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第十一章
第十一章 第二話
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「強くなってるでしょ」
花月が言った。
「え?」
「前に襲ってきた時は勝てなかった相手を倒せたんだから腕が上がってるって事よ」
「あ……」
そうだ……。
以前は二人掛かりでなんとかやられずに済んだと言うだけの強敵だ。
それを倒すことが出来た。
自分では分からなかっただけで強くなっているのだ。
「前にも言ったけど村瀬さんとの試合が五分五分なのは村瀬さんも腕を上げてるってだけよ」
そうか……。
今度は素直に納得出来る気がした。
信之介が文丸の代わりに座っている時間はごく僅かだし、かといって屋敷からは出られない。
吉野と知り合う前は算術の話が出来る相手もいなかったのだから暇な時は剣術の稽古くらいしかすることがなかっただろうから当然腕は上がるだろう。
「ていうか、あんた、俺が悩んでるのに気付いてたんだな」
「私だって同じ事で悩んだんだから当然でしょ」
「えっ!? 花月も!?」
花月にも守りたい相手がいたのか……?
確か想いを寄せていた相手は剣の腕が立つと言っていたはずだから守りたいと考えていたとは思わなかった。
いや、死んじまったから守れるだけの力が欲しかったとか……?
「当たり前じゃない。いくら手加減されてるって言ったって痣が出来るほど打たれるのってすごく痛いんだからね」
「…………」
そうだった……。
剣術の稽古だけは花月にも容赦ねぇんだった……。
「打たれないようにするには強くなるしかないんだからどうすれば早く腕が上がるか考えるわよ」
そりゃそうだ……。
光夜とは理由が大分違う気がするのだが、早く強くなりたいと思ったという点は同じなのだろう。
なんだかすごく気が抜けたんだが……。
悩むなというのは深く考えるなという意味なのだろうか?
光夜が首を傾げていると、
「けど、この色の小袖着てきて良かったわね」
花月が自分の身体を見下ろしながら言った。
「え?」
「返り血がべったり付いてるのよ。まだ明るいのに返り血で染まった小袖なんか着てたら人目を引くでしょ」
そう言われて花月を見ると確かに小袖の色がさっきより黒に近くなっている気がする。
濃紺なのと日暮れ時だから目立たないだけないのだ。
「着替えたいし、早く帰りましょ」
そう言って花月は足を早めた。
翌日、西野家に行くと信之介が何やら考え込んでいる様子だった。
稽古が終わって文丸が部屋に戻ってしまうと、
「どうしたんだよ」
光夜は信之介に訊ねてみた。
「実は……」
篠野からこのまま西野家の家臣にならないかと持ち掛けられたというのだ。
ここ数日、文丸と一緒に学問をしている信之介を見ていた吉野と稽古を付けていた夷隅が篠野に推挙してくれたらしい。
文丸と信之介は今は瓜二つでも数年後には面変わりして見分けが付かないほどではなくなるかもしれないし、そうなれば影武者は務まらなくなるかもしれないが、文丸と同じくらい学問が出来、その上で剣術の腕も悪くないと夷隅が言ってくれた。
このまま夷隅に稽古を付けてもらっていれば良い相談役兼護衛役になれそうだということらしい。
「婿養子じゃなくて御役目に就けるって事か?」
「そうなる」
「ならなんで迷ってんだ?」
微禄でも武家の屋敷は広い。
武家が住むのは主から与えられた拝領屋敷で、屋敷の広さは石高などによって違うのだが禄高が少なくてもそれなりの広さがあった。
桜井家もそれほど石高が高いわけではないが、それでも屋敷の敷地内に稽古場を建てられるくらいである。
江戸の人口の半分は武家だ。
逆に言えば半分(の中の大半)は町人である。
にも関わらず、町人は狭い場所にひしめき合って住んでいる。
これは武家屋敷の敷地が江戸の町の多くを占めていたのが一因である。
屋敷が広いのは普段連れて歩かなければならない家来の数が決まっていて、その家来達を敷地内に住まわせる必要があったからだ。
