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2巻
2-3
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恐怖と不安に包まれている給仕の心に意識の糸を絡ませ、表層意識から情報を読み取っていく。
「……リーファ・クルネス、十七歳、給仕歴五年、肉親は妹が一人だけ……」
ビクリと給仕の肩が跳ねた。青ざめていた表情がますます青白くなっていく。
「……シーファ・クルネス、十四歳、一般兵食堂の手伝い、行方不明、脅迫状、毒薬、血の付いたリボン、妹の衣服……」
「あ……ああ……」
給仕はガクガクと膝を震わせ、呻くような声を漏らす。そしてその見開かれた目からは涙が零れ始めた。
バルティアをはじめ、他の給仕二人や騒ぎを聞いて駆けつけた応援の衛兵達が固唾を呑んで見守る中、リーファという給仕の身に起きた災厄が朔耶の口から紡がれていく。
「……ふう、ちょっと待ってね」
朔耶は一旦リーファから意識の糸を解いてオデコを離すと、食堂の隅にある戸棚を指さしながら言った。
「そこ! どっちの味方? バルの味方なら出てきなさい」
「『バル』というのは余の事か?」
「そ、いつまでも『あんた』じゃ具合悪いしね」
そんな軽い掛け合いをしながらも戸棚からは目を離さない。皆が注目する戸棚にはしばしの経過後も何ら変化は無く、朔耶はすーっと目を細めると――
「あっそ」
そう言って伸ばした意識の糸の先に電撃を発現させた。カカアァンという乾いた音が響き、戸棚のあたりの床下から閃光が漏れる。
顔を見合わせる衛兵達に、調べてみよと指示を出すバルティア。
「おお? こんな所に穴が」
「陛下! 曲者が潜んでおりました!」
戸棚を動かすとそこだけ不自然に色の違った床板が張られており、その下に隠されていた穴の中には気絶した男がうずくまっていた。
バルティアは隠し穴から引きずり出される男を見ながら、笑い出しそうになるのを堪えていた。
強力な治癒術で暗殺を食い止め、その裏に潜む陰謀を見抜き、こんなにもあっさり監視者をいぶり出してしまう朔耶の力には、畏怖や感嘆よりも痛快さを覚える。
今すぐにでも抱き締めて自分のモノにしたくなるが、唇の一つも奪えず返り討ちにされるのが関の山だろう。
すぐ目の前にいるのに決して手に入れられないであろう存在。もの欲しそうな表情を浮かべるバルティアの視線の先では、朔耶が再び給仕の娘にオデコを合わせていた。
「気持ちを落ち着けて、妹さん……シーファの事を強く想って」
朔耶はこの広大な城全域にまで意識の糸を広げると、リーファの中にあるイメージを頼りにシーファの捜索を行った。さすがにこれだけの規模で交感索敵を行うと精神的にもキツく、自然と呼吸が乱れてくる。
そしてそれ程の規模の交感をすると、表層意識だけとはいえ触れているリーファにもまた、精神的な負荷が掛かるらしく、彼女は朔耶にしがみつき身体が崩れ落ちそうになるのをじっと堪えていた。
傍からは、うら若き乙女二人が呼吸も荒く上気した顔をくっつけて抱き合っているようにも見えるので、同僚の給仕二人は頬を染めながらも興味津々な様子で見つめ、衛兵達は同じく赤い顔で視線を泳がせている。
そして皇帝陛下は「良いな……」などと呟きながら、じっくり乙女二人を眺めていた。
城の防壁部分の地下にある牢の、さらに下層。
そこは土牢と呼ばれる特別な牢獄で、通常の牢が鉄格子付きとはいえ、窓のついた比較的まともな石造りの小部屋なのに対して、こちらは段状になった剥き出しの地面に横穴を掘り、そこに手足を縛った囚人を放り込んで入り口を土で塗り固め、半分生き埋め状態にする拷問牢である。
特に死刑すら生温いとされる大罪人や、疫病にかかった囚人を隔離するために使われるが、政治闘争の果てに閉じ込められる権力者も多くいたという。
「三段目の奥から二つ目、ちょっと灯り出すから掘り出すモノ持ってきて」
索敵でシーファが閉じ込められている場所を探り当てた朔耶は、衛兵達から詳しい位置を聞き出すと、衛兵を向かわせると言うバルティアに、自分も行くと告げて食堂を後にした。
「ならば余も付き合おう」と付いてくる皇帝陛下。
緊張する衛兵達を余所に、朔耶は途中、成り行きで付いて来た同僚の給仕二人を厨房や医者の所に向かわせて、お湯と清潔なシーツなどを上層階の別室に準備させると、リーファをそこで待機させた。
シーファを見つけたらすぐに会わせてやりたかったが、場所が場所なだけに酷い状態にあるかもしれないと考慮しての事だ。
一寸先も見えない闇に包まれた土牢の間が、朔耶の要請に応えた精霊の放つ光玉によって照らし出される。見れば何度か掘り返された跡の残る段状の地面が、陰鬱とした空間のずっと奥まで続いていた。
バルティアもここに降りるのは初めてで、また牢の番をしている者もこれ程はっきり照らし出された土牢は見た事がなかったらしい。その場に漂う寒々しい空気に気後れしている様子だった。
