同居生活

オジカヅキ・オボロ

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同居生活

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 生まれて二十六年になるが、梶原良にはどうしてもわからないことがあった。
 誰かの体温を肌で感じるのは心地よい。だがどうして従弟、かつ男の素肌の温度に、違和感ではなく、安堵を感じてしまっているのか。
 その答えはわかっていても、口に出そうとは思わなかった。
 
 
 
「良兄ちゃん、四年間お世話になります」
 ほとんど十年ぶりに再会した従弟の大城泰晴は、一言で言うなら大型犬だ。良より十センチ近くは上背があるだろう。顔付きもどちらかといえば優男の部類に入る良と違い、精悍だ。なのに笑顔は人懐っこい。
(こ、こんな従弟、いたか……?)
 たしかに従兄弟は何人かいるが、親戚の集まりにはしばらく顔を出していなかったし、本当にこんな従弟がいたのか覚えていない。見知らぬ何者かが従弟を騙ったとしても、良にはわからない。とはいえそんなことをして何の得にもならないのはわかりきっているから、やはり従弟の一人なのだろう。――見覚えはないが。
 良の動揺になど気付くはずもなく、泰晴は笑顔を向けてくる。
「面倒掛けないようにするんで、よろしくお願いします」
「あ、ああ……よろしく」
 戸惑いを隠して応じたものの、にこにこと微笑まれていると、何故か居心地の悪さを感じる。
 今日から、この従弟と同じ屋根の下で生活する。
(うまくいくかな……)
 誰かと暮らすのは初めてではない。だがほとんど何も知らない相手と暮らすのは、これが初めてだ。不安を覚えるのも仕方ない。一見する限り、泰晴は人見知りをしたり、気難しいということはなさそうな点は救いか。
 そんなことを考えていると、泰晴が急に申し訳なさそうな表情をした。
「下見の日、来れなくてすみませんでした」
「あ? ああ、構わないよ。勉強、忙しかったんだろ」
「っていうか、俺、熱出しちゃって」
「翌日入試だったんだって? 叔母さんが言ってた。それにしても前日熱出して、よく受かったよな」
「それは……どうしても、受かりたかったから」
「それで受からないヤツもいるんだから、もっと胸張れよ」
 部屋の下見に来た叔母は、年末までの模試の結果では東京の志望校はレベルが高くて難しく、多分県内で通うことになるだろうと言っていた。結果は見事志望校に合格したのだから、大したものだ。それに、そこまで頑張って合格した大学なら真面目に通うだろう。初めて家を離れる息子について、叔母は間借り以外の不安も色々と漏らしていたが、これなら大丈夫ではないか。
 素直に良が感心すると、泰晴は照れたように頭を掻く。そうしていると妙に幼く見えて、図体は大きくても、ついこの間まで高校生だったんだなとようやく実感できた。
「荷物、少ないんだな」
「とりあえず今必要な物だけ持ってきたんで、冬服とかはまた寒くなってから送ってもらうつもりです。どうしても必要な物ができたら、良兄ちゃんに相談して買えばいいって、母さんが」
 良の住んでいるマンションは2LDKだから、泰晴の部屋とは別々だ。これから泰晴が住む部屋には三ヶ月前まで先住者がいたのだが、すっかり空にして出ていったから綺麗なものだ。すでに生活に必要な家電類は良が持っているから共同で使えば問題はないし、部屋が物で溢れかえるより少ないに越したことはない。
「じゃ、さっさと片付け済ませちまうか」
「あ、片付けは俺一人で大丈夫ですよ」
「二人の方が早く済むだろ」
「でも、荷物少ないんで……あ、そうだ」
 今思い出したとばかりに、泰晴は自分で持ってきていた大きなスポーツバッグを漁りだす。すぐに重そうなビニル袋を取り出すと、両手で捧げ持って良に差し出した。
「これ、良兄ちゃんに」
「何?」
「母さんからなんですけど、引越祝いのビールです。後で一緒に飲みましょう」
「そりゃありがたいけど……未成年だろ、おまえ」
「俺の分はアルコールフリーですよ」
 ほら、とわざわざ袋の中からアルコール0%を謳ったビールを見せてくれた。なるほど、これなら未成年でも大丈夫か。
「これ、飲んでて下さい。すぐ片付けちゃうんで」
「っていっても……まあ、ツマミでも作るか」
「料理できるんですか」
 意外そうな顔をする年下の従弟を、良はむっと睨み返す。
「おまえ、一人暮らしを馬鹿にするなよ。って言っても、料理するようになったのは最近だけど」
「あれ? でも良兄ちゃんって、大学卒業してからずっと一人暮らしでしょ? 今までの三年くらいはどうしてたんですか」
 不思議そうな問いかけに、良は小さく肩を竦めた。
「ルームシェアしてたヤツが料理うまかったから、だいたいそいつが作ってたかな」
 年末までこの部屋にいた同居人のことを頭に浮かべたが、すぐに打ち消した。彼とは年末に喧嘩して以来、一度も連絡を取っていない。三カ月以上経っているが、まだ良の中では苦さを持った記憶だ。
 胸に湧いた苦味を打ち消すように、良は息を吐いて軽く肩を竦める。
「まあ、やってれば何とかなるもんだよ。一応食える物は作れるから、早く片付け済ませろよ」
「……わかりました」
 泰晴が怪訝そうな表情をしていたような気がしたが、良はビールを受け取るとすぐにキッチンへ向かってしまったため、よくわからなかった。
 
 泰晴の引っ越しの片付けは本当に早かった。
 普段料理をしない良が作れる料理など炒め物程度だが、肉と野菜と格闘している間に、あらかたの段ボールは畳まれていた。必要最小限の家具は業者が設置していったとはいえ、それを差し引いても、段ボール七箱分を片付けるにはかなり早い。たとえ料理する良の手際が悪いという事実を差し引いたとしてもだ。
「俺も何か手伝いましょうか」
「料理できるのか?」
「うちでは食事は当番制でしたから、たいがいのものは作れますよ」
「へえ……じゃ、今度作ってくれよ。今はもう、できたから」
 量だけはある肉野菜炒めを大皿に盛りつけると、冷凍庫で強引に冷やしたビールを取り出す。洗い物が増えるのでグラスも取り皿も出さなかったが、泰晴は特に文句もない様子で、キッチンの大皿をダイニングテーブルへと運んだ。
「じゃ、お疲れ」
「よろしくお願いします」
 缶を軽く合わせ、ぐびぐびと炭酸を流し込む。最近は外でしか酒を飲む機会がなかったから、家で飲むことに新鮮さを感じた。
「はー、うまいっ」
 満足げに呟き、芯に火が通りきっていないキャベツをつまんで口の中へ放り込む。泰晴はにこにこと愛想の良い笑顔を浮かべて、初めて食べる従兄の手料理に箸をのばしていた。
(なんか……思ったより平気かも)
 この部屋で誰かと食事をするのも、本当に久しぶりだ。それが血が繋がっているとはいえ、ほとんど見知らぬ他人だなんて。とはいえ、三ヶ月前まで同じ屋根の下にいたのは、血も繋がっていない赤の他人だったのだが。
 思い出したくないわけではないが、思い出していい気分になるわけでもない。ビールの泡よりもほろ苦い、後味の悪さだけが残る。
 溜息をビールと一緒に勢い良く飲み込み、一本目の缶を空ける。冷凍庫からさらに二缶取り出してテーブルに置くと、泰晴が目を丸くした。
「……何だよ」
「いえ、ペース早いなって……」
「普通だろ。それよか、おまえ全然飲んでないんじゃないか? 遠慮せず飲めよ」
「あ、はい」
 はいと言いながら泰晴のペースが速まることはない。どちらかといえば飲まないようにしているようにも見える。飲み方は人それぞれだからいいかと思いながら、良はさっさと二缶目も飲み干して、三缶目に手を伸ばした。
 肉野菜炒めは、つまみとしてはほどよい塩味で悪くはないが、残念ながら野菜が少々生焼けだった。多少歯ごたえがある方がつまみらしいなどと良は内心言い訳したが、これからの料理や泰晴に任せた方がいいのかもしれない。泰晴の料理の腕がどれほどかは知らないが、実家で料理をしていたのなら、少なくとも生焼けの炒め物を出される心配はない。
(それにしても……)
 視線を何気なく泰晴へ向ける。
 広すぎる2DKから今更引っ越すのも面倒だし、相手は従弟だし――とルームシェアを承諾したはいいものの、数年前に会ったはずの従兄弟たちと泰晴がどうしても結び付かない。良兄ちゃん、良兄ちゃんと慕ってくれる従弟は確かにいたが、その子と特別仲良くしていたという記憶はなかった。
(あれ? でもそれって……)
 泰晴の方も同じではないか。
 ふと気付く。
 泰晴も条件は良と同じだ。
 まして泰晴の方が八つも年下。良ですら十年以上の前のことはうろ覚えなのだから、幼かった泰晴がどれだけ自分のことを覚えているだろう。泰晴にとっての自分もほとんど他人に近いのではないか。
(それに、俺ってお目付け役みたいなものだしなあ……気、遣わせてるかな)
「なあ、泰晴……」
 声を掛けてから、泰晴がテーブルに突っ伏しているのに気付いた。
「おい……?」
 手を伸ばして肩を揺さぶってみるが、反応はない。疲れて眠ったということがあるだろうか。
(そんな、赤ん坊じゃないんだから)
 自分の考えを否定しているうち、泰晴の耳が赤いのに気付いた。席を立って泰晴の顔を横から覗き込むと、なんと真っ赤になっていた。
 ――まさか。
「……アルコール0%のビールで酔っ払ったとかいう……?」
 言葉は呆然と唇から零れた。頬に触れてみると、やはり熱い。先程まで普通に動いていたし、いきなり熱を出したということもないだろう。とすると、やはり考えられるのは酔っ払った、ということだけだ。
「どんだけ弱いんだよ、おまえ」
 思わず笑ってしまう。笑われたことにすら気付いていない泰晴は、良の手に頬をすり寄せるように身じろぎした。そんな姿はまるで子供で、ふと胸の奥底にしまい込まれた記憶が、ほんの少しだけ浮かび上がる気がした。
(まったく、先が思いやられるなあ)
 自分より体格の良い泰晴を苦労して担ぎ、彼の新居となる部屋のベッドへ運んでやる。
 寝顔は本当に子供のようだ。いや、まだ子供とも言える年齢なのだから当然か。
 どこか見覚えのある泰晴の寝顔に、良はようやく、ほんの少しだけ親しみを覚えることができた。



