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1巻
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しおりを挟む序章
週末の夕暮れ前。人気の無い寂れたバスの停留所に、赤いジャケットを羽織った小柄な少女が一人、傍らのベンチに置いた大荷物に背を預けながらポツンと立っている。
「まいったなぁ……」
ここまで乗ってきたバスは既に行ってしまった。傍にある錆びの浮いた時刻表を見ると、次の便は明日の朝八時発になっている。
そろそろ連休も終わりに近づいた土曜日、友人に河原でのキャンプに誘われ、大荷物を背負ってやってきた女子高生、都築朔耶は、降りるバス停を一つ間違えてしまい、今の状況に至っている。
「連絡のしようもないし……」
携帯は既に圏外。地図を取り出して現在地を割り出し、本来の目的地であるキャンプ場の方角を眺めると、そこにはなだらかな小山。どうやらこの向こう側にキャンプ場があるらしい。
日は大分傾いたものの、沈むまでにはまだ時間がありそうに思えた。
「この山を越えれば、向こうに合流できるかな?」
幸い目の前の山は丘のような高さで、大して険しくもなさそうだ。都合よくキャンプ場へ行く車が通るとも思えず、徒歩で山を越えた方が良いと判断した朔耶は、荷物を背負い直して歩き出した。
山の入り口にはハイキングコースらしき絵が描かれた看板が立っており、コースの一つは山の向こう側のキャンプ場に繋がっている。ルートは簡単、ただ道なりに登っていけば良い。
「良かった、思った通りだった」
これで夜になる前には到着できるはず。降りるバス停を間違えたのは笑われそうだが、こちらから逆に話のネタにすればいい。朔耶はそんな事を思いながら、舗装されていないハイキングコースを登り始めた。
そうして二十分ほど経過したかという頃。日暮れは朔耶の予想より随分と早く訪れ、木々の合間から見える空はすっかり茜色に染まっていた。太陽はこの山の向こう側に沈んでいるので、完全に日が暮れる前に頂上まで登れば、沈む夕日を二度見られるかもしれない。
それはそれで面白そうだとペースを速める朔耶。そうでなくても、急がなければ街灯もない山道はいずれ言葉通り真っ暗になるだろう。
「ん?」
その時、ふわりとした気配が朔耶の身体を包み込んだ。
暖かい空気の塊にぶつかったような奇妙な感覚。ふと気が付くと、目の前には草の壁。腰ほどもある蔓草が行く手を阻み、立ち並ぶ木々の間には薄暗い闇が続いている。
雑草も多くほとんど獣道のような細い道だったから、よそ見をした隙に外れてしまったのか。
引き返そうと振り返ると、何故かそこにも同様に草が茂っていた。
「あれ……?」
ハイキングコースの道が無い。自分が立っている場所が、ぐるりと背の高い草で囲まれている。奇妙な事に、自身が歩いてきた痕跡すらどこにも無かった。
「……何、これ」
朔耶はしばし呆然とし、それから状況を整理しようとする。しかし、考えれば考えるほど恐怖が募る。自分はどこに居るのか? ここはどこなのか? いつの間にか遭難してしまったのだろうか?
