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第七幕 崖の下の住人

あふれる海

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 翌朝、浜に出てみると、昨夜とうって変わって海は荒れていた。

 空は灰色の雲で覆われ、ちぎれ雲が低いところを流れて行く。海面はあちこちに白い波頭が立ち、浜には大きな波が押し寄せてきている。

 3ヶ月暮らしてこの狭い入り江の地形は十分把握しているが、念のためもう一度あちこち見て回る。

 浜の東側は岩場が続き、しばらく進んだところで切り立った崖になって行き止まりだ。西側の岩場を越えると例の船があるが、その先はまた崖になって行き止まりだ。東側も西側も追い詰められたら逃げ場がない。

 ナラさんによると、敵のボスキャラは水を自在に操るということだった。黙呪兵たちも水に強いタイプらしい。作ろうと思えば船の材木から小舟を作ることはできるが、海に漕ぎ出すのは自殺行為だろう。

 となると、この小さい砂浜で上陸して来る敵を迎え撃つしかない。しかしこういう入り江になった場所は、大波が来たら、まんま水没させられる可能性がある。

 俺は背後の岩壁を見上げた。未来はこっちにしかない。



 あらためて岩壁に登ってみる。

 まず浜から2、30メートル上がった所にテニスコートほどの広さの広場がある。ここは普段から行き来していて、家庭菜園や水場もここにある。

 そこからさらに上がると、もう1段、学校の教室よりちょっと狭いぐらいの平らなスペースがある。ここにはニコが花の種を播いて育てている花壇がある。この2段目までは岩が階段状になっていて簡単に上がって来られる。

 さてこの先はマジで岩壁をよじ登る形になる。ニコとナラさんが心配そうに見守る中、岩の出っ張りに足をかけ、割れ目に手を伸ばし、少しずつ登ってみる。

 すると、ちょっと上がったところがテラス状になっていて、ライブハウスのステージぐらいのスペースになっていた。

 ここまで来ると海面からは相当な高さがある。下を見ると玉ヒュンだ。しかもここから上はほぼ垂直の壁になっていて特殊な装備でもないと登れない。

 いくら何でもこの3段目まで水面が上がって来ることはないだろう。ここを最後の砦として、何とか1段目か2段目で敵を食い止めよう。



 昼前から雨が降り出した。風もだんだん強くなってくる。

 泣きっ面に嵐かよ、という感じだが、いやいや、荒れた海が敵を足止めしてくれるかもしれない。今のうちにあれこれ準備を整えよう。

 まず、震刃で岩を刻んで2段目から3段目まで階段状の足場を作った。追い詰められた状態で慌てて岩をよじ登るのは危険だ。自陣内は安全に行き来できるようにしておかなければならない。

 次に3段目の奥の岩壁を震歌で彫り込んで空洞を作った。動けるスペースが拡がると同時に雨に濡れない倉庫ができた。

 そしてここにナラさんのタイコや俺のベー太、ニコのお気に入りのドレスなど、小屋にあった大事な物を運び込んだ。念のため保存食なども持ち込んだ。そこまでしなくても良いかもしれないが、備えあれば憂いなしだ。

 今は雨で煙ってしまっているが、ここからだとかなりの範囲を見渡せる。見張りもここからがいいだろう。



 結局その日は何事もなく過ぎた。夜になってますます風雨は強くなり、本格的な嵐になった。俺たちは落ち着かないまま一夜を過ごした。

 翌朝になると風雨も波も若干治まっていた。しかし空が……何だか赤っぽい不気味な色に染まっている。

「何だこの空は? 朝焼けじゃないよな」

「何か気持ち悪いね」

 ニコと2人で空を見上げているとナラさんも出てきた。

「これは既に何かやり始めとるな」

「と言うと?」

「誰かが無理矢理、天気をねじ曲げとる、いうこっちゃ。たぶん嵐を操作しとるんやろ」

「そんなことできるんですか!?」

「そらそうや。天気っちゅうのは空気の流れで起る。空気の流れは空気の温度差で起る。温度差は歌術で作れる。まあ相当な歌の強さが必要やけどな」

 なるほど。歌術の中には雨歌とか雷歌とか、お天気に関係するものがいろいろあるしな。風の歌術の奥義には嵐歌ランカというのもあるらしい。自然の嵐に人工の嵐をぶつければ、嵐を操作することも可能かもしれない。

