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第七章
第七章 第二話
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「足、見せて」
光夜が裾を持ち上げると脛が腫れ上がっていた。
「今のは悪手だったわね。真剣だったら足が無くなってたわよ」
花月がそう言いながら慣れた手付きで腫れているところに塗り薬を塗って布を巻いた。
「次、肩」
「え?」
「肩に布を巻くのは自分じゃ難しいでしょ」
そう言われて初めて脛は花月にやってもらうまでもなく自分で出来たのだと気付いた。
光夜が片肌を脱ぐと花月が肩の手当を始める。
この家に来るまで、こんな風に手当てをしてもらった事は無かった。
「はい、お終い」
光夜が道着を整えている間に箱を戻しにいった花月が戻ってきた。
「立てる?」
花月が手を差し出した。
そういや、こうやって手を貸してくれたのも花月が初めてだったな……。
立ち上がる時に握った花月の手は温かった。
翌朝、花月と光夜が西野家に赴くと、屋敷内の様子がいつもと違った。
一部の家来が殺気立っているようだったが文丸は特に変わった様子はない。
花月と光夜は何も言わずに文丸と稽古をした後、信之介と共に夷隅の元に向かった。
「あの……」
文丸の部屋から十分に離れたところで信之介が声を掛けてきた。
花月と光夜が視線を交わす。
「なんかあったのか?」
「やはり気付いておられたか」
信之介はそう言って昨日、二人が帰った後のことを話し始めた。
と言っても大して長くはなくて普段文丸の近くに控えている家臣の一人が食中りで亡くなったという事だった。
「なんだよ、食い物に中っただけかよ」
「御毒見の人でしょ」
「毒見くらい居るって分かってるだろうに毒入れるなんてバカか」
「拙者も知らなかったのですが、内密の毒見役だったのです。なので表向き、その者は若様のお食事は口にしていないことになっています」
一部の者がいつも以上に警戒していたのは文丸の側にいた者が急死したからだったのだ。
毒のことを知っているにしろ知らないにしろ、死んだこと自体は耳に入るはずだし、昨日まで元気だった者が突然亡くなったと聞けば不審に思うのは当然である。
ましてや今は家中が二つに分かれて対立している時なのだ。
皆、疑心暗鬼になっているのだろう。
「けど、そうなると……」
毒見役が買収されていたか、毒見の後に毒を入れられたことになる。
毒見の後なら文丸にかなり近いところにいる者だ。
「若様はご存じありませんので口外無用に願います」
「側に控えてた家来が突然いなくなったことは若様にどう説明したんだ?」
「西野様から国元に書状を届ける役を仰せつかったと。しばらくしてから届けたあと病に倒れたという知らせが来ることになっています」
信之介の言葉に花月が考え込んだ。
「奥も油断ならないとなると私が奥女中として……」
「ダメです!」
信之介が物凄い形相で叫んだ。
花月と光夜が呆気に取られて信之介を見た。
「大名家に行儀見習いの為に奥女中として仕えるのは旗本の娘でも無くはないだろ」
旗本の娘の行儀見習いなら大奥に行くのではないかとも思うが、縁のある大名家ならおかしくはないだろう。
「奥は妻子が住むところです!」
「だから私が……」
「あっ!」
信之介の言わんとしてることに気付いた光夜が花月の言葉を遮るように声を上げた。
信之介は花月に文丸のお手が着くことを心配しているのだ。
文丸の好みは知らないが、花月は男の姿でも美人なのだ。
女の格好をしたら相当な美女だろう。
好みでなくてもつい魔が差すと言うことは十分有り得る。
「花月、ここは信之介を信じてやろうぜ!」
「そうです! 拙者が十分気を付けます故!」
「毒のこと知らねぇ花月がいても役に立たねぇよ!」
光夜と信之介が畳み掛けると、花月は二人の勢いに気圧された表情で思い付きを取り下げた。
夜、光夜が学問を教わる時間になり花月は自室に引き上げていった。
居間には光夜と弦之丞、宗祐だけが残った。
「光夜、西野家からの帰りに襲ってきた者は撒菱を投げてきたと言ったな」
弦之丞が訊ねてきた。
「はい」
光夜はもう一度あの時の事を話した。