「待て待て、落ち着け……まずは状況確認でしょ」
ゆっくりと深く息を吐き、不安と驚きで悲鳴を上げかけている心を落ち着かせる。じわじわと締め付けられるような胸の感覚を解きほぐしながら、周囲の様子をじっくり観察した。
「……?」
どこからか水の流れる音が聞こえる。近くに沢でもあるのかもしれない。とりあえず川でも見つければ、それを辿って麓まで下りる事ができるだろう。突然知らない場所に立っていたという現象は不可解だが、町まで下りられれば何とかなる。そう判断した朔耶は、水音のする方向を目指して歩き出した。
頭上を覆う枝葉の間から見える空は、茜色から蒼暗い夕闇の色に変わり始めていた。
――同じ頃。
身の丈程もある草を掻き分けて、金色の髪をした少女は必死に走る。背後から迫り来る追手への恐怖が、竦みかける足に力を与える。防具の金具が擦れ合う音だろうか、複数の金属音が追跡者の存在を彼女に知らしめた。
隣国ティルファの式典よりの帰り道、国境の森の半ば辺りで突然現れた武装集団。安全なはずの自国フレグンス領内での襲撃。御者が内通していたらしく、馬車を護っていた近衛騎士団とは早々に引き離されてしまった。
森の奥深くまで馬車ごと連れ去られる途中、方向転換の為か馬車が速度を落とした隙に思い切って飛び降り、助けを求めて走り出した。
「ハァ……ハァ……ハァ……――精霊よ、風の加護を我が身に――」
効果の消えかかっていた『風の加護』の術を再び唱えて身体を軽くすると、息をつく間も無く再び走り出す。装飾が控えめとはいえ、裾の膨らんだドレスは森の中を移動するのに不向きな事この上ない。腰まである軽いウェーブの掛かった金髪が時折小枝に絡まり、痛くて泣きそうになる。
彼女の名はレティレスティア・フィリス・フォルティシス・フレグンス。大陸の列強四国の中で最も豊かな国であり、そして『精霊の国』とも呼ばれるフレグンス王国の第一王女である。
フレグンスでは魔法はあまり一般的ではないが、王族は代々高位の精霊術士の血筋であった。
魔力を糧に、特定の手順を経て諸現象を起こす『魔術』とは異なり、精霊の力を借りる『精霊術』には、精霊と心を通わせる交感能力が必要不可欠なのだが、フレグンスの王族は総じてこの能力に優れていた。
レティレスティアも六歳の頃からこの能力を発揮しており、十六歳にして『準導師』の称号を得る程の術士だった。知の都と称される隣国ティルファの式典に招待されたのも、優れた精霊術士としての論説を依頼されての事だった。
ただ、この時期の国外訪問には父王や宰相も難色を示していた。ティルファを挟んだ向こう隣の、グラントゥルモス帝国に不穏な動きがあるという報告が密偵からもたらされていたからだ。
『最近即位した若き皇帝は大陸の覇権を狙っている』
それを裏付けるように、グラントゥルモスには連日多くの傭兵が集められ、商人国家キトから買い付けた大量の武器が城に搬入されているとの噂もあった。
(やはり、グラントゥルモスの手の者かしら……?)
日の落ちた暗い森の中、執拗な追跡を振り切ろうと右に左にと木々の間を駆け抜けながら、レティレスティアは襲撃者の正体について考える。かの国が近々大陸制覇に乗り出すという話は既に近隣諸国の知るところであり、フレグンスも各国同様、戦に備えて騎士団の整備を行っていた。
(私を暗殺するのではなく、わざわざ攫おうとするのは……)
そこまで考えた時だった。
「っ!」
突然目の前が真っ白に染まり、視界を奪われて思わず立ち竦む。数瞬の後、何者かによって光を向けられている事に気付いた。
(回り込まれた!?)
