歌のふる里

月夜野 すみれ

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第一章 凍れる音楽

第三話

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 小夜は遺体の安置されている部屋へ連れていかれた。
 霊安室で遺体と対面した小夜は、警官の、祖父かと確認する問いに頷いた後、泣き崩れた。
 柊矢をはじめとした、その場にいた者達は居たたまれない思いで、小夜から目を逸らし、ただ泣き声を聞いていた。

 小夜が落ち着いてきたところで、
「誰か頼れる人はいるかね?」
 警官が訊ねた。
「え?」
「家族や親戚は?」
「いません」
 小夜は首を振った。
「他に誰かいるかね?」
 小夜が黙り込んだ。
「俺が」
 柊矢は思わず言っていた。
「俺は霧生きりゅう柊矢とうやと言います」
 救急車に同乗してきて、ずっと側に付いていたから身内だと思っていたのか、柊矢が引き取ると申し出ると、警官はあっさり了承してくれた。
 警官に自分の身分証を見せ、名刺を渡すと小夜を連れて病院を出た。

「ここが俺のうちだ」
 タクシーから降りて少し歩いたところの家の前で柊矢はポケットから鍵を出しながら言った。
 タクシーを家の前に着けても良かったのだが、そうすると車を通りに戻すのに細い道路を何十メートルもバックして戻らなければならないので、少し手前で下りて歩いてきた。
 都内の古い住宅地は大体どこも道が狭いがここは特に細い。

「あの……霧生……さん?」
「柊矢でいい。弟と紛らわしいからな」
「柊矢さん……、その、どうして……」
「さぁ? 何となく、かな」
 柊矢自身も何故だか分からなかった。
 ただ、どうしても放っておけなかったのだ。

 家の鍵を開けると小夜を先に通してから自分も中に入った。
 小夜を真っ直ぐ客間に案内する。

「夕辺は徹夜だったからな。眠いだろ。一眠りするといい」
 眠そうな小夜を残して柊矢は自分の部屋に戻った。


「ここがリビングで洗面所がそこ。で、この部屋が音楽室」
 小夜が起きてくると、柊矢は家の中を案内して回った。
「音楽室?」
 一般家庭に似つかわしくない部屋の名前に柊矢を見上げた。
 小夜は柊矢にうながされるままに中に入った。

「すごい! グランドピアノがある!」
 音楽室はこの家の他のどの部屋よりも広かった。
 黒いグランドピアノは部屋の中央に置かれていた。
 蓋は閉まっているがきれいに磨かれていた。
「柊矢さんは音楽家なんですか?」
「いや。まぁ、目指したことはあるが……」
 壁際にはガラス戸の付いた棚があり、そこにいくつかの楽器が並んでいた。
 見慣れぬ楽器の間に中にヴァイオリンケースがあった。
 ピアノを挟んで棚とは反対側に譜面台が置かれていた。楽譜も載っている。

「柊矢さんがピアノを弾かれるんですか?」
「一応弾けるが、俺がやってたのはヴァイオリンだ」
 じゃあ、ヴァイオリニストを目指してたのかな。
「なら、弟さんが?」
「楸矢も弾けるが、ピアノはうちの両親か祖父母の誰かだろ。誰のかは知らないんだ」

 この住宅街は戦後の復興期に建てられた。だから「復興住宅」と呼ばれている。
 当初、東京都はこの辺り一帯を動物園にする予定だったらしい。
 あちこちに湧き水の池があるから自然動物園を作る計画だったとか。
 だがGHQに、この住宅難の折に動物園を作る余裕があるのか、と叱り飛ばされ住宅街になったらしい。
 しかし、いくら家を作れと言われたからと言って、ここまで道路を狭くしてギチギチに家を詰め込まなくても良かったのではないかとは思う。
 戦地から引き揚げてきた曾祖父は何とか金を掻き集めてこの家を買った。
 だから、柊矢も弟の楸矢もこの家で生まれ育った。

 柊矢が物心ついたときには既にこの部屋はあり、ピアノは部屋の真ん中に置かれていたが、自分と弟以外に弾いた者はいなかった。
 といっても、祖母は柊矢が生まれる前に亡くなっており、両親も楸矢が生まれた直後に事故で亡くなった。
 柊矢は当時まだ八歳だったから家族の誰かが弾いていたのを覚えてないだけかもしれない。
 柊矢が自発的に言い出したわけでもないのに、幼いときからヴァイオリンを習わされていたから、両親か祖父母の誰かに音楽の素養があったのだろう。
 それは家の中で一番大きな部屋が音楽室にてられていることからも明らかだ。

「ちなみに弟はフルートだ。そこに譜面台があるだろ」
 今はヴァイオリンを弾いてないんですか?
 そう訊いてみたかったが、やめておいた。何となく訊きづらい雰囲気がしたから。
「この部屋に来たのはこれを見せたかったからなんだ」

 柊矢はガラス戸を開いて棚に置かれていた弦楽器を取り出した。
 見たことのない楽器だった。強いて言うなら一番似ているのは、ギリシア神話に出てくる竪琴だろうか。
 しかし、それもかなり無理に解釈して、だ。
 凹の字の形をした無骨な太い木材で出来ている。
 凹の字の上の何もないところに横に弦が一本張られ、その弦と凹の字の底の部分の間に何本もの弦が張られていた。

「それは何て言う楽器なんですか?」
「キタラ。ギリシアの竪琴だ」
「え! これが竪琴なんですか! それもギリシアの!?」
 自分の想像が当たったのにも驚いた。
「ギリシアの竪琴といえばギリシア神話の挿絵で見るような曲線の楽器を想像してたか?」
 予想通りの反応に思わず笑みがこぼれた。
「はい」
「リラの方がそのイメージに近いな」
「リラって言うのもギリシアの竪琴なんですか?」
「ああ」

 柊矢がキタラを構えて指で弦をはじくと、聴き慣れた、懐かしい音がした。
 指慣らしをした後、柊矢が弾き始めたのはいつもどこかから聴こえてくる歌の前奏だった。
 柊矢の鳴らす音に呼応するかのように、他の楽器の音が聴こえてきた。この家の中ではない。
 小夜の歌同様、どこか他の場所にいる者の演奏も聴こえるのだ。

 小夜が演奏に合わせて歌い始めると、他の歌い手達も歌い出した。
 小夜と姿の見えない歌い手達は、主旋律を歌ったかと思うと重唱したり斉唱したり副旋律に回ったりしながら歌を紡いでいく。
 旋律が風になったようにどこまでも流れていくようだった。
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