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娼婦と白い肌
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ルード大陸の南に位置する港町アクリオン。太陽神の息子の名を冠するこの町は、一年を通して真夏の気候だ。昼間はぎらぎらとした日差しが降り注ぐが、夕方ともなれば海からの風が町を通り抜けて一気に涼しくなる。その代り、港特有の海の男たちが夜の街へ繰り出して、人々の熱気で街はまた熱くなる。
その人の集う港町の大通りを歩く。海から潮の香り交じりの風が吹いて髪を揺らした。茶色く長い髪を耳にかける、ただそれだけのしぐさに、通りを歩いていた男の視線が私に集まる。
袖のない衣服。零れ落ちそうなほどの胸を隠す布面積は少なく、くるぶしまであるスカートも太ももの部分からスリットが入っていて膝から下は丸見えだ。
常夏の港町とはいえども、これほどの薄着の女性はそうそういない。男たちの生唾を飲み込む音が聞こえる。実際に音は聞こえないが、その首元を見れば喉仏が上下しているのが見えた。瞳には欲情の光が宿り、私の体の隅々にまで視線が這う。
しかし、誰も声をかけてくる様子がない。
私は目を細めると鞄からショールを取り出して肩にかけた。買うつもりのない男に肌を見せ続けるほど、私は安い女ではない。
ロジスティア。
船乗りや傭兵といった下級客ではなく、富豪や貴族などの上級といわれる客を相手にする高級娼館で働く娼婦の名前。腰まである緩くウェーブのかかる茶色の髪に情熱的な赤い瞳。肌は抜けるように白く、ほっそりとした手足に男が喜びそうな大きな胸。右目の下にある泣きホクロが妖艶さを醸し出している。その筋では有名で、男を虜にする技術はもちろん、美しさと妖艶さを兼ね備えた女。
それが、私だ。
一度私が相手をした男は、また必ず私を指名するようになる。娼館としても手放しがたい娼婦だった。しかし、私はその高級娼館を追い出された。
二十六歳とまだ若く、暇を告げられるには早い年齢だ。しかしちゃんと理由はある。それが私が患っている病気のせいだった。
『肌白』と呼ばれる病。皮膚の一部が白く変色し、やがてそれが全身に広がっていく病。皮膚病の一種で、他の人間に感染ることはない。治療する薬もあるにはあるが、かなり高価で私のような娼婦では手が出ない。
この病に気づいたのは五年前だ。けれど私の肌は元々白く目立たなかったから、治療せずに放置した。そのせいで白斑は胸や背中に広がっていった。それでもわからないだろうと高をくくっていた。本当によくよく見なければわからないからだ。しかし、昨日突然娼館のオーナーにバレた。
商売柄、性病はもちろん感染しなくとも病持ちというのは、体に直接触れる仕事なだけに嫌がられる。また『黒斑病』と呼ばれる肌が黒くなって死亡する伝染病と同じように考える無知な者は多く、下働きとして身を置くことも嫌がられ、結果追い出された。
今までの稼ぎを考えればもっと優遇してもいいはずなのに、何かに追い立てられるように一方的に話を切り上げられてポイ、だ。
私は仕事を失った。住み込みで働いていた娼館を追い出された。手切れ金にともらった金貨が五枚。今までため込んでいたものと合わせて金貨十枚。それが今の私の全財産だ。慎ましく暮らせば一年はもつ金額。しかしそれも住むところがあることが条件だ。住み込みだった私に帰る場所はない。家を借りるとなればいろいろなことに金がかかる。路上生活をするならともかく、普通の暮らしを求めるならば今あるお金だけでは一年ももたない。
他の職についたことがない、何の知識もないような二十六歳の女を住み込みで雇ってくれるようなところなど思いつかない。あるとすればそれこそ娼館くらいなものだ。
私は娼婦であることを恥ずかしいと思ったことはない。娼婦のことをよく思っていない、正直に言えば嫌悪している連中もいる。恥部だとか陰部だとか言われて、後ろ指を指す連中もいる。
けれど、恥部も陰部も人間にとっては大事なものだ。なにせここがなければ排泄もできないし子孫繁栄だってできない。陰部だろうが恥部だろうが、大切な場所には違いないのだ。そして世間的に見ても私たち娼婦は必要だ。男の欲望の吐き出し口をなくしたら、レイプや暴行が横行してしまうだろう。
