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ここではないどこかへ
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「ギアンテ。入ってもいいですか」
夜のリィングリーツ宮。夏はまだ遠く、涼やかな空気の流れる静かな王宮の中で、その空気と同じように涼やかな声が静かに響く。
寝る前に少し仕事関係の資料を読んでいたギアンテは慌てて椅子から立ち上がろうとしてデスクに膝をぶつけてしまった。
それほどまでに彼女はその声の持ち主を待ち望んでいたのだ。
「イェレミアス様、どうぞ、お入りください。こんな格好で申し訳ありませんが……」
「すみません。こんな時間に女性の部屋に訪れるなど非常識とは思いましたが」
この二週間、恋焦がれた相手であった。
王別の儀より二週間の時が過ぎ、その間全く自室から出ようとすらせず、周りの人間をかえりみることなくふさぎ込んでいたイェレミアス王子。
しかしギアンテは彼を非難することなど出来る筈もなかった。むしろ彼を追い込んでしまったのは自分なのだという認識が十分にあり、このままイェレミアスが壊れてしまうようならば、自分はその命をもって責任を取るほかあるまいとまで考えていた。
「殿下……随分と、やつれてしまって」
今にも泣きだしそうな表情でイェレミアス王子の頬を撫でる。まるで戦場から帰ってきた息子を慈しむ母のようである。
ギアンテは彼の手を大仰に引いて、彼を椅子へと座らせた。これでは子を慈しむ母どころか祖母の身を気遣う子のようであるが、もはや彼女も舞い上がってしまって何がおかしいのか分からないのだろう。
「もう、よろしいのですか、殿下」
「……僕は、ギアンテを許すつもりはない」
王子の一挙一動に心が揺さぶられるギアンテ。今度は嬉しそうな表情から一転、血の気が引いてこの世の終わりのような顔を見せる。
だがそれも仕方あるまい。『それほどの仕打ち』を彼女は王子に対してしてしまっているのだ。
ギアンテは彼がこの部屋に来た時、「もう立ち直った」のだと思った。だが違う。未だ分水嶺にあるのだと理解した。
「どうしてそこまでして僕を王に担ぎ上げたいんですか。それは僕の親友を殺してまで成し遂げねばならない事ですか」
むしろ今まで話してこなかったのが遅すぎると思える話である。それがあれば、イェレミアスにも心の準備が出来ていたかもしれない。そう観念し、ギアンテは王子に促されて椅子に座り、そしてゆっくりと話し出した。
「この国は、強さこそが全ての力の理論が支配する国です」
それはある意味では当然の話であり、究極的にはどの時代、どの国でも同じなのかもしれない。
「それは構わないのです。国の成り立ちを考えれば、力を持つ者が上に立ち、それを分かりやすい形で下に示すのが国を安定させることになる。それが最終的には民を守ることになるのかもしれません。ですが、そのためにあまりにも弱者を踏みにじり過ぎています」
ギアンテはこの言葉が彼の心に届くのか、正直に言って自信がなかった。
なぜならば、彼女もまた、ここに来るまでに弱者を踏みにじっているからだ。彼女が今まで死なせてきた者達は、必要な犠牲だったとでもいうのだろうか。
「そして今まさに、イェレミアス様までもが踏みにじられようとしているのです」
長兄ガッツォ、次兄アシュベルとの王位継承争いの話をしているのか。イェレミアスは顎に手を当てて首を捻るような仕草を見せて、考え込む。それならば、王別の儀など棄権して、早々に王位継承レースから降りてしまえばよかったのではないか、と。
だが事はそう簡単ではない。言うまでもなく力がモノを言う世界。無理が通れば道理は引っ込む。二人は直接聞いたわけではないが、公爵の親子が言っていたように、イェレミアスの存在は危険なのだ。
「言うまでもないことですが、妃殿下はロクスハム王国のカラト王家から正室として嫁いで参られました。後ろ盾にはロクスハムがおり、しかも正室の嫡子。その気になれば王別の儀を通過しておらずとも、担ぎ上げる輩がおらぬとも限りません」
「王にならねば、いつかは殺される、と……? コルアーレが僕を始末しようとした、というのも?」
その事実は、ヤルノが殺害された時に、イェレミアス王子に告げられた事実である。杞憂ではない。実際に動き出した、差し迫った危機なのだ。
「王にならねば、死ぬほかないのです」