咄嗟に身構えるが、攻撃用の精霊術は未だ実戦で使った事は無い。そもそも実戦自体これが初めてなのだ。緊張して息が上がる。訓練の時はあらかじめ守護の結界を張り、怪我をしないよう万全の準備を整えてから炎の精霊との交感を始めていたのだが、森の中を散々走り回り、何度も『風の加護』を使って肉体的にも精神的にも疲弊している今の状態で、果たしてまともに闘えるのか。
不安に押し潰されそうな心を鼓舞するように、優しくも厳しい精霊術の師でもある母の教えを思い出しながら、レティレスティアは炎の精霊の力を発現する言葉を紡ごうと、息を吸う――
と、その時、自分に光を向ける相手が初めて聞く言葉で何か話しかけてきた。
まったく敵意を感じない、それどころか困惑の色さえ帯びたその声に、吸い込んでいた息は疑問形の声で吐き出される事になった。
朔耶は驚きと戸惑いに一瞬呆けてその人物を見た。すっかり日も暮れ、周囲は文字通り真っ暗。
荷物の中から取り出した懐中電灯で確保した狭い視界の中、ようやく見つけた川岸に沿っていざ歩き出そうとした時だった。ガサガサという音に振り返ると、木々の奥から物凄い勢いで飛び出してきた一人の少女。
外国人らしきその少女は、何故かドレスを纏っていた。裾の広がったスカートにはあちこち擦り切れた跡や破れがあったが、高級さを感じさせる金糸の細かい刺繍と控えめな装飾は、少女の長い金髪と同様、懐中電灯の光を反射してキラキラと輝く。
朔耶は思わず「何故こんな場所でドレスの金髪少女?」と固まったが、相手もこちらを見て驚いたように固まっている。まるでどこかのお姫様のような少女は、しかしすぐに警戒心も露わにこちらを睨みつけた。
(ああ! もしかして誰かの私有地に入り込んじゃってた? ……それもなんだかロイヤル~な外人さんのっ。でもって実は近くに城みたいなお屋敷が建っててココはその庭の一角だとか! げっ、あたし不法侵入者じゃん!?)
これは急いで誤解を解かねばと思考をめぐらせる。
(不可抗力、不思議現象、迷子……うん、迷子が一番今の自分を正確に表してる……)
「あ、あのぉ……」
「ェイ?」
ふっと少女の警戒が薄れた。
「えっと、実は迷子になっちゃって……決して怪しい者ではないです、ハイ」
「サァエィエムピィレェ?」
(う、言葉分からん……どうしよう)
聞いた事のない言葉に、朔耶はどうしたものかと迷っていると、少女はすっと手を伸ばして朔耶の額の辺りに指を添えた。
「え? な、なに?」
「オォダァタヴェィヂ……。――コォルヴシデセアデルゥセェドマァ――」
少女は言葉とも音ともつかないような声で何かを呟く。途端、朔耶の頭の中に水が流れ込んでくるような不思議な感覚が走った。
「わっ、うわっ……何これ!?」
「『疎通の加護』を使いました。これを……」
少女はそう言って自分の指に填めていた指輪の一つを外すと、事態についていけずアワアワしている朔耶の手を取ってその指に填める。
「私はフレグンス王国の第一王女、レティレスティア・フィリス・フォルティシス・フレグンスと申します。どこの国から参られた方かは存じませんが、魔術士様、どうか私に力をお貸し下さい!賊に追われているのです」
「へ? 王女……? 魔術士……? 賊……? って、この指輪」
「それは精霊の加護を永続させる指輪です。それを報酬としてあなたに差し上げます。不躾とは思いますが、なにぶん緊急事態ですので……どうかそれとひきかえに魔術士様のお力を!」
そこへレティレスティアを追ってきた集団が姿を現した。帷子を着込んで短剣を手にした男達が次々と木々の間から飛び出し、川岸で立ち竦む朔耶とレティレスティアを取り囲む。
