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第六章
第二話
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「父上、昼間、弟子の一人が本所に強盗が出たと話しておりましたが」
翌日、朝の稽古が終わると花月が弦之丞に報告した。
「お祖母様が無事か使いを出されては……」
「心配はいらぬ」
「素手で熊を倒した人だからな」
…………!
光夜は弦之丞と宗祐の言葉に絶句した。
あの祖母さん、熊を倒したことがあるのか……。
流石師匠の母親なだけはある。
母親がそんだけ強かったのなら師匠の父親は化け物並みだったのではないだろうか。
両親が化け物だったから師匠はこんなに強いのか?
この一家、人間じゃないんじゃ……。
光夜が驚きも覚めやらぬまま母屋に向かっていると、
「光夜、江戸に熊はいないから」
花月が振り返って言った。
「え?」
「お祖母様は江戸から出たことがないの。江戸に熊はいないから」
「……え?」
「稽古場以外でのお父様とお兄様の話は信じちゃ駄目。あの手の話はいつもなんだからね」
ええ……!?
光夜は別の意味で目を見張った。
「もしかして……花月も騙された事があるのか?」
「何度もあるわよ」
花月が腹立たしげに言った。
「小さい頃、お父様やお兄様が深川にろくろっ首が出たとか目黒にのっぺらぼうが出たとかっていう度に江戸中走り回ってたんだから」
「…………」
なんだそれは……。
可愛いじゃねぇか……。
幼い花月が与太話を間に受けて江戸中駆けずり回っている姿を見たら弦之丞や宗祐が揶揄いたくなるのも無理はない。
しかも二人共、真面目な顔で言うのだ。
知らなければ誰でも本気にするだろう。
あの二人にそんな側面があったとは……。
そういえば初めて会った時も「お前の男か」なんて言ってたな……。
けど……「何度も」って花月は気付くまでに何回騙されたんだ?
光夜は頭を振りながら自室へ向かった。
翌朝、花月と光夜は西野家の中屋敷へ遣ってきた。
篠野に案内され、長い廊下を通って奥の部屋に通された。
「桜井殿が女性であることは若様にはお伝えしておらぬ故、ご承知おかれたい」
「はい」
「若様がおいでです。くれぐれも粗相のないように」
花月と光夜はその場に平伏した。
すぐに衣擦れの音がして文丸が入ってきたのが分かった。
「顔を上げよ」
その言葉に僅かに顔を上げた花月と光夜は目を見張った。
信之介が二人並んで座っていた。
着ている物まで同じだった。
光夜が訊ねるように花月を横目で見た。
花月の視線が僅かに右に動いた。
その時、
「その方らが桜井花月と菊市光夜か」
左側にいた方が声を掛けてきた。
花月の視線の通り右側が信之介だった。
即座にどちらか当てた花月をすごいとは思ったが、同時に信之介がすぐに分かったということが不愉快でもあった。
「はっ」
篠野が返事をした。
「信之介の言った通りじゃな。二人して目を丸くしている様は見物であったぞ」
花月は黙って頭を下げた。
「明日より、よろしく頼む」
文丸が鷹揚に言った。
西野家の中屋敷を出ると、
「なんだよ、今日からじゃねぇのかよ」
光夜が不満をそのまま言葉にした。
「色々仕来りがあるのよ」
「面倒臭ぇな」
「こういうのにも慣れなさい」
「なんで花月は信之介が分かったんだよ」
「手に剣胝があったでしょ。若様の方にはなかった」
なるほど。
確かに信之介の手には素振りで出来た剣胝がある。
あの一瞬でそこまで見たのか……。
「じゃあ、もし信之介に剣胝がなかったら?」
「後は体付きとか。村瀬さんは剣術の稽古をしているから腰も据わってるし」
花月は周囲をかなりよく観察しているようだ。
稽古の後、花月と光夜は弦之丞に西野家の中屋敷に行ってきた事を報告した。