客の中には恐ろしいほどの性癖を持っている男もいる。特に嗜虐趣味に走る奴は多く、抱きながら首を絞めたり、娼婦の汚物を欲しがったり、無茶苦茶に突っ込んでくる男もいるくらいだ。高級娼館ではそうでもないが、下級娼館ではベッドの上で変死体で見つかる娼婦も少なくない。そんなのが私たち以外の女に走ったらどうなるか、考えただけでゾッとする。
家族に売られて始めたこの仕事だが、今はそんなに嫌ではない。
気持ちよさげに顔をゆがめる瞬間、攻めるときの必死な顔つき。イくときのくぐもった声や射出後の恍惚とした表情。そして満足げな吐息。
男たちが快楽に堕ちる姿は笑えるほど無様で馬鹿馬鹿しいほど情けないのに、そこに喜びを見つけてしまった。
自分の体で男に快楽を与えているという愉悦。イかせた時の優越感。普段女を見下す態度を崩さない男たちを、手のひらの上で踊らせているような気分になる。
雄がむき出しの本能を垣間見せる瞬間が見られる、数少ない仕事。
だから高級娼館を追い出された私は、すぐに別の娼館に足を向けた。
この町は国外と交易をする大きな港町であるだけに、いくつも娼館がある。その全ての店を訪ねたが、門前払いを食らった。私が肌白を患っていることがなぜか知れ渡っていて、下級娼館でも雇ってくれるところはない。
困った。
荷物運び、倉庫整理、酒場のウェイトレス。あるいはどこかの金持ちの男の情婦になるのもいい。できそうな仕事を指折り数えながら大通りを歩く。
朝に娼館を追い出されてからあちこち回ったせいで、あたりは茜色に染まっていた。今夜泊まるところもないから必死になっていて、時間の感覚もなかった。
夕日に染まる大通りは人が多い。仕事が終わって家路を急ぐもの、町遊びに出かけるもの。そういった人たちでにぎわっている。その人込みを縫うように歩いていた私の目に、食堂の文字が飛び込んできた。
夜は酒も提供する食堂にはいろいろな人種が集まる。その中には当然女を求める男もいるだろう。娼館以外での売春はご法度だが、金をもらわなければ身を売ることにはならない。体を提供する代わりに泊めてもらえば、少なくとも宿代は浮く。
それに正直に足も棒になっているし、お腹も空いた。
食堂に足を向けた私の耳に、店の外にまで響く品のない笑い声が聞こえてくる。一瞬入ることを躊躇したものの、空腹に耐えかねて酒場に足を踏み入れた。
四人掛けのテーブルが八つとカウンターが六席、それに二階席まであるかなり広い食堂は混んでおり、常夏の港町を表すようにムンムンと熱気で溢れていた。その熱気を一人で吐き出しているのではないかと思える男が、一階の真ん中のテーブルについている。
筋骨逞しいという表現が、泣いて逃げだすほどの巨漢だ。
背の高さはもちろん、とにかく筋肉が凄い。私もいろいろな男を見てきたが、ここまで鍛えた体躯をしている男は見たことがない。服の上からでもわかる分厚い胸筋。腕は血管が浮き出るほどで、丸太と言ってもいいくらいの太さがある。腿も鍛えられていて太く、手も大きく厚い。とにかくどこもかしこもが厚くて、そして暑苦しい。日焼けしすぎて赤銅色になった肌が余計にそう感じさせているが、何より暑苦しく感じるのはその顔だ。
目立つのは顔の半分を覆う、手入れもされていない黒い髭。もみ上げから口の周りに髭を生やし、そのせいで年齢不詳だ。肉体的に見ればまだ若く、私と同じくらいかもしれない。黒く不揃いなザンバラ髪は太い眉を微妙に覆うほどに長い。その下にある目は吊り上がっており、黄色の瞳は好戦的で、強い光を放っていた。
「次は誰だ!」
その男が叫ぶ。低い声は粗野で荒々しい。男の前に、別の大男が立つ。テーブルを挟んで睨み合い、同時にテーブルへ右肘をつく。がっしりと互いに右手を組み合わせ、間近からまた睨みあっている。その手の上に別の人の手が乗って、それが離れた瞬間に二人の腕の筋肉がぐんっと盛り上がる。
「ぐっ!」
大男が呻く。この大男も結構な体格を有しているのだが、筋肉男に比べれば若干小さく感じる。大男は力を込めて筋肉男の右腕を倒そうと懸命になってる。けれど、筋肉男の腕はびくともしない。