その内の一人がターゲットである姫の隣に立つ人物を見て、一瞬怯んだ表情をした。
「気をつけろ、魔術士がいるぞ!」
男達は手にした短剣を構えて臨戦態勢を取った。朔耶が手にしている懐中電灯に警戒の眼差しを向けつつ、彼等のリーダーらしき人物が交渉を持ちかける。
「我々は無用な争いを好まない。魔術士殿、その女性をこちらに渡してもらおう」
突然刃物を持った集団に取り囲まれた朔耶は、現状に理解が追いつかない。
「あんた達……一体、なんなの?」
混乱する意識の中、ようやくそれだけ口にする。それはほとんど独り言のようなモノだったのだが、男達はこれを誰何と取り、律儀にもそれに応えた。
「我々はバルティア帝より直々に任を賜った者だ。所属と階級は言えない」
「バルティア帝! ではやはり、あなた達はグラントゥルモスの手の者ですか」
「いかにも。レティレスティア姫、既に退路はありません。我々と共に来ていただこう」
王族への敬意を込めつつレティレスティアに投降を促す集団のリーダーは、同時に彼女の隣で沈黙を続ける『魔術士』の動向に最大限の注意を払う。
魔術士には変わり者が多く、独善家で気難しいというのが一般的な認識だ。この件に関与しないつもりなら、その方がありがたい。駄目押しとばかりに、彼は言葉を続けた。
「いくら魔術士といえど、我等を相手に力を振るうにはいささか距離を詰められすぎている」
「……」
「少数とはいえ我等もグラントゥルモスの精鋭。当然、対魔術戦闘の心得もある。そちらの魔術士殿はたまたまこの事態に巻き込まれたとお見受けするが、無益な争いは好まぬ様子」
未だ沈黙する朔耶に縋るような目を向けたレティレスティアだったが、確かにこのまま巻き込めば、国家間の争いにまで引きずり込む事になり兼ねないと思い直す。
追っ手に追われ、森の中を独り彷徨った心細さからつい、目の前に現れた異国の魔術士に縋ってしまったが、よく見るとまだ歳若く、魔術士といっても恐らくは見習いの身であろう。そんな人物をこれ以上巻き込む事は躊躇われた。
「……分かりました。この方は私とは無関係です。害を加えない事を約束して下されば、大人しく投降しましょう」
「承知した。元より我々も事を荒立てるつもりは無かった。あなたの身柄を確保する事が目的ゆえ」
男が合図すると、部下らしき者が鎖の付いた革の輪のようなモノを取り出してレティレスティアに近付く。その拘束具を見たレティレスティアは一瞬、ビクリと肩を震わせて身を引いたが、気丈に踏みとどまった。
「失礼かとは思いますが、あなたの逃亡と精霊術を封じる為の処置です。危害は加えません」
屈辱的な扱いへの不安と怒りと羞恥で顔を赤くするレティレスティアだったが、現状ではどうする事もできない。大人しく従おうと一歩踏み出したその時――
「なんか……ムカつく」
低い呟きと共に、この辺り一帯を照らし出していた白い光が突然消え失せた。今まで眩しい程の光に目が慣れていた為、その場にいた者達は一瞬にして視界を暗闇に閉ざされる。
全員がぎょっとして呟きの主である若い魔術士の方を振り返ったが、その瞬間、目も眩むような鋭い閃光が瞬いた。
こんな森の中でうら若き乙女を追い回して武器で脅し、なんだかいかがわしい手枷足枷を装着させようとする変態コスプレ集団。朔耶には彼等の姿がそんな風に映ったのだ。
ついでに彼らは自分の事を『魔術士』等と呼んで警戒しながらも、何やら侮るような事を言っていたので、朔耶はなんとなくムッとしていた。