「そうか」
弦之丞が頷いた。
退席の合図だ。
だが、花月はそのまま座っている。
花月が座っているのに光夜が立つわけにはいかない。
光夜も大人しく座っていた。
やがて花月が、
「あの、父上も兄上も元気がないようですが、縁談が上手くいかなかったのですか?」
と訊ねたのを聞いて驚いた。
弦之丞も宗祐もいつも通りだと思っていた。
「断り辛い縁談が来ているのだそうだ。普段から世話になっている方で、その上御役目にも就いているのだとか」
「ですが、うちの方が先では……」
「口約束はしていたが、仲人を立てて正式に申し込んだのはこちらの方が後だし、何より親としては御役目に就いている相手を選びたいだろう」
「そうですか」
花月は明らかに気落ちした様子で部屋を辞した。
「そういう事だったんだ」
台所で夕餉を食べているとき花月が呟いた。
「え?」
光夜が箸を止める。
「許婚にあの方を選ばなかった理由」
許婚も従兄も親は御役目に就いていて跡継ぎではあった。
だが御役目にも色々あって中には違う御役目に就くことも出来ず出世しても与力止まりという役職もある。
与力というのは下っ端より一つ上、つまり一番下ではないと言うだけで木っ端役人なのは同じである。
当然俸禄も少ないし出世しなければ加増もない。
いつまで経っても貧しい生活から抜け出せないのだ。
許婚の父は御役目自体はそれほどではなくても異動の機会がある御役目だった。
許婚が上手くやれば大身の旗本になる機会に恵まれる可能性があったのだ。
一方、従兄の父は与力より上には上がれない御役目だった。
花月が稽古場を継ぐならともかく、嫁いでいくなら与力止まりの相手より出世出来るかもしれない御役目に就いている方が望ましいと弦之丞は考えたのだろう。
大身の旗本になれば裕福とまではいかなくても金の心配をしなくても済むのだ。
落ち込んでいる様子の花月に声を掛けるべきか迷ったが、気の利いた言葉は何も思い浮かばなかったので黙っていた。
けど……。
光夜の動きが読みやすいと言っていた理由が分かった。
花月は常に周囲をよく観察している。
これだけ辺りを注意深く見ているなら光夜の動きなど手に取るように分かるだろう。
翌日、朝の稽古が終わると花月が弦之丞に報告した。
「お祖母様が無事か使いを出されては……」
「心配はいらぬ」
「素手で熊を倒した人だからな」
…………!
光夜は弦之丞と宗祐の言葉に絶句した。
あの祖母さん、熊を倒したことがあるのか……。
流石師匠の母親なだけはある。
母親がそんだけ強かったのなら師匠の父親は化け物並みだったのではないだろうか。
両親が化け物だったから師匠はこんなに強いのか?
この一家、人間じゃないんじゃ……。
光夜が驚きも覚めやらぬまま母屋に向かっていると、
「光夜、江戸に熊はいないから」
花月が振り返って言った。
「え?」
「お祖母様は江戸から出たことがないの。江戸に熊はいないから」
「……え?」
「稽古場以外でのお父様とお兄様の話は信じちゃ駄目。あの手の話はいつもなんだからね」
ええ……!?
光夜は別の意味で目を見張った。
「もしかして……花月も騙された事があるのか?」
「何度もあるわよ」
花月が腹立たしげに言った。
「小さい頃、お父様やお兄様が深川にろくろっ首が出たとか目黒にのっぺらぼうが出たとかっていう度に江戸中走り回ってたんだから」
「…………」
なんだそれは……。
可愛いじゃねぇか……。
幼い花月が与太話を間に受けて江戸中駆けずり回っている姿を見たら弦之丞や宗祐が揶揄いたくなるのも無理はない。
しかも二人共、真面目な顔で言うのだ。
知らなければ誰でも本気にするだろう。
あの二人にそんな側面があったとは……。
そういえば初めて会った時も「お前の男か」なんて言ってたな……。
けど……「何度も」って花月は気付くまでに何回騙されたんだ?
