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冷たい海の中から
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冷たい海に沈みながら、僕は初めて恋した女性を思った。大学で出会った彼女は僕の二つ年上で、親のネグレクトのせいか人にとても冷たく残虐な性格をしていた。親のネグレクトが人を残虐にするとかの関連性なんて僕にはわからない。僕が知っていたのは、彼女がそれでも人に笑顔を向けることが出来て、人に優しくすることだって出来て、初めて出会った時にも僕にとても優しかったこと。
しかし彼女は誰にだって初めては優しい。それは人が自分に頼らなくするため、自分から提供できるすべてを提供した後、極端にまで距離を取るようにしているだけ。その理由を知って、僕はがっかりすることはなく、むしろ彼女をもっと好きになってしまった。言い知れない可愛さがある。線引きだってちゃんとしている。例えば僕のような男に求められたところで体を提供したりはしない。彼女は人との距離を取りたがって、その理由もまた可愛らしいのだ。
自分が愛情に飢えていることを自覚していて、感受性が子供の時のままに止まっているから、そんな自分の子供らしいところを見せたら皆離れてしまうと思い込む。
ただそれは間違った考え方でもなくて、そう言う経験もしていたのだろう、傷ついているような印象もたくさん受けていた。無理やり笑顔を作ろうとしたり、大丈夫と言っている時には特に。それでも彼女は美しかった。顔とか体つきとかじゃなくて、その在り方が。なぜ自分に問題があるのかを知りながらも、それを人に親切に教えてから自分から離れる。そして線を越えてくる人を相手には容赦しない。
しかもそれが大人になるまで続いたものだから、その歪みはただ歪みのままで終わらず、サディスティックさを伴うようにまでなったんだと思う。彼女をそれなりに経験した彼女の数少ない友人である女性の先輩がそう言っていて、それでも近づこうとするなら覚悟を決めたほうがいいと言われた。
何の覚悟?僕はまだ若いし、ただ若いだけではなく人をたくさん経験していたわけではない。自分が好きだと思ったらそれを諦めず求め、それでも壁にぶつかる時はむしろ一層熱意を燃やす。
それでも人だから、同じ人だから、安直に考えていたんだろうと、冷たい海に沈みながら思う。
真冬の海、骨までしみてくる冷たさ。初めから知っているとは思わなかったけど、それでもある程度は知っているのだとばかり思い込んでいた。人の領域がそこまで外れるものではないと思い込んでいた。
理解できない、わからない、なぜ彼女が僕を海に落としたのか。息が出来ない。冷めた目で僕を見下ろしてくる彼女を見上げて、僕はただただ冷たい海の中へと沈んでゆく。
後悔が押し寄せて来る。もっと時間をかけるべきだったのか、それとももっと適切な距離感が合ったんだろうか。僕から何かを欲しがっていたんだろうか、それとも僕が何かを彼女に欲しているのだと訴えるべきだったか。
「なんで、なんで私を愛そうと思ったの。」彼女はそう言っていた。僕たちは堤防の上を歩いていた。大学から家に帰る途中だった。僕と同じ方角だったから、僕は彼女と一緒に歩いて帰る時が多かった。二人だけの時間が心地よかった。彼女は最初の頃に比べたら随分と冷めた雰囲気を醸し出していたけど、それでもよかった。僕はただ、夕日で影って、どことなく寂しさと儚さを感じるその横顔を見るのが好きだったのだ。
「なんでって、好きになったからなんですけど。」
「何もないよ。私があなたに与えられることなんて、何もない。私から何かを見出そうとしても、私は何も与えられないの。」
「それでもいいじゃないですか。僕が先輩の価値を見出したんです。先輩の中から、暖かい感情を、心を見たんですから。」