「間違いなく来るで。今日や。今日中に来る。とりあえずワシが上に行って見張っとくわ。1時間ごとに交代な」

「はい、お願いします」



 お昼頃になっても空には朝焼けのような赤さが拡がっていた。しかしもっと奇妙なのは、まだ風がびゅうびゅう吹いているのに波が急に鎮まってきたことだ。

 時間が経つにつれ波はさらに穏やかになってしまい、とうとう、見渡す限り静かな水面にさざ波が立つだけになってしまった。不気味だ。

 そしていよいよ連中がやって来た。

 ちょうど俺が見張りをしている時だった。西の水平線に豆粒のような黒い影が現れたかと思うと、みるみるその数が増え、10隻ほどの艦隊になった。

 だんだん近づいてくる船影をよく見ると、1隻1隻が3本マストの大きな帆船だ。生身の人間相手にご苦労様なことだ。



 艦隊はまっすぐこちらに近づいてきて、沖合からこの小さなビーチを取り囲んだ。

 この世界、銃はまだ開発されてないみたいだが、大砲は存在する。てっきりドンパチ砲撃してくるのかと思ってたが、連中、こちらを取り囲んだまま沈黙している。

 何だ? どうするつもりなんだ?

 しばらくすると、それぞれの船から小舟が降ろされた。2、3人の人間が乗り込んで浜辺に近づいてくる。しかし、そのまま上陸してくるのかと思いきや、ちょっと手前で止まった。

 何やってんだ? よく見ていると、海に何かばら播いている。

 そうか! あれは黙呪兵の種を播いてるんだ。



 案の定だった。気がつくと波間に黒い物体がいっぱい漂って……いや、そいつらはみな自力で泳いでいた。そして波打ち際まで来て、水を滴らせながらゆっくり立ち上がった。

 黒くてしわくちゃで無表情、老人のような子供のような奇妙な生き物。ああ、またこいつらか。3ヶ月ぶりだな。



『ドンチ、ドンチ、ドンチ、ドンチ』

 背後から1拍ずつ刻んだリズムが響いてくる。作戦通り、ナラさんがドラムの演奏を始めた。

 まあドラムといっても、足元に木箱を置いてドンドンやってバスドラム、後は角に引っかけた鍋ぶたのハイハットだけ、という簡易セットだ。

 ニコが炎壁を3つ並べて防護壁を作った途端に、波打ち際の黙呪兵がぴゅんぴゅんと水刃を飛ばしてきた。

 しかしニコの壁術は強さ、持続時間ともに驚異的なレベルに達している。黙呪兵の撃つ水刃など子供の水鉄砲のようなものだ。炎の壁に当たって瞬時に蒸発する。

 俺はナラさんの刻んでくれてるリズムの倍速に乗って高速ラップを歌う。両人差し指から発した震動波が飛び交い、黙呪兵たちはバタバタ倒れていく。あっという間に波打ち際は奴らの残骸でいっぱいになった。

 しかし奴らはそれを乗り越えて次々に上陸してくる。震刃で払っても払ってもまた次の奴が上がってくる。

 白く美しい浜辺は奴らの残骸で埋め尽くされていった。ニコと毎日戯れていた波打ち際も、将来を語らった砂浜も、黒く汚されていく。チクショー……胸が締め付けられるような光景だ。



 黙呪兵の数を減らそうと思うな。奴らを操る人間を倒せ。

 ……あの白狼の言葉が頭によみがえる。

 そうだ。これではキリがない。俺は小舟で種を播いてる人間を震歌で狙撃した。1人目、2人目、3人目……撃たれた奴は吹っ飛んで波間に消える。

 しかしそれでもなかなか上陸してくる黙呪兵の勢いは減らない。しかも一向にボスキャラは姿を現わさない。

「海魔とかいうの、出て来ませんね」

 振り返ってナラさんに声をかける。

「そやな。まあタイミングをうかがっとるんやろな。そのうち来よるから気ぃ抜きなや」

「了解です」



 ちょうどその時だった。

 急にそこいら中の海面から湯気のようなものが立ち上がった。辺りはあっという間に白く煙ってしまい、沖の方が見えなくなった。霧? 何これ。

 と思ったら、沖合数十メートルぐらいの海面がボコッと盛り上がった。そこだけ水面をつまみ上げたかのような奇妙な光景だ。

 な、何だ!?

