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正常性バイアス
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まだ朝の光も射さぬ鬱蒼とした森の中。王都の町ですら薄暗い。黒き森ともなれば入り口とはいえ夜の闇とほとんど変わらぬほどだ。
冬はつとめて、とは言うが、ここ、グリムランドの森の朝の空気はただ清浄なだけではなく空気が凍り付くほどに寒い。春の足音が聞こえてくるのはまだもう少し先の事。冬の盛りであれば実際に空気が凍るダイヤモンドダストが見えることもあるというほどだ。
そんな人気のない暗い森の中には似つかわしくない貴人が二人。一人はまだ若いが精悍な顔つきに均整の取れた体。貴族の子弟か、もしくは騎士といったところか。もう一人は質素な服を着ている女性であるが、その顔立ちは妖精のように美しく、立ち振る舞いの雰囲気からも常人ではない事を察せられる。
(なぜ、俺はこんなことを……?)
ザシュ、と土にスコップが刺さる音。
そこまでであれば人目を忍んで貴人二人が逢瀬を楽しんでいるとでも思えたかもしれない。だが奇妙なことに二人はスコップで穴を掘っているのだ。
騎士ヒルシェンはスコップで穴を掘る手を止め、ちらりと二人が乗ってきた馬を見た。スコップを二本、それに自分と王子を乗せて、さらには大きな、それこそ小柄であれば人が一人は入れるくらいの旅行鞄を括りつけられた馬は、随分と足取りが重かった。
今は荷も下ろされてくつろいでいるが、まだ吐く息は随分と白く、よほどの重労働だったことを窺わせる。
「どうしました? ヒルシェン。手が止まっていますよ」
女装したままの王子イェレミアスに声をかけられて、ヒルシェンはハッと我に返る。
「いえ……あの荷物は、何かなと、思いまして……」
逆十字屋敷に入ってきたとき、イェレミアスは確かにあんな大きな荷物は持っていなかったはずである。ではあの荷物はいつ、どこから持ってきたのか。
五回にも及ぶ情事にふけって眠ってしまったヒルシェンが目を覚ますと、件の大荷物を抱えた王子が待っていた。促されるまま人目を忍んで町の外れ、黒き森のふちにまで来たものの、自分達はいったい何をしているのか。言われて二人で掘っている穴はもう人が入れそうなほどに深い。
「そうですねぇ、もう少ししたら教えてあげますよ。それよりもっと深く掘ってください。狼に掘り返されてしまいますから」
納得がいかないながらもヒルシェンはまた促されるまま穴を掘り始める。なんとなく、この王子には逆らうことが憚られた。
だが実際には「なんとなく」などではない。いくつもの禁忌を共に犯すことで、彼は王子の命令に何一つ逆らえない心理状態に既にされていたのだ。
「こんなものでしょうか」
「そうですね。すいません、そのかばんを持ってきてもらえますか」
2メートルほどの深さの穴を掘ってイェレミアスが満足する頃には森の中にも明け方の白い光が漏れ始めていた。
やけに重い旅行鞄を必死の思いで持ち上げて穴の横にいるイェレミアスの前まで持ってくる。
人が一人くらい入れそうなかばん。人一人分くらいの重量。一瞬嫌な予感が頭をよぎるが、すぐさまそれを振り払う。
「よし、じゃあ開けますよ。これを森に捨てに来たんですよ」
なんてこと無い風に言ってかばんを開けるイェレミアス。ヒルシェンの思った通り、中から出てきたのは衣服を着ていない、しゃがみこんだ姿勢で固まった女性の死体。首は、落とされている。
眩暈がし、よろけそうになるのを必死にこらえて、ヒルシェンは問いかける。
「これは……いったい……?」
「まあ、しょうもないあばずれの死体ですよ。大したものじゃないです。すいませんけど足の方を持ってもらえますか?」
王子はあまりにも何でもない事のようにそう言う。まるで粗大ごみでも出すかのようだ。彼の様子に調子を狂わされたヒルシェンは、やはりまた言いなりに動いてしまう。
死後硬直の始まっている死体は、ひんやりと冷たく、はく製のようだった。まるで現実感がない。王子が自分を驚かすために人形を用意したのではないかとまで思う。
(なんなんだ、この死体は……? まさか、王子が? 殺したのか? この死体は何者なんだ? まさかとは思うが、この死体が、今日入り込む予定の賊だった、とか……そうだ。きっとそうに違いない)