それは、「死にたくなければ生きるしかない」のと同義なのだ。ようやくイェレミアスは、自分の生きてきた場所が、温室などではなく獣の檻だったのだと理解した。
「あんまりだよ」
脱力したかのようにイェレミアスは椅子からずり落ちるように降りて膝をつき、対面に座っていたギアンテの膝の上に抱き着くように体重を預ける。
反射的にギアンテはイェレミアスの背中に手を当て、そして無礼とは承知の上で、まるで母のようにその頭を優しく撫でた。
小さく美しい、白銀の髪を備えた頭部は、泣いているのか、小さく震えていた。
「だからって、ヤルノを殺す必要があったの? 仕方のない犠牲だったとでもいうの?」
その問いかけに、ギアンテは答えることができなかった。
「だったらこんな国、もう捨ててどこかに逃げてしまおうよ」
イェレミアスはゆっくりと頭を上げてギアンテを見つめる。その瞳からは宝石の如き涙がこぼれ落ちて、妖精の顔を飾り立てている。
「そうだ。もう一緒にどこかへ逃げて、そこで穏やかに暮らそう。ギアンテも一緒に来てくれるよね」
涙ながらに懇願してくるイェレミアスの顔は抗いがたいまでの魔力を備えており、ギアンテは思わず眉間にしわを寄せた。
「良い考えだよ。そうだ、ヤルノの名前を借りよう。どこか、ここではない場所で、殺されたヤルノの代わりに片田舎で静かに暮らすんだ。いいでしょう?」
その名を出されるとギアンテの心は軋むように締め付けられる。思わず目を瞑って顔を逸らしてしまった。
「ねえ、なんとか言ってよギアンテ。二人で名前を捨てて、夫婦として暮らすんだ」
一度や二度ではない。夢の中で、また妄想の中で、何度も思い浮かべたありえない物語。そんな都合のいい話を愛しい人の口から提案されているのだ。全てをなげうってしまいたい。
「ギアンテ、お願い。『どこかへ逃げて一緒に暮らしましょう、ヤルノ』って。そう言って。そうすれば僕は、君を連れて地の果てまでも一緒に行くから」
もう少し早くこの言葉を聞いていたならば、あるいは彼女はこの提案に乗っていたかもしれない。
しかしそれはもうできない。なぜなら彼女はもう愛する人を犠牲にしてしまっているのだ。その死を『なかったこと』になど出来る筈がない。その死までもが無駄になってしまうから。
「……賽は、もう、振られたのです」
夜のリィングリーツ宮。夏はまだ遠く、涼やかな空気の流れる静かな王宮の中で、その空気と同じように涼やかな声が静かに響く。
寝る前に少し仕事関係の資料を読んでいたギアンテは慌てて椅子から立ち上がろうとしてデスクに膝をぶつけてしまった。
それほどまでに彼女はその声の持ち主を待ち望んでいたのだ。
「イェレミアス様、どうぞ、お入りください。こんな格好で申し訳ありませんが……」
「すみません。こんな時間に女性の部屋に訪れるなど非常識とは思いましたが」
この二週間、恋焦がれた相手であった。
王別の儀より二週間の時が過ぎ、その間全く自室から出ようとすらせず、周りの人間をかえりみることなくふさぎ込んでいたイェレミアス王子。
しかしギアンテは彼を非難することなど出来る筈もなかった。むしろ彼を追い込んでしまったのは自分なのだという認識が十分にあり、このままイェレミアスが壊れてしまうようならば、自分はその命をもって責任を取るほかあるまいとまで考えていた。
「殿下……随分と、やつれてしまって」
今にも泣きだしそうな表情でイェレミアス王子の頬を撫でる。まるで戦場から帰ってきた息子を慈しむ母のようである。
ギアンテは彼の手を大仰に引いて、彼を椅子へと座らせた。これでは子を慈しむ母どころか祖母の身を気遣う子のようであるが、もはや彼女も舞い上がってしまって何がおかしいのか分からないのだろう。
「もう、よろしいのですか、殿下」
「……僕は、ギアンテを許すつもりはない」
王子の一挙一動に心が揺さぶられるギアンテ。今度は嬉しそうな表情から一転、血の気が引いてこの世の終わりのような顔を見せる。
だがそれも仕方あるまい。『それほどの仕打ち』を彼女は王子に対してしてしまっているのだ。
ギアンテは彼がこの部屋に来た時、「もう立ち直った」のだと思った。だが違う。未だ分水嶺にあるのだと理解した。
「どうしてそこまでして僕を王に担ぎ上げたいんですか。それは僕の親友を殺してまで成し遂げねばならない事ですか」