 最初はどうなることかと思っていた従弟との同居生活も、二ヶ月が過ぎる頃にはそれが当たり前の日常生活になっていた。そのせいか、泰晴の口調もくだけてきている。
 家に帰って部屋に人がいるのが結構悪くない、などと思うようになって、良はそんな自分に苦笑してしまうこともあった。数ヶ月前まで、もう誰かと住むのはごめんだと思っていたというのに――決して泰晴の作る料理につられているわけではない。
「良兄ちゃん、ソーセージはこっちのが安いよ」
「よく知ってるな」
「そりゃ、普段スーパーに来てるの俺だしね」
 泰晴が自慢げに言うのが子供っぽくて、噴き出しそうになるのを堪えながら受け取ったソーセージを籠の中へ放り込む。
 今日のメニューはトマトスープと白身魚のムニエル、サラダらしい。トマトの料理が食べたいとのリクエストに泰晴が応じてくれたのだ。普段良が泰晴の料理に注文を付けることはほとんどないが、今日は別だった。
 つい数日前、泰晴は大学の同級生たちとの飲み会に珍しく出席し、予想通り酔い潰れてしまった。居酒屋から家まで連れ帰ったのも介抱したのも良だ。良自身に潰れた経験はなくても、若い頃には誰もがやらかすことだし、酔っ払いの介抱は慣れている。それでも泰晴は良の手を煩わせたとしきりに恐縮するので、それならと食事のリクエストで相殺することにしたのだ。
 家族連れでごった返す週末のスーパーで男二人というのは、目立つと言えば目立つ。だが良は慣れていたし、泰晴も気にしている素振りもなかった。泰晴に関して言えば、どこか嬉しそうでもある。
 小さい頃も、泰晴はこんなに自分を慕ってくれていたのだろうか。そうと思うと微笑ましい。
(どっちかっていうと上機嫌な大型犬を散歩させてる気分だけど)
 そんな不埒な考えを読み取ったようなタイミングで泰晴が振り向いてきたので、良は慌てて「あとは?」と問いながら平静を装う。
「良兄ちゃんは肉多いほうがいい?」
「そうだな……あったら嬉しいかな」
「じゃ、後は鶏肉」
「ソーセージ入れるのに?」
「トマトと鶏肉は合うんだよ。ソテーしてからスープに入れたら美味いから、絶対」
「単におまえが鶏肉好きなんだろ」
 カレーも基本的に鶏肉だし、ホワイトシチューも鍋もグラタンも肉は鶏肉だ。食費に関しては泰晴に全面的に任せているから、鶏肉の方が値段が安いという理由もあるのだろうけれど、それにしても鶏肉が多い。後は豚肉くらいで牛肉はほとんどない。
 それで特に不満がないのは泰晴の料理が美味しいからだった。味付けも良の好みで、食べ過ぎてしまうこともしばしばだった。
「経済的だし美味いんだからいいだろ」
「ま、美味けりゃ俺はなんでもいいけどさ。お前が作るものに文句はないよ」
 肩を竦めた良は、泰晴が妙な顔をしているのに気付き、怪訝に思って覗き込む。
「おい、どうした?」
「別に……俺、料理できて良かったなあって」
 喜びを隠しきれていない笑顔。照れまじりのその表情に、良は首を傾げた。
「……? そりゃ、できないよりできた方がいいだろ。最近はそういう男がもてるっていう話も聞くし」
「別にもてなくていいよ。良兄ちゃんが美味いって思ってくれれば、それで」
「おまえ、そういうことは女の子に言ってやれよ」
 背も高いし顔も整っているし優しいし気が利くし、おまけに料理もできる。これでもてないはずがないだろうと良は思う。身内の欲目というのもあるかもしれないが、贔屓目を差し引いても、見てくれはそのへんの男より良い。こういう見た目だったら営業も少しは楽になるだろうか――などと不埒な考えが頭を掠めるが、すぐに無意味な妄想だと気付いて打ち消した。できた年下の従弟がいてもあまり劣等感を感じずに済むのは、泰晴が良を慕ってくれているお陰もあるし、どう頑張っても良に敵わない部分があるせいかもしれない。
 一通り必要なものを籠の中に入れてしまうと、良は慣れた足取りで飲料の売り場へと向かった。目当ては勿論、ビールだ。後からついてくる泰晴が良からさり気なく籠を受け取ると、中へ入れられたビールに気付いて眉を顰める。
「また飲むの?」
「いいだろ、別に。休みなんだし」
「そうかもしれないけど……」
「なんだよ」
 言い淀む泰晴の顔をじっと見つめてやれば、泰晴は項垂れて小さく溜息を吐いた。
「いや……いいよ……」
「男ならちゃんと自分の考えを言えよ」
「……俺も飲むの?」
「一人で飲んだってつまらないし、飲めないと将来苦労するぞ! ま、将来のための訓練だとでも思えばいいよ」
「…………」
 泰晴が渋い顔をする理由はわかっている。人並み外れた酒の弱さを気にしているのだ。
 良の学生時代にも下戸の友人がいたから差別するつもりはないが、泰晴の見た目が良いだけに、良としては弱点を見付けられたことが嬉しい。これで泰晴が大酒飲みだったなら、今ほど気安い同居生活にはなっていなかったかもしれないと思うほどだ。
 そのことを抜きにしても、実際社会人になれば嫌でも酒を飲む機会は出てくる。そんな時にまったく飲めないでいるよりはいいだろうと、ある種の親切心があるのも事実。少し揶揄ってやろうという大人げない悪戯心があるのも、また事実。
 泰晴は諦めたように、いつものアルコール0%のビールを籠へ入れた。そうして青果売り場へ視線をやると「あ」と声を上げる。
「オレンジ安くなってるよ。良兄ちゃん、オレンジ好きだったでしょう」
「……よく知ってるな」
 そんな話したっけ、と首を傾げる良に、泰晴は笑って首を振る。
「昔よく食べてたから、今でもそうかなって思っただけだよ」
 そういえばお盆に親戚で集まった時に、必ずといっていいほど出されるフルーツ盛りのオレンジを、ひたすら食べていたような気がする。
(そんなことあったっけ。よく覚えてるよなあ)
 泰晴の方が幼かったはずなのに、良自身が忘れていたことまでよく覚えているものだ。単に泰晴の記憶力が良いのか、それとも良が誰かの記憶に残るほどオレンジを貪り食べていたのか。できれば前者であってほしい。
 泰晴は五個入りのパックを手に取ると籠へ入れる。鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌の横顔を見るのはそんなに悪くはない。そんなことを思いながら、良は泰晴とレジへ向かい、会計を済ませた。
「あれー、大城くんだ!」
 声を掛けられたのは、スーパーを出たところだった。
(誰だ……?)
 泰晴を振り返ると一瞬驚いた表情をし、次いで仏頂面に変わった。そんな顔を見るのは初めてなので、内心で驚いてしまう。
 明るい茶のロングヘアを緩く内巻きにした女の子は、良に気が付くと「こんにちは」と愛想良く軽く会釈する。
 くりっとした目が小動物のようで、小柄のなかなか可愛い女の子だ。
「美佳って言います。大城くんの大学の同級生です。……お兄さんはこの前、大城君を迎えに来た人ですよね」
 この前というのは、泰晴が潰れた飲み会のことを言っているのだろう。頷くと「やっぱり!」と嬉しそうに手を合わせる。
「あの後、あのお兄さんカッコイーって、ちょっと話題になったんですよ」
「そうなの?」
「ホントですよ」
 褒められて悪い気がする人間はいない。良もそうだったが、泰晴が「それで」と不機嫌そうな表情と声で会話に割り込んできた。
「何の用?」
 背が低いせいだろうか、女の子は泰晴と話す時は顔を覗き込むようにして見上げている。
「何の用って、スーパーに買い物だけど。私の家、すぐ近くだし。……大城くんてこの辺だっけ、家」
「ああ。俺の家ってか、従兄の家だけど」
 答える泰晴は、先程から変わらない仏頂面だった。いや、渋面に近いかもしれない。
(この子と何かあったのか……?)
 今まで一緒に暮らしていて、泰晴のこんな表情を見ることがなかった。いつも人懐こい笑顔で接してくるから、外でもそうなのだろうと自然にそう思っていた。が、考えてみれば大学やバイト先での泰晴を見たことがあるわけでもない。
 女の子は無邪気に笑顔を向けてくる。屈託がない様子は、少なくとも女の子側に問題があるようには見えなかった。
「じゃあ、こっちのかっこいいお兄さんが従兄?」
「そーだけど」
 声すら冷やかで、良は内心はらはらだった。仮にも同級生なら、もう少し愛想良くしてもバチは当たらないだろうに。そんな老婆心さえ湧く。
「ほんとに従兄のお兄さんの家に住んでるんだ?」
「前そう言っただろ」
「あの時は、他の女の子の攻勢がすごかったじゃん。だからテキトーなこと言ってるのかと思ってた」
 明るく笑う彼女は、泰晴の仏頂面も冷やかな対応も気にならないらしい。大学での泰晴はこれで普通なのだろうか。そう考えると、良はほとんど泰晴のことを知らないのだと気付く。
(そういえば……大学の話とか、あんまり聞かないかもしれないな)
 ほとんど毎晩のように良の帰りが遅く、泰晴もバイトに精を出しているから家で顔を合わせる時間が少ないせいもある。休日にはこうして一緒にいることが多いが、どちらかといえば泰晴が良の話を聞くことが多い。
 この女の子は良の知らない泰晴を知っている。
 そう思うと興味が湧いてきた。女の子に対してというより、大学での泰晴に対してだ。
「マキとかユウコも疑ってたから、言っとくよ。ホントに従兄と住んでるって」
「ああ」
 会話が途切れたのを見計らって「あのさ」と話を切り出す。
「美佳ちゃん、だっけ。泰晴と仲いいの?」
「友達ですよー、普通の」
「そうなの? じゃあさ、」
 大学での泰晴はどんな風なのか。
 訊こうとした時、隣の気配が消えた。振り向くと、すたすたと泰晴が歩き出している。前触れのない行動に良は慌てて、向けられている背に声を投げる。
「ちょっ、泰晴! 待てよ!」
 女の子にごめんねと一言残し、ビニル袋を下げた長身を小走りに追いかける。お兄さんバイバイ、と女の子の声に見送られながら数歩後ろをついていく。
 どうも不機嫌のようだが、理由がわからない。
「泰晴、待てよ」
 声をかけると、ようやく歩調を落としてくれた。隣に並ぶと、顔を覗き込んでやる。
「おまえ、大学ではいっつもあんななの?」
「……何が?」
「あんなぶすっとしてさ。無愛想っていうか……あの女の子は驚いてなかったみたいだったから」
「別に、普通だよ」
 そう言いながら、いつもの泰晴ではないのは明らかだ。先程の状態を引きずっているとでも言おうか、どこかぎこちないし、素っ気ない。それが気になって言葉を重ねる。
「嘘つけ。いつもと全然違っただろ。今だっていつものおまえと違うし」
「…………」
 指摘すると黙り込んでしまう。子供か、と内心で突っ込んだ。
 実際中身はまだまだ子供なのだろう。大人なら上手く流してしまうに違いない。
 そんな器用さが泰晴になくてよかったとも思う。そつがなさ過ぎる相手とは、一緒にいても息が詰まってしまう。泰晴がそんな人間でなくて安心していると、悪戯心が不意に湧いてきた。
「さっきの子って、この前のコンパにいた子なんだろ」
「コンパっていうか……ただの飲み会」
「似たようなもんだろ。さっきの感じだと、おまえ、だいぶもててるみたいじゃないか」
「別に……どこに住んでるかとか遊びに行っていいかっていうから、従兄ん家だから駄目だって言っただけだし。他にもそういうこと訊かれてた奴いたし」
「謙遜すんなって。もてないよりいいんじゃないか。あ、でも彼女とかできても家に連れ込むなよ」
「ないよ」
 強い否定の語調に驚いて泰晴の顔をまじまじと見つめる。
(……あれ?)
 そんなにおかしなことを言ったか。思いがけないほどの強い否定は、良の首を傾げさせるのに充分だった。
 これくらいの冗談は友達同士でも言い合うレベルだと思ったが、そうではないのか。怪訝そうな良の視線に気付いたのか、泰晴はしまったという表情をする。そうして視線を逸らしながら不機嫌そうに口を尖らせた。
「……そういう良兄ちゃんこそ、彼女とかどうなんだよ」
「嫌なこと言うね、おまえ。いたらお前とのルームシェア、オッケーしてないだろ」
「前一緒に住んでたのって彼女じゃないの」
「そんなわけあるか。会社の元同期だよ」
 肩を竦めると、泰晴はほっとしたような興味が湧いたような、微妙な表情をした。
「……へぇ……なんで出てったの? 結婚か何か?」
「いや、ちょっと喧嘩して……まあ結局そいつは実家に帰ったんだけど」
 曖昧に濁した言葉に泰晴は「ふーん」と寄越したきり、すっかり黙り込んでしまった。納得したのか、してないのか。だが良はそれ以上は何も言わなかった。突っ込んで訊かれなかったことに少なからずホッとしていたのが正直なところだ。
 その後は互いに無言のまま、ぎこちなさを引きずって家に帰った。