「愛に目がくらんでも、持続するのは一瞬だけだよ。そんなものに依存しても、何もない。何もないの。それともただ体のつながりが欲しいだけ?そうでしょう?恋愛ってそういうものだと思ってるんじゃないの?そう言うことが恋愛をすると待っているからと期待して、それを当たり前だと受け入れて、結局誰だっていいじゃないの?なんで私である必要があるの?私じゃないと駄目な理由がなかったら、私以外の人に行ってしまうこともあり得るってことでしょう?それとも我慢するの?なんのために?ただの約束だから?信頼関係?私とあなたの間になんの共通点もない。人がやっている恋愛だからと私も追いつくだなんて考え方なんてしていない。それでもいいと言うの?」
「そんな先輩がいいんですよ。なんでも理屈を立てて理解しようとして、それが出来なくて一人で四苦八苦して、そんな先輩だから、僕も好きになったんですよ。先輩のことを考えるだけで心臓が飛び跳ねるんです。僕を受け入れられないならそれでもかまいません。ただ傍にいさせてください。何もしませんから。何も求めませんから。ただ先輩の傍にいたいだけですから。」
「じゃあ、じゃあ…。キスして?」そう言われて僕は嬉しかった。唇は少しだけ冷たく柔らかかった。感動で胸が打ち震える。この時がいつまでも続けばいいと思った瞬間だった。
胸に鈍重な衝撃が走り、堤防の外側、海の方へ落ちたのである。幸いと言うべきか、岩とかはなくてすぐ水の中にまで落下した。何もかも非現実的に見えた。
聞いてくれたらよかったのに。それともこれもまた彼女の心に届く結果なのか。忠告を素直に聞かず、誰にも助言を求めず勝手に進めた結果がこれなのか。もう隣り合って並んで歩くなんて出来ないのか。悩みもたくさん聞いてもらって、先輩の昔話もたくさん聞こうとした。どこまで聞けたのかはわからない。入学直後から同じサークル活動で出会った。彼女は絵を描くのがとても上手だった。主にここではないどこかの世界を描いていて、それなのにどこか懐かしい雰囲気のする不思議な風景画。僕はこれまで人物画しか描いたことないから先輩の作品は最初から僕の興味を引いていた。美しいと思って、彼女に僕から話しかけた。そして彼女は優しかった。それで一年が過ぎた。
海の中でも親のこととか友人のことじゃなく彼女のことばかり。どうか僕が彼女が最初で最後に殺害する男でありますようにと思ってしまうのは、僕がどうしようもなく彼女に惚れたせいなのか。
骨の中にまで達する寒さに僕は死を予感し、浮かび上がることも考えられない。
だからそれで終わりだと思った。見下ろしてくる彼女の目に涙が溜まるのを見ても、それは小振りの雨で先輩の顔が濡れてるばかりと思っていた。それとも海の中にでも鮮明に彼女が見えているのだと錯覚していたのかもしれない。
理解できない。先輩のことがわからない。人と人の距離がここまで遠くなるなんて思わなかった。冷えてゆく体温を感じながら目を閉じる。それが急に暖かい感覚で包まれて、僕は海から引きあげられた。ほかでもない、僕の後に飛び込んできた先輩の腕に抱かれて。
「なんで、泳げるって言ったじゃん。」
僕は固まった表情のまま彼女を見つめた。
「嫌いになったんでしょう?」彼女はそう言う。しかし僕はそれどころじゃない。嬉しいのか、悲しいのか、怒っているのか、僕自身もよくわからない。ただ一つ思ったのは、
「体を、体を温めましょう。どこか、先輩の家でも、僕のところでも。死んでしまいます。」
先輩の体も冷えているのがわかる。先輩の家のほうが近かったのでそっちに。一軒家だったけど誰もいなかった。僕たち二人とも地元の大学に入ったのだ。家が近いのはそのせいである。
二人で交互にお風呂に入ろうとしたけど、先輩がそんなややこしく二度手間なことはしないほうがいいと言ったので一緒に入った。
何となくもう一度口づけを交わしたけどそれだけ。しかも最初のそれと違って、濃密に口内を味わって、それでも最初のときめきはどこかへ飛んで行って、残ったのはこの人が自分から離れるのを許せそうにないという独占欲だけ。
体が冷えたのでそれ以上のことをする気にはなれなかったが、先輩の裸は十分魅力的だと感じが。先輩も僕の裸を恥ずかしがることもないのかガン見してたけど。
風呂場から出てソファに並んで座った。暖かいココアが美味しい。
「私のこと嫌いになった?」先輩はそう言ったけど、正直よくわからない。けど、別にいいと思った。簡単に言うならこれくらいは耐えられる。