 驚いていると、その盛り上がった海面から特大の水刃が飛んできた。

『バシュッ! しゅうううう……』

 水刃に含まれる水の量がハンパない。あの強力なニコの炎壁が、水刃を1発食らっただけで消えてしまった。水鉄砲どころじゃない。まるでショットガンだ。

 慌ててニコが炎壁を張り直そうとしたが、そこにも容赦なく水刃が飛んでくる。まずい! あんなのまともに食らったらケガでは済まない。

「危ない!」

 俺は間一髪でニコを引っ張り戻した。

 水刃に対しての効果は弱いが、とりあえずまだ消えてない炎壁の内側に震壁を2重に張ってしのぐ。そしてその内側に炎壁を2重に張ってもらう。こうやって壁術を重ねれば防御はできるが、当然、ジリジリ後退することになる。

「来たな。海魔イレンや」

 ああ、やっぱりそうか。いよいよお出ましだな。



 盛り上がった水面がガバッと割れ、中から姿を現わしたのは……人魚か?

 下半身はウロコに覆われているが、上半身は裸だ。緑の髪をした裸の美女だ。子供向けアニメみたいな貝殻のビキニなんか着けてない。そのまんまだ。

 しかしその目は不気味に光り、何とも嫌な表情をしている。見てるだけでこっちの心が折れそうになる。ヌエに初めて会った時と同じ感じだ。エロよりもグロが勝っている。

 女は水面に直立している。どうやって立ってるんだろう……と思ったら、違っていた。

 人魚なんかじゃない。女の下半身は水の中にずーっとつながっている。つまり下半身は魚ではなく大蛇だ。大蛇の頭が人間の女になっているんだ。き、気持ち悪う。



 蛇女は水面からにょろにょろっと下半身を現わし、両手を大きく広げて何か歌い出した。見かけによらず美しい声だ……聞き惚れそうになる……

「アカン! 狂歌や! 耳栓せえっ!」

 ナラさんが叫ぶ。俺たちは慌てて海綿から作ったスポンジを耳に詰め込んだ。

 まともに術にかかってしまうと、正気を取り戻すのに数日かかるという、情歌の中でも最も恐れられている歌術だ。中には発狂したまま海に身を投げたり、生涯回復しなかった者もいるという。危ない危ない。



 蛇女は狂歌を歌い終えると、また別の歌を歌い出した。歌に合わせて海面がうねるように動き、大きく盛り上がったかと思うと、こちらに向けて押し寄せてきた。

「大波が来る! 凍鳴剣だ!」

 耳栓を投げ捨て、俺はニコを振り返った。彼女はすぐに笛を構えて旋律を吹き始めた。ナラさんもそれに合わせてリズムを刻んだ。

 ノリノリの凍歌が俺の手にある木剣を魔剣に変えた。白く光る剣から発せられた冷気は、浜に押し寄せてくる大波を瞬時に凍らせた。

「よし! 止まった!」

 正直、大量の海水を瞬間的に凍らせるなんて、できるかどうか不安だったが、何とかなったようだ。



 しかし、ホッとするのは早かった。

 凍りついたはずの波の一部が崩れ、ドッと海水が浜辺に流れ込んできた。何でだ?

「ニコ、ナラさん、もう一度頼む!」

 もう一度凍鳴剣を振るい、崩れた部分を凍らせた。しかし、すぐにまた別の場所が崩れて海水が流れ込んでくる。

「ソウタ、あれ!」

 ニコが指差した方向は霧が切れて沖の船が見えている。その船から炎の塊のようなものが飛んできて凍った大波に当たると、そこが融けて崩れ、海水が流れ込んで来る。

 そうだ、忘れていた。もう一匹、眷属が船に乗ってるんだった。

「あれがフリトや。案の定、あいつが氷を融かす役やな」

 船に震歌を撃ち込んでやりたいところだが、さすがにここからでは遠すぎる。連中もバカではないようだ。俺たちの戦い方を調べていろいろ戦略を考えて来てるんだろう。



 凍鳴剣で凍らせても凍らせても炎塊でどこかが崩される。どんどん海水が浸入してきて水位が上がり砂浜は海にのまれそうになってきた。

 まずい。何か違う手を打たなければ、そう思った途端、凍った波を乗り越えてさらに大きな波が押し寄せ、一気に俺たちの足元まで水が来た。

 海があふれた。

「一段目まで撤退や!」

 ナラさんの号令で俺たちは後の岩壁に向かって走り出した。
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