実は朔耶は、電車で痴漢にあったりすると、喜々としてエルボー&ニー+ストンピングを漏れなくプレゼントするような負けん気の強さの持ち主だ。ちなみに格闘オタクだった兄や近所の幼馴染からの「負けん気が強いんじゃなくて凶暴なだけだ」という意見は却下している。
おまけに機械弄りが得意な弟に感化され、普段から自分の道具に何かしらの改造を施して遊んでいる朔耶は、元は豆電球を使う一般的な懐中電灯も点滅回路等を組み込んだLED仕様に改造していた。
セーブモードの通常照射からいきなりスイッチを切り、皆の注目を集めたところで点滅照射モードでスイッチオン。
輝度四八〇ルーメンのストロボフラッシュライトが激しく明滅する。さっきまでとは比べ物にならないほど強烈な閃光に、それを見た者は文字通り目を眩ませた。
「しまった! 詠唱を行っていたのかっ」
集団のリーダーは慌てて防御態勢を取った。魔術士を前に視界を奪われるなど、まさに致命的なミスだ。続く攻撃に備え、後ろに跳び退って地に伏せる。
「こっち!」
「え!?」
その隙を逃さず、朔耶はレティレスティアの腕を引いて走り出した。
レティレスティアは、先程の光を直視していなかったのですぐに視界が回復していた。自分の腕を引いて駆ける若き魔術士に慌てて声をかける。
「あ、あのっ 魔術士様! 私一人で……」
「あたしは朔耶、ただの女子高生。魔術士とかそんなんじゃないよ」
ジョシコーセイとはなんだろう? と首を傾げるレティレスティアに、朔耶はどこか達観めいた微笑を向けながら尋ねた。
「ねえ、これって映画の撮影とかドッキリとかじゃないよねぇ?」
「は? あの……? 仰ってる意味がよく理解できないのですが……」
戸惑うレティレスティアに気にしないでと軽く手を振った朔耶は、今し方まで頭の中に響いていた『声』の事を思い出していた。先程突然言葉が理解できるようになった後、朔耶は自分の意識に語りかけてくる不思議な声に気が付いたのだ。
タスケテ タスケテ コノコヲ タスケテ
その声に意識を傾けた時、直接頭の中に情報が流れ込んできて、朔耶は自分の身に何が起きたのかを断片的にだが理解する事ができた。
あらゆる場所、世界、時間にあらゆる姿で存在する精霊。その精霊が、『コノコ』、つまりレティレスティアを危険から護ろうとした。
精霊は付近の植物や動物の意識に語りかけて助けを求めたが、動物達は殺気だった人間を恐れて逃げていった。精霊の語りかけには、対象を操れるような力は無い。
植物達は彼女の行く手を遮らないよう道を開け、逆に追っ手の行く手を阻んだが、遮る枝は断ち落とされ、絡みつく草は引き千切られ、少しばかりの足止めにしかならなかった。
精霊は、己の声を聞くことができ、更には人間に対抗できる存在を探した。その時たまたま近くの別世界に居た朔耶を感じ、彼女を『喚んだ』のだ。朔耶にとってはいい迷惑に他ならないのだが。
朔耶は先程のレティレスティアと武装集団のやりとりの間、そんな経緯を、何となくではあるが感じ取っていたのだった。
「なんだか知らないけど、あなたの事助けてって頼まれたし、さっきの連中変態だし……ここどこだか分かんないけどとりあえず逃げよう? きっと町まで行けば大丈夫だよ」
「は、はい……あの、頼まれたと仰いましたが……サクヤ様は誰かから私の警護の依頼を?」
「分かんない。さっきの頭の中に水が入ってくるようなアレの後、あなたを助けてーっていう声が、ずっと頭の中に響いてたの」
それを聞いてレティレスティアはハッとした表情になった。
「もしや、あなたは精霊の声を聞けるのですか?」
「精霊?」
(あの声の主が精霊という存在だったのかな?)