「嫌いになったほうが良かったんですか。」
「わからない。」
「じゃあなんでそんなことをしたんですか。」
「やっぱ怒ってるでしょう?」
「先輩って、人の心を弄びたいわけじゃないんですよね?」
「別に。死ねばいいなんて思ったことはあったけど。」
「口にはしなかったんですよね。」
「他人に自分が考えることを教える義理なんてないから。」
やっぱり先輩はどこまでも冷たい。それでも、
「それでも僕は先輩と一緒にいたいと言ったらどうしますか。」
「狂ってるんじゃない?」
「愛は狂いですよ。」
「無償の愛でもないのでしょう?何か代価がないと行けないんでしょう?」
「先輩の存在が代価だと言ったら信じてくれますか。」
「ほら、信じるのを求めてくるじゃん。」
「じゃあ信じなくていいので。」僕はそう言って先輩の肩を抱きしめる。少しだけ震えていた。寒かったのかも思ったけど、そう言うことではないと思う。
「こんな女のどこがいいわけ?」
「別にいいじゃないですか。」
「理解できないから。」
「じゃあ理解できるまで一緒に過ごしましょう。それでどうですか。」
「やっぱそのまま死んだほうが良かったんじゃない?」
「僕が死んだら先輩は僕のことを忘れられるようになるんですか?」
僕が先輩の目を見ながら言うと先輩は目をそらした。
「なんでそんなこと言うの。」
「先輩が僕を落としたんですけど。」
「どっちの意味?」
僕は先輩の冗談に少し笑ってしまう。
「心も体も落とされてますね。」
「別に落とそうとしたわけじゃないし。」
「落としてますよ。自覚もなしにそんなことをやったとか言わないんでしょうね。」
「自覚してるし。」
「心の方はどうですか。殺人未遂はこの際置いておきましょう。人生に未練なんてないとか言いませんし、死ぬのは怖いんですけど、好きな人に見られながら死ぬならそれも悪くないと思ったんですよ。人生で一度だけの経験じゃないですか。」
「なんて能天気なの。」
「ポジティブシンキングです。」
「言い方を変えただけじゃん。」
そうとも言う。
「先輩って、人が信じられないんですか。」
「逆になんで信じられるの。赤の他人じゃん。」
「他人を信じるのはいけないことなんですか。」
「行けないんじゃなくて、常識でしょう?信じてどうなったかもう忘れたの?」
「忘れてません。落としてから救ってもらってお風呂に入れさせてもらって裸も見せてもらったんですけど、人を信じた対価として十分だと思いますが。」
先輩は表情を歪ませた。辛いことを堪える、みたいな感じではなく。こいつ面倒くさいと思っている顔。
「先輩は僕のこと好きじゃないんですよね。」
その何気ない質問に先輩は何も答えず俯いた。外は少し暗くなってて、リビングに灯かりはつけていない。それでも先輩の耳が赤く染まるのははっきりと見えたのである。
「わかんないし。今まで誰も好きになったことなんてないし。」
やっぱり子供っぽい。ああ、そうか。まるでいたずらっ子のように、思春期すらもなってない子供のように、僕は海に落とされたのか。体も考える能力も全然年上なのに、感受性や心の在り方は子供のままで。これがギャップ萌えなのかと悶えていたら。
「許してくださいなんて言わないし。間違ったことなんてしてないし。」そうぶつぶつ言っていたのである。
「僕以外の人を真冬で落とさないと約束してください。地球が温暖化しなかったら死んでましたよ。」
「環境破壊で助かるなし。」
そう言われて僕は大きな声で笑った。
「先輩ってやっぱり面白いです。」
「その先輩呼び辞めない?普通に苗字とかでいいじゃん。」
「そこは名前じゃないんですか。」
「自分の名前あんまり好きじゃない。」
「じゃあ、あだ名とか。」
「どっちでもいい。」
「先輩だけはだめなんですね。」
「人と区別できないでしょう?私以外の先輩にも先輩って呼ぶじゃん。不便じゃん。」
「嫉妬してくれるんですか?」
「それはない。」
そうきっぱりと否定されたけど、それで傷つくこともなかった。
「殺しで自分の行動を正当化するじゃないですか。歴史とか見ると。」
「それでしっぺ返し食らって最後には大変なことになるけどね。」
「そうでもないこと多いでしょう。」