長く務める牢番によれば、もう随分長い間ここの扉は開かれてはいないが、上の通常房も含め牢の密閉性についてはかなり疑わしいとの事。実際、いつの間にか囚人が増えていたり減っていたりするのはよくある事らしい。確かにやたら隠し部屋や隠し通路の多いこの城のこと、秘密の入り口が一つや二つあってもおかしくはない。
朔耶自ら先頭に立ち、意識の糸を伸ばして、土そのものに掘りやすくなってくれるようお願いしながらスコップを振るう。わずかな空気穴だけが穿たれた土の壁が掘り崩されていく。
やがて異臭と共に狭い横穴が現れ、中から手足を縛られ、目隠しと猿轡をされた少女を発見した。彼女はほぼ全裸で、身体には彼方此方に痣と膿んだ傷があり、脱水症状と極度の疲労で衰弱していた。
「水を!」
朔耶は彼女の姿に配慮して灯りを少し落としてから、拘束を解いて持参したシーツに包む。そして水筒から少量ずつ水を口に落としてやると、朦朧としていた少女の意識が少し回復したらしく、自ら水を求め始めた。
朔耶は彼女が咳き込まないよう、ゆっくりと水筒を傾けながら問う。
「あなたは、シーファ?」
「ん……こふっ、ゆるして、ください……ゆるしてください……」
「シーファ? もう大丈夫だから、大丈夫だからね?」
「ゆるして……おねえちゃん……たすけて……もういや……ひぐ……」
「大丈夫、大丈夫よ」と宥めながら、朔耶は衛兵に向かってリーファの待つ部屋のカーテンを閉じて薄暗くしておくよう指示を出すと、すかさずバルティアがそれに従うよう衛兵に合図をする。
朔耶には衛兵を動かす権利までは与えられていないので、バルティアが付いて来たのは正解だったと言える。
「外傷は大体治せたと思うけど、体力の消耗とか、後は内面ね……」
シーファを運ぶ間、朔耶は精霊の治癒の力を使って彼女の傷を癒していた。
だが、精霊の治癒の力も心に負った傷にまでは及ばない。終始震えていたシーファは姉リーファの姿を確認すると、ようやく安心したのか気を失うように眠りについた。
リーファは妹を助けてくれた朔耶に涙ながらに感謝しつつ、皇帝に毒を盛った事を詫びた。
「処刑するなんて言わないでしょうね?」
「余は不問でも構わんが、側近共は何と言うかな」
「黙らせなさいよ。あんた皇帝でしょうが」
「お飾りのな」
リーファからある程度事情を聞き終え、後日シーファが回復したら彼女からも話を聞く事にした朔耶達は、姉妹のために護衛を残して一旦引き上げる事にした。
「あんたを狙う連中について探るいい機会だからって言えば、無下に出来ないっしょ」
「ふむ、その線で通すか」
それでも彼女を罰せよと訴える者がいるなら、その者こそが怪しいという事になる。
もし側近の中に、バルティアの命を握っておこうとする勢力に与する者がいたとしても、わざわざ疑われるような真似をする愚か者だとは思えない。
「ところで食堂で捕らえた者だが、給仕に使った術で奴から情報は引き出せんのか?」
「う~ん、相手がしっかり隠そうとしている人だと難しいっぽい」
「確かに、諜報をやっている人間がそう簡単に自分の雇い主を明かすようなヘマはしないだろうな」
と肩を竦めるバルティア。
「では薬で催眠状態にして探るというのはどうだ?」
「そんな非人道的なやり方には協力できませ~ん」
ぷいっと顔を背ける朔耶にふと違和感を感じたバルティアは、おもむろに朔耶の手を取る。
「……震えているのか?」
「……」
小刻みに震える自分の手を見た朔耶は、一瞬ばつの悪そうな顔をして俯いたが、すぐに手を振りほどくと、普段よりも若干低い声で言った。
「当然でしょ! あんな酷い事……」
「――! サクヤッ」
突然、朔耶の身体がぐらりと傾く。
咄嗟に支えたバルティアはどこか具合でも悪くしたかとその顔を覗き込んだ。顔色が悪いのは身体的な疲労のせいか、精神的なモノのせいか、よもや土牢で何か悪い病気でも拾ったかと考えを巡らせる。
「ごめん……さすがにちょっと疲れたみたい」
「……少し休め。この近くにも良い隠し部屋がある」
人気の少ない狭い廊下を曲がり、少し進んだ先にある部屋に入ると、執務用の机を傾けて背後の壁の隠し扉を開く。
「あんたの寝座?」
「バルだ」
「ん?」
「余の愛称なのであろう?」
ニヤリと笑みを浮かべるバルティア。
きょとんと目を丸くした朔耶は、次いで小さく噴き出した。
「あんたなんか『あんた』で十分よ」
などと意地悪を言いながら隠し部屋に入った朔耶は、閉じ際に声をかけた。
「ありがとね、バル」
「……ふっ」
一人ニヤニヤ笑いをしながら食堂まで戻って来たバルティアは、少しばかり室内が騒然としているのを訝しみ、近くの衛兵に声をかける。
「どうした、何があったのだ」
「ハッ! 捕らえておいた曲者が自害したようであります!」
衛兵達の尋問中、朔耶の力を使えばすぐにでも背後の人間を洗い出せるのだと諭された男は、歯に仕込んでいたらしい毒を飲んで自害したという。
事実、男は朔耶が給仕の娘から情報を引き出している様子を窺っていたのだから、それも可能だと判断したのだろう。
「……この事、他言無用である。特に、サクヤの耳には入れるな」
「ハッ!」
自害した男の遺体はすぐに処分される事になった。