朔耶は先程の情報の中にそんな概念があったような気もするなぁと、かなり曖昧な肯定を返す。
その時、背後に迫る金属の擦れる音と土を蹴る複数の足音に気付いて振り返ると、さっきの集団が追いかけてきていた。
「うわ~まっずいなぁ……」
朔耶はキャンプ用の大荷物を背負っているのであまりスピードが出せない。レティレスティアも走るには向かない格好だ。これではすぐに追いつかれてしまう。何か護身用の道具は無かったかと、荷物の中身を思い出していると、レティレスティアが不思議な響きの口調で言葉を紡いだ。
「――精霊よ、『風の加護』を我等に――」
途端、ふっと身体が軽くなる。朔耶はレティレスティアが何かこの世界の『ファンタジ~』な力を使ったのだろうと深く考えない事にした。
「おお~身体が軽い軽いっ! 裸で走ってるみたい!」
「え! サクヤ様は裸で外をお走りに……?」
「お走りになるわけないでしょっ、ものの譬えよ譬え」
そんなどこか余裕のある会話をしながら川岸をひた走る。川岸は森の中に比べれば走りやすい。元々アウトドア派の朔耶は運動神経も良い方で、体力も平均以上。足も割と速い。
『風の加護』で身体が軽くなり、荷物の重さも感じなくなった朔耶は、この不可思議な現象に遭遇してからの鬱憤を晴らすかのごとく全力で走った。
そんな朔耶に手を引かれたレティレスティアも、今まで経験した事の無い速度に驚きながら走る。飛ぶような勢いで駆ける二人に、軽装とはいえ武具を装備した男達はどんどん引き離されていく。
「くそ……このままでは逃げられるぞ」
「隊長っ! フレグンスの近衛騎士団です!」
「……っ! 時間をかけすぎたか……仕方がない、任務は失敗だっ、戻るぞ!」
馬の蹄の音が近付いてくるのを聞いて姫君の確保を断念した集団は、リーダーの号令に踵を返すと次々に森の中へと姿を消していった。
追ってきていた集団の姿が見えなくなっても朔耶とレティレスティアはしばらく走り続けた。やがて渓谷のような岩場に出ると、ようやく足を止めて一息ついた。二人ともすっかり息が上がっている。
足元にはゴツゴツとした岩肌が続いている。森の中ではゆったりとした流れだった川も、幅が狭まった分勢いが増しているようだ。
「ふぅ~~もう……フゥフゥ……追って……フゥフゥ……こないかな? ふぅ……」
「ハァハァ……私……こんなに……ハァハァ……走ったのは……ハァハァ……初めてで……」
息も絶え絶えといったお互いの様子に、思わず顔を見合わせて笑ってしまった。朔耶は息継ぎと笑いに四苦八苦しながらどっかと座り込むと、背中のリュックからペットボトルを二本取り出し、上品にペタリと座り込んでいるレティレスティアに一本を渡す。
「これは?」
「水。こうやって開ける」
蓋を捻って開けるところを見せてから、中のミネラルウォーターを一気に呷る。レティレスティアは初めて見る不思議な容器に目を奪われながらも、朔耶に倣い蓋を開けて喉を潤した。
「先程の閃光の魔術はお見事でした。サクヤ様の流派は光を操る術に長けているのですね」
「だから魔法とかじゃないってば、コレはこういう道具。あと、あたしの事は朔耶でいいよ」
「分かりました、サクヤ。では私の事もレティとお呼び下さい……本当に助かりました」
「いいよいいよ、一緒に逃げただけだしさ。なんかアイツ等ムカついたんだもん」
一休みして呼吸も気持ちも落ち着いてきた二人は、これからどうしようかと話し合う。
「このまま川沿いを行けば途中で街道に出るはずですので、そこから近くの村に向かいましょう」
「村かぁ……やっぱりゲームみたいな中世っぽい雰囲気なのかなぁ」
「はい?」
「ううん、こっちの話だから気にしないで」
パタパタと手を振って誤魔化しながら、朔耶は「いつ帰れるのかなぁ~」等と考えていた。レティレスティアを助ける為に精霊達が自分を『喚んだ』のならば、彼女を無事に悪漢(?)から逃がした今、早々に『還し』てほしいモノだ、と。