「何が言いたいの?」
「別に。」
「やっぱり怒ってるよね。」
「怒ってませんよ。ただ…。」
「ただ?」
「これで先輩は僕から離れられなくなってしまったんじゃないですか。」
「なんでそう思ったの?」
「じゃあ僕を野放しに出来ますか。」
「警察にでも行くの?」
「行くと言ったらどうしますか。」
「何もしない。証拠なんてないでしょう?」
「証拠があったらどうしますか。」
「録音でもしてたの?」
「仮定の話です。」
「したの?してないの?どっちなの?」
「したと仮定して話を進ませませんか。」
「進ませたくない。」
「わがままですね。」
「わがままじゃなかったらあんなことをしなかったんだと思うけど。」
「自覚あるじゃないですか。」
「じゃあどうすればよかったの。」
「普通に受け入れるとか。」
「受け入れられるわけないでしょう?今更?今更幸せになれるって?誰もそんなこと望んでない。私は、私は今まで全部自分でやってきた。人が教えてくれなかったことを、親が教えてくれなかったことをすべて全部自分で探して、自分で何とかしてきたの。親を告発することなんて出来ない。ネグレクトの証拠の集め方なんてわかるわけないでしょう?子供だったんだから。どう頑張っても、親に見てもらえなくても、一人で、今まで、誰から認められなくても、頑張って…。」先輩は泣きながらそう言っていて、僕はただ黙って続きを促す。
「そうしてきたのに、今更、今更私の目の前に都合よく私を愛してくれる素敵な男性が現れるとか、冗談だと思うでしょう?」
僕はにやりと笑って、先輩を抱きしめた。
「いいじゃないですか。そんな冗談のような話があっても。都合のいい話があっても。今まで苦しかった分を取り戻せると思ったらいいじゃないですか。これから二人でたくさん楽しいことをしましょう。気が済むまで。」
「いいの?」
「良くない理由でもあるんですか。」
「私こんなだし。」
「こんなって、何のことですか。」
「性格悪いし。」
「それは周知の事実です。」
「そこは否定しないんだね。」
「知ってて認めて、それでも愛してると言われる方が嬉しくないですか。」
「そうかもしれないけど。」
「じゃあそれでいいじゃないですか。」
彼女も、そう、やっと、初めて笑った。涙に濡れた顔ではにかんだ。綺麗だと思った。そして僕はそんな彼女の唇に口付けをしたのである。
しかし彼女は誰にだって初めては優しい。それは人が自分に頼らなくするため、自分から提供できるすべてを提供した後、極端にまで距離を取るようにしているだけ。その理由を知って、僕はがっかりすることはなく、むしろ彼女をもっと好きになってしまった。言い知れない可愛さがある。線引きだってちゃんとしている。例えば僕のような男に求められたところで体を提供したりはしない。彼女は人との距離を取りたがって、その理由もまた可愛らしいのだ。
自分が愛情に飢えていることを自覚していて、感受性が子供の時のままに止まっているから、そんな自分の子供らしいところを見せたら皆離れてしまうと思い込む。
ただそれは間違った考え方でもなくて、そう言う経験もしていたのだろう、傷ついているような印象もたくさん受けていた。無理やり笑顔を作ろうとしたり、大丈夫と言っている時には特に。それでも彼女は美しかった。顔とか体つきとかじゃなくて、その在り方が。なぜ自分に問題があるのかを知りながらも、それを人に親切に教えてから自分から離れる。そして線を越えてくる人を相手には容赦しない。
しかもそれが大人になるまで続いたものだから、その歪みはただ歪みのままで終わらず、サディスティックさを伴うようにまでなったんだと思う。彼女をそれなりに経験した彼女の数少ない友人である女性の先輩がそう言っていて、それでも近づこうとするなら覚悟を決めたほうがいいと言われた。
何の覚悟?僕はまだ若いし、ただ若いだけではなく人をたくさん経験していたわけではない。自分が好きだと思ったらそれを諦めず求め、それでも壁にぶつかる時はむしろ一層熱意を燃やす。
それでも人だから、同じ人だから、安直に考えていたんだろうと、冷たい海に沈みながら思う。