「お前の力はこんなものか?」
挑発するように筋肉男が低く囁く。それに顔を真っ赤にさせた大男がさらに赤くなる。が、踏ん張っている大男の右手が徐々にテーブルに押し倒されていく。数回瞬きする間に、大男の右手がテーブルについて勝負もついた。
負けた大男は悔しそうにしながら、胴貨数枚をテーブルに投げだすようにして置くと踵を返した。奥の席に座り直し右腕をさすりながら酒を煽っている。
どうやら筋肉男が酒場の男たちを相手に、アームファイトを吹っかけているらしい。アームファイトとは文字通り腕の力で行う勝負事だ。互いの右手をがっちりと握りあって組み合わせ、相手の手の甲がテーブルに着くまで腕一本で押し合う。単純だが腕力が試される勝負で、しかも命のやり取りもなく手軽にできるため、酒の席では余興として行われることが多い。
こういった一目でわかる力勝負は男たちの血を湧き立たせる。戦帰りの傭兵や、この国の鉱山での仕事を終えて故郷へ帰る男たち、そして船乗り。筋肉を誇る力自慢が集まるだけに、こういった勝負事は日常茶飯事だ。
おそらく筋肉男もその力が有り余っている一人なのだろう。テーブルに立てかけている幅広の剣からして傭兵だと思われた。筋肉男が挑戦者を募るように声をかける。するとまた別の男が名乗りを上げた。
私はそれを横目で見ながら店の奥へ進むと、他のテーブルからはやや離れた位置にあるカウンターに腰かけた。店の奥まった席で少し薄暗いが、この場所がまだ一番静かだ。
酒を提供する食堂は大抵が喧騒に包まれていて、どこへ行っても同じような雰囲気だ。静かな店は提供する食事の質や雰囲気はいいが、その分高い。こういった馬鹿騒ぎをしている店ほど安くてボリュームのある料理が提供される。だからこそ船乗り傭兵が集まりやすく、喧しいのだ。
そして私もその安い料理を目当てにしているので、喧しさには目をつむることにした。
「姐さん、いらっしゃい。なんにするー?」
酒場のマスターではなく、ウェイターに声をかけられた。見上げれば人好きのする笑みを浮かべた青年がニコニコとこちらを見ている。背が低く、金髪碧眼。声の低さと服装から男だとわかるが、一瞬女の子かと思ったほど綺麗な顔立ちをしていた。
「安い食事と、あと葡萄酒を頂戴」
「はいはーい。おいしい食事と葡萄酒ねー」
軽快で適当な返事をしながら店の奥へと戻っていく彼を目で追う。その折に、筋肉男の姿が目に入った。またアームファイトで筋肉男が勝ったらしく、がははっと得意げに笑いながら次の挑戦者を募っている。ちらりと見れば筋肉男のテーブルには銅貨が小さな山となっていて、それだけ男が勝負をし、そして勝っているのだと如実に語っている。
訓練をすれば傭兵になれるだろうかと一瞬考えて、筋肉男の盛り上がった二の腕を見て首を振る。娼婦も体が資本の仕事であるのは確かだが、傭兵のように鍛え上げれば見目が悪くなるからと今まで軽い運動しかしたことがない。そんな経験のない私が戦に出たら、真っ先に死ぬだろう。
肌白は死に直結するような病ではない。別に死に急ぐような仕事をすることもない。それでも仕事を探さなければ、今すぐではないにしてもそれこそ飢えて死ぬことになる。
「ねえ、ウェイトレス募集してない?」
料理を持ってきた先ほどの青年に笑いかけながら聞いてみた。店内はカウンターの奥にいるマスターと、店内で給仕係をしている先ほどの青年しかいない。店は繁盛していて、もう何人かウェイターがいてもいいと思えたのだ。住み込みで働かせてもらえればありがたいと考えたのだ。
けれど彼は綺麗に形の整った眉を下げて首を振った。
「ん~、どうだろう。この店景気はいいんだけど、マスターが堅物でさー。あんまり人を雇いたがらないんだよねー。僕は姐さんみたいな人と仕事ができたら嬉しいんだけど」
「そう、残念ね。じゃあ、個人的に女はいらない?」
「ふふっ。姐さん、積極的だねー。でも残念。今夜は先約があるんだー」
男を誘う蠱惑的な笑みを浮かべながら聞いたが、青年は目を細めて首を振った。
「じゃ、ごゆっくり~」
青年は手を振ると、そのまま店の奥へとまた戻っていった。