光夜は頭を振りながら自室へ向かった。
翌朝、花月と光夜は西野家の中屋敷へ遣ってきた。
篠野に案内され、長い廊下を通って奥の部屋に通された。
「桜井殿が女性であることは若様にはお伝えしておらぬ故、ご承知おかれたい」
「はい」
「若様がおいでです。くれぐれも粗相のないように」
花月と光夜はその場に平伏した。
すぐに衣擦れの音がして文丸が入ってきたのが分かった。
「顔を上げよ」
その言葉に僅かに顔を上げた花月と光夜は目を見張った。
信之介が二人並んで座っていた。
着ている物まで同じだった。
光夜が訊ねるように花月を横目で見た。
花月の視線が僅かに右に動いた。
その時、
「その方らが桜井花月と菊市光夜か」
左側にいた方が声を掛けてきた。
花月の視線の通り右側が信之介だった。
即座にどちらか当てた花月をすごいとは思ったが、同時に信之介がすぐに分かったということが不愉快でもあった。
「はっ」
篠野が返事をした。
「信之介の言った通りじゃな。二人して目を丸くしている様は見物であったぞ」
花月は黙って頭を下げた。
「明日より、よろしく頼む」
文丸が鷹揚に言った。
西野家の中屋敷を出ると、
「なんだよ、今日からじゃねぇのかよ」
光夜が不満をそのまま言葉にした。
「色々仕来りがあるのよ」
「面倒臭ぇな」
「こういうのにも慣れなさい」
「なんで花月は信之介が分かったんだよ」
「手に剣胝があったでしょ。若様の方にはなかった」
なるほど。
確かに信之介の手には素振りで出来た剣胝がある。
あの一瞬でそこまで見たのか……。
「じゃあ、もし信之介に剣胝がなかったら?」
「後は体付きとか。村瀬さんは剣術の稽古をしているから腰も据わってるし」
花月は周囲をかなりよく観察しているようだ。
稽古の後、花月と光夜は弦之丞に西野家の中屋敷に行ってきた事を報告した。
「そうか」
弦之丞が頷いた。
退席の合図だ。
だが、花月はそのまま座っている。
花月が座っているのに光夜が立つわけにはいかない。
光夜も大人しく座っていた。
やがて花月が、
「あの、父上も兄上も元気がないようですが、縁談が上手くいかなかったのですか?」
と訊ねたのを聞いて驚いた。
弦之丞も宗祐もいつも通りだと思っていた。
「断り辛い縁談が来ているのだそうだ。普段から世話になっている方で、その上御役目にも就いているのだとか」
「ですが、うちの方が先では……」
「口約束はしていたが、仲人を立てて正式に申し込んだのはこちらの方が後だし、何より親としては御役目に就いている相手を選びたいだろう」
「そうですか」
花月は明らかに気落ちした様子で部屋を辞した。
「そういう事だったんだ」
台所で夕餉を食べているとき花月が呟いた。
「え?」
光夜が箸を止める。
「許婚にあの方を選ばなかった理由」
許婚も従兄も親は御役目に就いていて跡継ぎではあった。
だが御役目にも色々あって中には違う御役目に就くことも出来ず出世しても与力止まりという役職もある。
与力というのは下っ端より一つ上、つまり一番下ではないと言うだけで木っ端役人なのは同じである。
当然俸禄も少ないし出世しなければ加増もない。
いつまで経っても貧しい生活から抜け出せないのだ。
許婚の父は御役目自体はそれほどではなくても異動の機会がある御役目だった。
許婚が上手くやれば大身の旗本になる機会に恵まれる可能性があったのだ。
一方、従兄の父は与力より上には上がれない御役目だった。
花月が稽古場を継ぐならともかく、嫁いでいくなら与力止まりの相手より出世出来るかもしれない御役目に就いている方が望ましいと弦之丞は考えたのだろう。
大身の旗本になれば裕福とまではいかなくても金の心配をしなくても済むのだ。
落ち込んでいる様子の花月に声を掛けるべきか迷ったが、気の利いた言葉は何も思い浮かばなかったので黙っていた。
けど……。
光夜の動きが読みやすいと言っていた理由が分かった。
花月は常に周囲をよく観察している。
これだけ辺りを注意深く見ているなら光夜の動きなど手に取るように分かるだろう。
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