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第二章
第三話
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桜井一家は払暁に起きて素振りを始めた。
勿論、光夜もだ。
朝餉で一時中断し、終わるとまた素振りに戻った。
そのうちに午前の稽古の時間が近づき、弟子達が遣ってきた。
光夜は他の新入りの弟子達と一緒に稽古場の雑巾がけをしなければならない。
掃除が終わり、弟子達が集まると稽古が始まった。
光夜は浜崎に剣術を教わっていたと言っても稽古場で正式に習ったことは無いので花月に木刀の握り方から指導された。
稽古に熱中しているといつの間にか終わりの時間になっていた。
それを残念に思っている自分に驚く。
光夜は再び他の新米の弟子達と一緒に稽古場の雑巾がけをすると母屋に戻った。
「光夜」
花月に呼ばれて台所へ行くと焼飯の握り飯と漬け物が用意されていた。
「お腹すいたでしょ。これ食べて、午後の稽古に備えなさい」
そう言ってから、光夜が訝しそうな顔をしてるのを見ると、小首を傾げて、
「どうかした?」
と訊ねてきた。
「何が目的だ?」
「どういう事?」
「こんな事したって見返りなんかねぇぞ」
光夜の言葉に花月が微笑った。
こんなに優しい笑顔は生まれて初めて見た。
少なくとも自分に向けられたものは。
光夜は胸が痛くなった。
なんだろう、この気持ちは……。
何故か泣きたくなった。
勿論泣かなかったが。
「家族に見返りなんか求めてないわよ。こういう時はただ『有難う』って言えばいいの」
そう言って、花月は笑いながら人差し指で光夜の額を突いた。
何で……?
俺なんかそこらで拾った野良犬だろ?
死ぬまで戦い続けるしか能のない野良犬にこんなに親切にしてなんになるんだよ。
いくら考えても答えは出なかった。
「……あ、ありがと」
花月の顔がまともに見られなず、光夜は俯いて小声でそう言うと握り飯を手に取った。
旨い。
焼飯を握っただけの飯と漬け物なのに……。
「光夜、それ食べたら居間へ来て」
食べ終えた光夜が言われたとおりに居間に行くと花月が待っていた。
花月の前には畳まれた白に近い若芽色(薄い黄緑色)の小袖が置いてある。
「これね、お兄様が光夜くらいの年の頃に着てた物なの。着てみて。合わなかったら手直しするから」
光夜は花月から小袖を受け取ると袖を通した。
「ぴったりね。じゃあ、今日からこれ着て」
「……あ、ありがと」
「今、羽織と袴も仕立て直してるところだから。もう、二、三日待ってね」
花月が微笑みながら言った。
朝早く起きて素振りをし、朝餉の後また素振りをしてから稽古場で朝の稽古をする。
午後の稽古をした後、夕餉を食べてから夜の稽古をして、勉学をする。
光夜の毎日は規則正しく過ぎていった。
居心地が良すぎていつか出ていく日の事を考えると胸が苦しくなる。
こんな日がずっと続けばいいのにと願うが野良犬にそんな高望みが許されるはずがないとも思う。
悩んでいたら太刀筋の乱れを叱責されたので考えるのを止めた。
花月は相変わらず優しくて弦之丞や宗祐も口や態度には出さなくても光夜を家族として認めてくれているのは分かった。
最初は何か遣らせようとしてるんじゃないかと疑っていた。
だがいつまで経ってもそんな話は出てこない。
もっとも、どんな事であれ遣れと言われればやるつもりだ。
野良犬だって一宿一飯の恩は忘れない。
午前の稽古が終わり、母屋へ引き上げると花月が何やら忙しそうにしている。
「あ、光夜、これからお祖母様の家に行かないといけないの。一緒に来てくれる?」
「いいぜ」
汗臭いと不味いかと思い、部屋に着替えに行って戻ってくると花月が玄関で待っていた。
屋敷を出ると二人は並んで歩き出した。
「どう? 学問の方は順調?」
剣術の稽古は花月も一緒だから聞くまでもないが学問は光夜一人で教わっている。