聞きたい事は色々とある。いや「聞きたい」ではない。「聞かなければならない事」が色々とあるのだ。
だが恐ろしくて聞けなかった。聞いてもし答えが得られれば「事実が確定してしまう」から。それは自分の日常が崩れることを意味する。
(そうだ、きっとこいつは賊なんだ。偶然鉢合わせた王子が、賊を討ち取って……大きな混乱が起きないように、それを内密に処理しようとしているんだ)
挙句の果てにはありえない妄想に浸る始末である。これが正常性バイアスというものだ。人は、自らの心を過大なストレスから守るために「異常事態」を過小に評価し、日常を取り戻そうとする。「これが過ぎ去れば、きっとまたいつもの『日常』がまっている」と。
彼が特別愚かなのではない。今回彼が正常性バイアスに陥るにはそれだけの理由があった。
先ず第一に、自分と王子の関係性。決して余人に知られてはならない間柄であり、彼に「お願い事」をされれば断りづらい。何か起きたとしても話を大きくするのはできれば避けたい。
第二に、今回賊の侵入の情報を事前にキャッチしており、衛兵に守りを固める様に指示しておきながら、しかし王子を屋敷に招き入れたのは彼自身なのだ。その王子が屋敷で何か騒ぎを起こしたというのなら、全ての責任は彼にある。何かあっては困るのだ。
そして最後に、彼の恋心。
「これの……頭部は?」
ようやく絞り出した彼の質問はそれであった。人形のように穴の中に投げ捨てた死体は首を切断されており、頭部が無かった。しかしそんなことを知ってどうするというのか。
「ああ、それならここにありますよ。見てみますか?」
イェレミアスはにこやかにそう答えて自分の足元に置いてあった小さなかばんを差し出した。確かにそれは小さいながらも人間の頭部が入りそうなくらいの大きさはしている。
もはや思考力を失っているヒルシェンはそれを受け取り、ゆっくりとかばんの口を開く。なんだかとても現実感がない。このかばんの中にはおそらく人の生首が入っているというのに、何の心の準備もせずに。
そして、少し考えれば話の流れから、この死体が誰のものなのかもわかりそうなのに、そこに考えが及ばない。
「ッ!?」
かばんを開けた瞬間、ヒルシェンの瞳孔が最大まで広がった。
考えないようにしながらも、心の奥底では「そうなんじゃないか」と最も恐れていた事。ヒルシェンはへなへなとその場にへたり込むように膝をついた。
「き……キシュクシュ……様」
そう。やはりその死体は彼の主人。公爵令嬢キシュクシュのなれの果てだったのだ。綺麗に血痕を拭きとられて、死に化粧まで施されたその生首は、今まで見たどんな場面のキシュクシュよりも美しかった。
まるで、その芸術作品が、『死』によってはじめて完成したようだった。
「なぜ……」
視線を上げて王子の顔を見ようとした時、視界の端で何かが舞った。
「ぐッ……」
その時ヒルシェンは、確かに音を聞いた。イェレミアスの持つスコップの角が、自身の頭蓋を打ち砕く音を。
キシュクシュの頭部を抱きかかえながら、彼はその場につんのめるように倒れ込んだ。
「ごめんなさい、それは返してもらいますね。あんまり綺麗な顔をしてるから、記念にとっておこうと思って切り離しておいたんですよ」
相変わらずにこやかな声で、力なくうずくまっているヒルシェンからかばんを奪い返すと、彼を墓穴に蹴り落とした。隣には、氷の様に冷たくなったかつての主人の体。
次第に消えゆく思考の中で、土をかけられながらヒルシェンは愛しい人の声を聴いていた。
「まさに墓穴を掘るってやつですね。笑い話にもなりませんが」
冬はつとめて、とは言うが、ここ、グリムランドの森の朝の空気はただ清浄なだけではなく空気が凍り付くほどに寒い。春の足音が聞こえてくるのはまだもう少し先の事。冬の盛りであれば実際に空気が凍るダイヤモンドダストが見えることもあるというほどだ。
そんな人気のない暗い森の中には似つかわしくない貴人が二人。一人はまだ若いが精悍な顔つきに均整の取れた体。貴族の子弟か、もしくは騎士といったところか。もう一人は質素な服を着ている女性であるが、その顔立ちは妖精のように美しく、立ち振る舞いの雰囲気からも常人ではない事を察せられる。
(なぜ、俺はこんなことを……?)
