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冬-クリスマス-
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翌日、朔はいつも通りの時間に出社した。
このダルさは突発的なヒートのせいではない。考え込みすぎてろくに眠れなかった上に、冷水を浴びたせいだ。
ロッカーの鏡には、過去最低の仕上がりの受付が映っている。
「暗い……」
いつもよりざらっとした声が自身を咎める。
だが、声は出る。電話応対は問題なさそうで安心した。
男性更衣室は朔しか使用せず、ほぼ私室のようなもののため、入社して数週間はここで電話の受け答えや笑顔の練習などをしていた。
久しぶりに練習しておくかと思い立ち、鏡に向かって笑みを作る。
「いつも以上に目尻が垂れてる……。どこからどう見ても、住処の山を失ったタヌキだよぉ……」
ツッコむ人間などここにはいない。
もし制服を着用する男性が増えたとしても、オメガである確率はかなり低いので別室が用意される。おそらく朔が本社を去るまで専用になるのだろう。
まさかの部長クラスと同じ待遇である。
だが昨日のこともあるため、早々に異動になるかもしれないなと回らない頭でぼんやりと考えていた。
紅葉色のスカーフを首元にキュッと巻いて、ロッカーの扉を掴む。
最後に鏡をもう一度見ると、いつもより赤く腫れた唇が自信がなさそうに震えていた。
気が重い。
小林はもう来ているだろうか。
おそるおそる受付の奥の扉からカウンターに出ると、そこにいたのは小林ではなく有平だった。
予想外の光景に驚いた朔は、閉じた扉のドアノブに腰を強打する。
声なき悲鳴を上げると、こちらに気が付いた有平が近づいて来る。
パニックになった朔は、その場にしゃがみ込んで膝を抱えて丸くなった。
「大丈夫⁉」
「……問題ありません。おはようございます、有平さん」
「お、おはようございます」
挨拶を返してもらえた。
それだけでまた涙が出そうになった。
どうしてここにいるのだろうか。昨日のことで話があるに違いないが、有平はどう思ったのだろう。全く想像ができなくて怖い。
「昨夜は――」
死の宣告を待つ朔の前で、有平は正座すると額を床につけて叫ぶ。
「ほんっとーに、申し訳なかった‼」
「……はい?」
思っていたテンションではない。
声のトーンも暗くはないし、どちらかというと気が昂っているようにも見える。
「えっと、有平さんは、昨日のことをどこまで覚えているんですか?」
「昨日のワインが美味しくて、お酒の飲み方を知らない大学生みたいにガバガバ飲んじゃって、リビングで朔に顔から突っ込んで、寝落ちしたところまで……。僕、飲むと脱ぐ上に気を許した人が相手だと撫でまわすらしくて、姪っ子や甥っ子からは、いつもクレームが来るんだ。だから朔にも同じようなことをしちゃったのかと――」
「り、リビングから記憶ないんですか⁉」
「お恥ずかしながら……。起きたらズボンだけ脱げていてさ。熱くて脱いだのかと思ったんだけど、もしかして朔が寝室まで運んでくれたの?」
「運びましたけど、俺は脱がせていませんよ……」
脱がされはしたが、ズボンは脱がせてはいないので、嘘ではない。
朔はダラダラと冷や汗を流しながら答える。
「それは重かったよね。介抱させて申し訳ないやら情けないやら……。あと、酔った僕は何か変なことを言ってなかったかな?」
「いつもみたいなことは言っていました」
事情中の言葉を思い出して、朔は顔を背ける。
見せられるわけがないのだ。だって、記憶を辿ると昨日の熱が蘇る。今もとんでもなくいやらしい表情をしているに違いない。
「いつもみたいって?」
「俺の頭とか撫でながら、いい子とか、か、かわいいとか……?」
「頭、とか……? 他も触ったの……?」
「そこ引っかかりますか? スルーしてもらえません⁉」
本当はすべて覚えているのではないかと疑心暗鬼になる。
涙目で見上げた先は、昨晩とは違ってあたふたと慌てる有平しかいない。
「ごめん、襲われそうになったことなんて思い出したくもないだろう……。いつも気を付けてたのに、昨日は楽しくって羽目を外し過ぎた。本当に申し訳なかった。酔って最低なことをした……」