陪臣の場合、雇い主である大名や旗本の屋敷内にある長屋に住む。
家臣が必須の大名や大身の旗本はともかく、桜井家のように中間一人とか、使用人のいない御家人などは敷地は広いが使用人用の部屋は必要が無い。
そのため直参の武士は家族が少々多くても家が狭くて困るという事はまずない代わりに同居の家族は一家の主が養わなければならなかった。
信之介の家のように微禄の御家人ともなると俸禄は少ないし、主人が出世して加増されるか役料でも付かない限り収入は増えない。
御役目に就けば普通は屋敷も拝領するから家から出ていく。
つまり同居しているのは仕事のない無収入の者と言うことである。
しかも俸禄はほぼは変わらないのに物価は年々上昇しているから武家はどんどん生活が苦しくなっているのだ。
だから小禄の武家はどこも内職をしているのだ。
信之介の親が商家からの婿養子の話に乗り気なのも、養子先の家からの援助を期待しているからと言うだけではなく、〝厄介〟を一人減らしたいというのもあったのだろう。
部屋住みは負担でしかない。
特に禄高の少ない御家人にとっては。
だから〝厄介〟だの〝冷や飯食い〟などと呼ばれているのだ。
援助は無くてもいいから、せめて御役目に就いて家から出ていって欲しいと言うのが本音だろう。
「西野家に出仕するとなると陪臣という事になる故……」
「お前、直参か陪臣かなんて事にこだわってんのか? 部屋住みや牢人よりずっとマシだろ」
「そうなのだが……」
信之介は、ちらっと花月に視線を向けた。
ああ、なるほど……。
弦之丞は家格を気にしたりはしないだろう。
問題は家格ではない。
直参なら御家御取り潰しにならない限り御役目がなくなったとしても家と俸禄は(かなり減ることになるにしても)残るが、陪臣は自分が取り潰されるようなことをしていなくても、主家が取り潰されたら俸禄も屋敷も失って路頭に迷う。
あまりにも沢山の大名家を取り潰したために牢人が増えて江戸の治安が悪化したので最近はよほどのことがない限り取り潰しは減ったが御公儀が取り潰さなくても跡取りがいなくて御家断絶と言うこともある。
断絶して家がなくなる事がないように末期養子も許されるようになったのだがそれでも断絶してしまうことがある。
末期養子というのは跡継ぎのいない者が亡くなる直前に急いで養子を迎えて跡継ぎの届出を出すことである。
花月が言った。
「え?」
「前に襲ってきた時は勝てなかった相手を倒せたんだから腕が上がってるって事よ」
「あ……」
そうだ……。
以前は二人掛かりでなんとかやられずに済んだと言うだけの強敵だ。
それを倒すことが出来た。
自分では分からなかっただけで強くなっているのだ。
「前にも言ったけど村瀬さんとの試合が五分五分なのは村瀬さんも腕を上げてるってだけよ」
そうか……。
今度は素直に納得出来る気がした。
信之介が文丸の代わりに座っている時間はごく僅かだし、かといって屋敷からは出られない。
吉野と知り合う前は算術の話が出来る相手もいなかったのだから暇な時は剣術の稽古くらいしかすることがなかっただろうから当然腕は上がるだろう。
「ていうか、あんた、俺が悩んでるのに気付いてたんだな」
「私だって同じ事で悩んだんだから当然でしょ」
「えっ!? 花月も!?」
花月にも守りたい相手がいたのか……?
確か想いを寄せていた相手は剣の腕が立つと言っていたはずだから守りたいと考えていたとは思わなかった。
いや、死んじまったから守れるだけの力が欲しかったとか……?
「当たり前じゃない。いくら手加減されてるって言ったって痣が出来るほど打たれるのってすごく痛いんだからね」
「…………」
そうだった……。
剣術の稽古だけは花月にも容赦ねぇんだった……。
「打たれないようにするには強くなるしかないんだからどうすれば早く腕が上がるか考えるわよ」
そりゃそうだ……。
光夜とは理由が大分違う気がするのだが、早く強くなりたいと思ったという点は同じなのだろう。
なんだかすごく気が抜けたんだが……。
悩むなというのは深く考えるなという意味なのだろうか?