プロの女を知らなさそうな顔してたから誘ってみたのだが失敗したらしい。住み込み従業員が駄目なら、今夜の宿代が浮かそうと考えたのだ。残念だが仕方がない。今日はどこかの安宿にとまるしかない。
私はため息を吐くと、半日ぶりの食事に手を伸ばした。
その人の集う港町の大通りを歩く。海から潮の香り交じりの風が吹いて髪を揺らした。茶色く長い髪を耳にかける、ただそれだけのしぐさに、通りを歩いていた男の視線が私に集まる。
袖のない衣服。零れ落ちそうなほどの胸を隠す布面積は少なく、くるぶしまであるスカートも太ももの部分からスリットが入っていて膝から下は丸見えだ。
常夏の港町とはいえども、これほどの薄着の女性はそうそういない。男たちの生唾を飲み込む音が聞こえる。実際に音は聞こえないが、その首元を見れば喉仏が上下しているのが見えた。瞳には欲情の光が宿り、私の体の隅々にまで視線が這う。
しかし、誰も声をかけてくる様子がない。
私は目を細めると鞄からショールを取り出して肩にかけた。買うつもりのない男に肌を見せ続けるほど、私は安い女ではない。
ロジスティア。
船乗りや傭兵といった下級客ではなく、富豪や貴族などの上級といわれる客を相手にする高級娼館で働く娼婦の名前。腰まである緩くウェーブのかかる茶色の髪に情熱的な赤い瞳。肌は抜けるように白く、ほっそりとした手足に男が喜びそうな大きな胸。右目の下にある泣きホクロが妖艶さを醸し出している。その筋では有名で、男を虜にする技術はもちろん、美しさと妖艶さを兼ね備えた女。
それが、私だ。
一度私が相手をした男は、また必ず私を指名するようになる。娼館としても手放しがたい娼婦だった。しかし、私はその高級娼館を追い出された。
二十六歳とまだ若く、暇を告げられるには早い年齢だ。しかしちゃんと理由はある。それが私が患っている病気のせいだった。
『肌白』と呼ばれる病。皮膚の一部が白く変色し、やがてそれが全身に広がっていく病。皮膚病の一種で、他の人間に感染ることはない。治療する薬もあるにはあるが、かなり高価で私のような娼婦では手が出ない。
この病に気づいたのは五年前だ。けれど私の肌は元々白く目立たなかったから、治療せずに放置した。そのせいで白斑は胸や背中に広がっていった。それでもわからないだろうと高をくくっていた。本当によくよく見なければわからないからだ。しかし、昨日突然娼館のオーナーにバレた。
商売柄、性病はもちろん感染しなくとも病持ちというのは、体に直接触れる仕事なだけに嫌がられる。また『黒斑病』と呼ばれる肌が黒くなって死亡する伝染病と同じように考える無知な者は多く、下働きとして身を置くことも嫌がられ、結果追い出された。
今までの稼ぎを考えればもっと優遇してもいいはずなのに、何かに追い立てられるように一方的に話を切り上げられてポイ、だ。
私は仕事を失った。住み込みで働いていた娼館を追い出された。手切れ金にともらった金貨が五枚。今までため込んでいたものと合わせて金貨十枚。それが今の私の全財産だ。慎ましく暮らせば一年はもつ金額。しかしそれも住むところがあることが条件だ。住み込みだった私に帰る場所はない。家を借りるとなればいろいろなことに金がかかる。路上生活をするならともかく、普通の暮らしを求めるならば今あるお金だけでは一年ももたない。
他の職についたことがない、何の知識もないような二十六歳の女を住み込みで雇ってくれるようなところなど思いつかない。あるとすればそれこそ娼館くらいなものだ。
私は娼婦であることを恥ずかしいと思ったことはない。娼婦のことをよく思っていない、正直に言えば嫌悪している連中もいる。恥部だとか陰部だとか言われて、後ろ指を指す連中もいる。
けれど、恥部も陰部も人間にとっては大事なものだ。なにせここがなければ排泄もできないし子孫繁栄だってできない。陰部だろうが恥部だろうが、大切な場所には違いないのだ。そして世間的に見ても私たち娼婦は必要だ。男の欲望の吐き出し口をなくしたら、レイプや暴行が横行してしまうだろう。