 名を呼ばれた気がして、良は顔を上げる。
 目の前にいる誰かが笑った気がした。目を凝らしても顔はよくわからず、けれどまったくの見知らぬ他人ではないと、何故か知っている。
 唇に、何かが触れた。あたたかくて、柔らかな感触。何者かわからない相手の口付けだと一拍遅れて気付いたが、嫌悪感はない。ぬるりとしたものが上唇を舐めて歯列を辿っても、良は当然であるように受け入れた。薄く口を開き、それが口内へ侵入するのを許し、動き回るのを陶然と感じる。
 角度を変えて深く貪られ、思わず相手の背へ腕を回す。固い背、回りきらない自分の腕。相手の体格は自分よりいいようだと頭の隅で思った。
 当然、女のはずがない。
 そこへ思い至っても抵抗しようという気は不思議と起きなかった。それどころか、心地よさにいっそう身を委ねていたいとすら思っている。
 鼻にかかった息が漏れると、舌を吸い上げられた。甘噛みされると、全身に何ともいえぬ痺れが走る。離れようとする相手の唇を追おうとして――
「……う……」
 けたたましいベルの音に意識を覚醒させられた。心臓がばくばくと跳ねている。
(ゆ――夢、か……)
 頭が起きてくると鳴り続けるベルを止め、溜息を吐いた。思わず部屋を見回す。
「良兄ちゃん、起きた?」
 開いていたドアから泰晴が顔を出す。良は慌てて平静を取り繕った。
「あ、ああ」
「ごはんできてるから、早く起きなよ。俺、今日は一限からだから先に出るよ」
「わかった」
 いってらっしゃいと見送ると、肺の奥から息を吐き出した。泰晴におかしいと思われなくてよかったと安堵する。
 最近、よくあんな夢を見る。
(……俺、どれだけ欲求不満なんだよ……)
 女の子相手ならまだしも。
 うちひしがれながら時計を見ると、もう一度溜息を吐いてから部屋を出、もやもやしたものを流すように洗面所で勢いよく顔を洗った。
 
 他には大きな変化もなく週が過ぎようとしていた金曜の夕方。
 メールの着信に気付いたのは、泰晴へ「これから帰る」とメールを打とうと携帯を開いた時だ。
 メールの送信主は年末までルームシェアしていた元同期、宮内成司だった。思わず目を疑う。
(なんで、今頃……)
 出て行ってから今まで、メールも電話も寄越された覚えはない。成司が出て行ったのも半年も前の話だ。どうして今更、連絡など寄越してきたのか。怪訝に思いながら受信画面を確認する。
 ――今、下にいる。一緒にメシ食おう。
(どういうつもりだ、あいつ)
 喉まで出掛かった言葉を飲み込んだのは、同僚が「お疲れ」と声を掛けてきたからだ。
「お疲れ様です」
 営業で培った笑顔で返すと、携帯をぱくんと閉じて短い溜息を吐いた。
 どうしよう――どうすればいい。
 下で待っているということは、ビルの出入口にいるのだろう。帰るためにはどのみちそこを通らなければならない。顔を合わせるのは避けられないということだ。
 同僚たちが次々とオフィスを出て行く。お疲れ、と言葉を投げたり投げられたりしながら、机に頬杖をついた。パソコンの電源も落としてしまったから、あまり長々と席に座っているのもおかしいか。せめて資料を眺めているフリでもしておこうと、適当な書類を机の上に広げる。
 こうして考えているだけでは何も進まないことはわかりきっている。だが成司のメールは不意打ちすぎて、どう捉えていいのかわからない。
 あんなことがあってよく連絡を寄越す気になれたものだという気持ちと、半年以上時間が経っているのにまだ根に持っている自分に呆れる気持ちがせめぎあっている。
(俺ってこんな女々しかったっけ――?)
 そんなはずはない。
 握った拳にぐっと力を籠めた。
 どんなつもりなのかは会って話をしてみないことにはわからない。あの時のことを成司が忘れたふりをするなら、それもいい。その場合は殴って罵倒してやろう。そうでない場合は――その時考えればいい。こうしてうだうだと悩んでいるよりは、吹っ切れるはず。
 よし、と内心で気合を入れると、席を立った。
 
 ビルを出たところにいた成司は、良を見付けると軽く手を上げてきた。
「よ、久しぶり」
 軽い口調、見せる爽やかな笑顔は以前と変わりない。その様子にイラっときたが、人目がありすぎるところで殴るのはさすがに自制した。代わりに目つきと声が鋭くなる。
「どういうつもりだよ」
「そんな怖い顔するなよ。とりあえず、飲めるところ行こう。ちょっと歩くけど、いいところあるんだよ」
 言うと、くるりと踵を返す。ここまで来て引き返すのも馬鹿らしい。苛立ちを抱えながら、良は成司の少し後ろをついて歩いた。
 成司が真顔になったのは、とあるビルの中にある居酒屋に入ってからだ。ビールが二つ二人の前に置かれると更に真面目な顔になる。そんな顔を見るのはいつ以来かと考えていると、
「本当にすまなかった!」
 唐突に頭を下げられる。
 何事かと唖然とする良の前で、成司は頭を下げたまま更に言葉を重ねた。
「友達の惚れた女寝取るとか、すごい最低なことをした自覚はあるし、本当にすごく反省もした。あの時の態度も最低だったと思ってる。許してくれとは言わない。けど、ちゃんと謝りたいと思ったんだ」
 つい先程再会した時の、どこか軽薄な空気は欠片も見当たらない。顔を上げた時の真摯な眼差しは、口先だけではない言葉だと訴えている。
 年の瀬も迫ったあの日──、良は酔っ払った成司から爆弾発言を受け取ったのだ。
「あの子とやっちゃった」
 何を、と訊く前に理解していたが、頭が理解を拒否した。
 なんで、と呆然と呟いた良に、成司はどこか投げやりにな態度で返し、嫌な笑い方をした。
「飯食ってたらいい感じになっちゃってさ。そのまま、なんとなく」
 その後のことは思い出したくもない。
 拳を握れば、あの時成司を殴った痛みが甦ってきそうだ。
 良は肚に息を溜め、今は真摯な顔で自分を真っ直ぐ見つめる成司を、睨む強さで見つめ返す。
 あの頃良が忙しかったのは、成司もよくわかっていたはずだ。大型の案件がまとまりそうで、クライアントとの打ち合わせや顧客との接待に追われていた。ほとんど毎日、夜遅くまで奔走して──甲斐あって顧客はクライアントのテナントとして入居が決定したが、その代償のように惚れていた女への想いは消え、親友を一人失った。
 そうさせたのは、やはり成司だ。
(でも……後ろばかり見てたら、前に進まない)
 過去を責める気持ちと同時に、現在目の前にいる成司のことも考える。
(……こうやって俺に連絡してきたのも、多分すごく勇気が必要だったよな)
 改めての罵倒や拳の一発や二発は覚悟してきただろう。それは良を見つめる眼差しから伝わる。そのせいだろうか、怒りが再燃してもおかしくはない――にもかかわらず、今はもう成司を殴ろうとか詰ろうとかいう気にはならなかった。
 あれから時間が経って頭が充分過ぎるほど冷えたせいもあるだろうし、もしかしたら彼女に対しては所詮その程度の想いだったのだという、悟りめいた踏ん切りがついてしまったからなのかもしれない。
 思考の末、長い溜息を吐き出した。
 もう彼女に未練はとっくにない。
 成司はこうして良に真摯な謝罪を寄越してくれている。
 思い返せば、自分の非は非と認めることができる潔い男だったからこそ、三年もルームシェアできていたのだ。それなら、もう思い悩むことはない。
 短く息を吐くと、良は微笑んだ。
「……済んだことだろ。もう、いいよ」
「梶原……」
「別におまえが一方的に悪かったわけじゃないだろ。……俺も、あの時はカッとなって思い切りおまえのこと殴ったし」
「……顎が砕けるかと思ったよ」
 当時を思い出したのか成司は顎をさする。その仕草に笑いながらビールがなみなみと注がれたジョッキを成司へ差し出す。成司も同じようにジョッキを差し出し、照れ臭そうに「ありがとう」と小声で呟いてきた。
 わだかまりが解けてしまえば、元は親友だった者同士、会っていなかった間の互いの近況について盛り上がり、口が滑らかになるのと比例して酒量も増えていく。良の機嫌もすっかり上向いていた。
 店のビールを飲み尽くすのではないかというほど飲み、終電間際になって店を出た。
「相変わらずめちゃくちゃ飲むなあ、梶原」
「飲めって言ったのおまえだろ」
「まぁ、そうだけど……そういや梶原、おまえ、今どこに住んでんの」
 JRで帰るという成司に、良は当然の顔で返した。
「どこって、変わってないけど」
「え? まだあそこに住んでるのか?」
「ああ」
「一人じゃ広すぎないか? 家賃だって……」
「ああ、それなら大丈夫。春から従弟と住んでるんだ」
「従弟……?」
「ん。だから大丈夫。気を付けて帰れよー」
 手を振り、地下鉄の駅へ向かう。したたかに酔っ払っていたから成司の怪訝そうな表情にも気付かなかった。