バルティアに案内された隠し部屋で横になった朔耶は、眠りにつく前に日課となった定期交感を、とレティレスティアに向けて意識の糸を伸ばした。今の時間帯なら晩餐会の招待にお断りの返事を書く作業をしている頃だ。
――サクヤ? ――
『やほー……レティー……』
――ど、どうしました? とても元気が無いように感じますが……――
『んー、ちょっとねー』
朔耶は今朝の一連の出来事をかいつまんで話す。こうして交感する度に帝国の内部事情がダダ漏れになるのだが、朔耶には諜報活動などしてるつもりは無く、レティレスティアに至っては朔耶の近況メインで話を聞いているので帝国の中枢に関わる情報は辛うじて広まらずに済んでいた。
もっとも朔耶の話がレティレスティアから母アルサレナの耳に入った時点でアウトだが。
――それは……大変でしたね……でも、サクヤが無事で良かったです――
『うん、あたしも毒飲んでたらどうなってたか分かんないしね……』
――サクヤ、その治癒の力の事も含めて、この前に頼まれた件ですが――
『何か分かった?』
帝国に運ばれる竜籠の中で、朔耶に精霊が寄り集まって来た原因、朔耶の中の精霊が騒ぐ理由について、レティレスティアに相談されたアルサレナが文献などを調べて朔耶の状態と周りの状況を推測した結果、おおよその見当がついたという。
――恐らく、サクヤが精霊術に目覚めた事が原因ではないかという事です――
『精霊術に、目覚めた……?』
以前アルサレナに視てもらった際、朔耶をこちらの世界に運んで来た精霊が、朔耶の魂と交感状態で結びついて重なっているという特殊な状態にある事が判明した。
つまり『朔耶の意思』はそのまま重なっている『精霊の意思』となるため、精霊は『朔耶の意思』に従って力を振るい、朔耶は意図せず精霊術を行使したような形になっていたのだ。
これまで朔耶が使っていた力、『稲妻ビンタ』は本来、魔術でもなければ精霊術でもない。
精霊と重なった状態に、その精霊が世界から引き出した『諸現像を起こす力』、すなわち魔力が加わった結果、たまたま彼女がイメージした『稲妻』が発現されたのだ。
元々明確に『術』を使おうと意図して行使したモノではなく、いつぞや朔耶自身が言った通り、気合による『技』なのである。怪我の回復が異常に速かったり、魔力石などの加工が容易になったというのも原因は同じ。
そんな特殊な状態であるが故に、朔耶が普段何気なく使っているレティレスティアとの『交感』は、『交感の深度や熟練度』というものを無視した状態で行使されている。
本来であれば、精霊術士は精霊との繋がりを深める事で徐々に交感力を伸ばし、その交感力に見合った力を持つ精霊との交流を重ねていく内に、さらに深い交感ができるようになる。そうやって交感を深める事で、より強い力を持つ精霊にも力を借りられるようになるというのが精霊術の基本である。
交感が熟練するに従い、新たな精霊術が習得できるのは、そうしたわけなのだ。
一方、少し前の朔耶の在り方は、それらの段取りを全てすっ飛ばしてしまった、非常に特殊なものだった。そのため、朔耶がいくら交感を使いこなしたとしても、それは交感を深めた事にはならない。
従って、朔耶は魔力こそ桁外れな量を扱う事はできるが、魔術はもちろん、精霊術に関しても全くの素人という状態であった。当然ながら、新たな精霊術を習得する事などできない。言うなれば『交感力ゼロの素人』のまま『超絶熟練精霊術士並の交感』を行っていたのだ。
しかし、竜籠の中で術封じの枷を破壊する際に、明確に精霊術として力を振るったことにより、一般的な術士が『交感を深めて熟練した』時と同じ状態になった。
その瞬間から、精霊に『交感力ゼロの素人』から『超絶熟練精霊術士の交感力を持つ者』として認識された。
――私にも経験があるのですが、交感を深めてより多くの精霊の力を借りられるようになると、その瞬間から新たな精霊の存在を感じられるようになるのです――
『つまりRPG風に言えば、精霊術レベルゼロで経験値が最大値だったキャラクターが、枷を破壊した時の経験値チェックで一気に精霊術レベルも最大値までいって精霊術を覚えまくった、って感じね』
――え? あーるぴーじー? かんすと? ――
『ああ、こっちの言葉だから気にしないで』
枷の破壊が切っ掛けで朔耶の交感力、つまり、交感の深度が明らかになったため、その力で交流が可能になった精霊が寄ってきたというのが、アルサレナによって導き出された結論だった。
交感力が低く、交感の深度が浅ければ、その範囲で交流できる程度の精霊にしか力を借りられない。
交感の深度が深くなれば、それだけ大きな力を持つ精霊とも交流できる。そして事実、朔耶はその『交感を深めた』時からたくさんの精霊を感知し、力を借りられるようになったのだ。
『じゃあ、あたしの中の精霊が騒いだのもそのせい?』
――いえ、残念ながらそちらに関してはまだ詳しい事は分からないそうです。母様が直接視れば、何か分かるかもしれませんが……――
『ふーむ、そかそか。色々分かってホッとしたよ、ありがとね』
――いいえ、サクヤの助けになるのでしたら何でも言って下さい――