客の中には恐ろしいほどの性癖を持っている男もいる。特に嗜虐趣味に走る奴は多く、抱きながら首を絞めたり、娼婦の汚物を欲しがったり、無茶苦茶に突っ込んでくる男もいるくらいだ。高級娼館ではそうでもないが、下級娼館ではベッドの上で変死体で見つかる娼婦も少なくない。そんなのが私たち以外の女に走ったらどうなるか、考えただけでゾッとする。
家族に売られて始めたこの仕事だが、今はそんなに嫌ではない。
気持ちよさげに顔をゆがめる瞬間、攻めるときの必死な顔つき。イくときのくぐもった声や射出後の恍惚とした表情。そして満足げな吐息。
男たちが快楽に堕ちる姿は笑えるほど無様で馬鹿馬鹿しいほど情けないのに、そこに喜びを見つけてしまった。
自分の体で男に快楽を与えているという愉悦。イかせた時の優越感。普段女を見下す態度を崩さない男たちを、手のひらの上で踊らせているような気分になる。
雄がむき出しの本能を垣間見せる瞬間が見られる、数少ない仕事。
だから高級娼館を追い出された私は、すぐに別の娼館に足を向けた。
この町は国外と交易をする大きな港町であるだけに、いくつも娼館がある。その全ての店を訪ねたが、門前払いを食らった。私が肌白を患っていることがなぜか知れ渡っていて、下級娼館でも雇ってくれるところはない。
困った。
荷物運び、倉庫整理、酒場のウェイトレス。あるいはどこかの金持ちの男の情婦になるのもいい。できそうな仕事を指折り数えながら大通りを歩く。
朝に娼館を追い出されてからあちこち回ったせいで、あたりは茜色に染まっていた。今夜泊まるところもないから必死になっていて、時間の感覚もなかった。
夕日に染まる大通りは人が多い。仕事が終わって家路を急ぐもの、町遊びに出かけるもの。そういった人たちでにぎわっている。その人込みを縫うように歩いていた私の目に、食堂の文字が飛び込んできた。
夜は酒も提供する食堂にはいろいろな人種が集まる。その中には当然女を求める男もいるだろう。娼館以外での売春はご法度だが、金をもらわなければ身を売ることにはならない。体を提供する代わりに泊めてもらえば、少なくとも宿代は浮く。
それに正直に足も棒になっているし、お腹も空いた。
食堂に足を向けた私の耳に、店の外にまで響く品のない笑い声が聞こえてくる。一瞬入ることを躊躇したものの、空腹に耐えかねて酒場に足を踏み入れた。
四人掛けのテーブルが八つとカウンターが六席、それに二階席まであるかなり広い食堂は混んでおり、常夏の港町を表すようにムンムンと熱気で溢れていた。その熱気を一人で吐き出しているのではないかと思える男が、一階の真ん中のテーブルについている。
筋骨逞しいという表現が、泣いて逃げだすほどの巨漢だ。
背の高さはもちろん、とにかく筋肉が凄い。私もいろいろな男を見てきたが、ここまで鍛えた体躯をしている男は見たことがない。服の上からでもわかる分厚い胸筋。腕は血管が浮き出るほどで、丸太と言ってもいいくらいの太さがある。腿も鍛えられていて太く、手も大きく厚い。とにかくどこもかしこもが厚くて、そして暑苦しい。日焼けしすぎて赤銅色になった肌が余計にそう感じさせているが、何より暑苦しく感じるのはその顔だ。
目立つのは顔の半分を覆う、手入れもされていない黒い髭。もみ上げから口の周りに髭を生やし、そのせいで年齢不詳だ。肉体的に見ればまだ若く、私と同じくらいかもしれない。黒く不揃いなザンバラ髪は太い眉を微妙に覆うほどに長い。その下にある目は吊り上がっており、黄色の瞳は好戦的で、強い光を放っていた。
「次は誰だ!」
その男が叫ぶ。低い声は粗野で荒々しい。男の前に、別の大男が立つ。テーブルを挟んで睨み合い、同時にテーブルへ右肘をつく。がっしりと互いに右手を組み合わせ、間近からまた睨みあっている。その手の上に別の人の手が乗って、それが離れた瞬間に二人の腕の筋肉がぐんっと盛り上がる。
「ぐっ!」
大男が呻く。この大男も結構な体格を有しているのだが、筋肉男に比べれば若干小さく感じる。大男は力を込めて筋肉男の右腕を倒そうと懸命になってる。けれど、筋肉男の腕はびくともしない。
「お前の力はこんなものか?」
挑発するように筋肉男が低く囁く。それに顔を真っ赤にさせた大男がさらに赤くなる。が、踏ん張っている大男の右手が徐々にテーブルに押し倒されていく。数回瞬きする間に、大男の右手がテーブルについて勝負もついた。
