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第六章 望
第三話
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長屋に着き、部屋を覗いたがお花はいなかった。
もしかして……。
お唯の両親の部屋に行ってみると、お花やお加代がいた。
お唯の母親は寝込んでいるようだ。
咳が聞こえてくるが、それもかなり弱々しい。
葵の本家の跡取りは風邪で急逝したと言っていた。
本家の跡取りならいい医者に診てもらったはずである。
それでも死んだというのだ。
まして碌に医者にも診せてないお唯の母親はもっと危ないだろう。
お花が夕輝に気付いた。
「あ、夕ちゃん」
「こんにちは。お峰さんに頼まれたもの届けに来たんですけど……」
そう言うと、お花は突っかけを履いて部屋から出てきた。
「ありがとよ」
「お唯ちゃんのお母さん、悪いんですか?」
お花に荷物を渡しながら訊ねた。
「あの様子だと長くないかもねぇ」
お花は溜息をつきながら答えた。
「お唯ちゃんには……」
「お唯ちゃんに言っても無駄だよ。帰ってこられないのに心配させても可哀相だろ」
お唯の母親の具合が悪いのは、お唯がいなくなったせいもある。
あのとき、自分がお唯を助けていたら、お母さんは気落ちして風邪などひかなかったかもしれない。
喧嘩の助っ人でも賭場の用心棒でもなんでもいいから金を稼げば良かったのだ。
それなのにお唯を助けなかった。
もしお唯の母親が長くないのなら、最後に一目会わせてあげたい。
「お唯ちゃんがいるのって何て言うお見世ですか? 俺、お唯ちゃんがお母さんに会いに帰ってこられるように頼んできます!」
「無理だよ」
「頼むだけでも……。お願いします! 教えてください!」
夕輝が頭を下げると、お花は渋々「つる野だよ」と置屋の名前を教えてくれた。
「太一! 吉原に案内してくれ!」
「兄貴……」
「頼む!」
夕輝は太一にも頭を下げた。
太一は言おうとしていた言葉を飲み込んだ。
「分かりやした!」
夕輝と太一は長屋を飛び出した。
浅草の田んぼの中を通る日本堤は、両側に簡単な作りの見世が並んでいて、人通りが多かった。
そこを通り抜け、衣紋坂を下りると右手に高札場、左手に柳の木があった。
そこから両側に茶屋の並ぶ、曲がりくねった五十軒道を抜けて大門を入ると、そこは新吉原だった。
吉原に着くと、
「つる野って見世知りませんか?」
夕輝は通りがかった男に訊ねた。
男が知らないというと別の男に訊いた。
何人かに訊ねてようやく、つる野を見つけた。
「あそこか!」
「兄貴!」
太一が慌てて止めようとするのも聞かずに店に飛び込んだ。
「なんだい、あんた。ここは置屋だよ。遊びたかったら……」
店の中年女性がそう言いながら夕輝をじろじろと見た。
夕輝は構わずに、
「お唯ちゃんいますか!」
と訊ねた。
「なんだって?」
中年女性が訝しげに夕輝を見た。
「お唯ちゃんのお母さんが病気で……、一目お唯ちゃんに会わせてあげたいんです!」
「帰っとくれ」
中年女性はそう言うと、屈強な男衆達に目で合図した。
男衆達が夕輝の腕を掴んだ。
「お願いします! 一目会うだけでいいんです!」
夕輝は引きずられながら必死で叫んだ。
「お願いします!」
夕輝はそのまま吉原の大門の外に追い出された。
「待ってください! 一目でいいんです! お願いします!」
なおも食い下がったが、夕輝は突き飛ばされて道に倒れた。
夕輝をよけて歩いて行く遊客達が哀れむような目や蔑むような目をしていた。
「兄貴、あっしに知り合いがいるんでやす。そいつに頼んでみやすから、一旦帰りやしょう」
「いや、もう一度頼みに……」
「兄貴は顔を覚えられたから行かない方が話がしやすいんでやすよ。ですから、今日は帰りやしょう」
太一が諭すように言った。
夕輝は俯いた。
確かにお唯に対する負い目から熱くなっていたようだ。
ここは頭を冷やした方がいいだろう。
「……分かった」
夕輝は太一の手を借りて立ち上がった。
吉原に背を向けてから、一度振り返ると歩き出した。
「面倒かけて悪いな」
「何言ってんでやすか。助け合おうって言ったのは兄貴じゃねぇでやすか」
「そうだったな」
夕輝は無理して笑顔を見せた。
