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第一章 凍れる音楽
第二話
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霞乃小夜は家の近くまで来たところで、すぐそばの超高層ビルを見上げた。
あの樹々を覆っていたもの、あれは音楽だった。
正確には旋律が凍り付いたもの。
だから、溶けた旋律の雫が落ちてきたとき、自分の中に歌が溢れてきたのだ。
そのこと、言いそびれちゃったな。
普通の人にそんなことを言ったら正気を疑われるところだが……。
あの人、多分、〝聴こえる〟人……だよね。
また機会があったら、と思うが、自分から知らない男性に話しかける勇気はなかった。特に若い男の人には。
あの人の言うように奥手だからじゃない。
単に人見知りなだけだ。
小夜は自分に言い訳するように胸の中で呟いた。どちらにしろ話しかけられないことに変わりはないが。
あの森はまた現れるだろうか。
旋律で凍り付いた森。その旋律が溶け出したら、どんな音楽が聴こえてくるのだろう。
もう一度だけ、ビルを見上げると小夜は家の中に入っていった。
その晩は強い風が吹いていた。
窓がガタガタと音を立てている。
柊矢は自分の部屋で仕事をしていた。
また歌が聴こえる。
なんだか嫌な感じのする歌だ。こういう歌は稀だ。
大抵は歌詞が分からなくても聴いていると、意識と旋律が一つになって大気と溶け合ったようになり、曲が終わると清々しい気持ちになるものなのに。
歌っているのは女性一人だけだ。
これも珍しい。
普通は誰かが歌うか演奏を始めるかすると次々に他の歌い手や演奏が加わっていくものだ。
まぁ、こんな歌を一緒に奏でたいと思う者がいないのは当然かもしれないが。
声に聴き覚えがあるような気がするが、あの少女以外の歌い手は知らないのだから思い過ごしだろう。
あの少女の歌声ではないことは確かだ。
歌い手は当然みな違う声をしているのだが、一人が歌い始めると次々に重唱や斉唱、副旋律のコーラスが加わるので独唱はまずない。
同じ歌でも主旋律を担当するのがいつも同じ歌い手というわけではない上に、何人もいるため、声を個別に聞き分けて覚えるのは知り合いでもない限り不可能なのだ。
基本的に声質や音域が違うだけで、きれいな声で歌が上手いというのは共通しているので、声が特徴的だから覚えてしまうとか、下手すぎて覚えてしまうと言うこともない。
「柊兄、坂本さんから電話」
楸矢が一階の電話口から怒鳴った。
柊矢は机の上の子機を取った。電話は西新宿にあるアパートの管理人からだった。
「楸矢、西新宿のアパートの近くで火事が起きてるらしい。ちょっと行ってくる」
ジャケットを羽織りながら、台所でコーヒーを飲んでいる楸矢にそう言うと、車の鍵を取って家を出た。
「坂本さん」
柊矢が管理人に声をかけると、
「霧生さん、すみません、夜遅く」
初老の管理人が謝った。
「構いませんよ。火が強いですね」
燃えているのは柊矢が所有しているアパートから二軒ほどしか離れていない、一戸建ての家だった。
柊矢が野次馬を掻き分けて火元の家の前に出ると、あの少女が立っていた。炎に照らされながら、呆然と燃えている家を見つめていた。手にエコバッグを持っている。
少女に話しかけようとしたとき、
「誰か中に残ってるか!」
消防士の声に、少女がはっとすると、袋から手を離し、家に向かって駆け出そうとした。
「おい、待て!」
咄嗟に柊矢は少女の腕を掴んだ。
「離して! お祖父ちゃんが中にいるの! お祖父ちゃん!」
少女が燃えている家に向かって手を伸ばしながら叫んだ。
「お祖父ちゃん! お祖父ちゃん!」
引き留めている柊矢の腕の中で、少女がもがきながら必死で祖父を呼んでいた。
炎は風にあおられ、ものすごい勢いで燃え上がっている。
消防士も手の施しようがないようだった。
そのとき、楽器の前奏が聴こえてきた。それに合わせて歌が始まった。次々にコーラスと演奏が加わっていく。
今までの歌声がかき消され、優しい旋律と共に強い風がやんだ。
一陣の冷たい風が吹き抜けかと思うと雨が降り出した。
雨は瞬く間に土砂降りになり、燃えさかっている炎を鎮めた。
野次馬が散っていく。
突然の大雨と、消防士達の消火活動のお陰で周囲の家が延焼することもなく火事は収まった。
しかし、少女の家は完全に燃え尽きていた。黒焦げの瓦礫がわずかに残っているだけだった。
「お祖父ちゃん……」
腕の中で少女が震えていた。
消防士達は炎が収まった瓦礫の中に入っていくと、しばらくして黒い遺体収容袋を担架に乗せて出てきた。