「俺は気にしていません。ねえ、有平さん、俺のことを庇っていませんか? 昨日は、本当にお酒で酔っ払っていただけなんですか? 俺の体調管理ができていなかったせいで、オメガフェロモンに誘発されてラットを起こして、おかしくなったわけではないんですか?」
赤かった有平の顔が、一瞬で真っ青になる。
ふらっと後ろの椅子のキャスターにぶつかると、カラカラカラ――と音が鳴った。
「ラットって、僕はヒートに誘発されたような状態に見えたってこと? やっぱり僕はきみの頭以外も触ったんだね……?」
可哀想なくらい顔面蒼白で、有平は今にも泣き出してしまいそうだった。
「違います!」
「責任は――んぐっ」
朔は四つん這いになって有平に近づくと、人差しをぴっと有平の唇に当てた。
昨晩、腫れるほど濃厚なキスをした唇は、すっかり冷たくなっている。
今は発情していない。至って冷静でいられる。話し合える、大丈夫だ。そう自分に言い聞かせて、朔は少しだけ核心に触れる。
「責任もなにも、未遂ですから。妊娠するようなことはしていないし、俺のうなじはまっさらなまま。それより謝らないといけないのは、俺の方です。抑制剤は飲んでいたけど、それを上回るほど発情してしまって、きっと有平さんを無意識に誘惑したんです……」
朔は両手を床について頭を下げる。スカーフで隠されているうなじは、傷一つ付いていない。
「違うよ! 僕は酒に酔っていただけで、朔のフェロモンに誘惑されたわけじゃない。だって僕も朔が飲んでいる薬を服用していたからわかる。アレを飲むとベータと変わらない感覚になれるだろう? 多少のフェロモンにあてられたとしても……」
「ま、待ってください! 完全にフェロモンを遮断できる薬なはずなのに、有平さんは俺のフェロモンが分かるんですか……?」
有平は片手で顔を覆って、またしても謝罪を口にする。
「ああ、そうだね、判る……。朔に近づくと心が浮つく。だけど、それと同じくらいほっとする。唯一無二の香りがするんだ。僕たちは性格だけじゃなくて、第二性的な相性も良いのは、朔も気付いているよね?」
「……はい」
ただの友人関係でいられる時間は終わってしまった。
最悪の事態は避けられたが、やはり今までのようにはいかないのかもしれない。
ここまで第二性に触れずに、友人関係を続けてこれたことは、奇跡だったのだ。
決別の言葉を聞きたくなくて、朔は耳を塞ぎたくなったが、ぐっと耐えた。
「薬を飲んでもフェロモンは完全にゼロにならないけど、朔はちゃんと対策をしていた。その上で僕がやらかしたんだ。朔が考えている以上に、アルファの理性なんてあってないようなものだから、本当にきみのオメガフェロモンに誘惑されて僕が我を失っていたら、きっと今頃、僕らは番になっているよ」
「だけど、昨日の有平さんは……」
「格好悪いし、最低なんだけど、酒に酔っていただけなんだと思う。だから朔に悪いところなんて一つもない。それに朔にしたことを覚えていないなんて、卑怯だよね。何に対して謝ってんだよって腹も立つだろ……」
「そんなことないです!」
「きみは何があっても昔から人のせいにしようとはしないね……。理解してもらえるまで伝えるけど、もし朔が僕を誘惑したと誤解するようなところまで、僕が朔に触れたのなら、それは僕が酔って襲っただけだ。きみは何も悪くない。被害者なんだよ」
前髪をかき上げながら、自嘲めいた笑みを浮かべる有平の瞳は、昨晩泣いていた時と同じく、絶望が滲んでいた。
そんな顔をさせたかったわけではない。むしろ罵って責められたって構わなかった。だけど、それは自己満足に過ぎないのだ。
有平がこちらを悪く言うわけがない。優しい人であることは知っていたのに、反って傷つけることになってしまった。
「被害を受けたなんて思っていません! たとえ酔っていたとしても、限界を超えたお酒を勧めた俺が悪いんです。それに酔った有平さんが誰に対してもあんな風になるとは思えません! やっぱり俺が誘惑したんです!」
「あんな風って? 僕は一体きみに何をした……?」
誘惑したと思い込んでいる朔と、酔った自分が襲ったと自供する有平の口論は平行線をたどる。
根拠があるのは、有平の論だ。
確かに有平の言う通りお互い抑制剤は飲んでいたし、朔が本当にヒートを起こしていたのならば、有平を拒否して蹴り飛ばすことなどできなかっただろう。
さらに朔は一人でクリスマス会の後片付けをして、タクシーまで呼んだのだ。
誘惑しているはずのオメガが、自らアルファから離れるはずがない。