真冬の海、骨までしみてくる冷たさ。初めから知っているとは思わなかったけど、それでもある程度は知っているのだとばかり思い込んでいた。人の領域がそこまで外れるものではないと思い込んでいた。
理解できない、わからない、なぜ彼女が僕を海に落としたのか。息が出来ない。冷めた目で僕を見下ろしてくる彼女を見上げて、僕はただただ冷たい海の中へと沈んでゆく。
後悔が押し寄せて来る。もっと時間をかけるべきだったのか、それとももっと適切な距離感が合ったんだろうか。僕から何かを欲しがっていたんだろうか、それとも僕が何かを彼女に欲しているのだと訴えるべきだったか。
「なんで、なんで私を愛そうと思ったの。」彼女はそう言っていた。僕たちは堤防の上を歩いていた。大学から家に帰る途中だった。僕と同じ方角だったから、僕は彼女と一緒に歩いて帰る時が多かった。二人だけの時間が心地よかった。彼女は最初の頃に比べたら随分と冷めた雰囲気を醸し出していたけど、それでもよかった。僕はただ、夕日で影って、どことなく寂しさと儚さを感じるその横顔を見るのが好きだったのだ。
「なんでって、好きになったからなんですけど。」
「何もないよ。私があなたに与えられることなんて、何もない。私から何かを見出そうとしても、私は何も与えられないの。」
「それでもいいじゃないですか。僕が先輩の価値を見出したんです。先輩の中から、暖かい感情を、心を見たんですから。」
「愛に目がくらんでも、持続するのは一瞬だけだよ。そんなものに依存しても、何もない。何もないの。それともただ体のつながりが欲しいだけ?そうでしょう?恋愛ってそういうものだと思ってるんじゃないの?そう言うことが恋愛をすると待っているからと期待して、それを当たり前だと受け入れて、結局誰だっていいじゃないの?なんで私である必要があるの?私じゃないと駄目な理由がなかったら、私以外の人に行ってしまうこともあり得るってことでしょう?それとも我慢するの?なんのために?ただの約束だから?信頼関係?私とあなたの間になんの共通点もない。人がやっている恋愛だからと私も追いつくだなんて考え方なんてしていない。それでもいいと言うの?」
「そんな先輩がいいんですよ。なんでも理屈を立てて理解しようとして、それが出来なくて一人で四苦八苦して、そんな先輩だから、僕も好きになったんですよ。先輩のことを考えるだけで心臓が飛び跳ねるんです。僕を受け入れられないならそれでもかまいません。ただ傍にいさせてください。何もしませんから。何も求めませんから。ただ先輩の傍にいたいだけですから。」
「じゃあ、じゃあ…。キスして?」そう言われて僕は嬉しかった。唇は少しだけ冷たく柔らかかった。感動で胸が打ち震える。この時がいつまでも続けばいいと思った瞬間だった。
胸に鈍重な衝撃が走り、堤防の外側、海の方へ落ちたのである。幸いと言うべきか、岩とかはなくてすぐ水の中にまで落下した。何もかも非現実的に見えた。
聞いてくれたらよかったのに。それともこれもまた彼女の心に届く結果なのか。忠告を素直に聞かず、誰にも助言を求めず勝手に進めた結果がこれなのか。もう隣り合って並んで歩くなんて出来ないのか。悩みもたくさん聞いてもらって、先輩の昔話もたくさん聞こうとした。どこまで聞けたのかはわからない。入学直後から同じサークル活動で出会った。彼女は絵を描くのがとても上手だった。主にここではないどこかの世界を描いていて、それなのにどこか懐かしい雰囲気のする不思議な風景画。僕はこれまで人物画しか描いたことないから先輩の作品は最初から僕の興味を引いていた。美しいと思って、彼女に僕から話しかけた。そして彼女は優しかった。それで一年が過ぎた。
海の中でも親のこととか友人のことじゃなく彼女のことばかり。どうか僕が彼女が最初で最後に殺害する男でありますようにと思ってしまうのは、僕がどうしようもなく彼女に惚れたせいなのか。
骨の中にまで達する寒さに僕は死を予感し、浮かび上がることも考えられない。
だからそれで終わりだと思った。見下ろしてくる彼女の目に涙が溜まるのを見ても、それは小振りの雨で先輩の顔が濡れてるばかりと思っていた。それとも海の中にでも鮮明に彼女が見えているのだと錯覚していたのかもしれない。
