邸の場所が分かっている〝垣間見〟と違って出先――それも攫われてきたところで会ったのだから誰なのか知りようがない。
となると、やはり管大納言の大姫しかいないか……。
まぁいくら顔が好みでも良い妻の条件は趣味が合って良い話し相手、相談相手になれることだ。
後は裁縫や染色が上手いことである。
貴晴は出世を望んでいるわけではないから親の財力や地位はどうでもいい。
というか、約束通りの官位を貰えるなら従三位。
普通の下級貴族の息子では妻の親が手伝ってくれたとしてもよほど優秀でない限りまず無理な官位である。
本来なら出世は妻の親に支援してもらうものなのに、貴晴は先に出世の階段を上り詰めなければ求婚すら出来ないのだ。
「織子様、それは?」
牛車の中で匡に訊ねられた。
捨ておいてくれと言われたものの、織子はつい袖をそのまま持ってきてしまったのだ。
「今助けて下さった方のお袖です」
織子が答える。
「そう。まぁ、あんなところにいるような人ならそうそう新しく仕立てられないでしょうからね」
見下したような匡の言葉に織子は袖に目を落とした。
手触りからするとかなり上等な物のように思える。
あの男性は強がりではなく、本当になくても困らないという感じだったが――。
「貴晴、どうした?」
祖父が訊ねた。
二年前のことがあって以来、貴晴の方から邸を訪ねてきたのは初めてだから意外に思ったのだろう。
「内裏のことについてお伺いしたいのですが」
貴晴が言った。
「何を知りたいのだ」
祖父が訊ねる。
「春宮のお妃様に決まった姫のことです」
「内大臣の姫か。何があった」
「群盗に二度も狙われました」
「貴族の姫が次々と狙われているという話は聞いておる」
祖父が答えた。
「二度も狙われたこともですか? 内大臣の姫だけが」
「内大臣の姫だけ?」
祖父が聞き返した。
その事は聞いていなかったらしい。
「他の姫は一度失敗した後は狙われていないと。少なくとも今のところは」
「群盗ではないと考えておるのか?」
「私を弾正台に補したのはそうお考えだからでは?」
「お前を弾正台にというお話が来たのは内大臣の姫が狙われる前だ」
祖父の言葉に、そういえば呼び出しを無視し続けていたから隆亮に花見だと偽わられて連れて行かれたのを思い出した。
「内大臣の姫が狙われたのは他の姫の親がやらせたと思うておるのか? 群盗ではないと?」
「群盗なのは間違いないと思いますが、雇われたと言う事は十分考えられます」
貴晴が答えた。
「群盗というのはそんなに簡単に雇えるのか?」
「それは私にも……ただ、おおよその当たりだけでも付けたいと思いまして、いくつかお教えいただければと……」
貴晴がそう言うと、
「私に答えられることなら答える。分からないことがあれば詳しい者を紹介しよう」
祖父が言った。
「由太、管大納言の邸の前を通るように言ってくれ」
帰り道、貴晴がそう言うと由太はすぐに牛飼童に指示を伝えた。
さっき、あの女性を見て〝垣間見〟を思い付いたのだ。
姿を見て真剣に思うようになってしまってから春宮への入内が決まってしまったりしたら目も当てられないが――。
「近くでお止めしましょうか?」
由太の言葉に、
「頼む」
貴晴が答えた。
「藤が枝を――」
女性の声に貴晴は思わず足を止めた。
この塀の向こうは管大納言の邸である。
歌を詠じる声は築地塀の向こう――管大納言の邸の中から聴こえて来る。
「――宿にせむとて ほととぎす 今はいずこで 汝は鳴くなりと」
あの時、牛車で貴晴の歌に下の句を付けた声だ。
〝藤が枝を 宿にせむとて ほととぎす 今はいずこで 汝は鳴くなりと〟
(ここを我が家にしたいと仰っていたあなたは今どこで他の女性に愛を囁いているのでしょうか?)
これは私への返歌だ……。
文を見て返歌も詠んでくれていたのだ。
だが返事は来ていない。
「従五位下だからか?」
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