 上機嫌の良が帰宅したのは、そろそろ日付が変わろうとしていた頃だった。
「ただいまー」
「おかえりなさ……って、良兄ちゃん酒臭いよ!」
「んー、しこたま飲んできたからなぁ」
 玄関から共用のダイニングに辿り着くと、クッションに抱きついてごろりと床に転がる。
「ちょっ、スーツに皺が寄っちゃうよ」
 自分のことでもないのに慌てる泰晴の様子がおかしくて、クッションを抱えたまま仰向けに寝返りを打つ。
「いいだろ、別に。俺は今機嫌がいい」
「スーツに皺寄るのと機嫌は関係ないでしょ。ほら、ちゃんと脱いでよ」
「ヤダね」
「子供じゃないんだから」
 スーツを何とか脱がせようとする泰晴に逆らいながら、ごろごろと床を転がる。困った表情をする泰晴を見るのが楽しくて仕方がない。
「何だってそんなに上機嫌なの。何か仕事でいいことでもあったの? そんなに楽しい飲み会だったんだ」
「飲み会っていうか……前ルームシェアしてたやつと飲んできただけだ」
「……それがなんでそんな泥酔なの」
「うん、まぁ色々あってあいつが出てった時の喧嘩、ようやく和解できたっていうか……」
 気分が良すぎるせいか、段々睡魔に襲われてきたのを自覚する。そのせいで泰晴の声音が硬くなったことに気付かなかった。
「そう、良かったね」
「あー、何しろ親友ってあいつくらいだったし……肚割って話せる奴って大事だよなあ。おまえもそういう奴いたら、大事にしろよ」
「……わかったから、起きなよ」
 自分でははっきりと喋っているつもりなのに、泰晴にはむにゃむにゃと不明瞭な寝言にしか聞こえない言葉を発しながら、良は眠りの世界へ引きずり込まれそうになる。
「ほら、良兄ちゃん。ちゃんと起きて……」
「なんだよ、いつも優しいくせに。おまえが起こして着替えさせてくれればいいだろー」
「な、何言ってんの」
 泰晴の動揺した声も耳に入らず、良は面倒そうに上体を起こすと傍にいた泰晴の脚にしがみつく。
「ほらー、脱がせろって」
 そのまま見上げると、泰晴は良から視線を逸らしていた。それが気に食わず、良は泰晴のジーンズを引っ張る。
「やーすーはーるー。早くしろってばー」
 催促しながら泰晴の脚にもたれ、ついうとうとと目を閉じてしまう。
 夢見心地でいると、宙に浮くような感覚と、しばらくして唇に暖かく柔らかなものが触れた気がした。
 重い瞼を無理矢理持ち上げると、視界一杯に泰晴の顔があった。
(な……何だ……?)
 脳が状況を理解するまで、しばらく時間が掛かった。
 一度顔が離れ、どさりと柔らかな場所――ベッドだと後で気付いた――に下ろされた途端、また泰晴の顔が近付いて唇に触れられる。
 キス、されている。
 その事実に気付いたのは顎を掴まれ舌が歯列を割り、口内へと侵入してきた時だ。
「……っ! なに、して……!」
「キス」
「なんで俺にしてるんだ!」
 逃げようとするが、膝に乗り上げられ、肩をベッドへと押し付けられて動きを封じられる。
 泰晴が酒に弱いからといって、まさか自分の吐いた息に酔っ払ったということがあるだろうか。いや、自分を見つめる泰晴の目は冷静だ。
 良はすっかり混乱しながら、それでも視線を逸らしたら負ける気がして、きっと泰晴を睨みつけた。
「したいから」
「女の子にしろよ、こういうことは!」
「興味ない」
「だからって俺にする理由には……、っ」
 再び唇を封じられ、それ以上の言葉は紡げない。乱暴に口をこじ開けられ、厚い舌に上顎や舌を擦られる。ぞくりと何かが背を駆け抜けた。
「や、め……泰晴……ッ!」
 服を掴んで引きはがそうとしても、久々に深酔いしたせいか、腕に力が入らない。ろくな抵抗もできないうちに、気付けばジャケットもスラックスも手早く脱がされてしまっていた。
 シャツの裾から忍び込んだ大きな手のひらが、良の薄い腹筋から胸をひと撫でする。酒で火照っているせいもあり、泰晴の手のひらはひんやりと心地よい。だがその心地よさに溺れるわけにはいかない。
「っやめろ、って……!」
「いやだ」
 否定の声は低く、硬い。こんな泰晴は初めてだ。
 真っ直ぐに良を射る視線は真剣で、どこか凶暴な熱を孕んでいる。大型の肉食獣に睨まれているような錯覚に、良は我知らず喉を鳴らした。心臓がうるさく鳴り響くのは、二人の間の空気が張りつめているからだと良は自分に言い訳する。
「もう、耐えられない……!」
 何が、と訊く間もない。苦しげに唸ったかと思うと乱暴に良のシャツがたくし上げられ、下着まで脱がされてしまう。抵抗しようとしたが、両手はまとめて抑え付けられててしまった。
 酔ってはいても、必死の抵抗を試みている。敵わないのは泰晴の勢いと力に完全に負けてしまっているだけだ。
 そんなことがわかっても、何の救いにもなりはしない。
 泰晴の影が降りてきて、唇に柔らかな感触が落とされる。
 また口付けられている。
 気付くと顔を振って逃れたが、顎を掴まれて固定されるとそれ以上は逃れられない。
 唇を舐められ、何度も触れるだけの口付けを落とされる。動作はまるで舌なめずりをしている獣だ。勢いよく食べてしまう前に、獲物の抵抗を楽しんでいるような。
 内心で舌打ちをし、なんとかこの状況から逃げ出せないものかともぞもぞと体を動かしても、どうにもならない。
 膝を割られ、泰晴の右手が晒された下肢を撫でる。背筋が粟立ったのは、触れ方に明確な意図を感じたから。
 泰晴は本気だ。
 眼から、口付けから、手の動きから、それが良に伝わる。嫌でも教えてくれている。
「良兄ちゃん……」
 切羽詰まった声。
 長い指が、外気に晒されていた良の性器を掴み、扱き始める。反射的に背が反った。
「っう、あ……! や、すはる……!」
 今なら、まだ戻れる。
 止めてくれれば、一発殴りでもして部屋から追い出して眠って、起きたら昨日と同じただの従兄弟同士に戻れる。多少のぎこちなさは残るかもしれないが、時間が経てばそれもなくなるだろう。それくらいの度量はあるつもりだ。
 だが、泰晴にはそのつもりがない。
 言葉で否定されなくても、態度でそれが伝わってくるから良はおののく。制止の言葉も無意味だと悟ってしまったが、だからといって大人しくされるがままになるつもりもない。
 泰晴が体を起こすと、一旦体が離れたことでほっとしたが、性器に手のひらとは違う感触が加わって、ぎょっとして思わず視線をやる。
 いつの間にかズボンの前を寛げていた泰晴は自身の性器を取り出し、良の性器と一緒に握り込んでいた。
「ちょっ……何してるんだっ」
「どうせなら、一緒に気持ち良くなりたいなあって……」
 根元から擦り上げてくる手に迷いや躊躇いはない。それどころか的確に良の感じる場所に触れ、容赦なく責め立ててくる。脚を大きく開かされていればどう体を捩っても逃げられず、良は両手を握り締めて強引に与えられる快楽を耐えるしかない。
「……ッ、ぅ……」
 目の裏を星が幾度となくフラッシュする錯覚。罵倒するために口を開ければあらぬ声が漏れてしまいそうで、歯を食いしばる。
 片手でふたつの性器を弄り、片手で良の腹筋や胸を撫でる。そんな風に触られたことは今までになかったから肌がざわめいて仕方がない。いたたまれない現実から逃げたくて、固く目を瞑った。
 いや、そうではない。
 いつか誰かにこんな風に肌を撫でられた。
 ――違う、あれは夢だ。
 夢のはずだ。
 めっきりご無沙汰だったから、欲求不満が溜まって見た夢のはずだ。
 けれどそれならどうしてこんな触られ方を、手のひらの感触を知っているように思えるのだろう。肌がざわめくのだろう。
 良の内心の混乱を泰晴が知るはずもなく、溢れてきた先走りのぬめりを借りて手指の動きはますます大胆になり、良の理性を剥がしていく。
「っ、あ……も、離せよ……ッ!」
「イきそう……?」
 自分を見下ろす泰晴の表情はわからない。覆い被さられ、耳許にほとんど吐息の低い声で「イッていいよ」と囁かれ、良はとうとう白濁を吐いた。
 嘘だろう。呆然と自失していると、今度は濡れた手で尻を探られた。ほとんど本能的に逃れようと身を捩る。構わず指は秘所に触れ、熱を宛てがわれる。
「泰晴……ッ、やめろ……!」
 血の気が引く音を聞いた気がした。抑え付けられていた手は自由になったが、体を突っ張らせてもびくともしない。
 制止の言葉にも関わらず、泰晴は宛てがった熱を少しずつ腰を進め、埋めていく。無理矢理押し広げられる痛みに、良は思わず呻いてシーツを掴んだ。
 こんな泰晴は知らない。
(俺が、知らなかっただけなのか……?)
 大人しくて気が優しいと思っていたのは錯覚なのか。
 手順を無視した挿入は苦痛しかもたらさない。殴られる方がマシだと思えるほどの痛みを受けながら、良は意識を手放した。