理解できない。先輩のことがわからない。人と人の距離がここまで遠くなるなんて思わなかった。冷えてゆく体温を感じながら目を閉じる。それが急に暖かい感覚で包まれて、僕は海から引きあげられた。ほかでもない、僕の後に飛び込んできた先輩の腕に抱かれて。
「なんで、泳げるって言ったじゃん。」
僕は固まった表情のまま彼女を見つめた。
「嫌いになったんでしょう?」彼女はそう言う。しかし僕はそれどころじゃない。嬉しいのか、悲しいのか、怒っているのか、僕自身もよくわからない。ただ一つ思ったのは、
「体を、体を温めましょう。どこか、先輩の家でも、僕のところでも。死んでしまいます。」
先輩の体も冷えているのがわかる。先輩の家のほうが近かったのでそっちに。一軒家だったけど誰もいなかった。僕たち二人とも地元の大学に入ったのだ。家が近いのはそのせいである。
二人で交互にお風呂に入ろうとしたけど、先輩がそんなややこしく二度手間なことはしないほうがいいと言ったので一緒に入った。
何となくもう一度口づけを交わしたけどそれだけ。しかも最初のそれと違って、濃密に口内を味わって、それでも最初のときめきはどこかへ飛んで行って、残ったのはこの人が自分から離れるのを許せそうにないという独占欲だけ。
体が冷えたのでそれ以上のことをする気にはなれなかったが、先輩の裸は十分魅力的だと感じが。先輩も僕の裸を恥ずかしがることもないのかガン見してたけど。
風呂場から出てソファに並んで座った。暖かいココアが美味しい。
「私のこと嫌いになった?」先輩はそう言ったけど、正直よくわからない。けど、別にいいと思った。簡単に言うならこれくらいは耐えられる。
「嫌いになったほうが良かったんですか。」
「わからない。」
「じゃあなんでそんなことをしたんですか。」
「やっぱ怒ってるでしょう?」
「先輩って、人の心を弄びたいわけじゃないんですよね?」
「別に。死ねばいいなんて思ったことはあったけど。」
「口にはしなかったんですよね。」
「他人に自分が考えることを教える義理なんてないから。」
やっぱり先輩はどこまでも冷たい。それでも、
「それでも僕は先輩と一緒にいたいと言ったらどうしますか。」
「狂ってるんじゃない?」
「愛は狂いですよ。」
「無償の愛でもないのでしょう?何か代価がないと行けないんでしょう?」
「先輩の存在が代価だと言ったら信じてくれますか。」
「ほら、信じるのを求めてくるじゃん。」
「じゃあ信じなくていいので。」僕はそう言って先輩の肩を抱きしめる。少しだけ震えていた。寒かったのかも思ったけど、そう言うことではないと思う。
「こんな女のどこがいいわけ?」
「別にいいじゃないですか。」
「理解できないから。」
「じゃあ理解できるまで一緒に過ごしましょう。それでどうですか。」
「やっぱそのまま死んだほうが良かったんじゃない?」
「僕が死んだら先輩は僕のことを忘れられるようになるんですか?」
僕が先輩の目を見ながら言うと先輩は目をそらした。
「なんでそんなこと言うの。」
「先輩が僕を落としたんですけど。」
「どっちの意味?」
僕は先輩の冗談に少し笑ってしまう。
「心も体も落とされてますね。」
「別に落とそうとしたわけじゃないし。」
「落としてますよ。自覚もなしにそんなことをやったとか言わないんでしょうね。」
「自覚してるし。」
「心の方はどうですか。殺人未遂はこの際置いておきましょう。人生に未練なんてないとか言いませんし、死ぬのは怖いんですけど、好きな人に見られながら死ぬならそれも悪くないと思ったんですよ。人生で一度だけの経験じゃないですか。」
「なんて能天気なの。」
「ポジティブシンキングです。」
「言い方を変えただけじゃん。」
そうとも言う。
「先輩って、人が信じられないんですか。」
「逆になんで信じられるの。赤の他人じゃん。」
「他人を信じるのはいけないことなんですか。」
「行けないんじゃなくて、常識でしょう?信じてどうなったかもう忘れたの?」
「忘れてません。落としてから救ってもらってお風呂に入れさせてもらって裸も見せてもらったんですけど、人を信じた対価として十分だと思いますが。」