それからレティレスティアやレイス、フレイ達の近況を聞いた朔耶は、『それじゃあまたね』と交感を解いた。
選定の儀は無事終了し、レイスは宮廷魔術士長に就任したとの事だ。
未だ王都に潜んでいるであろう帝国間諜の洗い出しも、フエルト卿の妨害が無くなったのでかなりの効果が見込めるらしい。
「順調だねぇ~、これで後は帝国が戦争とか吹っ掛けなきゃいいのよねー」
朔耶がコレまで見た限り、バルティアはフレグンスで噂されていたような覇権主義者などではなく、むしろ平和主義者とすら思えた。
自身をお飾りと嘲り、常に暗殺の危険に晒されるがゆえにヤル気の無さを装う皇帝バルティア。
「帝国の黒幕かー……」
シーファの無惨な姿を思い出し、朔耶は眉をひそめる。
「正義無き力は暴力なり。力無き正義は戯言なり、か……。今のあたしには、力がある……じゃあ正義は……?」
ぼんやりした意識の中でそんなふうに自問しながら、朔耶は疲れた心を癒すべく眠りについた。
城内の下層階は夕刻前から晩頃までが最も賑やかになる。
昼の内に届いた食料品や衣類が搬入され、訓練で疲れた兵士達の腹を満たすために料理人達が厨房で腕を振るう。
今のグラントゥルモスには大勢の傭兵達が雇われており、城内に入り切れない彼らは外にテントを張って寝泊まりしていた。
彼らの中には兵力を集めるだけ集めて未だに具体的な行動を起こさない帝国にやきもきしている者もいて、フレグンスとの戦を待ち望む声も聞かれ始めていた。
そんな中 ――
「こら」
「ぐむ」
目を覚ました朔耶は隣で寝ている皇帝に肘鉄を入れた。
「あんたはっ! 何をっ! 当たり前なっ! 顔してっ! 横にっ! 寝てんのよっ!」
ゲシゲシとバルティアをベッドから蹴落とした朔耶は、トドメに踵を落としてやろうかと足を振り上げたが、すかさず距離を取られたのでそのまま下ろす。
「……寝起き早々皇帝を足蹴にするとは」
「やかまし。ったく、油断も隙もない……」
朔耶はベッドから降りていつものジャケットを羽織ろうとしたが、土や埃が付いて随分汚れてしまっている事に気付いた。下着類はお風呂に入る際に洗っていたものの、服は替えが無いのでそのままだった。
「お前の服だ」
「え……?」
どうしようかと悩んでいた朔耶に、バルティアが包みを渡す。中には質の良さそうな黒い服が入っていた。
「お前の事だ、どうせドレスになど袖を通すまいと思ってな」
「あ~、街服かぁ……あんたとお揃いなのは気に入らないけど、一応ありがと」
バルティアを隠し部屋から追い出して早速着替えた朔耶は、姿見が無い事に今更ながら気付く。鏡が無ければ身だしなみも出来ないじゃないかと、鏡を探して隠し部屋を出た。
外で待っていたバルティアが「ほう」と感嘆の声をあげる。
「なによ」
「いや、なかなか良いな」
黒髪に黒い瞳の朔耶が、黒いヒラヒラ付きのゆったりした服を着ると、朔耶の持つ独得の異質感が一層強まる。長袖膝丈のワンピースに、レギンスのような黒い細身のズボン、ついでに靴も数足用意されていたので足に合うものを履いた。
「全身黒尽くめ……」
「神秘的で良いではないか、気に入ったぞ」
「そればっかり……つか、あんたが気に入ってどうすんのよ!」
少し早まったかと思いつつ、着心地は悪くないのでまあ良いかと適当に鏡のありそうな部屋を探す朔耶だった。
「ねえ、バル……」
途中、ついてきたバルティアに声をかける。
「どうした?」
「今までにも今朝みたいな事ってあったんだよね?」
「うむ」
「……その人達は?」
「いずれもその場で処刑だったな」
侍女や若い衛兵、ベテランのメイド長が暗殺を仕掛けてきた事もあったという。いずれも詳しい事情聴取をされる事なくその場で処分されたと、バルティアは淡々と語った。
「そう……」
適当な空き部屋を見つけて中に入る。この階には客間が多いので大きな姿見も置いてあった。鏡の前に立った黒い少女は、背後に立つ黒い男に語りかける。
「バルの環境は理解するし、今までのそういう処置もあたしがどうこう責められる立場じゃないから何も言わない。でも……バルのこと、同情も出来ない」
「……分かっている」
バルティアは朔耶の言葉を受け入れた。
バルティアは、自身が常に何もしなかった事を理解していた。言ってみれば彼は何もしない事で生き延びてきたのだ。
(だが、これからは今までのようにはいかんだろうな……)
朔耶を求めた結果、皇帝として生かされないのであれば、朔耶を諦めるか、人生を諦めるか、平穏を諦めるか。
バルティアにはそんな選択肢が突きつけられていた。
生かさず殺さず、自分ではない弱者の命のみが消費されていた今までの暗殺ごっこは、裏の支配者からの警告だった。
お前の命などいつでも消せるという警告。
今朝、それは遂に本物の殺意となって、バルティアの傀儡皇帝としての役目を終わらせようとした。
覚悟を決めなくてはならない。
「サクヤ」
「なに?」
「余に、力を貸してくれ」
* * *
帝都城の深い場所。
闇と結界に隠された深遠の支配者は、城内のあらゆる場所を見通す事が出来る遠見の鏡の前で唸る。
