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再起
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グリムランドの一年の中で特に大切にされる四つの祭事。その内の一つ、春分に当たる中節の日を過ぎると本格的に暖かい空気が大地を駆け巡る。
一年の太陽の動きを人の一生になぞらえて、幼年期の終わりを意味する中節の日には王都ウィンザーハーツの街にも出店が出て大々的に祝われるが、その裏でひっそりと王別の儀が行われていたことを知る者は少ない。
この日を無事つつがなく終えて、ようやく一人前の男として認められたはずのイェレミアス王子であったが、華々しく社交界に出て、王位継承者としての地盤固めを進めるだろうと思われていた大方の予想を覆し、二週間も経つというのに誰も全く動向が掴めないでいた。
儀式以前から親しくしていたガッツォ王子ですら、彼と会えていないのだという。
菜の花にたかるアブラムシの如く手ぐすねを引いて待っている国内の有力者達を焦らせて、イェレミアス陣営は何を企んでいるのか。これも次の手への布石なのか。
「イェレミアス、入りますよ」
部屋からは返事は無かったものの、王妃インシュラは護衛のギアンテを廊下に残したまま、イェレミアスの私室の扉を開いて中に入った。
イェレミアスの周りからの評価としては、頭は切れるものの、肉体的には大いに不安が残る、といったところである。王別の儀も通過するのは正直厳しいだろうという前評判であった。
しかしふたを開けてみれば、ただ試験をパスするだけでなく、逆に不慮の事故で壊滅状態に陥った騎士団に対して救助活動をするほどの活躍ぶりであったという。
総長のコルアーレはこれを機に一気にイェレミアス派に鞍替えしたのではないか、という噂まで立っている。
だが実際のところ。
「イェレミアス、食事をとらなければ衰弱してしまいますよ……」
テーブルの上に置かれた、ほとんど手の付けられていない朝食を見て王妃インシュラは心配そうに言った。その言葉にも、イェレミアス王子は答えず、椅子に座ったまま何もない空中を見つめている。
この二週間、心神喪失状態となったイェレミアス王子は何の動きもとることなく、日がな一日考え事をして過ごすのが常であった。
彼の心情に呼応してか、やはり王妃もやつれた顔をしている。
「愚かな母を……許してください」
正直に言って、イェレミアスがここまでショックを受けるとは思っていなかったのだろう。彼女自身ヤルノの事を憎からず思っていたため、それを自分が乗り越える事ばかり考えていて、息子の心のケアを考えていなかったのは落ち度である。
しかし元から心優しい性格であり、数少ない……いや、たった一人の友人を目の前で母に殺されたのだ。その傷心たるや如何ばかりか。
「ヤルノは……僕にとっては兄弟のように思っていた人です」
この二週間、全く喋らないか、喋ってもぼそぼそと小さな声で殆ど聞き取れなかったが、この日ようやくイェレミアスが口を開き、はっきりと言葉を吐き出した。
「ヤルノの命を無駄にするなという、お母様の言い分は分かります。分かりますが」
それきり何も言えなくなってしまい、イェレミアスは涙をボロボロとこぼした。
「勝手な言い分だという事は分かっています、イェレミアス」
この国を変えたい。その気持ちがあろうとも、その先に多くの国民や自分達の幸福があろうとも、それによって何の罪もない一人の少年を犠牲にしてよい道理などない。
あったとしても、どんな国を作ろうとも、殺された少年が報われることなど決してないのだ。死んだ本人がそれを望んでいたのでなければ。
よろよろと、イェレミアスは立ち上がり、涙をぬぐう事もなく、母の体を抱きしめた。
「イェレミアス……」
体格の小さいイェレミアスは立って抱き合うと、母親との身長差はほとんどない。この二週間により一層か細くなってしまった女のような華奢な体で、母の体にしがみつく。濁流に流される子供が木の枝にしがみつくように。
「イェレミアスは、あの日、死んだのです」
インシュラの背筋にぞわりと悪寒が走る。
「僕は、ヤルノです」
インシュラは、その言葉の意味を考えることができなかった。心臓が強く脈打ち、瞳孔が満月のように拡大する。
「あの時、今までの、弱く、頼りなかったイェレミアスは死んだのだと思ってください。ヤルノは僕の中で今も息づいています」
ふっ、と、瞬間的にインシュラは息を吐いた。
どうやら今まで、原因不明の緊張感により、呼吸することすら忘れていたようだった。
「僕は、明日から王としての道を歩み、必ずお母様の願いを叶えます。だから今日だけは、今日だけはこうして甘えさせてください」
「え……ええ。この愚かな母の胸でよければ、いつでも貸して差し上げます。泣きたい時があれば、私はいつでもお前の味方なのだから」
インシュラの呼吸は浅く、心臓はまだ早鐘のように激しく脈打っている。ただ、その原因が分からない。わけのわからない不安が襲ってきて、上手く言語化できないのだが、恐ろしくて仕方ないのだ。しかし何が恐ろしいのかすら分からない。
「ヤルノは死んでいません。僕の胸の中でいつまでも生きていくんです」
そう言ってイェレミアスは少し体を離し、自分の胸に手を当てた。