「やはり伊賀者か」
話を聞き終えた弦之丞が呟く。
「問題はどちらに付いたかですな」
宗祐が言った。
「どちらって、俺達を襲ってきたなら若様の敵では……」
「あっさり引いたのであろう。ならば試したのかもしれぬ」
「試した?」
「警告されて大人しく引き下がったり力の差を見せ付けられて屋敷に行くのを止めるならそこまでと言う事」
「その後、何か不審な事は」
宗祐の問いに光夜は、昨日秘密の毒見が死んだらしいと話した。
「確か、屋敷内で襲撃された時、茶を出されたと言ったな」
「はい」
「手は付けてたか?」
「いえ、まだ……」
「では狙いは若様のお命ではなく、毒入りの茶菓子を食べるのを防ごうとしたのかもしれぬな」
「なら味方という事ですか?」
「それはなんとも言えぬ」
「仮に今は味方だったとしても、今後裏切らぬとも限らぬからな」
「十分気を付けるように」
「はい」
弦之丞と宗祐の言葉に光夜は再度気を引き締めた。
朝日が差す中を花月と光夜は西野家に向かって歩いていた。
「元服?」
光夜が聞き返した。
「うん、そろそろ領地からササゲ豆が届く頃だから丁度いいんじゃないかって、お父様が。元服するなら仕度が要るし」
江戸の武家は赤飯を炊く時、小豆ではなくササゲ豆を使う。
小豆は長時間煮ると皮が破れやすく、それが切腹に通じると言われて忌避されている。
「仕度って月代剃るだけだろ」
大名や大身の武家なら派手なお披露目をするのかもしれないが、居候の内弟子に大袈裟な祝宴はしないだろう。
「諱はあるの? 育ての親から聞いてる?」
諱とは本名のことである。
弦之丞なら紘空、宗祐なら紘陽が諱だが、諱を呼んではいけないとされていた為、官位・官職がある武士は官職名で、それが無い者は通称とか呼び名と言われる名前を使っていた。
弦之丞、宗祐というのも呼び名、通称である。
元服までは幼名、元服してからは諱と通称を使うようになる。
号を名乗った場合は号で呼ばれた。
例えば柳生宗矩の父、宗厳は(柳生)石舟斎と呼ばれているがこの『石舟斎』は号である。
諱を呼んでいいのは親や主など目上の者だけだが、親や主でも大抵は通称で呼ぶ。
通称を使うのは呪詛するのには本名を知る必要があったので知られないようにするためでもあったからだ。
光夜が裾を持ち上げると脛が腫れ上がっていた。
「今のは悪手だったわね。真剣だったら足が無くなってたわよ」
花月がそう言いながら慣れた手付きで腫れているところに塗り薬を塗って布を巻いた。
「次、肩」
「え?」
「肩に布を巻くのは自分じゃ難しいでしょ」
そう言われて初めて脛は花月にやってもらうまでもなく自分で出来たのだと気付いた。
光夜が片肌を脱ぐと花月が肩の手当を始める。
この家に来るまで、こんな風に手当てをしてもらった事は無かった。
「はい、お終い」
光夜が道着を整えている間に箱を戻しにいった花月が戻ってきた。
「立てる?」
花月が手を差し出した。
そういや、こうやって手を貸してくれたのも花月が初めてだったな……。
立ち上がる時に握った花月の手は温かった。
翌朝、花月と光夜が西野家に赴くと、屋敷内の様子がいつもと違った。
一部の家来が殺気立っているようだったが文丸は特に変わった様子はない。
花月と光夜は何も言わずに文丸と稽古をした後、信之介と共に夷隅の元に向かった。
「あの……」
文丸の部屋から十分に離れたところで信之介が声を掛けてきた。
花月と光夜が視線を交わす。
「なんかあったのか?」
「やはり気付いておられたか」
信之介はそう言って昨日、二人が帰った後のことを話し始めた。
と言っても大して長くはなくて普段文丸の近くに控えている家臣の一人が食中りで亡くなったという事だった。
「なんだよ、食い物に中っただけかよ」
「御毒見の人でしょ」
「毒見くらい居るって分かってるだろうに毒入れるなんてバカか」
「拙者も知らなかったのですが、内密の毒見役だったのです。なので表向き、その者は若様のお食事は口にしていないことになっています」
一部の者がいつも以上に警戒していたのは文丸の側にいた者が急死したからだったのだ。
毒のことを知っているにしろ知らないにしろ、死んだこと自体は耳に入るはずだし、昨日まで元気だった者が突然亡くなったと聞けば不審に思うのは当然である。