傀儡の最期を見届けようと、かの者の最後の晩餐を眺めていたのだが、古くから使われてきた暗殺用の猛毒は、いとも簡単に浄化されてしまった。
「この者……なんという力を……」
「申し訳ありません、陛下。よもやこのような形で失敗するとは」
「……よい……それよりも、この娘だ……」
頭を垂れて詫びる忠実なる臣下に、深遠の支配者は鏡に映る黒髪の少女について問い質す。
「……リーファ・クルネス、十七歳、給仕歴五年、肉親は妹が一人だけ……」
ビクリと給仕の肩が跳ねた。青ざめていた表情がますます青白くなっていく。
「……シーファ・クルネス、十四歳、一般兵食堂の手伝い、行方不明、脅迫状、毒薬、血の付いたリボン、妹の衣服……」
「あ……ああ……」
給仕はガクガクと膝を震わせ、呻くような声を漏らす。そしてその見開かれた目からは涙が零れ始めた。
バルティアをはじめ、他の給仕二人や騒ぎを聞いて駆けつけた応援の衛兵達が固唾を呑んで見守る中、リーファという給仕の身に起きた災厄が朔耶の口から紡がれていく。
「……ふう、ちょっと待ってね」
朔耶は一旦リーファから意識の糸を解いてオデコを離すと、食堂の隅にある戸棚を指さしながら言った。
「そこ! どっちの味方? バルの味方なら出てきなさい」
「『バル』というのは余の事か?」
「そ、いつまでも『あんた』じゃ具合悪いしね」
そんな軽い掛け合いをしながらも戸棚からは目を離さない。皆が注目する戸棚にはしばしの経過後も何ら変化は無く、朔耶はすーっと目を細めると――
「あっそ」
そう言って伸ばした意識の糸の先に電撃を発現させた。カカアァンという乾いた音が響き、戸棚のあたりの床下から閃光が漏れる。
顔を見合わせる衛兵達に、調べてみよと指示を出すバルティア。
「おお? こんな所に穴が」
「陛下! 曲者が潜んでおりました!」
戸棚を動かすとそこだけ不自然に色の違った床板が張られており、その下に隠されていた穴の中には気絶した男がうずくまっていた。
バルティアは隠し穴から引きずり出される男を見ながら、笑い出しそうになるのを堪えていた。
強力な治癒術で暗殺を食い止め、その裏に潜む陰謀を見抜き、こんなにもあっさり監視者をいぶり出してしまう朔耶の力には、畏怖や感嘆よりも痛快さを覚える。
今すぐにでも抱き締めて自分のモノにしたくなるが、唇の一つも奪えず返り討ちにされるのが関の山だろう。
すぐ目の前にいるのに決して手に入れられないであろう存在。もの欲しそうな表情を浮かべるバルティアの視線の先では、朔耶が再び給仕の娘にオデコを合わせていた。
「気持ちを落ち着けて、妹さん……シーファの事を強く想って」
朔耶はこの広大な城全域にまで意識の糸を広げると、リーファの中にあるイメージを頼りにシーファの捜索を行った。さすがにこれだけの規模で交感索敵を行うと精神的にもキツく、自然と呼吸が乱れてくる。
そしてそれ程の規模の交感をすると、表層意識だけとはいえ触れているリーファにもまた、精神的な負荷が掛かるらしく、彼女は朔耶にしがみつき身体が崩れ落ちそうになるのをじっと堪えていた。
傍からは、うら若き乙女二人が呼吸も荒く上気した顔をくっつけて抱き合っているようにも見えるので、同僚の給仕二人は頬を染めながらも興味津々な様子で見つめ、衛兵達は同じく赤い顔で視線を泳がせている。
そして皇帝陛下は「良いな……」などと呟きながら、じっくり乙女二人を眺めていた。
城の防壁部分の地下にある牢の、さらに下層。
そこは土牢と呼ばれる特別な牢獄で、通常の牢が鉄格子付きとはいえ、窓のついた比較的まともな石造りの小部屋なのに対して、こちらは段状になった剥き出しの地面に横穴を掘り、そこに手足を縛った囚人を放り込んで入り口を土で塗り固め、半分生き埋め状態にする拷問牢である。
特に死刑すら生温いとされる大罪人や、疫病にかかった囚人を隔離するために使われるが、政治闘争の果てに閉じ込められる権力者も多くいたという。
「三段目の奥から二つ目、ちょっと灯り出すから掘り出すモノ持ってきて」
索敵でシーファが閉じ込められている場所を探り当てた朔耶は、衛兵達から詳しい位置を聞き出すと、衛兵を向かわせると言うバルティアに、自分も行くと告げて食堂を後にした。
「ならば余も付き合おう」と付いてくる皇帝陛下。
緊張する衛兵達を余所に、朔耶は途中、成り行きで付いて来た同僚の給仕二人を厨房や医者の所に向かわせて、お湯と清潔なシーツなどを上層階の別室に準備させると、リーファをそこで待機させた。
シーファを見つけたらすぐに会わせてやりたかったが、場所が場所なだけに酷い状態にあるかもしれないと考慮しての事だ。
一寸先も見えない闇に包まれた土牢の間が、朔耶の要請に応えた精霊の放つ光玉によって照らし出される。見れば何度か掘り返された跡の残る段状の地面が、陰鬱とした空間のずっと奥まで続いていた。
バルティアもここに降りるのは初めてで、また牢の番をしている者もこれ程はっきり照らし出された土牢は見た事がなかったらしい。その場に漂う寒々しい空気に気後れしている様子だった。