「お祖父ちゃん!」
少女が悲鳴を上げた。
「おい、大丈夫か……」
柊矢が声をかけるのと、少女が気を失うのは同時だった。
「おい!」
柊矢は慌てて少女を抱き留めた。
周囲を見回すと、わずかに残っていた野次馬達が覗き込んでいた。
「誰か、この子のこと知ってますか?」
「ここのうちの子だけど……」
近所の人らしい、中年の女性が焼け落ちた家に視線を向けて答えた。
「家族は?」
「お祖父さんだけよ」
それは多分、今運び出された人だろう。
そのとき、人混みを掻き分けて警官がやってきた。
警官は周囲の人達に話を聞くと、柊矢の元へやってきた。
気を失っている少女を見ると、警官は救急車を呼んだ。
すぐにやってきた救急車に、担架に乗せられた少女が運び込まれる。
一緒に乗ろうとする人がいないのを見て取った柊矢は咄嗟に、
「一緒に行きます」
と言っていた。
「坂本さん、すみません、車をお願いします」
柊矢は坂本に車の鍵を渡すと救急車に同乗した。
少女はすぐに意識を取り戻した。
病院で雨に濡れた服を乾かしてもらう間、患者用のガウンを着ていたのだが、その状態で少女は二人組の警官に事情聴取を受けた。
薄いガウン一枚で男性警官と話をするのは気になるらしく、右手で首元辺りを盛んにいじっていた。
その事情聴取で少女が、霞乃小夜、新宿御苑の近くにある高校の一年生と分かった。
「君はどうして家にいなかったのかね」
「祖父に頼まれてお酒を買いに……」
小夜は涙を堪えるように瞬きをしながら答えた。
いつもの酒屋に行くと臨時休業だった。
仕方なく少し離れたコンビニに行くと、身分証の提示を求められた。
祖父に頼まれて買いに来たと言っても、未成年には売れないと言われ、押し問答をした末、結局買えなかった。
他のコンビニや酒屋も回ってみたが、どこも同じだった。
家からかなり離れたところまで行ったが、どの店も売ってくれなかった。
諦めて家に帰ると火事になっていた。
もし、行きつけの酒屋が休みでなければ小夜も火事に巻き込まれていただろう。
「焼け跡から見つかった遺体が君のお祖父さんなのか確認してもらえるかい?」
警官の言葉に小夜は青くなった。
「DNA鑑定じゃダメなんですか?」
柊矢が警官に訊ねた。
「DNAが付着してそうなものが残ってるかどうか……。お孫さんでは親子鑑定も……」
「遺体の状態は?」
「煙を吸い込んだだけなので、火傷などはありません」
「私、お祖父ちゃん――祖父なのか確かめたいです」
「じゃあ、服を着替えてきてくれるかい」
あの樹々を覆っていたもの、あれは音楽だった。
正確には旋律が凍り付いたもの。
だから、溶けた旋律の雫が落ちてきたとき、自分の中に歌が溢れてきたのだ。
そのこと、言いそびれちゃったな。
普通の人にそんなことを言ったら正気を疑われるところだが……。
あの人、多分、〝聴こえる〟人……だよね。
また機会があったら、と思うが、自分から知らない男性に話しかける勇気はなかった。特に若い男の人には。
あの人の言うように奥手だからじゃない。
単に人見知りなだけだ。
小夜は自分に言い訳するように胸の中で呟いた。どちらにしろ話しかけられないことに変わりはないが。
あの森はまた現れるだろうか。
旋律で凍り付いた森。その旋律が溶け出したら、どんな音楽が聴こえてくるのだろう。
もう一度だけ、ビルを見上げると小夜は家の中に入っていった。
その晩は強い風が吹いていた。
窓がガタガタと音を立てている。
柊矢は自分の部屋で仕事をしていた。
また歌が聴こえる。
なんだか嫌な感じのする歌だ。こういう歌は稀だ。
大抵は歌詞が分からなくても聴いていると、意識と旋律が一つになって大気と溶け合ったようになり、曲が終わると清々しい気持ちになるものなのに。
歌っているのは女性一人だけだ。
これも珍しい。
普通は誰かが歌うか演奏を始めるかすると次々に他の歌い手や演奏が加わっていくものだ。
まぁ、こんな歌を一緒に奏でたいと思う者がいないのは当然かもしれないが。
声に聴き覚えがあるような気がするが、あの少女以外の歌い手は知らないのだから思い過ごしだろう。
あの少女の歌声ではないことは確かだ。
歌い手は当然みな違う声をしているのだが、一人が歌い始めると次々に重唱や斉唱、副旋律のコーラスが加わるので独唱はまずない。
同じ歌でも主旋律を担当するのがいつも同じ歌い手というわけではない上に、何人もいるため、声を個別に聞き分けて覚えるのは知り合いでもない限り不可能なのだ。
基本的に声質や音域が違うだけで、きれいな声で歌が上手いというのは共通しているので、声が特徴的だから覚えてしまうとか、下手すぎて覚えてしまうと言うこともない。