ザシュ、と土にスコップが刺さる音。
そこまでであれば人目を忍んで貴人二人が逢瀬を楽しんでいるとでも思えたかもしれない。だが奇妙なことに二人はスコップで穴を掘っているのだ。
騎士ヒルシェンはスコップで穴を掘る手を止め、ちらりと二人が乗ってきた馬を見た。スコップを二本、それに自分と王子を乗せて、さらには大きな、それこそ小柄であれば人が一人は入れるくらいの旅行鞄を括りつけられた馬は、随分と足取りが重かった。
今は荷も下ろされてくつろいでいるが、まだ吐く息は随分と白く、よほどの重労働だったことを窺わせる。
「どうしました? ヒルシェン。手が止まっていますよ」
女装したままの王子イェレミアスに声をかけられて、ヒルシェンはハッと我に返る。
「いえ……あの荷物は、何かなと、思いまして……」
逆十字屋敷に入ってきたとき、イェレミアスは確かにあんな大きな荷物は持っていなかったはずである。ではあの荷物はいつ、どこから持ってきたのか。
五回にも及ぶ情事にふけって眠ってしまったヒルシェンが目を覚ますと、件の大荷物を抱えた王子が待っていた。促されるまま人目を忍んで町の外れ、黒き森のふちにまで来たものの、自分達はいったい何をしているのか。言われて二人で掘っている穴はもう人が入れそうなほどに深い。
「そうですねぇ、もう少ししたら教えてあげますよ。それよりもっと深く掘ってください。狼に掘り返されてしまいますから」
納得がいかないながらもヒルシェンはまた促されるまま穴を掘り始める。なんとなく、この王子には逆らうことが憚られた。
だが実際には「なんとなく」などではない。いくつもの禁忌を共に犯すことで、彼は王子の命令に何一つ逆らえない心理状態に既にされていたのだ。
「こんなものでしょうか」
「そうですね。すいません、そのかばんを持ってきてもらえますか」
2メートルほどの深さの穴を掘ってイェレミアスが満足する頃には森の中にも明け方の白い光が漏れ始めていた。
やけに重い旅行鞄を必死の思いで持ち上げて穴の横にいるイェレミアスの前まで持ってくる。
人が一人くらい入れそうなかばん。人一人分くらいの重量。一瞬嫌な予感が頭をよぎるが、すぐさまそれを振り払う。
「よし、じゃあ開けますよ。これを森に捨てに来たんですよ」
なんてこと無い風に言ってかばんを開けるイェレミアス。ヒルシェンの思った通り、中から出てきたのは衣服を着ていない、しゃがみこんだ姿勢で固まった女性の死体。首は、落とされている。
眩暈がし、よろけそうになるのを必死にこらえて、ヒルシェンは問いかける。
「これは……いったい……?」
「まあ、しょうもないあばずれの死体ですよ。大したものじゃないです。すいませんけど足の方を持ってもらえますか?」
王子はあまりにも何でもない事のようにそう言う。まるで粗大ごみでも出すかのようだ。彼の様子に調子を狂わされたヒルシェンは、やはりまた言いなりに動いてしまう。
死後硬直の始まっている死体は、ひんやりと冷たく、はく製のようだった。まるで現実感がない。王子が自分を驚かすために人形を用意したのではないかとまで思う。
(なんなんだ、この死体は……? まさか、王子が? 殺したのか? この死体は何者なんだ? まさかとは思うが、この死体が、今日入り込む予定の賊だった、とか……そうだ。きっとそうに違いない)
聞きたい事は色々とある。いや「聞きたい」ではない。「聞かなければならない事」が色々とあるのだ。