長く務める牢番によれば、もう随分長い間ここの扉は開かれてはいないが、上の通常房も含め牢の密閉性についてはかなり疑わしいとの事。実際、いつの間にか囚人が増えていたり減っていたりするのはよくある事らしい。確かにやたら隠し部屋や隠し通路の多いこの城のこと、秘密の入り口が一つや二つあってもおかしくはない。
朔耶自ら先頭に立ち、意識の糸を伸ばして、土そのものに掘りやすくなってくれるようお願いしながらスコップを振るう。わずかな空気穴だけが穿たれた土の壁が掘り崩されていく。
やがて異臭と共に狭い横穴が現れ、中から手足を縛られ、目隠しと猿轡をされた少女を発見した。彼女はほぼ全裸で、身体には彼方此方に痣と膿んだ傷があり、脱水症状と極度の疲労で衰弱していた。
「水を!」
朔耶は彼女の姿に配慮して灯りを少し落としてから、拘束を解いて持参したシーツに包む。そして水筒から少量ずつ水を口に落としてやると、朦朧としていた少女の意識が少し回復したらしく、自ら水を求め始めた。
朔耶は彼女が咳き込まないよう、ゆっくりと水筒を傾けながら問う。
「あなたは、シーファ?」
「ん……こふっ、ゆるして、ください……ゆるしてください……」
「シーファ? もう大丈夫だから、大丈夫だからね?」
「ゆるして……おねえちゃん……たすけて……もういや……ひぐ……」
「大丈夫、大丈夫よ」と宥めながら、朔耶は衛兵に向かってリーファの待つ部屋のカーテンを閉じて薄暗くしておくよう指示を出すと、すかさずバルティアがそれに従うよう衛兵に合図をする。
朔耶には衛兵を動かす権利までは与えられていないので、バルティアが付いて来たのは正解だったと言える。
「外傷は大体治せたと思うけど、体力の消耗とか、後は内面ね……」
シーファを運ぶ間、朔耶は精霊の治癒の力を使って彼女の傷を癒していた。
だが、精霊の治癒の力も心に負った傷にまでは及ばない。終始震えていたシーファは姉リーファの姿を確認すると、ようやく安心したのか気を失うように眠りについた。
リーファは妹を助けてくれた朔耶に涙ながらに感謝しつつ、皇帝に毒を盛った事を詫びた。
「処刑するなんて言わないでしょうね?」
「余は不問でも構わんが、側近共は何と言うかな」
「黙らせなさいよ。あんた皇帝でしょうが」
「お飾りのな」
リーファからある程度事情を聞き終え、後日シーファが回復したら彼女からも話を聞く事にした朔耶達は、姉妹のために護衛を残して一旦引き上げる事にした。
「あんたを狙う連中について探るいい機会だからって言えば、無下に出来ないっしょ」
「ふむ、その線で通すか」
それでも彼女を罰せよと訴える者がいるなら、その者こそが怪しいという事になる。
もし側近の中に、バルティアの命を握っておこうとする勢力に与する者がいたとしても、わざわざ疑われるような真似をする愚か者だとは思えない。
「ところで食堂で捕らえた者だが、給仕に使った術で奴から情報は引き出せんのか?」
「う~ん、相手がしっかり隠そうとしている人だと難しいっぽい」
「確かに、諜報をやっている人間がそう簡単に自分の雇い主を明かすようなヘマはしないだろうな」
と肩を竦めるバルティア。
「では薬で催眠状態にして探るというのはどうだ?」
「そんな非人道的なやり方には協力できませ~ん」
ぷいっと顔を背ける朔耶にふと違和感を感じたバルティアは、おもむろに朔耶の手を取る。
「……震えているのか?」
「……」
小刻みに震える自分の手を見た朔耶は、一瞬ばつの悪そうな顔をして俯いたが、すぐに手を振りほどくと、普段よりも若干低い声で言った。
「当然でしょ! あんな酷い事……」
「――! サクヤッ」
突然、朔耶の身体がぐらりと傾く。
咄嗟に支えたバルティアはどこか具合でも悪くしたかとその顔を覗き込んだ。顔色が悪いのは身体的な疲労のせいか、精神的なモノのせいか、よもや土牢で何か悪い病気でも拾ったかと考えを巡らせる。
「ごめん……さすがにちょっと疲れたみたい」
「……少し休め。この近くにも良い隠し部屋がある」
人気の少ない狭い廊下を曲がり、少し進んだ先にある部屋に入ると、執務用の机を傾けて背後の壁の隠し扉を開く。
「あんたの寝座?」
「バルだ」
「ん?」
「余の愛称なのであろう?」
ニヤリと笑みを浮かべるバルティア。
きょとんと目を丸くした朔耶は、次いで小さく噴き出した。
「あんたなんか『あんた』で十分よ」
などと意地悪を言いながら隠し部屋に入った朔耶は、閉じ際に声をかけた。
「ありがとね、バル」
「……ふっ」
一人ニヤニヤ笑いをしながら食堂まで戻って来たバルティアは、少しばかり室内が騒然としているのを訝しみ、近くの衛兵に声をかける。
「どうした、何があったのだ」
「ハッ! 捕らえておいた曲者が自害したようであります!」
衛兵達の尋問中、朔耶の力を使えばすぐにでも背後の人間を洗い出せるのだと諭された男は、歯に仕込んでいたらしい毒を飲んで自害したという。
事実、男は朔耶が給仕の娘から情報を引き出している様子を窺っていたのだから、それも可能だと判断したのだろう。
「……この事、他言無用である。特に、サクヤの耳には入れるな」
「ハッ!」
自害した男の遺体はすぐに処分される事になった。