夕輝は太一の言葉を信じていつも通りに生活することにした。
平助に訊くと、吉原は独自のしきたりがあるらしい。
しかし、夕輝は太一を信じて待つことにした。
夕輝は心配を振り払うように稽古場の稽古に打ち込んだ。
稽古場の拭き掃除を終え、雑巾を片付けていると、祥三郞が近付いてきた。
「夕輝殿。今日は祖母のご機嫌伺いに行かねばならぬ故、峰湯にはよれないのですが……」
「分かった。気にしないでいいよ。長八さんも気にしないと思うから」
「かたじけない」
祥三郞は軽く頭を下げると、稽古場から出て言った。
祥三郞君が来ないんじゃ、早く帰ってもしょうがないな。
夕輝は居残り稽古をすることにした。
一人残って素振りをしていると、師匠が稽古場に入ってきた。
「天満。居残りか」
「はい。……あ、了解も取らずに申し訳ありません」
「構わん。納得がいくまで稽古をしなさい。それがしが相手になってやろう」
「師匠」
師匠は木刀を持って夕輝の前に立った。
「お願いします」
夕輝が礼をすると、師匠と夕輝は青眼に構えた。
「打ち込んできなさい」
師匠が静かに言った。
「はい」
師匠はゆったりと構えているだけだったが、隙がなかった。
夕輝は師匠を見つめたまま、青眼に構えていた。
しかし、徐々に師匠の静かな佇まいに気圧されていった。
夕輝の額を汗が伝う。
夕輝は我慢できなくなり、じりじりと間を詰め始めた。
師匠は相変わらず悠然と構えている。
斬撃の間境の半歩手前で止まると、
イヤァ!
師匠の構えを崩そうと裂帛の気合いを発したが、師匠は全く動じなかった。
夕輝は思いきって踏み込むと、真っ向へ木刀を振り下ろした。
夕輝の木刀が弾かれたと思った次の瞬間には喉元に師匠の木刀が突きつけられていた。
「次はそれがしから行くぞ」
夕輝はすぐに最初の位置に戻ると、
「お願いします!」
師匠に頭を下げて青眼に構えた。
師匠は木刀を青眼に構えると、すぐにするすると近付いてきて、一足一刀の間境まで来た。
師匠はゆったりと構えているだけのはずなのに、すごい威圧を感じた。
師匠の身体が一回り以上大きくなったように見えた。
タァ!
師匠を止めようと、裂帛の気合いを発したが、師匠はそのまま間境を越えてきた。
とっさに夕輝は、師匠の小手を狙って打ち込んだ。
次の瞬間、夕輝の木刀は弾かれ、師匠の木刀は喉元に突きつけられていた。
もしかして……。
お唯の両親の部屋に行ってみると、お花やお加代がいた。
お唯の母親は寝込んでいるようだ。
咳が聞こえてくるが、それもかなり弱々しい。
葵の本家の跡取りは風邪で急逝したと言っていた。
本家の跡取りならいい医者に診てもらったはずである。
それでも死んだというのだ。
まして碌に医者にも診せてないお唯の母親はもっと危ないだろう。
お花が夕輝に気付いた。
「あ、夕ちゃん」
「こんにちは。お峰さんに頼まれたもの届けに来たんですけど……」
そう言うと、お花は突っかけを履いて部屋から出てきた。
「ありがとよ」
「お唯ちゃんのお母さん、悪いんですか?」
お花に荷物を渡しながら訊ねた。
「あの様子だと長くないかもねぇ」
お花は溜息をつきながら答えた。
「お唯ちゃんには……」
「お唯ちゃんに言っても無駄だよ。帰ってこられないのに心配させても可哀相だろ」
お唯の母親の具合が悪いのは、お唯がいなくなったせいもある。
あのとき、自分がお唯を助けていたら、お母さんは気落ちして風邪などひかなかったかもしれない。
喧嘩の助っ人でも賭場の用心棒でもなんでもいいから金を稼げば良かったのだ。
それなのにお唯を助けなかった。
もしお唯の母親が長くないのなら、最後に一目会わせてあげたい。
「お唯ちゃんがいるのって何て言うお見世ですか? 俺、お唯ちゃんがお母さんに会いに帰ってこられるように頼んできます!」
「無理だよ」
「頼むだけでも……。お願いします! 教えてください!」
夕輝が頭を下げると、お花は渋々「つる野だよ」と置屋の名前を教えてくれた。
「太一! 吉原に案内してくれ!」
「兄貴……」
「頼む!」
夕輝は太一にも頭を下げた。
太一は言おうとしていた言葉を飲み込んだ。
「分かりやした!」
夕輝と太一は長屋を飛び出した。
浅草の田んぼの中を通る日本堤は、両側に簡単な作りの見世が並んでいて、人通りが多かった。
そこを通り抜け、衣紋坂を下りると右手に高札場、左手に柳の木があった。
