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忘却の彼方へ

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とある小屋に住むとある40代の男性はとある考えに囚われていた。ここから出たら恐ろしい何かが待ち構えている。それはきっと俺を殺しに来るだろう。
だが俺はここにこもって20日。最初に持ってきた食料は尽きてしまった。しかし外に出ることは出来ない。待っているだけだと死んでしまう。男は思った。じゃあキノコを育てよう。丁度窓を開けるとキノコの胞子が入って来るところだったので、男はキノコの胞子を集めてキノコをゆっくりと育てることにした。天井に張り付いて、小屋にあるありとあらゆる木製の家具にキノコの胞子を付けて回る。それだけでキノコが育てるのだと、男は信じていた。
しかし待てど暮らせどキノコは育たない。そりゃそうだ。二時間しか経ってない。育つはずがない。じゃあどうするか。男は寝ることにした。寝ると自分が小屋から出られないという状況を忘れられる。寝て過ごすうちに男は夢を見た。夢の中で自分は家族がいて恋人がいて仕事もしていた。それは過去の夢。遠い昔の過去の夢だった。過去に男は色んなことを経験した。様々なことを経験した。
何もかも経験した。経験値と言えば男の経験値はカンストするくらいは溜まっていた。しかし男が生きている世界はゲームではなかった。楽器を演奏した経験があって、軍で兵士として働いた経験があって、医者をしていた経験があって、詩人だった経験があって、修道院で修道士として勤めた経験もあって、世界中を歩く周った旅の商人としての経験があって、ただの傭兵だったこともあって、ただの村人だったこともあって、ただの農民だったこともあって、ただの狩人だったこともある。
それでも男の人生は終わらない。次から次へと移る。時間はとめどなく流れる。男は考える、そもそも俺は本当に40代なのかと。いや、そもそも俺は男なのかと。考えてみれば出産を経験したこともある気がする。痛かった。死んだこともある。そうだ、何回死んだっけ。彼、いや、彼女、いや、それは思う。それは生きているのか、この小屋から出たら死んでしまうのか、それともこの小屋こそ自分が持っているすべての世界じゃないのか。外は薄暗い森。森にはたくさんの生物が住んでいた。それはもう10メートルほどの虫から30メートルほどの巨人まで住んでいた。それはだからそれらと出会わないことを祈るしかない。しかしそれは外に出ないと死んでしまう気がしてならない。キノコなんて育たない。育てようとしたけど育たない。
コケとかはどうだろう。コケはそもそも食べられるのか。葉っぱを食べる生活に戻りたい。昔は昆虫もよく食べていたが、いつの間にか皆食べなくなってしまった。昔は皆が何かを目的とすることもなく皆が皆のために何かを求めることなく生きていた。しかし今はそうじゃない。
一体いつから、世界はペドフィリアとネクロフィアで溢れるようになったのか。それは思う。私もかつては死体だった。死体だったことで自慢することなんて何もない。しかも誰もが先祖を思うが、私がその先祖であった事実なんて口が裂けたら言えるかもしれないが私の口はあいにく裂けにくい。なぜなら何もしゃべれないから。
神は命じた。何もしゃべるなと。何かを喋ったらどうなる。どうにもならない。
誰も聞かないだけ。誰かが聞いたら?意味なんてわかるはずがない。なぜなら君は古い魂だからだ。世界の夜明けを目撃した、人々が星を見上げて大地のこっち側からあっち側までただただ進んでいた時期から、出会いと別れを経験し、善意を用いて一つの場所に暮らすことを目指し、それが失敗し続けることを目撃した。
人々は自分たちが間違ったことをしてないと思いたかったから、それを間違いだと主張するすべての人を拷問にかけて殺してきた。虐殺を繰り返し、死体の上に文明を築き上げた。今更後戻りなんて出来ない。
今は何を思うのか、私はただ泣き続けていた顔をあげ、遠くからの光を目指した。
小屋から出ると世界はとても小さくなっていて、恐ろしい怪物はなく、新たに人となった魂で溢れていた。私はどうすればいいのか神に問うと、君は何もすることがないという答えが返ってきた。何もしなくてもいいってことなのか、それとも何もしてはいけないということなのか。
夜明けの光を見ていたその瞳には星の深淵が渦ましている。それと目を合わせてしまっては誰も何もできなくなるだろう、営みを妨害するつもりなのか。
新しく人となった彼ら彼女らを妨害するつもりなのか。
じゃあ私が何もしなくなっているとして、なぜそもそも私を小屋から出るように仕向けた。私が何をした。私は何も望んじゃいない。今更だ。幾千ものの生と死と痛みと耐えきれない無数の感情を経験した私がこの世界に生まれた理由はなんだ。
そう聞くと、夜がやってきた。ああ、きっと、私は夜の空から逃げられないのだろうと、静かに思いながらも。
きっと次に生まれ変わった時、私は人でなくなっているだろうと。
だけどこれは夢。
夢の中で私は小屋を見ていた。夢の外には小屋なんてない。虚無に満ちた空白がただただ広がっていて、そこではまるでピクセルのように点となって形を作っている。
「しかし食べるだけでは物足りないだなんて、君は欲深い。」なんて言われても、欲深いのは今始まったことではない。そうでもなければ、夜明けの時代に人として生きようとは思わなかったはず。
酸いも甘いも知っては忘却に走る。
忘却の彼方へと。大事なものは全部置いてきた。
砂漠にいたころ、私は小鳥を飼っていた。閉じ込められた小鳥を。それが懐かしく、気が付いたら小鳥が私を飼っていた。世界はこうやって過去から未来へと繋がるのだろうと、痛みを伴う知識の源で思うのである。



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