バルティアに案内された隠し部屋で横になった朔耶は、眠りにつく前に日課となった定期交感を、とレティレスティアに向けて意識の糸を伸ばした。今の時間帯なら晩餐会の招待にお断りの返事を書く作業をしている頃だ。
――サクヤ? ――
『やほー……レティー……』
――ど、どうしました? とても元気が無いように感じますが……――
『んー、ちょっとねー』
朔耶は今朝の一連の出来事をかいつまんで話す。こうして交感する度に帝国の内部事情がダダ漏れになるのだが、朔耶には諜報活動などしてるつもりは無く、レティレスティアに至っては朔耶の近況メインで話を聞いているので帝国の中枢に関わる情報は辛うじて広まらずに済んでいた。
もっとも朔耶の話がレティレスティアから母アルサレナの耳に入った時点でアウトだが。
――それは……大変でしたね……でも、サクヤが無事で良かったです――
『うん、あたしも毒飲んでたらどうなってたか分かんないしね……』
――サクヤ、その治癒の力の事も含めて、この前に頼まれた件ですが――
『何か分かった?』
帝国に運ばれる竜籠の中で、朔耶に精霊が寄り集まって来た原因、朔耶の中の精霊が騒ぐ理由について、レティレスティアに相談されたアルサレナが文献などを調べて朔耶の状態と周りの状況を推測した結果、おおよその見当がついたという。
――恐らく、サクヤが精霊術に目覚めた事が原因ではないかという事です――
『精霊術に、目覚めた……?』
以前アルサレナに視てもらった際、朔耶をこちらの世界に運んで来た精霊が、朔耶の魂と交感状態で結びついて重なっているという特殊な状態にある事が判明した。
つまり『朔耶の意思』はそのまま重なっている『精霊の意思』となるため、精霊は『朔耶の意思』に従って力を振るい、朔耶は意図せず精霊術を行使したような形になっていたのだ。
これまで朔耶が使っていた力、『稲妻ビンタ』は本来、魔術でもなければ精霊術でもない。
精霊と重なった状態に、その精霊が世界から引き出した『諸現像を起こす力』、すなわち魔力が加わった結果、たまたま彼女がイメージした『稲妻』が発現されたのだ。
元々明確に『術』を使おうと意図して行使したモノではなく、いつぞや朔耶自身が言った通り、気合による『技』なのである。怪我の回復が異常に速かったり、魔力石などの加工が容易になったというのも原因は同じ。
そんな特殊な状態であるが故に、朔耶が普段何気なく使っているレティレスティアとの『交感』は、『交感の深度や熟練度』というものを無視した状態で行使されている。
本来であれば、精霊術士は精霊との繋がりを深める事で徐々に交感力を伸ばし、その交感力に見合った力を持つ精霊との交流を重ねていく内に、さらに深い交感ができるようになる。そうやって交感を深める事で、より強い力を持つ精霊にも力を借りられるようになるというのが精霊術の基本である。
交感が熟練するに従い、新たな精霊術が習得できるのは、そうしたわけなのだ。
一方、少し前の朔耶の在り方は、それらの段取りを全てすっ飛ばしてしまった、非常に特殊なものだった。そのため、朔耶がいくら交感を使いこなしたとしても、それは交感を深めた事にはならない。
従って、朔耶は魔力こそ桁外れな量を扱う事はできるが、魔術はもちろん、精霊術に関しても全くの素人という状態であった。当然ながら、新たな精霊術を習得する事などできない。言うなれば『交感力ゼロの素人』のまま『超絶熟練精霊術士並の交感』を行っていたのだ。
しかし、竜籠の中で術封じの枷を破壊する際に、明確に精霊術として力を振るったことにより、一般的な術士が『交感を深めて熟練した』時と同じ状態になった。
その瞬間から、精霊に『交感力ゼロの素人』から『超絶熟練精霊術士の交感力を持つ者』として認識された。
――私にも経験があるのですが、交感を深めてより多くの精霊の力を借りられるようになると、その瞬間から新たな精霊の存在を感じられるようになるのです――
『つまりRPG風に言えば、精霊術レベルゼロで経験値が最大値だったキャラクターが、枷を破壊した時の経験値チェックで一気に精霊術レベルも最大値までいって精霊術を覚えまくった、って感じね』
――え? あーるぴーじー? かんすと? ――
『ああ、こっちの言葉だから気にしないで』
枷の破壊が切っ掛けで朔耶の交感力、つまり、交感の深度が明らかになったため、その力で交流が可能になった精霊が寄ってきたというのが、アルサレナによって導き出された結論だった。
交感力が低く、交感の深度が浅ければ、その範囲で交流できる程度の精霊にしか力を借りられない。
交感の深度が深くなれば、それだけ大きな力を持つ精霊とも交流できる。そして事実、朔耶はその『交感を深めた』時からたくさんの精霊を感知し、力を借りられるようになったのだ。
『じゃあ、あたしの中の精霊が騒いだのもそのせい?』
――いえ、残念ながらそちらに関してはまだ詳しい事は分からないそうです。母様が直接視れば、何か分かるかもしれませんが……――
『ふーむ、そかそか。色々分かってホッとしたよ、ありがとね』
――いいえ、サクヤの助けになるのでしたら何でも言って下さい――