そこら中にいるらしい精霊達に「還せ~戻せ~」と念じてみたが、返答は無かった。
と、その時、木々の間に複数の明かりが見えた。同時に響いてくる馬の蹄の音。
朔耶は「もしやさっきの連中か」と慌てたが、レティレスティアが立ち上がってそれを制す。
「あれは近衛騎士団です! 大丈夫、味方です。私の護衛をしていた者達です……良かった」
心底ほっとしたように顔を綻ばせるレティレスティアに、朔耶も胸を撫で下ろして荷物にもたれ掛かった。それからよっこらしょと立ち上がり、懐中電灯をそちらに向けて明滅させる。
さっきの目くらましに使ったような強烈な光では無いものの、結構離れた場所からでも見えるはずだ。案の定すぐに気付いたらしく、明かりの一つが列から離れてこちらに向かってくるのが見えた。他の明かりもその後ろに続く。
やがて一頭の馬が茂みから飛び出し、その背から白っぽい甲冑を着けた騎士らしき男がマントを翻しながら飛び降りた。身長程もある銀色の槍を肩に載せた精悍な顔立ちのその人物は、赤みがかった金髪を靡かせながらこちらに向かって走ってくる。
「イーリス!」
レティレスティアがその騎士のものであろう名前を呼んで駆け寄る。その声は、安堵と喜びと憧れのような響きを帯びていた。朔耶は「おーおーなかなか格好いいじゃん、イケメンじゃん」とか思いながらその様子を眺めていたが――
「姫、お下がりを!」
その騎士は何故かレティレスティアの横を走り抜け、槍を構えて朔耶の方へ向かってきた。
突然の事に反応できず、呆然とそれを見送ったレティレスティアは、イーリスが朔耶をあの集団の一味と間違えている事に気付き、慌てて制止に入る。
「イーリス駄目! その方はっ! ――精霊よ風の戒めを彼に――」
レティレスティアの放った『風の戒め』がイーリスを捕らえるのと、イーリスが朔耶に槍を突き出したのは同時だった。
「何!?」
鋭く突き出された槍の穂先は朔耶の心臓を貫こうとしたが、『風の戒め』に勢いを削がれて狙いが外れた。しかし、槍は朔耶の肩を突き刺してその身体を弾き飛ばす。
「嘘ーーー!」
そのまま川の中へと落下した朔耶は、あっという間に流されて見えなくなった。それを確認した騎士イーリスは、急所は外したものの危険は排除できたと安堵する。そして、攻撃の瞬間、自分の身体を急停止させたのはあの魔術士の防御魔法の類だろうと推測した。
「姫、ご無事でしたか」
「……なんて……ことを……」
レティレスティアは呆然とその場に立ち尽くす。その様子を訝しんだイーリスが声をかけた。
「姫? どこか、お怪我でも……」
「あなたは、なんという事を! あの方は……サクヤは私を助けてくれた恩人でしたのに!」
「……は?」
やがて次々と到着した後続の騎士達がそこで見た光景は。
大きな荷物に縋り付いて泣き崩れるレティレスティア姫と、川岸を見つめながら立ち尽くす近衛騎士団長の姿。
姫君と、その婚約者候補で次期国王と目されているイーリス団長の奇妙な様子に、他の騎士達はただ首を傾げるのだった。
(ぎゃーー溺れる溺れる! 肩痛い! 水冷たい! 精霊ーーっ! なんとかしろーー!)
真っ暗な川底を流されていた朔耶は、左肩の焼けるような痛みに大騒ぎしつつ、遠くなりそうな意識を繋ぎ止めていた。
その内、自然と身体が水面に浮いて呼吸を確保する事ができた。今着ているジャケットにフロートが付いていたのを思い出す。とりあえず、これで溺れる心配は無くなった。
「……あ~荷物、置きっ放しだなぁ……肩、刺されたのかな……痛いし……水冷たいし……このまま死んじゃうのはやだなぁ……。目が覚めたら、夢オチでもいいから帰れてますように……」
雨音のような川の流れる音に包まれ、夜空に瞬くたくさんの星々と、見慣れない緑色の月をぼんやり眺めながら、朔耶はゆっくりと意識を手放した。
「……あのイケメン……今度会ったら殴る……ムニャ……」
割と余裕があった。
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