リィングリーツの獣たちへ

月江堂

文字の大きさ
上 下
44 / 94

帰還不能点

しおりを挟む
「さあ立て。お前の処遇についてはとりあえず王宮に連れて帰ってから考える」
「ひっ、お慈悲を……」

 名も知らぬ雑兵が騎士団の総長を引きずって連れてゆく。最早歴戦の猛者の威厳というものなどありはしなかった。

「王子、涙を」

 そう言って女騎士ギアンテはハンカチを差し出した。春先の昼下がり、森の中を吹き抜ける風は涼やかで。

 ヤルノの涙は熱を持ち過ぎた場の空気を冷やしているようであった。

「ありがとう、ギアンテ」

 ヤルノがハンカチを返すころには辺りには他の騎士はいなくなっていた。柔らかい木漏れ日の中、二人の沈黙の時だけが流れる。

「王別の……儀は……」

「つつがなく」

 コルアーレたちが森の中で先住民に襲われているどさくさの内にヤルノは石碑への署名を行い、王別の儀を終了させた。あとはこのまま誰の手も借りずに王宮に帰れば条件はクリアである。

 途中の動きはかなり泥臭く、なんでもやる、といった感じではあったが、まさに鮮やかな手腕であると言えよう。

「そうか」

 一言だけ言って、ギアンテは顔を上に向け、木の葉越しに優しく輝く太陽を見た。

 本来ならば彼女にとってイェレミアス王子とはあの太陽のようなもの。触れることも、直接見ることも叶わぬ存在。その影武者と、まるで王子と話すように隣に立っている不思議。いったい何の因果なのか。

 ましてや、偽物ではあるものの、その王子と男女の契りを結んだという事実がある。

 森の中で偶然に彼の姿を見た時、心の底から安堵した。抱きしめて、再会を喜びたかった。人目あらざれば今すぐこの場で口づけを交わしたいとすら思った。

 相手の如何に関わらず、騎士として、そんな事を思う事があるまじきことだ。

 いったい彼女をこんな風に変えてしまったのは誰なのか。鉄のような女だと恐れられ、所詮エルエト人に人の情は分からぬのだろうとさげすまれた彼女を。

 もう言い訳はすまい。イェレミアス王子ではない。間違いなくそれは目の前の少年、ヤルノなのだ。間違いなく彼女の中でヤルノは王子と関係なく、特別な存在になっていた。

 だが、もうその夢も終わりが近づいている。

「では、お前の役目もこれで終わりだ」

 努めて感情の波を言葉に乗せず、彼女は言った。

 そう。これで終わりなのだ。

「そうですね。まだ王宮に戻らなければ完了しませんけどね」

 村一つを焼き尽くし、住人を虐殺し、多くの人を騙し。それと同時に数えきれないほどの謎を残しながらも。

 当初の目的、誰にも気づかれずにイェレミアス王子に成り代わり、王別の儀を合格するというその目的は、達成できたのだ。

「お前の仕事も、ここまでだ」

 周りに人はいない。森の中に二人だけ。もはやギアンテはイェレミアス王子の影武者ではなく、ヤルノと会話をしていた。

「僕はもう……用済みという事ですか」

「そうだ」

 ギアンテは、ヤルノから目を逸らしたまま答えている。

「あとはもう大丈夫だ。お前には、このまま、今までのことはすべて忘れて、どこか別の場所で安全に暮らしていくという選択肢もある」

「仕事は終わりという事ですよね。でも僕の帰る村はこの先でしょう。ギアンテが通してくれなければ、行けませんよ」

「村には、行けない」

 そこに、村などというものは、もう、ない。

 しばらく、沈黙の時が流れた。二人とも、この先の村が、既に存在しないことなど分かっている。分かった上で、分からないふりをするのが、二人の約束事のようになっていた。それを口にすれば、今まで誤魔化してきた嘘が、全て露呈してしまうような気がして。

「お前ほどの才覚と、美貌があればどこへ行ったって成功できるはずだ。リィングリーツでなくとも……」

「僕の帰る場所はリィングリーツですよ。他にはありません」

 目を閉じ、辛そうな表情でギアンテは答える。

「アシュベル殿下もおっしゃってたろう。リィングリーツ宮は獣の檻だ。あそこに安息の場所などない。あんな場所に居れば、いつか必ず命を落とすぞ」

「でも、ギアンテは、そこに戻るんでしょう?」

 真っ直ぐにギアンテの瞳を見つめて話しかけてくるヤルノ。ギアンテは彼に目を合わせることが出来ず、ずっと瞳を伏せている。

「じゃあ、もしギアンテが一緒に来てくれるんならどこへでも行きましょう。ここではないどこかへ」

 そう言ってヤルノは手を差し出してきた。

「ここではないどこか……」

 そう、どこか。誰も二人を知らない、グリムランドの外へ。もしかしたら、そこへ行けば、ギアンテの望みも叶うのかもしれない。この国を変えることにどれほどの意味があろうというのか。どこか静かな場所で、愛する人と心穏やかに暮らすことが出来たなら。

 ギアンテは伏せていた目を少し上げ、差し出された手のひらを見た。土と血で汚れてはいるが、見慣れた剣ダコのある、しかし女性のように柔らかい手。

 何度も何度も、ベッドの上であの美しい手と固く握りあって、愛を確かめた。

「私には……イェレミアス王子に仕える責務がある」

 しかし結局、ギアンテがその手を取ることはなかった。

「私はもう、戻らねばならない」

 そう言って振り返り、村の方に戻っていくギアンテ。

 薄暗い森の中、ヤルノだけが寂しそうに一人、立ち尽くしていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫を愛することはやめました。

杉本凪咲
恋愛
私はただ夫に好かれたかった。毎日多くの時間をかけて丹念に化粧を施し、豊富な教養も身につけた。しかし夫は私を愛することはなく、別の女性へと愛を向けた。夫と彼女の不倫現場を目撃した時、私は強いショックを受けて、自分が隣国の王女であった時の記憶が蘇る。それを知った夫は手のひらを返したように愛を囁くが、もう既に彼への愛は尽きていた。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【完結】私だけが知らない

綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

選ばれたのは美人の親友

杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

〖完結〗私が死ねばいいのですね。

藍川みいな
恋愛
侯爵令嬢に生まれた、クレア・コール。 両親が亡くなり、叔父の養子になった。叔父のカーターは、クレアを使用人のように使い、気に入らないと殴りつける。 それでも懸命に生きていたが、ある日濡れ衣を着せられ連行される。 冤罪で地下牢に入れられたクレアを、この国を影で牛耳るデリード公爵が訪ねて来て愛人になれと言って来た。 クレアは愛するホルス王子をずっと待っていた。彼以外のものになる気はない。愛人にはならないと断ったが、デリード公爵は諦めるつもりはなかった。処刑される前日にまた来ると言い残し、デリード公爵は去って行く。 そのことを知ったカーターは、クレアに毒を渡し、死んでくれと頼んで来た。 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 全21話で完結になります。

彼女の幸福

豆狸
恋愛
私の首は体に繋がっています。今は、まだ。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

処理中です...