それからレティレスティアやレイス、フレイ達の近況を聞いた朔耶は、『それじゃあまたね』と交感を解いた。
選定の儀は無事終了し、レイスは宮廷魔術士長に就任したとの事だ。
未だ王都に潜んでいるであろう帝国間諜の洗い出しも、フエルト卿の妨害が無くなったのでかなりの効果が見込めるらしい。
「順調だねぇ~、これで後は帝国が戦争とか吹っ掛けなきゃいいのよねー」
朔耶がコレまで見た限り、バルティアはフレグンスで噂されていたような覇権主義者などではなく、むしろ平和主義者とすら思えた。
自身をお飾りと嘲り、常に暗殺の危険に晒されるがゆえにヤル気の無さを装う皇帝バルティア。
「帝国の黒幕かー……」
シーファの無惨な姿を思い出し、朔耶は眉をひそめる。
「正義無き力は暴力なり。力無き正義は戯言なり、か……。今のあたしには、力がある……じゃあ正義は……?」
ぼんやりした意識の中でそんなふうに自問しながら、朔耶は疲れた心を癒すべく眠りについた。
城内の下層階は夕刻前から晩頃までが最も賑やかになる。
昼の内に届いた食料品や衣類が搬入され、訓練で疲れた兵士達の腹を満たすために料理人達が厨房で腕を振るう。
今のグラントゥルモスには大勢の傭兵達が雇われており、城内に入り切れない彼らは外にテントを張って寝泊まりしていた。
彼らの中には兵力を集めるだけ集めて未だに具体的な行動を起こさない帝国にやきもきしている者もいて、フレグンスとの戦を待ち望む声も聞かれ始めていた。
そんな中 ――
「こら」
「ぐむ」
目を覚ました朔耶は隣で寝ている皇帝に肘鉄を入れた。
「あんたはっ! 何をっ! 当たり前なっ! 顔してっ! 横にっ! 寝てんのよっ!」
ゲシゲシとバルティアをベッドから蹴落とした朔耶は、トドメに踵を落としてやろうかと足を振り上げたが、すかさず距離を取られたのでそのまま下ろす。
「……寝起き早々皇帝を足蹴にするとは」
「やかまし。ったく、油断も隙もない……」
朔耶はベッドから降りていつものジャケットを羽織ろうとしたが、土や埃が付いて随分汚れてしまっている事に気付いた。下着類はお風呂に入る際に洗っていたものの、服は替えが無いのでそのままだった。
「お前の服だ」
「え……?」
どうしようかと悩んでいた朔耶に、バルティアが包みを渡す。中には質の良さそうな黒い服が入っていた。
「お前の事だ、どうせドレスになど袖を通すまいと思ってな」
「あ~、街服かぁ……あんたとお揃いなのは気に入らないけど、一応ありがと」
バルティアを隠し部屋から追い出して早速着替えた朔耶は、姿見が無い事に今更ながら気付く。鏡が無ければ身だしなみも出来ないじゃないかと、鏡を探して隠し部屋を出た。
外で待っていたバルティアが「ほう」と感嘆の声をあげる。
「なによ」
「いや、なかなか良いな」
黒髪に黒い瞳の朔耶が、黒いヒラヒラ付きのゆったりした服を着ると、朔耶の持つ独得の異質感が一層強まる。長袖膝丈のワンピースに、レギンスのような黒い細身のズボン、ついでに靴も数足用意されていたので足に合うものを履いた。
「全身黒尽くめ……」
「神秘的で良いではないか、気に入ったぞ」
「そればっかり……つか、あんたが気に入ってどうすんのよ!」
少し早まったかと思いつつ、着心地は悪くないのでまあ良いかと適当に鏡のありそうな部屋を探す朔耶だった。
「ねえ、バル……」
途中、ついてきたバルティアに声をかける。
「どうした?」
「今までにも今朝みたいな事ってあったんだよね?」
「うむ」
「……その人達は?」
「いずれもその場で処刑だったな」
侍女や若い衛兵、ベテランのメイド長が暗殺を仕掛けてきた事もあったという。いずれも詳しい事情聴取をされる事なくその場で処分されたと、バルティアは淡々と語った。
「そう……」
適当な空き部屋を見つけて中に入る。この階には客間が多いので大きな姿見も置いてあった。鏡の前に立った黒い少女は、背後に立つ黒い男に語りかける。
「バルの環境は理解するし、今までのそういう処置もあたしがどうこう責められる立場じゃないから何も言わない。でも……バルのこと、同情も出来ない」
「……分かっている」
バルティアは朔耶の言葉を受け入れた。
バルティアは、自身が常に何もしなかった事を理解していた。言ってみれば彼は何もしない事で生き延びてきたのだ。
(だが、これからは今までのようにはいかんだろうな……)
朔耶を求めた結果、皇帝として生かされないのであれば、朔耶を諦めるか、人生を諦めるか、平穏を諦めるか。
バルティアにはそんな選択肢が突きつけられていた。
生かさず殺さず、自分ではない弱者の命のみが消費されていた今までの暗殺ごっこは、裏の支配者からの警告だった。
お前の命などいつでも消せるという警告。
今朝、それは遂に本物の殺意となって、バルティアの傀儡皇帝としての役目を終わらせようとした。
覚悟を決めなくてはならない。
「サクヤ」
「なに?」
「余に、力を貸してくれ」
* * *
帝都城の深い場所。
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