負けた大男は悔しそうにしながら、胴貨数枚をテーブルに投げだすようにして置くと踵を返した。奥の席に座り直し右腕をさすりながら酒を煽っている。
どうやら筋肉男が酒場の男たちを相手に、アームファイトを吹っかけているらしい。アームファイトとは文字通り腕の力で行う勝負事だ。互いの右手をがっちりと握りあって組み合わせ、相手の手の甲がテーブルに着くまで腕一本で押し合う。単純だが腕力が試される勝負で、しかも命のやり取りもなく手軽にできるため、酒の席では余興として行われることが多い。
こういった一目でわかる力勝負は男たちの血を湧き立たせる。戦帰りの傭兵や、この国の鉱山での仕事を終えて故郷へ帰る男たち、そして船乗り。筋肉を誇る力自慢が集まるだけに、こういった勝負事は日常茶飯事だ。
おそらく筋肉男もその力が有り余っている一人なのだろう。テーブルに立てかけている幅広の剣からして傭兵だと思われた。筋肉男が挑戦者を募るように声をかける。するとまた別の男が名乗りを上げた。
私はそれを横目で見ながら店の奥へ進むと、他のテーブルからはやや離れた位置にあるカウンターに腰かけた。店の奥まった席で少し薄暗いが、この場所がまだ一番静かだ。
酒を提供する食堂は大抵が喧騒に包まれていて、どこへ行っても同じような雰囲気だ。静かな店は提供する食事の質や雰囲気はいいが、その分高い。こういった馬鹿騒ぎをしている店ほど安くてボリュームのある料理が提供される。だからこそ船乗り傭兵が集まりやすく、喧しいのだ。
そして私もその安い料理を目当てにしているので、喧しさには目をつむることにした。
「姐さん、いらっしゃい。なんにするー?」
酒場のマスターではなく、ウェイターに声をかけられた。見上げれば人好きのする笑みを浮かべた青年がニコニコとこちらを見ている。背が低く、金髪碧眼。声の低さと服装から男だとわかるが、一瞬女の子かと思ったほど綺麗な顔立ちをしていた。
「安い食事と、あと葡萄酒を頂戴」
「はいはーい。おいしい食事と葡萄酒ねー」
軽快で適当な返事をしながら店の奥へと戻っていく彼を目で追う。その折に、筋肉男の姿が目に入った。またアームファイトで筋肉男が勝ったらしく、がははっと得意げに笑いながら次の挑戦者を募っている。ちらりと見れば筋肉男のテーブルには銅貨が小さな山となっていて、それだけ男が勝負をし、そして勝っているのだと如実に語っている。
訓練をすれば傭兵になれるだろうかと一瞬考えて、筋肉男の盛り上がった二の腕を見て首を振る。娼婦も体が資本の仕事であるのは確かだが、傭兵のように鍛え上げれば見目が悪くなるからと今まで軽い運動しかしたことがない。そんな経験のない私が戦に出たら、真っ先に死ぬだろう。
肌白は死に直結するような病ではない。別に死に急ぐような仕事をすることもない。それでも仕事を探さなければ、今すぐではないにしてもそれこそ飢えて死ぬことになる。
「ねえ、ウェイトレス募集してない?」
料理を持ってきた先ほどの青年に笑いかけながら聞いてみた。店内はカウンターの奥にいるマスターと、店内で給仕係をしている先ほどの青年しかいない。店は繁盛していて、もう何人かウェイターがいてもいいと思えたのだ。住み込みで働かせてもらえればありがたいと考えたのだ。
けれど彼は綺麗に形の整った眉を下げて首を振った。
「ん~、どうだろう。この店景気はいいんだけど、マスターが堅物でさー。あんまり人を雇いたがらないんだよねー。僕は姐さんみたいな人と仕事ができたら嬉しいんだけど」
「そう、残念ね。じゃあ、個人的に女はいらない?」
「ふふっ。姐さん、積極的だねー。でも残念。今夜は先約があるんだー」
男を誘う蠱惑的な笑みを浮かべながら聞いたが、青年は目を細めて首を振った。
「じゃ、ごゆっくり~」
青年は手を振ると、そのまま店の奥へとまた戻っていった。
プロの女を知らなさそうな顔してたから誘ってみたのだが失敗したらしい。住み込み従業員が駄目なら、今夜の宿代が浮かそうと考えたのだ。残念だが仕方がない。今日はどこかの安宿にとまるしかない。
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