 翌朝、電話の着信に気付いて目が覚めたのは昼前のことだ。
 痛む体を無理矢理に起こして、スーツの上着のポケットに突っ込んだままだった携帯を取り出す。着信相手は、母だった。
 正直出たくなかったが、休日の着信を無視すると後でうるさく詮索されかねない。諦めて空咳をしつつ応答する。
「……もしもし」
「もしもし? いるなら早く出なさいよ」
「ちょっと携帯探してたんだよ」
「またどこかに置き忘れてたんでしょう。……あら、風邪でも引いたの?」
 声が掠れていることに気付かれた。心臓が跳ねたが、平静を装う。
「いや、違うけど……寝起きだから」
「休日だからってこんな時間まで寝てるからよ。それより、泰晴君は? いるの?」
「……いや……」
「あらそう。休日にまでアルバイトしているの?」
「平日は授業があるだろ。一年なら必須科目多いだろうし」
「そう。……で、あんたたち、うまくやっていけてるの?」
「はっ?」
 いきなり何を訊かれるのかと素っ頓狂な声を上げてしまったが、母はうるさそうな声で返してくる。
「耳許で大声出さないでちょうだい。仲良くやっていけてるのかって訊いてるの。泰晴君が小さい頃はあんたたちも仲が良かったけど、ここ十年くらい会ってなかったでしょう」
「今更心配しても仕方ないだろ……って」
 聞き捨てならないことを聞いた。思わず携帯を握り直す。
「俺と泰晴って仲良かったの?」
「あんた、忘れちゃったの?」
 真底呆れ果てたと言わんばかりの声に、良は思わず項垂れた。
「しょうがないだろ……なんかでかくなってたし」
「だから親戚の集まりに一緒に来なさいっていうのに、面倒がるから。まったくこの子ときたら……」
 放っておくとこのまま延々、十年分の愚痴を語られかねない。慌てて良は「それで、」と言葉を継いだ。
「俺と泰晴が仲良かったって、ホント?」
「本当よ。懐かれてるって感じだったわねえ。あんた本当に覚えてないの? 良兄ちゃん良兄ちゃんって後をついて回られたり、一緒にお風呂入ったり眠ったりしてたでしょう。泰晴君は大人しい子だったけど、あんたとだけはよく遊んでたわねえ。あんたと別れて帰る時には涙ぐんだりして、とっても可愛かったわよ」
「…………それ、俺がいくつの時?」
「そうねえ、高校受験の時には集まりに行ってなかったから、それより前までじゃないかしら」
 そんなこともあっただろうか。
 引っ掛かるものはあるが、あと一歩、決め手に欠けている。もう少しヒントがあれば思い出せそうなのに。
 良の心境を読み取ったわけではないだろうが、母が突然「ああそうそう」と言い出した。
「思い出したわ。あんたが来なくなってからの泰晴君、なんでお兄ちゃん来ないのって言って、大変だったんだから。しまいにはお兄ちゃんは僕と結婚するのにって言い出して、良兄ちゃんをお嫁にするって。あんたのどこがいいのかわからないけど、あんなに慕われてたのに忘れるなんて、ひどい話ねえ」
「…………今、なんか思い出しそう……」
 ――良兄ちゃんは、
 幼い声が頭の中に甦る。次いで、期待に満ちた清らかな瞳も。
 ――僕とケッコンするんだよね!
 純真な双眸を裏切るのはどうしても憚られ、あの時なんと言って返しただろう。
 思い出すより先に、母の声が耳に入る。
「あんたもいいよいいよー養ってねーなんて軽く言ってたけど、本当に覚えてないの?」
 その言葉を聞いて、良はベッドの上で転がり回りたくなった。母の言葉より一瞬早く思い出したとはいえ、他人の記憶による裏付けがあるとなると間違いない。
 その後も十五分ほど話し込んでから通話を切ったが、話の内容はほとんど頭に残っていない。
 携帯を握ったままの手を、額にあてる。無意識に溜息が漏れた。腰とあらぬところの痛みに眉を顰める。
(思い出した……)
 言われてみればたしかに、従弟たちの中でやけに自分を慕ってくれていた子供がいた。他の従弟たちに比べて背が低く、引っ込み思案だった男の子。他のやんちゃな従弟たちより手が掛からなかった分、遊びやすかった気がする。他の従弟たちは贔屓だと言っていたが、そうだったかもしれない。
 本当に子供の頃の話で、良にしてみれば年下の従弟の面倒を見るのは義務の一環だった。他の従弟より仲良くしていたとはいえ、良にとってはただの従弟でしかなかった。他人より素性などが知れている分、気安かったからルームシェアの件だって冗談半分で応じたのだ。  けれど、泰晴にとってはそうではなかったというのか。
 携帯を握る手に力を籠める。
(でも……)
 だからといって、たやすく許せることではない、はずだ。
 どうすればいい。
 家の中に人の気配がないから、泰晴はおそらく本当にバイトに出ているのだろう。だがバイトが終われば当然、帰ってくる。帰ってくれば顔を合わせる。
 成司にそうしたように、殴って罵倒すればそれで済む話なのか。
 泰晴は大学に入ったばかりで、まだ三年半以上を過ごすことになる。その間、今まで通りの生活を続けられるだろうか。
「…………」
 また深い溜息を吐き出す。
 今は何も考えたくない。
 思っていると、携帯がメールの着信を告げた。
 