「まぁまぁかな。最初に師匠に教わった『大学は初学の門也と云う事』とか言うのは未だに意味分かんねぇけど。『大学』にも出てこねぇし」
「ああ、それは『大学』は学問の基本だって意味。剣術に例えるなら素振りね。素振りが出来なきゃ剣術も出来ないけど、素振りだけ出来ても剣術は出来ないように、『大学』が分からないと学問も分かるようにならないけど、『大学』だけ出来ても学問が分かるようになるわけじゃないって意味」
「え、あんたも学問教わったのか!?」
光夜が驚いて振り返ると、
「あはは。まさか。女に学問なんか教えたりしたらお父様はお祖母様に生きたまま顔の皮剥がされちゃうわよ」
花月が笑って手を振った。
「字の読み書き程度ならともかく学問まではね。大学は初学の門也って言うのは西江院様の伝書に出てくる言葉。ホントはこれも私が読むのはマズいからお祖母様には内緒よ」
西江院とは柳生但馬守宗矩の事だそうだ。
今は別の者が但馬守を名乗っているから院号(戒名)で呼んでいるのだ。
「師匠達は知ってるのか?」
「教えて下さったのはお父様とお兄様だから」
師匠達が厳しいのって剣術の稽古に対してだけなんだな……。
特に花月には……。
話してみると確かに花月は学問に関してはほぼ何も知らない。
だが、それは女に教えるのは良くないと弦之丞が考えてるからと言うよりは花月が教えてくれと頼んでないからと言う気がした。
帰り道、
「あ、あそこで冷や水売ってる」
花月が通りの先にいる冷や水売りに目を留めた。
壁際に男が大きな桶を二つ置いて水を売っている。
夏になると冷たい井戸水を桶に入れて売り歩く冷や水売りを町のあちこちで見掛けるようになる。
所詮井戸水だし時間が経つにつれて温くなってしまうからそれほど冷たくはないのだが、代わりに白玉や、この時代では珍しい砂糖などが入っていて甘みが付いていることがあった。
「暑いから飲んでいきましょ」
光夜が返事をする前に花月は冷や水売りに声を掛けると二人分頼んだ。
武士が道端で冷や水など飲んで良いのかと思ったが、
「はい、これ」
花月は気にした様子もなく冷や水の入った器を差し出してきた。
まぁ、花月は〝武士〟じゃないしな……。
光夜は武士と言っても元服前の子供だ。
「あ、ありがと」
水はそれほど冷たくはなかったが甘かった。
道端に立って水を飲み干すと器を冷や水売りに返した。
「じゃ、帰ろっか」
家はすぐそこだ。
勿論、光夜もだ。
朝餉で一時中断し、終わるとまた素振りに戻った。
そのうちに午前の稽古の時間が近づき、弟子達が遣ってきた。
光夜は他の新入りの弟子達と一緒に稽古場の雑巾がけをしなければならない。
掃除が終わり、弟子達が集まると稽古が始まった。
光夜は浜崎に剣術を教わっていたと言っても稽古場で正式に習ったことは無いので花月に木刀の握り方から指導された。
稽古に熱中しているといつの間にか終わりの時間になっていた。
それを残念に思っている自分に驚く。
光夜は再び他の新米の弟子達と一緒に稽古場の雑巾がけをすると母屋に戻った。
「光夜」
花月に呼ばれて台所へ行くと焼飯の握り飯と漬け物が用意されていた。
「お腹すいたでしょ。これ食べて、午後の稽古に備えなさい」
そう言ってから、光夜が訝しそうな顔をしてるのを見ると、小首を傾げて、
「どうかした?」
と訊ねてきた。
「何が目的だ?」
「どういう事?」
「こんな事したって見返りなんかねぇぞ」
光夜の言葉に花月が微笑った。
こんなに優しい笑顔は生まれて初めて見た。
少なくとも自分に向けられたものは。
光夜は胸が痛くなった。
なんだろう、この気持ちは……。
何故か泣きたくなった。
勿論泣かなかったが。
「家族に見返りなんか求めてないわよ。こういう時はただ『有難う』って言えばいいの」
そう言って、花月は笑いながら人差し指で光夜の額を突いた。
何で……?
俺なんかそこらで拾った野良犬だろ?