つまり、あれは有平の言う通り酒に酔っていただけ、ということになる。
「したことは言えません……」
ぽってりと赤く腫れた唇をなぞり、もう片方の手でスカーフを握る朔は「はぁ……」と艶めいた息をつく。
「ど、え⁉ もしかして、うなじ以外を噛んだのか⁉」
「噛んでない! 舐めただけで――あっ! っていうのは冗談です!」
「舐めっ、はあっ⁉ あああ~……」
有平は再び土下座した。
「やめてください!」と朔は有平の手を取るが、額が床から離れない。
この調子では、挿入寸前までいきました、と口が裂けても言えないだろう。昨晩の事情については、墓場まで持っていこうと決めた。
朔は、ぺたんとその場に腰を下ろすと、深いため息をつく。
「これからはお互いより気を付けるということで、この話はもう終わりにしましょう」
「だけど、同意もなく触って朔に怖い思いをさせるなんて……。やっぱり警察に行くしか……」
「したことも覚えてない人が何を言っているんですか! 大したこともしていませんから、有平さんも忘れてくださいというか、忘れたままでいてください!」
「だけど、起きた後も、寝室に朔のいい匂いが残っていて僕は――」
「っ……においって! ばかばか! 変態!」
有平は、顔をおそるおそる上げる。
あと一歩、近づいてしまえば昨日の始まりと同じような体勢になってしまうのでは、と気づいた朔は、思わず自身の首元を両手で掴んだ。
「本当にそうだね……。無理矢理触った挙句、また良い匂いだとか、僕は本当に最低なクソ野郎だ」
珍しく尖った言葉を使う有平に朔は驚いた。
「あの、さっきから無理矢理とか、有平さんが悪いみたいな話になっていますけど、俺もお酒が入っていたとはいえ、自分がヒートを起こしたと勘違いするくらいなので、別に同意がなかったわけじゃ……」
「えっ……?」
沈黙が落ちて、二人はじっと見つめ合う。
一人で悩んでいたのが馬鹿らしくなって、朔は口を尖らせながら、取り乱してボサボサになった有平の前髪を撫でるように後ろに流す。
「ぷふっ! ポカーンって、ずっと口が開きっぱなしですよ? いつもの有平さんって感じですけど」
「朔、それって――」
ガチャン!
カウンターの奥の扉が勢いよく開く。そこにいたのは気怠そうな小林だった。
小林は、朔と有平を交互に見ると、何事もなかったかのように再び扉を閉じた。
「小林先輩! おはようございますそしてお待ちください! 行かないでください!」
「待って、ねーちゃん! 誤解、誤解だから、襲ってないから、今は!」
「今は⁉ 余計なこと言わないでくださいよ!」
朔と有平は小林を追いかける。
扉越しに「全然気にしてないから! おめでとう! 始業までごゆっくり!」と叫ばれる。
誤解された上に、先ほどまでの甘い雰囲気は吹き飛んだ。
一方でどこかホッとしている自分もいる。
あのままだったら、好意も同意もあったと告白していたかもしれないが、酔って人を襲ったと落ち込んでいる傷心中の有平にすべきことではない。責任感で受け入れられても困るし、虚しいだけだ。
朔の恋心は首の皮一枚で繋がった。この延命に意味を見出せるかは、今後の自身の行いにかかっている。
告白するための勇気は一長一短では溜まらない。
初めての恋だからこそ、臆病にもなる。それでも、もうただの後輩ではいたくないという気持ちがより強くなっていく。
正々堂々、有平に触れたいし触れられたい。もっと色々な顔が見たい。できれば自分が笑わせたい。悲しい顔だってさせたくない。
そのためには、心のどこかでオメガであることを否定していた自分の弱さも受け入れなければならないことも理解している。
後輩、友人、栄餅屋の孫、オメガ――すべてが持田朔だ。
どんな自分でも蔑ろにしない。それが、自分も相手も大切にするということだ。
今回は、本当に誘惑してしまう前に疑似的な失敗をして気付けたのだから運が良かった。
「有平さん、俺、今日から頑張ります」
「えっと、何を?」
「全部を! ほら、有平さんもそろそろ始業時間ですから、管理部に戻ってください」
「だけど、まだ……」
「謝り足りないなら今日のお昼奢ってください! いつもの定食屋でデザートも付けてもらっちゃおうかなぁ。だめですか?」
「だ、だめじゃないけど」
「やった! それじゃあまた後で」
そっと背中を押すと、有平は捨てられた子犬のような顔をして、カウンターを出て行った。
朔は受付に座る時のような完璧な笑みを浮かべて、優雅に手を振り有平を見送る。