そこから両側に茶屋の並ぶ、曲がりくねった五十軒道を抜けて大門を入ると、そこは新吉原だった。
吉原に着くと、
「つる野って見世知りませんか?」
夕輝は通りがかった男に訊ねた。
男が知らないというと別の男に訊いた。
何人かに訊ねてようやく、つる野を見つけた。
「あそこか!」
「兄貴!」
太一が慌てて止めようとするのも聞かずに店に飛び込んだ。
「なんだい、あんた。ここは置屋だよ。遊びたかったら……」
店の中年女性がそう言いながら夕輝をじろじろと見た。
夕輝は構わずに、
「お唯ちゃんいますか!」
と訊ねた。
「なんだって?」
中年女性が訝しげに夕輝を見た。
「お唯ちゃんのお母さんが病気で……、一目お唯ちゃんに会わせてあげたいんです!」
「帰っとくれ」
中年女性はそう言うと、屈強な男衆達に目で合図した。
男衆達が夕輝の腕を掴んだ。
「お願いします! 一目会うだけでいいんです!」
夕輝は引きずられながら必死で叫んだ。
「お願いします!」
夕輝はそのまま吉原の大門の外に追い出された。
「待ってください! 一目でいいんです! お願いします!」
なおも食い下がったが、夕輝は突き飛ばされて道に倒れた。
夕輝をよけて歩いて行く遊客達が哀れむような目や蔑むような目をしていた。
「兄貴、あっしに知り合いがいるんでやす。そいつに頼んでみやすから、一旦帰りやしょう」
「いや、もう一度頼みに……」
「兄貴は顔を覚えられたから行かない方が話がしやすいんでやすよ。ですから、今日は帰りやしょう」
太一が諭すように言った。
夕輝は俯いた。
確かにお唯に対する負い目から熱くなっていたようだ。
ここは頭を冷やした方がいいだろう。
「……分かった」
夕輝は太一の手を借りて立ち上がった。
吉原に背を向けてから、一度振り返ると歩き出した。
「面倒かけて悪いな」
「何言ってんでやすか。助け合おうって言ったのは兄貴じゃねぇでやすか」
「そうだったな」
夕輝は無理して笑顔を見せた。
夕輝は太一の言葉を信じていつも通りに生活することにした。
平助に訊くと、吉原は独自のしきたりがあるらしい。
しかし、夕輝は太一を信じて待つことにした。
夕輝は心配を振り払うように稽古場の稽古に打ち込んだ。
稽古場の拭き掃除を終え、雑巾を片付けていると、祥三郞が近付いてきた。
「夕輝殿。今日は祖母のご機嫌伺いに行かねばならぬ故、峰湯にはよれないのですが……」
「分かった。気にしないでいいよ。長八さんも気にしないと思うから」
「かたじけない」
祥三郞は軽く頭を下げると、稽古場から出て言った。
祥三郞君が来ないんじゃ、早く帰ってもしょうがないな。
夕輝は居残り稽古をすることにした。
一人残って素振りをしていると、師匠が稽古場に入ってきた。
「天満。居残りか」
「はい。……あ、了解も取らずに申し訳ありません」
「構わん。納得がいくまで稽古をしなさい。それがしが相手になってやろう」
「師匠」
師匠は木刀を持って夕輝の前に立った。
「お願いします」
夕輝が礼をすると、師匠と夕輝は青眼に構えた。
「打ち込んできなさい」
師匠が静かに言った。
「はい」
師匠はゆったりと構えているだけだったが、隙がなかった。
夕輝は師匠を見つめたまま、青眼に構えていた。
しかし、徐々に師匠の静かな佇まいに気圧されていった。
夕輝の額を汗が伝う。
夕輝は我慢できなくなり、じりじりと間を詰め始めた。
師匠は相変わらず悠然と構えている。
斬撃の間境の半歩手前で止まると、
イヤァ!
師匠の構えを崩そうと裂帛の気合いを発したが、師匠は全く動じなかった。
夕輝は思いきって踏み込むと、真っ向へ木刀を振り下ろした。
夕輝の木刀が弾かれたと思った次の瞬間には喉元に師匠の木刀が突きつけられていた。
「次はそれがしから行くぞ」
夕輝はすぐに最初の位置に戻ると、
「お願いします!」
師匠に頭を下げて青眼に構えた。
師匠は木刀を青眼に構えると、すぐにするすると近付いてきて、一足一刀の間境まで来た。
師匠はゆったりと構えているだけのはずなのに、すごい威圧を感じた。
師匠の身体が一回り以上大きくなったように見えた。
タァ!
師匠を止めようと、裂帛の気合いを発したが、師匠はそのまま間境を越えてきた。
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