「よっ」
 気安く手を挙げてきたのは、昨夜も会った宮内成司だった。
「いきなり呼び出して悪かったな」
 メールの着信から二時間後、良のマンションの最寄り駅前。メールには簡潔に用件と待ち合わせ場所を報せるだけの文言が並んでいた。断っても良かったが、そうしなかったのは一人で部屋にいたくなかったからだ。
「それ、昨日も聞いた」
「あれ、そうだっけ? ま、いいじゃん」
 軽い調子で肩を叩かれ、思わず眉を顰める。それに気付いた成司が良の顔を覗き込む。
「どっか体調悪いの? もしかして二日酔いだったりする?」
「ないよ。ちょっとな」
「ならいいけど。悪いな、ちょうど暇だったからさー。一人でメシ食うのも淋しいだろ? 昨日の今日だけど、良なら大丈夫かなーと思ってさ」
「どういう意味だよ、それ」
「ま、別にどういう意味でもいいだろ。さっき来る時、よさげな居酒屋見付けたから、そこ行こう」
 悪びれない成司に半ば呆れながら、案内されるがままについていく。
 ここだよ、と成司が指で示したのは、駅前の表通りから一本裏へ入った小道にある居酒屋だ。通りに出ていたメニューの載った看板を見ると、焼酎の品揃えが豊富らしい。
 こんなところがあったのかと思いながら店内に入ると、店員の威勢の良い声に出迎えられた。時間が夕方になったばかりだったせいか、幸い席は空いていた。奥まった席は個室風になっていて、そこへ通される。
 ビールをふたつとざる豆腐、だし巻き卵、枝豆、揚げ出し豆腐に串焼きの盛り合わせを注文すると、早速運ばれてきたジョッキを合わせて乾杯する。
「なんかさ、顔色も悪いけどマジで二日酔いとかじゃないの?」
「まあ、体調がいいわけじゃないけど……滅茶苦茶悪いってわけでもないし。それに俺があれくらいの酒で二日酔いになるわけないって、宮内は知ってるだろ」
「まあな。ザルだもんなあ、おまえ」
「ザルって言うな」
「じゃあ、ワク」
「ザルよりひどいだろ、それ」
「だって底なしだろ? 俺間違ってない!」
 おどけてみせる成司に良は苦笑する。
 同時に、気持ちが少し楽になるのを感じた。胸に抱えた鉛が、軽くなったように思える。やはり出てきて正解だった。思いながら、ジョッキを空にしてしまう。
 二杯目を注文し、取り分けたざる豆腐に塩をかけて食べる。塩が味の濃い豆腐の甘味を引き立て、口の中で溶けた。
「……うまいな」
「ああ」
 昨晩もこうして成司とビールを飲んだ。あの時は嬉しさが勝ってただただ陽気にビールを空にしたが、今日は苦味がそのまま胃に残っていく。
 どうして。
 言葉のない問いが頭の中をぐるぐると回る。
(どうして……泰晴は、あんなこと……)
 いつも良を慕っていた泰晴とは別人に思えた。
 良が止めるのも聞かず、強引に体をまさぐり──思い出しかけ、記憶をビールとともに流し込む。
 気を紛らわすために出てきたのに、ちっとも紛れていない。気付いて内心で自嘲した。こんな状態では駄目だと思うのに、自分ではどうしようもない。
(……どう、すれば……)
 無意識に溜息が漏れたのと、尻ポケットに突っ込んだ携帯が着信を報せたのはほとんど同時だった。驚いて着信を確認すると、相手は泰晴だった。
「…………」
 どうしても、出る気になれない。
 今泰晴と言葉を交わして、何を話していいかわからない。
 戸惑っているうちに、着信音が途切れた。今渡こそ良の口から重い溜息が漏れる。
「……どうしたんだよ」
「えっ」
 成司の言葉に、知らない間に俯いていた顔を上げる。成司は眉を寄せた気遣わしげな表情で良を見つめていた。
「ものすごい顔してるけど。……電話、出なくて良かったのか?」
「あ……ああ……」
 曖昧に頷くと、成司は「そうか」と言って自分のジョッキを呷る。
 二杯目のビールを空にした後は焼酎へ飲む酒を変えた。店のオススメだという芋焼酎は癖が強いが、独特の匂いと味は嫌いではない。グラスで頼むのが面倒なのでボトルで注文し、手酌で飲んでいると、同じく二杯目から日本酒へ移行した成司が「それで、」と身を乗り出してきた。
「何があったんだよ」
「え?」
 成司の言葉は良の虚を突いた。
 ぽかんと成司を見つめていると、成司はびしっと指を突き付けてくる。
「何かあったんだろ。話してみろって。そんな暗い顔してたら酒がまずくなるだろ」
「…………」
 ためらいが生じるのは仕方がないことだ。
 逡巡していると、焦れたように成司は行儀悪く、だし巻き卵を摘んだ箸で良を指す。
「なんだよ、俺が口が固いのは梶原だって知ってるだろ。言ってみろって」
「いや、さすがに引くと思う。おまえでも」
「なんだよ、引かないって。そんなに信用ないか、俺って」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「まさか今同居してるとかいう従弟とヤッちゃったわけでもないだろうが」
「…………ッ」
 口に含んだ焼酎を噴き出すかと思った。すんでのところで堪えたが、気管に入ってしまったのでむせてしまう。
「ちょっ、大丈夫かよ」
 慌てて成司が差し出してくれたおしぼりを受け取り、口許に宛てる。しばらくむせ込んでいたが、落ち着いて溜息を吐いた良を見て、成司は難しい顔をした。
「……で、そのまさかなわけ?」
「…………」
 無言は肯定になる。
 つまり、そういうことだ。
「わぁお……」
 成司はグラスを置くと、口許に手を宛てて何か呟いた。
(さすがに宮内でも引くよな……)
 思いながら、それでも救いを求めるように成司を上目で見、
「あの……宮内?」
 思い切って声をかけた。
「……引くだろ、おまえでも」
 すぐに成司ははっと表情を変え、グラスの日本酒を呷ると表情を真摯なものへ改めた。
「いや、引くってよりは驚いてるけど……。なんでそんなことに? つか、そもそも今の同居人ってどんな奴なの? 従弟だっけ?」
「俺もよくわかんないけど……」
 ぽつりぽつりと、昨夜家に帰ってからのことを話し出す。
 泰晴は母方の従弟で、大学に通うために上京してきたこと。大学が近くて部屋が空いていたから良の住むマンションに同居が決まったこと。昔は仲が良かったらしいが、良自身はすっかり忘れていたこと、それでも同居生活はうまくいっていたこと。昔と変わらず泰晴は自分に懐いてくれていたこと。学校では自分の前にいる時と様子が違うらしいこと。昨夜帰ってからのやりとり。
 成司は茶化すでもなく、真剣に話を聞いてくれていた。それが良にとっては救いだった。成司が聞いてくれなければ、他に誰にも話せず悶々と答えのでない答えを探して今日を過ごしていたに違いない。
 何でもいいから、誰かに何か言って欲しいと思ったからこそ、成司に話すつもりになったのだ。その気持ちがなければ成司にすら何も喋らなかっただろう。
 藁にも縋る。
 まさに今の良がそんな心境だった。
「……なるほどなあ」
 一通り話を聞き終わった成司は、グラスの酒を空にすると溜息を吐いた。近くを通りかかった店員に新たな酒を注文すると、難しい表情で腕を組む。
「そりゃ暗い顔にもなるか。……で、梶原はどうしたいわけ?」
「え?」
「ルームシェア解消するとかさ、色々あるわけだろ?」
「解消……」
 それは考えなかった。
 だが、たとえ考えに入れたとしても難しい話だ。解消するなら解消するで叔母にもっともらしい言い訳を考えなければならない。母の話しぶりから察するに、泰晴は実家でも大人しくて品行方正な子どもだったのだろう。問題を起こした言ったところで、信じてもらえるかどうか疑わしい。
「……難しいかな」
「俺には逃げるくらいしか浮かばないけど……梶原はその従弟のこと、どう思ってるんだよ?」
「どう、って?」
「大雑把に、好きとか嫌いとか、気持ち悪いとか。まあ……そんなことされりゃ、嫌いになるってか、トラウマになるのが普通と思うけどさ」
 好きかと言われると微妙だ。何しろ相手は従弟なのだから。かといって嫌いだと断言もしにくい。あんな目に遭わされたのに自分でも自分がよくわからないが、嫌い、とは少し違う気がする。上手く説明はできない。
 案の定、成司は納得しかねる表情をした。
「嫌いじゃないってのが不思議だな……」
「うん、自分でも不思議だと思う。なんていうか……嫌いとかそれ以前に、驚いたっていうのが大きくってさ」
「でもさ、ルームシェア解消しないってことは、また今回みたいなことがあるかもしれないってことじゃないか?」
「……そう、かな」
「従弟が出て行くか梶原が出て行くかしない限り、その可能性は充分あると思うけど。従弟の方はおまえのこと好きっぽいから、尚更じゃないか」
 好き。
 ――泰晴が、自分を?
「何、その初めて聞いた、みたいな顔は」
「いや……泰晴って、俺のこと好きなのかなって思って」
「好きでもないのに同じ男のこと襲わないだろ、普通。女の子でしょ、やっぱり。その従弟って真面目な方なんだろ? いや、真面目じゃなくても、同居してる相手をヤろうなんて好きでもなけりゃ思わないだろ。そいつ、梶原のことよっぽど好きなんだとは思うよ」
 言われてみれば、成司の言う通りだ。
 ――好き、なのか。
「その上でさ、もうこの際、相手が従弟だとかそういうの全部取っ払って考えるべきだと俺は思うんだよね」
「どういう意味だよ」
「そいつと関わるのが嫌かどうか。そんな目に遭ってもなお、同じ部屋で顔付き合わして暮らしていけるかどうか。またヤられてもいいのかどうか、ってこと。大学卒業までなら三年以上あるわけだろ? 大丈夫なわけ?」
「……それは……」
 成司の言うことはもっともだと思うのに、今すぐには答えが出ない。
 けれど大事なこと、考えなければならないことだ。おまけに自分ひとりのことではない。
 俺なら即、家を出るけどねと笑う成司に、良は返す言葉が何もなかった。ただ、泰晴が良のことを好きなのだろうと言った成司の言葉だけが、ぐるぐると回る。
 どうすればいいのだろう。
 どういう答えが正解なのだろう。
 成司と話すことで何か答えが得られるかと思ったが、逆に考えなければならないことが増えた気がする。けれど問題が明確になったことで考えやすくはなった。
 怒っていないのかと訊かれれば、怒っているに決まっている。乱暴を働かれたのだから、当然だ。けれどルームシェアの解消ということは思いも寄らなかった。今泰晴に対して何を思っているのかといえば、泰晴が何を考えてあんな真似をしたのかが知りたい。その理由がもし、成司の言う通り自分を好きだからだとしたら──気持ちには、気持ちを返さねばならない。その上で、これからどうするかを考えるべきだろう。
(自分の、気持ちか……)
 降って湧いた事態に、まだ心は追い付いていない。答えを出すなら早い方がいいとわかっているが、あまりに急なことに思考がついていかないのだ。
(くそ……っ)
 グラスに氷をいくつか放り込み、焼酎を注ぐ。ぐいっと呷ると、ぬるい液体が喉を滑り落ちていった。
 腕を掴まれたのはその時だ。
「良兄ちゃん、帰ろう」
「えっ……」
 驚いて振り仰ぐと、泰晴が厳しい顔をして立っていた。
 強い力で二の腕を掴まれているのでかなり痛い。だがそれより、泰晴が成司を睨み付けているほうが気になった。
「梶原、こいつが例の従弟かよ」
「あ、ああ……そうだけど」
 成司を見れば、彼の表情も険しい。二人の間に火花すら散っているように見えたのは、気のせいだろうか。
「帰ろう」
 泰晴はもう一度低い声で繰り返すと腕を強く引っ張り、席を立たせようとする。それを見ていた成司の眼差しが、いっそうきつくなった。
「梶原は俺と飲んでるんだけど」
「そうですか。でももう帰りますんで」
「梶原は帰るって言ってねえだろ」
 再び無言の睨み合い。
 良はいたたまれなくなり「いいよ、宮内」と割って入る。成司はさも心外とばかりに良を驚きの目で見た。
「いいって……おまえ」
「あんまり騒ぐと店の迷惑になるだろ。次に飲む時はおごるからさ」
「……知らねえぞ」
 苦々しい表情と声。それは良を慮ってのことだとわかっている。だから心底からすまないと思った。が、場を収めるためには仕方がない。ここで万一喧嘩などに発展してしまえば、本当に店に迷惑を掛けてしまうし、下手をすれば成司の会社や泰晴の学校にも迷惑をかけかねない。騒ぎなど起こさないに越したことはないのだ。
 財布から千円札を何枚か抜いてテーブルに置くと、その間も惜しいとばかりに泰晴に腕を掴まれたまま店を出た。腕を引かれて往来を歩かれると少しばかりではなく焦った。
「泰晴……、泰晴! 腕、痛い!」
 聞こえていないはずはないのに泰晴には届いていないのか、無言かつ早足で良が来た道を辿っている。
「おい……なんで俺がいる場所がわかったんだよ!」
「…………」
 返事はない。
 電話はあったが、出なかった。だから良がいた場所などわかるはずがないのだ。書き置きだって残してこなかった。なのに、どうして。疑問に答えをくれず、泰晴は大股で歩くのを止めない。
 家へ向かっているのはすぐにわかったが、泰晴の行動の意図がまったく読めず、良は戸惑うばかりだ。
 昨晩もそうだ。
 何を考えているのかわからない。
 どうしてあんなことをしたのか――今こんなことをしているのか。
 傍から見れば、大の男が腕を掴まれたまま歩いているのはさぞ奇異に映っただろう。けれど今はそんなことを気にしている余裕はなかった。
 泰晴が向かっていたのは良の予想通り、自宅だった。玄関に入って鍵を閉めると、そこでようやく腕が離された。掴まれていたところをさすりながら、泰晴を睨み上げる。
「おまえな、初対面の人間を相手にあの態度は何なんだ。俺の友達だぞ。失礼だとは思わないのか」
「良兄ちゃんは、あいつのこと好きなの?」
「人の友達をあいつ呼ばわりするな。宮内さんと言え。あいつは元同居人で友達だ」
「……宮内、さんのこと……好きじゃ、ないんだ?」
「なんでそうなるんだよ」
 良の眉が跳ね上がるのと対照的に、泰晴の眉尻が下がった。
「昨日……良兄ちゃん、すごく嬉しそうにそいつのこと話してたから……」
「そりゃ、喧嘩別れしてたヤツと仲直りできたんだから喜ぶだろ、普通」
「本当に?」
 くどい、と溜息を吐いて泰晴を見つめる。けれど言葉は飲み込んだ。
 既視感。
 泰晴の必死ともいえる表情は、どこかで見たことがある。
(――そうだ……)
 幼い頃の泰晴だ。
 他の従弟たちと遊んでいると、たまにそんな顔で良を見つめていた。その時は無言だったけれど、間違いない。
 理解した途端、脱力感に襲われた。同時に、成司の言葉は事実だったのだと悟る。
「……子供か、おまえは」
「何が」
「何が、じゃないだろ。ともかく、宮内に嫉妬するのはお門違いだからな」
「…………」
 泰晴が虚を突かれた顔をしたのは、指摘が当たっているからだろう。良はますます脱力した。
「……昨日のも、それでか」
 ぽつりと問えば、空気がほんのわずか震えた。
「勘違いして暴走してヤッたってことか」
「あ……、」
 先程までの勢いはどうしたのか、泰晴はすぐに肩を落として項垂れる。
「……ごめん……俺、良兄ちゃんのこと、好きで……大好きで。他のヤツに取られるの、嫌だったんだ……」
 そう告白する様子があまりに子供じみていて、泣き出しそうな表情の泰晴に良は毒気を抜かれた。
 素直だと思う。
 本当に子供だ――いや、泰晴の年齢を考えれば、子供で当然なのかもしれない。だからといって何でも許されるわけではないが。
「男同士で結婚はできないぞ?」
「……知ってる。子供じゃ、ないんだから」
 鼻をすすり上げる泰晴は、否定の言葉と裏腹に小さい頃のままの泰晴のように映った。ようやく、知っている子供に会えたような気がした。
「子供だろ。なんでおまえが泣くんだよ。こういう場合は俺のほうだろうが」
「泣いて、ない」
「目に涙溜めて言う台詞か。子供だ、おまえなんか」
 額を小突き、目の端を拭う泰晴の顔を覗き込む。整った顔をくしゃくしゃにしている泰晴は、小さい頃のままだ。
「大学、年末の模試ではぎりぎりの判定から逆転した男がそんな顔するなよ」
「……良兄ちゃんが、一緒に住んでもいいって……聞いた、から。ダメ元で受験決めてたとこだったんだけど、だからどうしても、行きたくて……風邪引いた時はダメかと思ったけど、でも絶対受かりたかったんだ」
「それで頑張ったのか」
 こくりと泰晴が頷く。手を伸ばし、頭を撫でてやる。
 ぎりぎりのラインから合格圏内に入るまで、相当勉強したはずだ。受験の前日に体調を壊したのも、そのせいかもしれない。
 それも全部、同居のためだったというのか。
 まさか料理もだろうかと思いながら問えば、肯定の頷きを返された。
「料理くらいできたほうが……って思ったのと、俺が作った飯を良兄ちゃんが食べてくれたら嬉しいって、思って……美味しいって言ってくれるとすごく嬉しかった。だから、食事作るのも、買い物も、すごく楽しかった。良兄ちゃんの笑顔……見られるから」
 顔が熱くなるのを自覚する。
 幼い頃と変わらない、いやそれ以上の好意を抱いてくれている。顔以上に、胸が熱くなるのを感じた。
 深い息を吐き出して泰晴が口を開く。
「もしかしたら、良兄ちゃんにはもう付き合ってる人とか、いるかもしれないって思ったけど……でも諦めるなんて無理で。せめて昔みたいになればいいなって思ったけど、良兄ちゃん、なんか素っ気なかったし……一緒に暮らせるだけでも嬉しかったけど、俺のことなんて忘れちゃったのかって思ったら、それも悲しくて……」
 最後の言葉に関してはまったくその通りなので、言い返すことができない。
「……もし本当に俺に恋人がいたら、どうするつもりだったんだよ、おまえ」
 彼女、あるいは泰晴が勘違いした宮内。そうでなくとも本当にそんな相手がいたら、どういう行動に出たのか。問うと、泰晴は少しの間視線をさまよわせた。
「わかんない、けど……奪いたい、と思う」
「どうやって?」
 まさか、どう転んでも昨晩のような行動に出るということか。
 だが泰晴は頭を振った。
「ちゃんと、俺に……惚れてもらうように、頑張ったと思う。今よりずっといい男になって、惚れてもらう」
 朴訥な言葉は、飾った言葉よりもかえって良の心の深いところまで染みた。そしてストレートな言葉は良の胸を射抜く。
(……そんなに……想っていてくれてるのか)
「じゃ、泣いてちゃダメだな」
「泣いてないっ」
 否定する端からぼろりと涙を零していては説得力などありはしない。良は苦笑すると、親指で涙を拭ってやった。
「小さい頃のほうが泣いてなかったんじゃないか?」
「そんなことないよ!」
「……ならいいけど。おまえさ、俺が怒ってルームシェア解消するとか言うって、思ってなかったわけ?」
「思った、けど……昨日はそれどころじゃなかったから……頭に血、上っちゃって。すぐ後悔したけど、良兄ちゃんが嫌だったら、俺は出て行くよ」
 諦めて項垂れた表情には、どんな罰も受け入れるという覚悟が見える。
 良はその頬を両手で引っ張った。
「俺に惚れてもらうように頑張るんじゃないのか」
「え……?」
「さっきおまえが言ったんだろ。俺を惚れさせるって」
「でも、それは……」
「俺には今付き合ってる女の子もいない。だったら余計にそうするんじゃないのか」
「良兄ちゃん……」
 泰晴の目は驚きに瞠られている。信じられない言葉を聞いたとでもいうように。
 当然か。
 良も口から出た己の言葉に驚いていたのだから。だが、冗談だと取り消すつもりはない。泰晴の気持ちが真剣であることは、語る様子から充分窺い知れた。だからこそ、良も自分の真摯な気持ちを返している。
 成司に「男に触られて気持ち悪くなかったのか」と訊かれた時、虚を突かれたと感じたのは――そんなこと、思いも寄らなかった。それくらい、良も泰晴のことが好きになっていたということ。
 泰晴の真っ直ぐな気持ちを嬉しいと思う。
 同時に、泰晴は伝える手段を誤ったのだとも思う。
 それなら、やり直せばいい。
 少なくとも良は泰晴を嫌ってはいないし、泰晴も良を思い続けてくれているのなら、それができる。
「良兄ちゃん……!」
 思わずだろう、泰晴に強く抱きしめられる。
 その背をあやすように撫でた。