残るミッションはただ一つ。誤解している小林を呼び戻しに行くことだ。
このダルさは突発的なヒートのせいではない。考え込みすぎてろくに眠れなかった上に、冷水を浴びたせいだ。
ロッカーの鏡には、過去最低の仕上がりの受付が映っている。
「暗い……」
いつもよりざらっとした声が自身を咎める。
だが、声は出る。電話応対は問題なさそうで安心した。
男性更衣室は朔しか使用せず、ほぼ私室のようなもののため、入社して数週間はここで電話の受け答えや笑顔の練習などをしていた。
久しぶりに練習しておくかと思い立ち、鏡に向かって笑みを作る。
「いつも以上に目尻が垂れてる……。どこからどう見ても、住処の山を失ったタヌキだよぉ……」
ツッコむ人間などここにはいない。
もし制服を着用する男性が増えたとしても、オメガである確率はかなり低いので別室が用意される。おそらく朔が本社を去るまで専用になるのだろう。
まさかの部長クラスと同じ待遇である。
だが昨日のこともあるため、早々に異動になるかもしれないなと回らない頭でぼんやりと考えていた。
紅葉色のスカーフを首元にキュッと巻いて、ロッカーの扉を掴む。
最後に鏡をもう一度見ると、いつもより赤く腫れた唇が自信がなさそうに震えていた。
気が重い。
小林はもう来ているだろうか。
おそるおそる受付の奥の扉からカウンターに出ると、そこにいたのは小林ではなく有平だった。
予想外の光景に驚いた朔は、閉じた扉のドアノブに腰を強打する。
声なき悲鳴を上げると、こちらに気が付いた有平が近づいて来る。
パニックになった朔は、その場にしゃがみ込んで膝を抱えて丸くなった。
「大丈夫⁉」
「……問題ありません。おはようございます、有平さん」
「お、おはようございます」
挨拶を返してもらえた。
それだけでまた涙が出そうになった。
どうしてここにいるのだろうか。昨日のことで話があるに違いないが、有平はどう思ったのだろう。全く想像ができなくて怖い。
「昨夜は――」
死の宣告を待つ朔の前で、有平は正座すると額を床につけて叫ぶ。
「ほんっとーに、申し訳なかった‼」
「……はい?」
思っていたテンションではない。
声のトーンも暗くはないし、どちらかというと気が昂っているようにも見える。
「えっと、有平さんは、昨日のことをどこまで覚えているんですか?」
「昨日のワインが美味しくて、お酒の飲み方を知らない大学生みたいにガバガバ飲んじゃって、リビングで朔に顔から突っ込んで、寝落ちしたところまで……。僕、飲むと脱ぐ上に気を許した人が相手だと撫でまわすらしくて、姪っ子や甥っ子からは、いつもクレームが来るんだ。だから朔にも同じようなことをしちゃったのかと――」
「り、リビングから記憶ないんですか⁉」
「お恥ずかしながら……。起きたらズボンだけ脱げていてさ。熱くて脱いだのかと思ったんだけど、もしかして朔が寝室まで運んでくれたの?」
「運びましたけど、俺は脱がせていませんよ……」
脱がされはしたが、ズボンは脱がせてはいないので、嘘ではない。
朔はダラダラと冷や汗を流しながら答える。
「それは重かったよね。介抱させて申し訳ないやら情けないやら……。あと、酔った僕は何か変なことを言ってなかったかな?」
「いつもみたいなことは言っていました」
事情中の言葉を思い出して、朔は顔を背ける。
見せられるわけがないのだ。だって、記憶を辿ると昨日の熱が蘇る。今もとんでもなくいやらしい表情をしているに違いない。
「いつもみたいって?」
「俺の頭とか撫でながら、いい子とか、か、かわいいとか……?」
「頭、とか……? 他も触ったの……?」
「そこ引っかかりますか? スルーしてもらえません⁉」
本当はすべて覚えているのではないかと疑心暗鬼になる。
涙目で見上げた先は、昨晩とは違ってあたふたと慌てる有平しかいない。
「ごめん、襲われそうになったことなんて思い出したくもないだろう……。いつも気を付けてたのに、昨日は楽しくって羽目を外し過ぎた。本当に申し訳なかった。酔って最低なことをした……」
「俺は気にしていません。ねえ、有平さん、俺のことを庇っていませんか? 昨日は、本当にお酒で酔っ払っていただけなんですか? 俺の体調管理ができていなかったせいで、オメガフェロモンに誘発されてラットを起こして、おかしくなったわけではないんですか?」
赤かった有平の顔が、一瞬で真っ青になる。