光夜が首を傾げていると、
「けど、この色の小袖着てきて良かったわね」
花月が自分の身体を見下ろしながら言った。
「え?」
「返り血がべったり付いてるのよ。まだ明るいのに返り血で染まった小袖なんか着てたら人目を引くでしょ」
そう言われて花月を見ると確かに小袖の色がさっきより黒に近くなっている気がする。
濃紺なのと日暮れ時だから目立たないだけないのだ。
「着替えたいし、早く帰りましょ」
そう言って花月は足を早めた。
翌日、西野家に行くと信之介が何やら考え込んでいる様子だった。
稽古が終わって文丸が部屋に戻ってしまうと、
「どうしたんだよ」
光夜は信之介に訊ねてみた。
「実は……」
篠野からこのまま西野家の家臣にならないかと持ち掛けられたというのだ。
ここ数日、文丸と一緒に学問をしている信之介を見ていた吉野と稽古を付けていた夷隅が篠野に推挙してくれたらしい。
文丸と信之介は今は瓜二つでも数年後には面変わりして見分けが付かないほどではなくなるかもしれないし、そうなれば影武者は務まらなくなるかもしれないが、文丸と同じくらい学問が出来、その上で剣術の腕も悪くないと夷隅が言ってくれた。
このまま夷隅に稽古を付けてもらっていれば良い相談役兼護衛役になれそうだということらしい。
「婿養子じゃなくて御役目に就けるって事か?」
「そうなる」
「ならなんで迷ってんだ?」
微禄でも武家の屋敷は広い。
武家が住むのは主から与えられた拝領屋敷で、屋敷の広さは石高などによって違うのだが禄高が少なくてもそれなりの広さがあった。
桜井家もそれほど石高が高いわけではないが、それでも屋敷の敷地内に稽古場を建てられるくらいである。
江戸の人口の半分は武家だ。
逆に言えば半分(の中の大半)は町人である。
にも関わらず、町人は狭い場所にひしめき合って住んでいる。
これは武家屋敷の敷地が江戸の町の多くを占めていたのが一因である。
屋敷が広いのは普段連れて歩かなければならない家来の数が決まっていて、その家来達を敷地内に住まわせる必要があったからだ。
陪臣の場合、雇い主である大名や旗本の屋敷内にある長屋に住む。
家臣が必須の大名や大身の旗本はともかく、桜井家のように中間一人とか、使用人のいない御家人などは敷地は広いが使用人用の部屋は必要が無い。
そのため直参の武士は家族が少々多くても家が狭くて困るという事はまずない代わりに同居の家族は一家の主が養わなければならなかった。
信之介の家のように微禄の御家人ともなると俸禄は少ないし、主人が出世して加増されるか役料でも付かない限り収入は増えない。
御役目に就けば普通は屋敷も拝領するから家から出ていく。
つまり同居しているのは仕事のない無収入の者と言うことである。
しかも俸禄はほぼは変わらないのに物価は年々上昇しているから武家はどんどん生活が苦しくなっているのだ。
だから小禄の武家はどこも内職をしているのだ。
信之介の親が商家からの婿養子の話に乗り気なのも、養子先の家からの援助を期待しているからと言うだけではなく、〝厄介〟を一人減らしたいというのもあったのだろう。
部屋住みは負担でしかない。
特に禄高の少ない御家人にとっては。
だから〝厄介〟だの〝冷や飯食い〟などと呼ばれているのだ。
援助は無くてもいいから、せめて御役目に就いて家から出ていって欲しいと言うのが本音だろう。
「西野家に出仕するとなると陪臣という事になる故……」
「お前、直参か陪臣かなんて事にこだわってんのか? 部屋住みや牢人よりずっとマシだろ」
「そうなのだが……」
信之介は、ちらっと花月に視線を向けた。
ああ、なるほど……。
弦之丞は家格を気にしたりはしないだろう。
問題は家格ではない。
直参なら御家御取り潰しにならない限り御役目がなくなったとしても家と俸禄は(かなり減ることになるにしても)残るが、陪臣は自分が取り潰されるようなことをしていなくても、主家が取り潰されたら俸禄も屋敷も失って路頭に迷う。
あまりにも沢山の大名家を取り潰したために牢人が増えて江戸の治安が悪化したので最近はよほどのことがない限り取り潰しは減ったが御公儀が取り潰さなくても跡取りがいなくて御家断絶と言うこともある。
断絶して家がなくなる事がないように末期養子も許されるようになったのだがそれでも断絶してしまうことがある。
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