死ぬまで戦い続けるしか能のない野良犬にこんなに親切にしてなんになるんだよ。
いくら考えても答えは出なかった。
「……あ、ありがと」
花月の顔がまともに見られなず、光夜は俯いて小声でそう言うと握り飯を手に取った。
旨い。
焼飯を握っただけの飯と漬け物なのに……。
「光夜、それ食べたら居間へ来て」
食べ終えた光夜が言われたとおりに居間に行くと花月が待っていた。
花月の前には畳まれた白に近い若芽色(薄い黄緑色)の小袖が置いてある。
「これね、お兄様が光夜くらいの年の頃に着てた物なの。着てみて。合わなかったら手直しするから」
光夜は花月から小袖を受け取ると袖を通した。
「ぴったりね。じゃあ、今日からこれ着て」
「……あ、ありがと」
「今、羽織と袴も仕立て直してるところだから。もう、二、三日待ってね」
花月が微笑みながら言った。
朝早く起きて素振りをし、朝餉の後また素振りをしてから稽古場で朝の稽古をする。
午後の稽古をした後、夕餉を食べてから夜の稽古をして、勉学をする。
光夜の毎日は規則正しく過ぎていった。
居心地が良すぎていつか出ていく日の事を考えると胸が苦しくなる。
こんな日がずっと続けばいいのにと願うが野良犬にそんな高望みが許されるはずがないとも思う。
悩んでいたら太刀筋の乱れを叱責されたので考えるのを止めた。
花月は相変わらず優しくて弦之丞や宗祐も口や態度には出さなくても光夜を家族として認めてくれているのは分かった。
最初は何か遣らせようとしてるんじゃないかと疑っていた。
だがいつまで経ってもそんな話は出てこない。
もっとも、どんな事であれ遣れと言われればやるつもりだ。
野良犬だって一宿一飯の恩は忘れない。
午前の稽古が終わり、母屋へ引き上げると花月が何やら忙しそうにしている。
「あ、光夜、これからお祖母様の家に行かないといけないの。一緒に来てくれる?」
「いいぜ」
汗臭いと不味いかと思い、部屋に着替えに行って戻ってくると花月が玄関で待っていた。
屋敷を出ると二人は並んで歩き出した。
「どう? 学問の方は順調?」
剣術の稽古は花月も一緒だから聞くまでもないが学問は光夜一人で教わっている。
「まぁまぁかな。最初に師匠に教わった『大学は初学の門也と云う事』とか言うのは未だに意味分かんねぇけど。『大学』にも出てこねぇし」
「ああ、それは『大学』は学問の基本だって意味。剣術に例えるなら素振りね。素振りが出来なきゃ剣術も出来ないけど、素振りだけ出来ても剣術は出来ないように、『大学』が分からないと学問も分かるようにならないけど、『大学』だけ出来ても学問が分かるようになるわけじゃないって意味」
「え、あんたも学問教わったのか!?」
光夜が驚いて振り返ると、
「あはは。まさか。女に学問なんか教えたりしたらお父様はお祖母様に生きたまま顔の皮剥がされちゃうわよ」
花月が笑って手を振った。
「字の読み書き程度ならともかく学問まではね。大学は初学の門也って言うのは西江院様の伝書に出てくる言葉。ホントはこれも私が読むのはマズいからお祖母様には内緒よ」
西江院とは柳生但馬守宗矩の事だそうだ。
今は別の者が但馬守を名乗っているから院号(戒名)で呼んでいるのだ。
「師匠達は知ってるのか?」
「教えて下さったのはお父様とお兄様だから」
師匠達が厳しいのって剣術の稽古に対してだけなんだな……。
特に花月には……。
話してみると確かに花月は学問に関してはほぼ何も知らない。
だが、それは女に教えるのは良くないと弦之丞が考えてるからと言うよりは花月が教えてくれと頼んでないからと言う気がした。
帰り道、
「あ、あそこで冷や水売ってる」
花月が通りの先にいる冷や水売りに目を留めた。
壁際に男が大きな桶を二つ置いて水を売っている。
夏になると冷たい井戸水を桶に入れて売り歩く冷や水売りを町のあちこちで見掛けるようになる。
所詮井戸水だし時間が経つにつれて温くなってしまうからそれほど冷たくはないのだが、代わりに白玉や、この時代では珍しい砂糖などが入っていて甘みが付いていることがあった。
「暑いから飲んでいきましょ」
光夜が返事をする前に花月は冷や水売りに声を掛けると二人分頼んだ。
武士が道端で冷や水など飲んで良いのかと思ったが、
「はい、これ」
花月は気にした様子もなく冷や水の入った器を差し出してきた。
まぁ、花月は〝武士〟じゃないしな……。
光夜は武士と言っても元服前の子供だ。
「あ、ありがと」
水はそれほど冷たくはなかったが甘かった。
道端に立って水を飲み干すと器を冷や水売りに返した。
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