ふらっと後ろの椅子のキャスターにぶつかると、カラカラカラ――と音が鳴った。
「ラットって、僕はヒートに誘発されたような状態に見えたってこと? やっぱり僕はきみの頭以外も触ったんだね……?」
可哀想なくらい顔面蒼白で、有平は今にも泣き出してしまいそうだった。
「違います!」
「責任は――んぐっ」
朔は四つん這いになって有平に近づくと、人差しをぴっと有平の唇に当てた。
昨晩、腫れるほど濃厚なキスをした唇は、すっかり冷たくなっている。
今は発情していない。至って冷静でいられる。話し合える、大丈夫だ。そう自分に言い聞かせて、朔は少しだけ核心に触れる。
「責任もなにも、未遂ですから。妊娠するようなことはしていないし、俺のうなじはまっさらなまま。それより謝らないといけないのは、俺の方です。抑制剤は飲んでいたけど、それを上回るほど発情してしまって、きっと有平さんを無意識に誘惑したんです……」
朔は両手を床について頭を下げる。スカーフで隠されているうなじは、傷一つ付いていない。
「違うよ! 僕は酒に酔っていただけで、朔のフェロモンに誘惑されたわけじゃない。だって僕も朔が飲んでいる薬を服用していたからわかる。アレを飲むとベータと変わらない感覚になれるだろう? 多少のフェロモンにあてられたとしても……」
「ま、待ってください! 完全にフェロモンを遮断できる薬なはずなのに、有平さんは俺のフェロモンが分かるんですか……?」
有平は片手で顔を覆って、またしても謝罪を口にする。
「ああ、そうだね、判る……。朔に近づくと心が浮つく。だけど、それと同じくらいほっとする。唯一無二の香りがするんだ。僕たちは性格だけじゃなくて、第二性的な相性も良いのは、朔も気付いているよね?」
「……はい」
ただの友人関係でいられる時間は終わってしまった。
最悪の事態は避けられたが、やはり今までのようにはいかないのかもしれない。
ここまで第二性に触れずに、友人関係を続けてこれたことは、奇跡だったのだ。
決別の言葉を聞きたくなくて、朔は耳を塞ぎたくなったが、ぐっと耐えた。
「薬を飲んでもフェロモンは完全にゼロにならないけど、朔はちゃんと対策をしていた。その上で僕がやらかしたんだ。朔が考えている以上に、アルファの理性なんてあってないようなものだから、本当にきみのオメガフェロモンに誘惑されて僕が我を失っていたら、きっと今頃、僕らは番になっているよ」
「だけど、昨日の有平さんは……」
「格好悪いし、最低なんだけど、酒に酔っていただけなんだと思う。だから朔に悪いところなんて一つもない。それに朔にしたことを覚えていないなんて、卑怯だよね。何に対して謝ってんだよって腹も立つだろ……」
「そんなことないです!」
「きみは何があっても昔から人のせいにしようとはしないね……。理解してもらえるまで伝えるけど、もし朔が僕を誘惑したと誤解するようなところまで、僕が朔に触れたのなら、それは僕が酔って襲っただけだ。きみは何も悪くない。被害者なんだよ」
前髪をかき上げながら、自嘲めいた笑みを浮かべる有平の瞳は、昨晩泣いていた時と同じく、絶望が滲んでいた。
そんな顔をさせたかったわけではない。むしろ罵って責められたって構わなかった。だけど、それは自己満足に過ぎないのだ。
有平がこちらを悪く言うわけがない。優しい人であることは知っていたのに、反って傷つけることになってしまった。
「被害を受けたなんて思っていません! たとえ酔っていたとしても、限界を超えたお酒を勧めた俺が悪いんです。それに酔った有平さんが誰に対してもあんな風になるとは思えません! やっぱり俺が誘惑したんです!」
「あんな風って? 僕は一体きみに何をした……?」
誘惑したと思い込んでいる朔と、酔った自分が襲ったと自供する有平の口論は平行線をたどる。
根拠があるのは、有平の論だ。
確かに有平の言う通りお互い抑制剤は飲んでいたし、朔が本当にヒートを起こしていたのならば、有平を拒否して蹴り飛ばすことなどできなかっただろう。
さらに朔は一人でクリスマス会の後片付けをして、タクシーまで呼んだのだ。
誘惑しているはずのオメガが、自らアルファから離れるはずがない。
つまり、あれは有平の言う通り酒に酔っていただけ、ということになる。
「したことは言えません……」
ぽってりと赤く腫れた唇をなぞり、もう片方の手でスカーフを握る朔は「はぁ……」と艶めいた息をつく。