 ベッドが二人分の重みを受けて、乾いた音を立てて軋む。
 口付けは触れ合い、啄むように数度続いた後には、互いの歯列を割り、舌と舌を絡め合う濃厚なものへ変わる。
「ん……、……」
 甘く噛まれ、噛み返し、角度を変えて混ざり合った唾液を嚥下する。服の上から互いの体温を確かめるように辿っていた手は、シャツの裾から直に肌を求めて侵入する。
 シャツを脱がすのももどかしいと胸までたくし上げられ、肌を晒される。
「良兄ちゃん……」
 どこか恍惚とした泰晴の声。気持ちは同じながら、しかし良は眉を顰めた。
「おまえ、さ……兄ちゃん、は止めろよ」
「えっ?」
「なんか、子供とイケナイコトしてる気分になるだろ」
「子供って……」
「だから兄ちゃんは止めろよ。せめて良さん、とかさ」
「じゃあ……良、さん」
 ぎこちない呼び方だが、良はよくできましたとばかりに泰晴の頬へ口付ける。
 無言で続きを促すように泰晴の腰から腹筋をひと撫ですれば、意図を察した泰晴は良の胸元に顔を伏せ、肉の薄いそこから他とは色の違う先端へと舌を這わせる。ちゅ、と吸い付く音、ぬめらかな感触。
 胸への愛撫にばかり気を取られていたから、泰晴が良のズボンを脱がしにかかっていることに気付くのが遅れた。無言で促され、腰を上げて下着ごと剥ぎ取られるのを手伝う。
 思ったより大きな、固い手のひらが良の下肢を撫でる。良は泰晴の短い髪を軽く引っ張った。
「何……?」
「おまえ、俺ばっかり脱がすなよ……」
 泰晴のTシャツに手をかけ、脱ぐように促す。そこでようやく気付いたらしい泰晴は、照れたような表情をすると一息にシャツを脱ぎ、ついでとばかりにズボンも脱ぎ、裸になった。その間に、良もたくし上げられていたシャツを脱ぎ捨てる。
 改めて裸で向かい合うと、羞恥が湧いてくる。泰晴が幼い頃には一緒に風呂にすら入ったことがあるが、今はそんな意味で裸になっているわけではない。もっとずっと恥ずかしくて照れ臭い。
「良、さん……」
 ぎこちなく呼ばれる。こそばゆい感覚があるが、悪くはない。額に額をくっつけ、鼻がぶつかるほど間近で顔を覗き込む。黙っていれば精悍で整った顔立ちをしているのに、今は雨に打たれた野良犬のようにしょぼくれている。
 今更怖じ気づいたのだろうか。だがそれは良も同じだ。昨夜のことを思い出せば体は竦みそうになる。
 けれど受け入れると決めたのだ。
 泰晴の気持ちも、自分の気持ちも。
 だから、ここまで来て慌てふためいても仕方がない。泰晴の鼻先に口付け、行為の先を促す。窺う視線をしっかりと見つめ返せば、泰晴はようやく良の体に手を這わせる。
 体温を確かめるように、首筋から肩、胸、腹筋、腰骨から下肢へ。そうしてまた胸元へと帰ってくる。
「……良さん……ドキドキ、してる……」
「そりゃあ、な」
 昨日とは状況が違う。泰晴を受け入れると、自分で決めたのだ。多少怯んでいたとしても、仕方がない。
 お返しとばかりに泰晴の胸へ手のひらを宛てれば、自分と同じかそれ以上に早い脈を打っている。やはり、緊張しているのか。
「緊張も、だけど……嬉しくて」
「嬉しい?」
「だって……良さんが俺のこと、受け入れてくれるなんて……思わなかったし」
「泰晴……」
 嬉しそうに笑う頬に口付け、泰晴の手を取ると良は自分の体に触れさせた。泰晴を可愛いと思う気持ちと、愛しいと思う気持ちが溢れて溺れそうだ。
 触れさせた泰晴の手が、下肢へと降りていく。そうしてまだ熱の篭もりきらない中心へ触れると、根元から優しく擦り上げられた。
 一方的に触れられるのは慣れない。良は泰晴の下肢へ手を伸ばし、薄ら熱を帯びた性器に触れる。泰晴が戸惑った視線を落としてきたが、にやりと笑って返す。
「俺ばっかりされるのは、性に合わないんだよ……」
 自分のではない手で感じる場所を触れられるのは心地いい。
(泰晴もそうだといいけど……)
「っ、ん……、は……」
「良、さん……」
 漏れそうになる声。歯を食いしばって堪えるが、いつまで保つかわからない。それほど泰晴の指や手のひらは的確に良の快感を引き出していた。
「あッ、ぅ……う……んッ」
 先端を強めにぐりぐりと弄られるのに弱い。それを自覚しなければならないほど、体の力が抜けそうになっている。泰晴の性器を同じように弄る手も止まりがちだ。
 向かい合っている泰晴の肩に額を預ける。俯いた視界に入るのは、互いの性器を互いの手が弄り合っている様だ。透明な先走りに濡れた性器はくちゃくちゃと水音を立てて震える。淫猥な光景は目を背けるよりも、良の視線を釘付けにした。
 血の繋がった従弟と淫蕩に耽る。いけないことだと思うからこそ、余計に感じるのかもしれない。
 言い訳を挙げればキリがなくなるだろうが、今はそんなことはどうでもいいくらい、悦に支配されていた。
 もっと気持ち良くなりたい。気持ち良くしたい。
「ぁ、あッ……泰晴……ッそ、こ……」
「ここ……?……気持ち、いい?」
「ンッ、いい……おまえも……?」
「うん……、すごく……気持ちいいよ……」
 泰晴の答えが嬉しくて、手の中の熱をいっそう擦り上げることに執心してしまう。
 耳許に吹き込まれる泰晴の吐息と食いしばった歯から漏れる低い声は獣のようで、それが更に良を煽る材料になる。
「やす、はる……ッも、それ以上……ッ」
「……イきそう?」
「ん……ッ」
 素直に頷くと、泰晴のほとんど吐息ばかりの低い声が耳に吹き込まれる。
「俺も……、だから一緒に……」
 その声だけで達するのではないかと思うほど、腰にクる。
 互いの手の中の性器を擦り上げる早さと強さはいっそう増し、頭の中が真っ白になった。
「ああ、ッああぁ……――ッ!」
「……ッく、ン……ッ」
 ほぼ同時に手の中に白濁を放つ。荒い息が互いの耳を擽り――良はゆっくりとベッドに押し倒される。
「良さん、……あの……」
 切れた息を整えながら、泰晴は語尾を濁した。意図を察した良が、腕を伸ばして泰晴の首へ回し、抱きしめる。
「……いいよ」
「ほ、ほんとに……?」
「ん。……あんまり痛くするなよ」
 頷いた泰晴の頬に軽く口付けを落とすと、濡れた手が性器からさらに後ろを辿る。
 窪みの周囲を指先がなぞり、放った白濁のぬめりを借りて少しずつほぐされていく。ともすれば焦りがちな指の動きだが、眉を顰める程度だ。
「……っ、う……ん……」
 深くへ入れられる指に内部を探られれば、やはり違和感が大きい。
 それでも時間を掛けてゆっくりとほぐされていくうち、体の力も抜けてきた。入れられた部分の圧迫が増えたのは指も増えたということだろう。動きがスムーズなのは、それだけ慣れたということか。
「良さん、……入れて、いい……?」
「あ、あ……」
 頷きを返せば、ずるりと圧迫が抜けていく感覚があり――続いて、指より熱くて大きなものが宛てがわれる。
「入れるよ……」
 熱っぽい呟きとともに、良のそこが押し開かれていく。痛みを堪えるより、泰晴の表情に目を奪われる。
 わずかに眉を顰め、歯を食いしばり、それでもどこか獰猛な輝きを灯した眼。
 気が付くと腕を伸ばし、泰晴を引き寄せて口付けていた。舌を絡め、息を奪う。そうしていると体を開かれる痛みも違和感も感じないような気がした。
 ゆっくりと、熱が良の中へ埋められていく。
「くっ……、ん……ンッ……」
 痛みを誤魔化すように手のひらで泰晴の肌を撫でれば、薄ら汗ばんだ肌はしっとりと良の手に馴染む。肩も背も胸も腕も柔らかいところなどないし、良より逞しいのに愛おしく思える。
 気持ちの変化というのはまったく不思議なものだ。
 つい昨日の夜まで、いや成司と飲んでいる時だって、こんな事態は想定していなかったというのに。
 泰晴の動きが止まる。すべて埋め終えたのだろうか。思っていると、強く抱きしめられた。同じように抱き返す。触れ合った部分から、泰晴の気持ちが伝わってくるようだった。
 求められている。
 全身で。
 それを嬉しいと思い、ほんの少し腰を揺らしてやった。無言の合図を正確に受け取った泰晴が少しずつ抜き差ししていく。慣らしたとはいえ滑らかさの足りない抽挿はきつい。泰晴もそれを感じたのだろう。動きを止めると、
「良さん、……ちょっと待ってね」
 言い、良の頭の下――枕の下をごそごそと漁り出す。何かと思っていると、泰晴が取り出したのは小さなチューブだ。
「何、それ」
「ハンドクリーム。バイトで、手荒れが酷いから時々使ってるんだ」
「バイトって……そういえば、何してるんだ?」
 好奇心から問えば、泰晴はふいと横を向いた。照れ臭そうに小声でぼそりと答えを返してくれる。
「……居酒屋。良さんたちが飲みに来たところで」
「…………」
 ちょうど交代の時間だったのだと白状され、泰晴が良を見付けられた理由を知った。とんだ偶然もあったものだ。だが、偶然があったから──今、こうしているのだと思うと、感謝しなければ。
 泰晴も同じ気持ちだったのか、先程より強く抱きしめてくる。そうして良の体を割っていた性器を一度取り出すと、今度は先程よりスムーズに中を穿ってきた。
「ローションの代わり。……ないより、ずっといいでしょ」
 ぬるぬるとしたものが出入りする感触に、肌が粟立つ。先程より確かに痛みはない。先に気付けば良かったと泰晴は呟くが、それは良も同じだ。ただ互いに無我夢中で気付かなかっただけなのだ。
 先端が抜けそうになるほど引き抜かれ、ゆるゆると突き上げられる。抽挿を繰り返されるうち、良の体がびくりと跳ねた。
「ちょっ……、そこ……ッ」
「……ここ?」
 問い返しと同時に指摘した場所を抉られ、短い声を上げてまた良の背が跳ねる。
「な、んか……変っ……やめ、ろよ……」
「…………」
 目の端に涙すら浮かべて体を捩り逃げようとする良をじっと見下ろしながら、泰晴は無言で何度か同じ場所を突き上げてきた。そのたびに良の体はびくつく。
「ここ……感じるんだ?」
「……そんな、こと……ッ」
 あるか、と言いたかった言葉は突き上げに奪われる。
「だって……良さんのココ、すごいことになってるよ……?」
 泰晴の手のひらが、萎えていたはずの性器を掴む。そこはもう泰晴の手を濡らすほど、溢れた先走りに濡れていた。
 何度も撫で上げられると、腰の力が抜けそうになる。同時にびくつく場所を擦るように突かれれば、体の中で何かが暴れ出しそうな感覚に身を捩った。
「ッあ、あ……ッ、や……め……!」
「どうして……? 気持ち、いいんでしょ……? 俺も、」
 気持ちいいよと囁かれる言葉の艶に、体がいっそう敏感に跳ねた。
 何度も何度も突き上げられ、性器を擦られて、声を殺すことも忘れて喘がされる。そうして、頭も体も真っ白になった。