だが恐ろしくて聞けなかった。聞いてもし答えが得られれば「事実が確定してしまう」から。それは自分の日常が崩れることを意味する。
(そうだ、きっとこいつは賊なんだ。偶然鉢合わせた王子が、賊を討ち取って……大きな混乱が起きないように、それを内密に処理しようとしているんだ)
挙句の果てにはありえない妄想に浸る始末である。これが正常性バイアスというものだ。人は、自らの心を過大なストレスから守るために「異常事態」を過小に評価し、日常を取り戻そうとする。「これが過ぎ去れば、きっとまたいつもの『日常』がまっている」と。
彼が特別愚かなのではない。今回彼が正常性バイアスに陥るにはそれだけの理由があった。
先ず第一に、自分と王子の関係性。決して余人に知られてはならない間柄であり、彼に「お願い事」をされれば断りづらい。何か起きたとしても話を大きくするのはできれば避けたい。
第二に、今回賊の侵入の情報を事前にキャッチしており、衛兵に守りを固める様に指示しておきながら、しかし王子を屋敷に招き入れたのは彼自身なのだ。その王子が屋敷で何か騒ぎを起こしたというのなら、全ての責任は彼にある。何かあっては困るのだ。
そして最後に、彼の恋心。
「これの……頭部は?」
ようやく絞り出した彼の質問はそれであった。人形のように穴の中に投げ捨てた死体は首を切断されており、頭部が無かった。しかしそんなことを知ってどうするというのか。
「ああ、それならここにありますよ。見てみますか?」
イェレミアスはにこやかにそう答えて自分の足元に置いてあった小さなかばんを差し出した。確かにそれは小さいながらも人間の頭部が入りそうなくらいの大きさはしている。
もはや思考力を失っているヒルシェンはそれを受け取り、ゆっくりとかばんの口を開く。なんだかとても現実感がない。このかばんの中にはおそらく人の生首が入っているというのに、何の心の準備もせずに。
そして、少し考えれば話の流れから、この死体が誰のものなのかもわかりそうなのに、そこに考えが及ばない。
「ッ!?」
かばんを開けた瞬間、ヒルシェンの瞳孔が最大まで広がった。
考えないようにしながらも、心の奥底では「そうなんじゃないか」と最も恐れていた事。ヒルシェンはへなへなとその場にへたり込むように膝をついた。
「き……キシュクシュ……様」
そう。やはりその死体は彼の主人。公爵令嬢キシュクシュのなれの果てだったのだ。綺麗に血痕を拭きとられて、死に化粧まで施されたその生首は、今まで見たどんな場面のキシュクシュよりも美しかった。
まるで、その芸術作品が、『死』によってはじめて完成したようだった。
「なぜ……」
視線を上げて王子の顔を見ようとした時、視界の端で何かが舞った。
「ぐッ……」
その時ヒルシェンは、確かに音を聞いた。イェレミアスの持つスコップの角が、自身の頭蓋を打ち砕く音を。
キシュクシュの頭部を抱きかかえながら、彼はその場につんのめるように倒れ込んだ。
「ごめんなさい、それは返してもらいますね。あんまり綺麗な顔をしてるから、記念にとっておこうと思って切り離しておいたんですよ」
相変わらずにこやかな声で、力なくうずくまっているヒルシェンからかばんを奪い返すと、彼を墓穴に蹴り落とした。隣には、氷の様に冷たくなったかつての主人の体。
次第に消えゆく思考の中で、土をかけられながらヒルシェンは愛しい人の声を聴いていた。
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