「ど、え⁉ もしかして、うなじ以外を噛んだのか⁉」
「噛んでない! 舐めただけで――あっ! っていうのは冗談です!」
「舐めっ、はあっ⁉ あああ~……」
有平は再び土下座した。
「やめてください!」と朔は有平の手を取るが、額が床から離れない。
この調子では、挿入寸前までいきました、と口が裂けても言えないだろう。昨晩の事情については、墓場まで持っていこうと決めた。
朔は、ぺたんとその場に腰を下ろすと、深いため息をつく。
「これからはお互いより気を付けるということで、この話はもう終わりにしましょう」
「だけど、同意もなく触って朔に怖い思いをさせるなんて……。やっぱり警察に行くしか……」
「したことも覚えてない人が何を言っているんですか! 大したこともしていませんから、有平さんも忘れてくださいというか、忘れたままでいてください!」
「だけど、起きた後も、寝室に朔のいい匂いが残っていて僕は――」
「っ……においって! ばかばか! 変態!」
有平は、顔をおそるおそる上げる。
あと一歩、近づいてしまえば昨日の始まりと同じような体勢になってしまうのでは、と気づいた朔は、思わず自身の首元を両手で掴んだ。
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珍しく尖った言葉を使う有平に朔は驚いた。
「あの、さっきから無理矢理とか、有平さんが悪いみたいな話になっていますけど、俺もお酒が入っていたとはいえ、自分がヒートを起こしたと勘違いするくらいなので、別に同意がなかったわけじゃ……」
「えっ……?」
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「ぷふっ! ポカーンって、ずっと口が開きっぱなしですよ? いつもの有平さんって感じですけど」
「朔、それって――」
ガチャン!
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小林は、朔と有平を交互に見ると、何事もなかったかのように再び扉を閉じた。
「小林先輩! おはようございますそしてお待ちください! 行かないでください!」
「待って、ねーちゃん! 誤解、誤解だから、襲ってないから、今は!」
「今は⁉ 余計なこと言わないでくださいよ!」
朔と有平は小林を追いかける。
扉越しに「全然気にしてないから! おめでとう! 始業までごゆっくり!」と叫ばれる。
誤解された上に、先ほどまでの甘い雰囲気は吹き飛んだ。
一方でどこかホッとしている自分もいる。
あのままだったら、好意も同意もあったと告白していたかもしれないが、酔って人を襲ったと落ち込んでいる傷心中の有平にすべきことではない。責任感で受け入れられても困るし、虚しいだけだ。
朔の恋心は首の皮一枚で繋がった。この延命に意味を見出せるかは、今後の自身の行いにかかっている。
告白するための勇気は一長一短では溜まらない。
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正々堂々、有平に触れたいし触れられたい。もっと色々な顔が見たい。できれば自分が笑わせたい。悲しい顔だってさせたくない。
そのためには、心のどこかでオメガであることを否定していた自分の弱さも受け入れなければならないことも理解している。
後輩、友人、栄餅屋の孫、オメガ――すべてが持田朔だ。
どんな自分でも蔑ろにしない。それが、自分も相手も大切にするということだ。
今回は、本当に誘惑してしまう前に疑似的な失敗をして気付けたのだから運が良かった。
「有平さん、俺、今日から頑張ります」
「えっと、何を?」
「全部を! ほら、有平さんもそろそろ始業時間ですから、管理部に戻ってください」
「だけど、まだ……」
「謝り足りないなら今日のお昼奢ってください! いつもの定食屋でデザートも付けてもらっちゃおうかなぁ。だめですか?」
「だ、だめじゃないけど」
「やった! それじゃあまた後で」
そっと背中を押すと、有平は捨てられた子犬のような顔をして、カウンターを出て行った。
朔は受付に座る時のような完璧な笑みを浮かべて、優雅に手を振り有平を見送る。
残るミッションはただ一つ。誤解している小林を呼び戻しに行くことだ。
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