むしろ今まで話してこなかったのが遅すぎると思える話である。それがあれば、イェレミアスにも心の準備が出来ていたかもしれない。そう観念し、ギアンテは王子に促されて椅子に座り、そしてゆっくりと話し出した。
「この国は、強さこそが全ての力の理論が支配する国です」
それはある意味では当然の話であり、究極的にはどの時代、どの国でも同じなのかもしれない。
「それは構わないのです。国の成り立ちを考えれば、力を持つ者が上に立ち、それを分かりやすい形で下に示すのが国を安定させることになる。それが最終的には民を守ることになるのかもしれません。ですが、そのためにあまりにも弱者を踏みにじり過ぎています」
ギアンテはこの言葉が彼の心に届くのか、正直に言って自信がなかった。
なぜならば、彼女もまた、ここに来るまでに弱者を踏みにじっているからだ。彼女が今まで死なせてきた者達は、必要な犠牲だったとでもいうのだろうか。
「そして今まさに、イェレミアス様までもが踏みにじられようとしているのです」
長兄ガッツォ、次兄アシュベルとの王位継承争いの話をしているのか。イェレミアスは顎に手を当てて首を捻るような仕草を見せて、考え込む。それならば、王別の儀など棄権して、早々に王位継承レースから降りてしまえばよかったのではないか、と。
だが事はそう簡単ではない。言うまでもなく力がモノを言う世界。無理が通れば道理は引っ込む。二人は直接聞いたわけではないが、公爵の親子が言っていたように、イェレミアスの存在は危険なのだ。
「言うまでもないことですが、妃殿下はロクスハム王国のカラト王家から正室として嫁いで参られました。後ろ盾にはロクスハムがおり、しかも正室の嫡子。その気になれば王別の儀を通過しておらずとも、担ぎ上げる輩がおらぬとも限りません」
「王にならねば、いつかは殺される、と……? コルアーレが僕を始末しようとした、というのも?」
その事実は、ヤルノが殺害された時に、イェレミアス王子に告げられた事実である。杞憂ではない。実際に動き出した、差し迫った危機なのだ。
「王にならねば、死ぬほかないのです」
それは、「死にたくなければ生きるしかない」のと同義なのだ。ようやくイェレミアスは、自分の生きてきた場所が、温室などではなく獣の檻だったのだと理解した。
「あんまりだよ」
脱力したかのようにイェレミアスは椅子からずり落ちるように降りて膝をつき、対面に座っていたギアンテの膝の上に抱き着くように体重を預ける。
反射的にギアンテはイェレミアスの背中に手を当て、そして無礼とは承知の上で、まるで母のようにその頭を優しく撫でた。
小さく美しい、白銀の髪を備えた頭部は、泣いているのか、小さく震えていた。
「だからって、ヤルノを殺す必要があったの? 仕方のない犠牲だったとでもいうの?」
その問いかけに、ギアンテは答えることができなかった。
「だったらこんな国、もう捨ててどこかに逃げてしまおうよ」
イェレミアスはゆっくりと頭を上げてギアンテを見つめる。その瞳からは宝石の如き涙がこぼれ落ちて、妖精の顔を飾り立てている。
「そうだ。もう一緒にどこかへ逃げて、そこで穏やかに暮らそう。ギアンテも一緒に来てくれるよね」
涙ながらに懇願してくるイェレミアスの顔は抗いがたいまでの魔力を備えており、ギアンテは思わず眉間にしわを寄せた。
「良い考えだよ。そうだ、ヤルノの名前を借りよう。どこか、ここではない場所で、殺されたヤルノの代わりに片田舎で静かに暮らすんだ。いいでしょう?」
その名を出されるとギアンテの心は軋むように締め付けられる。思わず目を瞑って顔を逸らしてしまった。
「ねえ、なんとか言ってよギアンテ。二人で名前を捨てて、夫婦として暮らすんだ」
一度や二度ではない。夢の中で、また妄想の中で、何度も思い浮かべたありえない物語。そんな都合のいい話を愛しい人の口から提案されているのだ。全てをなげうってしまいたい。
「ギアンテ、お願い。『どこかへ逃げて一緒に暮らしましょう、ヤルノ』って。そう言って。そうすれば僕は、君を連れて地の果てまでも一緒に行くから」
もう少し早くこの言葉を聞いていたならば、あるいは彼女はこの提案に乗っていたかもしれない。
しかしそれはもうできない。なぜなら彼女はもう愛する人を犠牲にしてしまっているのだ。その死を『なかったこと』になど出来る筈がない。その死までもが無駄になってしまうから。
「……賽は、もう、振られたのです」
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