「だからお母様、『ヤルノを愛している』と一言、言ってください」
心臓が止まりそうなほどの恐怖を、王妃インシュラは覚えていた。
一年の太陽の動きを人の一生になぞらえて、幼年期の終わりを意味する中節の日には王都ウィンザーハーツの街にも出店が出て大々的に祝われるが、その裏でひっそりと王別の儀が行われていたことを知る者は少ない。
この日を無事つつがなく終えて、ようやく一人前の男として認められたはずのイェレミアス王子であったが、華々しく社交界に出て、王位継承者としての地盤固めを進めるだろうと思われていた大方の予想を覆し、二週間も経つというのに誰も全く動向が掴めないでいた。
儀式以前から親しくしていたガッツォ王子ですら、彼と会えていないのだという。
菜の花にたかるアブラムシの如く手ぐすねを引いて待っている国内の有力者達を焦らせて、イェレミアス陣営は何を企んでいるのか。これも次の手への布石なのか。
「イェレミアス、入りますよ」
部屋からは返事は無かったものの、王妃インシュラは護衛のギアンテを廊下に残したまま、イェレミアスの私室の扉を開いて中に入った。
イェレミアスの周りからの評価としては、頭は切れるものの、肉体的には大いに不安が残る、といったところである。王別の儀も通過するのは正直厳しいだろうという前評判であった。
しかしふたを開けてみれば、ただ試験をパスするだけでなく、逆に不慮の事故で壊滅状態に陥った騎士団に対して救助活動をするほどの活躍ぶりであったという。
総長のコルアーレはこれを機に一気にイェレミアス派に鞍替えしたのではないか、という噂まで立っている。
だが実際のところ。
「イェレミアス、食事をとらなければ衰弱してしまいますよ……」
テーブルの上に置かれた、ほとんど手の付けられていない朝食を見て王妃インシュラは心配そうに言った。その言葉にも、イェレミアス王子は答えず、椅子に座ったまま何もない空中を見つめている。
この二週間、心神喪失状態となったイェレミアス王子は何の動きもとることなく、日がな一日考え事をして過ごすのが常であった。
彼の心情に呼応してか、やはり王妃もやつれた顔をしている。
「愚かな母を……許してください」
正直に言って、イェレミアスがここまでショックを受けるとは思っていなかったのだろう。彼女自身ヤルノの事を憎からず思っていたため、それを自分が乗り越える事ばかり考えていて、息子の心のケアを考えていなかったのは落ち度である。
しかし元から心優しい性格であり、数少ない……いや、たった一人の友人を目の前で母に殺されたのだ。その傷心たるや如何ばかりか。
「ヤルノは……僕にとっては兄弟のように思っていた人です」
この二週間、全く喋らないか、喋ってもぼそぼそと小さな声で殆ど聞き取れなかったが、この日ようやくイェレミアスが口を開き、はっきりと言葉を吐き出した。
「ヤルノの命を無駄にするなという、お母様の言い分は分かります。分かりますが」
それきり何も言えなくなってしまい、イェレミアスは涙をボロボロとこぼした。
「勝手な言い分だという事は分かっています、イェレミアス」
この国を変えたい。その気持ちがあろうとも、その先に多くの国民や自分達の幸福があろうとも、それによって何の罪もない一人の少年を犠牲にしてよい道理などない。
あったとしても、どんな国を作ろうとも、殺された少年が報われることなど決してないのだ。死んだ本人がそれを望んでいたのでなければ。
よろよろと、イェレミアスは立ち上がり、涙をぬぐう事もなく、母の体を抱きしめた。
「イェレミアス……」
体格の小さいイェレミアスは立って抱き合うと、母親との身長差はほとんどない。この二週間により一層か細くなってしまった女のような華奢な体で、母の体にしがみつく。濁流に流される子供が木の枝にしがみつくように。
「イェレミアスは、あの日、死んだのです」
インシュラの背筋にぞわりと悪寒が走る。
「僕は、ヤルノです」
インシュラは、その言葉の意味を考えることができなかった。心臓が強く脈打ち、瞳孔が満月のように拡大する。
「あの時、今までの、弱く、頼りなかったイェレミアスは死んだのだと思ってください。ヤルノは僕の中で今も息づいています」
ふっ、と、瞬間的にインシュラは息を吐いた。
どうやら今まで、原因不明の緊張感により、呼吸することすら忘れていたようだった。
「僕は、明日から王としての道を歩み、必ずお母様の願いを叶えます。だから今日だけは、今日だけはこうして甘えさせてください」
「え……ええ。この愚かな母の胸でよければ、いつでも貸して差し上げます。泣きたい時があれば、私はいつでもお前の味方なのだから」
インシュラの呼吸は浅く、心臓はまだ早鐘のように激しく脈打っている。ただ、その原因が分からない。わけのわからない不安が襲ってきて、上手く言語化できないのだが、恐ろしくて仕方ないのだ。しかし何が恐ろしいのかすら分からない。
「ヤルノは死んでいません。僕の胸の中でいつまでも生きていくんです」
そう言ってイェレミアスは少し体を離し、自分の胸に手を当てた。
「だからお母様、『ヤルノを愛している』と一言、言ってください」
心臓が止まりそうなほどの恐怖を、王妃インシュラは覚えていた。
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