ましてや今は家中が二つに分かれて対立している時なのだ。
皆、疑心暗鬼になっているのだろう。
「けど、そうなると……」
毒見役が買収されていたか、毒見の後に毒を入れられたことになる。
毒見の後なら文丸にかなり近いところにいる者だ。
「若様はご存じありませんので口外無用に願います」
「側に控えてた家来が突然いなくなったことは若様にどう説明したんだ?」
「西野様から国元に書状を届ける役を仰せつかったと。しばらくしてから届けたあと病に倒れたという知らせが来ることになっています」
信之介の言葉に花月が考え込んだ。
「奥も油断ならないとなると私が奥女中として……」
「ダメです!」
信之介が物凄い形相で叫んだ。
花月と光夜が呆気に取られて信之介を見た。
「大名家に行儀見習いの為に奥女中として仕えるのは旗本の娘でも無くはないだろ」
旗本の娘の行儀見習いなら大奥に行くのではないかとも思うが、縁のある大名家ならおかしくはないだろう。
「奥は妻子が住むところです!」
「だから私が……」
「あっ!」
信之介の言わんとしてることに気付いた光夜が花月の言葉を遮るように声を上げた。
信之介は花月に文丸のお手が着くことを心配しているのだ。
文丸の好みは知らないが、花月は男の姿でも美人なのだ。
女の格好をしたら相当な美女だろう。
好みでなくてもつい魔が差すと言うことは十分有り得る。
「花月、ここは信之介を信じてやろうぜ!」
「そうです! 拙者が十分気を付けます故!」
「毒のこと知らねぇ花月がいても役に立たねぇよ!」
光夜と信之介が畳み掛けると、花月は二人の勢いに気圧された表情で思い付きを取り下げた。
夜、光夜が学問を教わる時間になり花月は自室に引き上げていった。
居間には光夜と弦之丞、宗祐だけが残った。
「光夜、西野家からの帰りに襲ってきた者は撒菱を投げてきたと言ったな」
弦之丞が訊ねてきた。
「はい」
光夜はもう一度あの時の事を話した。
「やはり伊賀者か」
話を聞き終えた弦之丞が呟く。
「問題はどちらに付いたかですな」
宗祐が言った。
「どちらって、俺達を襲ってきたなら若様の敵では……」
「あっさり引いたのであろう。ならば試したのかもしれぬ」
「試した?」
「警告されて大人しく引き下がったり力の差を見せ付けられて屋敷に行くのを止めるならそこまでと言う事」
「その後、何か不審な事は」
宗祐の問いに光夜は、昨日秘密の毒見が死んだらしいと話した。
「確か、屋敷内で襲撃された時、茶を出されたと言ったな」
「はい」
「手は付けてたか?」
「いえ、まだ……」
「では狙いは若様のお命ではなく、毒入りの茶菓子を食べるのを防ごうとしたのかもしれぬな」
「なら味方という事ですか?」
「それはなんとも言えぬ」
「仮に今は味方だったとしても、今後裏切らぬとも限らぬからな」
「十分気を付けるように」
「はい」
弦之丞と宗祐の言葉に光夜は再度気を引き締めた。
朝日が差す中を花月と光夜は西野家に向かって歩いていた。
「元服?」
光夜が聞き返した。
「うん、そろそろ領地からササゲ豆が届く頃だから丁度いいんじゃないかって、お父様が。元服するなら仕度が要るし」
江戸の武家は赤飯を炊く時、小豆ではなくササゲ豆を使う。
小豆は長時間煮ると皮が破れやすく、それが切腹に通じると言われて忌避されている。
「仕度って月代剃るだけだろ」
大名や大身の武家なら派手なお披露目をするのかもしれないが、居候の内弟子に大袈裟な祝宴はしないだろう。
「諱はあるの? 育ての親から聞いてる?」
諱とは本名のことである。
弦之丞なら紘空、宗祐なら紘陽が諱だが、諱を呼んではいけないとされていた為、官位・官職がある武士は官職名で、それが無い者は通称とか呼び名と言われる名前を使っていた。
弦之丞、宗祐というのも呼び名、通称である。
元服までは幼名、元服してからは諱と通称を使うようになる。
号を名乗った場合は号で呼ばれた。
例えば柳生宗矩の父、宗厳は(柳生)石舟斎と呼ばれているがこの『石舟斎』は号である。
諱を呼んでいいのは親や主など目上の者だけだが、親や主でも大抵は通称で呼ぶ。
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