「柊兄、坂本さんから電話」
楸矢が一階の電話口から怒鳴った。
柊矢は机の上の子機を取った。電話は西新宿にあるアパートの管理人からだった。
「楸矢、西新宿のアパートの近くで火事が起きてるらしい。ちょっと行ってくる」
ジャケットを羽織りながら、台所でコーヒーを飲んでいる楸矢にそう言うと、車の鍵を取って家を出た。
「坂本さん」
柊矢が管理人に声をかけると、
「霧生さん、すみません、夜遅く」
初老の管理人が謝った。
「構いませんよ。火が強いですね」
燃えているのは柊矢が所有しているアパートから二軒ほどしか離れていない、一戸建ての家だった。
柊矢が野次馬を掻き分けて火元の家の前に出ると、あの少女が立っていた。炎に照らされながら、呆然と燃えている家を見つめていた。手にエコバッグを持っている。
少女に話しかけようとしたとき、
「誰か中に残ってるか!」
消防士の声に、少女がはっとすると、袋から手を離し、家に向かって駆け出そうとした。
「おい、待て!」
咄嗟に柊矢は少女の腕を掴んだ。
「離して! お祖父ちゃんが中にいるの! お祖父ちゃん!」
少女が燃えている家に向かって手を伸ばしながら叫んだ。
「お祖父ちゃん! お祖父ちゃん!」
引き留めている柊矢の腕の中で、少女がもがきながら必死で祖父を呼んでいた。
炎は風にあおられ、ものすごい勢いで燃え上がっている。
消防士も手の施しようがないようだった。
そのとき、楽器の前奏が聴こえてきた。それに合わせて歌が始まった。次々にコーラスと演奏が加わっていく。
今までの歌声がかき消され、優しい旋律と共に強い風がやんだ。
一陣の冷たい風が吹き抜けかと思うと雨が降り出した。
雨は瞬く間に土砂降りになり、燃えさかっている炎を鎮めた。
野次馬が散っていく。
突然の大雨と、消防士達の消火活動のお陰で周囲の家が延焼することもなく火事は収まった。
しかし、少女の家は完全に燃え尽きていた。黒焦げの瓦礫がわずかに残っているだけだった。
「お祖父ちゃん……」
腕の中で少女が震えていた。
消防士達は炎が収まった瓦礫の中に入っていくと、しばらくして黒い遺体収容袋を担架に乗せて出てきた。
「お祖父ちゃん!」
少女が悲鳴を上げた。
「おい、大丈夫か……」
柊矢が声をかけるのと、少女が気を失うのは同時だった。
「おい!」
柊矢は慌てて少女を抱き留めた。
周囲を見回すと、わずかに残っていた野次馬達が覗き込んでいた。
「誰か、この子のこと知ってますか?」
「ここのうちの子だけど……」
近所の人らしい、中年の女性が焼け落ちた家に視線を向けて答えた。
「家族は?」
「お祖父さんだけよ」
それは多分、今運び出された人だろう。
そのとき、人混みを掻き分けて警官がやってきた。
警官は周囲の人達に話を聞くと、柊矢の元へやってきた。
気を失っている少女を見ると、警官は救急車を呼んだ。
すぐにやってきた救急車に、担架に乗せられた少女が運び込まれる。
一緒に乗ろうとする人がいないのを見て取った柊矢は咄嗟に、
「一緒に行きます」
と言っていた。
「坂本さん、すみません、車をお願いします」
柊矢は坂本に車の鍵を渡すと救急車に同乗した。
少女はすぐに意識を取り戻した。
病院で雨に濡れた服を乾かしてもらう間、患者用のガウンを着ていたのだが、その状態で少女は二人組の警官に事情聴取を受けた。
薄いガウン一枚で男性警官と話をするのは気になるらしく、右手で首元辺りを盛んにいじっていた。
その事情聴取で少女が、霞乃小夜、新宿御苑の近くにある高校の一年生と分かった。
「君はどうして家にいなかったのかね」
「祖父に頼まれてお酒を買いに……」
小夜は涙を堪えるように瞬きをしながら答えた。
いつもの酒屋に行くと臨時休業だった。
仕方なく少し離れたコンビニに行くと、身分証の提示を求められた。
祖父に頼まれて買いに来たと言っても、未成年には売れないと言われ、押し問答をした末、結局買えなかった。
他のコンビニや酒屋も回ってみたが、どこも同じだった。
家からかなり離れたところまで行ったが、どの店も売ってくれなかった。
諦めて家に帰ると火事になっていた。
もし、行きつけの酒屋が休みでなければ小夜も火事に巻き込まれていただろう。
「焼け跡から見つかった遺体が君のお祖父さんなのか確認してもらえるかい?」
警官の言葉に小夜は青くなった。
「DNA鑑定じゃダメなんですか?」
柊矢が警官に訊ねた。
「DNAが付着してそうなものが残ってるかどうか……。お孫さんでは親子鑑定も……」
「遺体の状態は?」
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