先輩は表情を歪ませた。辛いことを堪える、みたいな感じではなく。こいつ面倒くさいと思っている顔。
「先輩は僕のこと好きじゃないんですよね。」
その何気ない質問に先輩は何も答えず俯いた。外は少し暗くなってて、リビングに灯かりはつけていない。それでも先輩の耳が赤く染まるのははっきりと見えたのである。
「わかんないし。今まで誰も好きになったことなんてないし。」
やっぱり子供っぽい。ああ、そうか。まるでいたずらっ子のように、思春期すらもなってない子供のように、僕は海に落とされたのか。体も考える能力も全然年上なのに、感受性や心の在り方は子供のままで。これがギャップ萌えなのかと悶えていたら。
「許してくださいなんて言わないし。間違ったことなんてしてないし。」そうぶつぶつ言っていたのである。
「僕以外の人を真冬で落とさないと約束してください。地球が温暖化しなかったら死んでましたよ。」
「環境破壊で助かるなし。」
そう言われて僕は大きな声で笑った。
「先輩ってやっぱり面白いです。」
「その先輩呼び辞めない?普通に苗字とかでいいじゃん。」
「そこは名前じゃないんですか。」
「自分の名前あんまり好きじゃない。」
「じゃあ、あだ名とか。」
「どっちでもいい。」
「先輩だけはだめなんですね。」
「人と区別できないでしょう?私以外の先輩にも先輩って呼ぶじゃん。不便じゃん。」
「嫉妬してくれるんですか?」
「それはない。」
そうきっぱりと否定されたけど、それで傷つくこともなかった。
「殺しで自分の行動を正当化するじゃないですか。歴史とか見ると。」
「それでしっぺ返し食らって最後には大変なことになるけどね。」
「そうでもないこと多いでしょう。」
「何が言いたいの?」
「別に。」
「やっぱり怒ってるよね。」
「怒ってませんよ。ただ…。」
「ただ?」
「これで先輩は僕から離れられなくなってしまったんじゃないですか。」
「なんでそう思ったの?」
「じゃあ僕を野放しに出来ますか。」
「警察にでも行くの?」
「行くと言ったらどうしますか。」
「何もしない。証拠なんてないでしょう?」
「証拠があったらどうしますか。」
「録音でもしてたの?」
「仮定の話です。」
「したの?してないの?どっちなの?」
「したと仮定して話を進ませませんか。」
「進ませたくない。」
「わがままですね。」
「わがままじゃなかったらあんなことをしなかったんだと思うけど。」
「自覚あるじゃないですか。」
「じゃあどうすればよかったの。」
「普通に受け入れるとか。」
「受け入れられるわけないでしょう?今更?今更幸せになれるって?誰もそんなこと望んでない。私は、私は今まで全部自分でやってきた。人が教えてくれなかったことを、親が教えてくれなかったことをすべて全部自分で探して、自分で何とかしてきたの。親を告発することなんて出来ない。ネグレクトの証拠の集め方なんてわかるわけないでしょう?子供だったんだから。どう頑張っても、親に見てもらえなくても、一人で、今まで、誰から認められなくても、頑張って…。」先輩は泣きながらそう言っていて、僕はただ黙って続きを促す。
「そうしてきたのに、今更、今更私の目の前に都合よく私を愛してくれる素敵な男性が現れるとか、冗談だと思うでしょう?」
僕はにやりと笑って、先輩を抱きしめた。
「いいじゃないですか。そんな冗談のような話があっても。都合のいい話があっても。今まで苦しかった分を取り戻せると思ったらいいじゃないですか。これから二人でたくさん楽しいことをしましょう。気が済むまで。」
「いいの?」
「良くない理由でもあるんですか。」
「私こんなだし。」
「こんなって、何のことですか。」
「性格悪いし。」
「それは周知の事実です。」
「そこは否定しないんだね。」
「知ってて認めて、それでも愛してると言われる方が嬉しくないですか。」
「そうかもしれないけど。」
「じゃあそれでいいじゃないですか。」
彼女も、そう、やっと、初めて笑った。涙に濡れた顔ではにかんだ。綺麗だと思った。そして僕はそんな彼女の唇に口付けをしたのである。
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