 翌朝――。
 朝日に目蓋を射られ、良は目を覚ました。
 カーテンの隙間から斜めに入る陽光。照らされて漂っている細かな埃の輝き。窓の外からは子供がはしゃぎ回る賑やかな声が聞こえる。陽射しが強くないということは、まだ午前中なのだと良に教えてくれるが、一体何時なのだろう。手を伸ばして目覚まし時計を確認しようとして、気付いた。ここは自分の部屋ではない。
(ああ、そうだった)
 泰晴の部屋、泰晴のベッドだ。原因はすぐに思い出された。おまけに自分が裸であることにも気付いて悶えそうになるが、できない。泰晴の腕に、強く抱き込まれていたからだ。
 泰晴が起きている気配はない。規則正しい寝息をうなじのあたりに感じる。少し、くすぐったい。
 裸で綿毛布にくるまっているだけなのに寒さを感じなかったのは、初夏の気温と泰晴の体温のお陰か。毛布を口許まで引き上げると、自然に笑みが浮かんだ。
 誰かの体温を感じるのは心地よい。柄にもなく、しばらくこのままでいたいと思う程度には安堵も感じている。その相手が従弟で、おまけに男だなんて――生まれてから今まで、考えたこともなかった。
 泰晴が起きる気配は、まだない。
 起きたらどんな反応をするだろう。
(……俺も、どんな反応すればいいんだろ)
 女の子ではないのだから、こんな経験があるはずもない。けれどいくら考えても答えは出ず、代わりにうとうとし始めた。
 温かさが、まどろみを誘う。
 腰に回った泰晴の手をそっと撫で、目を閉じる。今日は日曜だから、もう少し遅寝をしても構わないだろう。泰晴が目を覚ましたら遅い朝食を作らせる。そうしてのんびり一日を過ごすことが出来れば幸せではないか。
 うつらうつらと意識をさまよわせながら、良はすっかり温もりに包まれた。
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