リィングリーツの獣たちへ

月江堂

文字の大きさ
上 下
8 / 94

窮鼠猫を噛む

しおりを挟む
「イェレミアス」
 
 ゆっくりと体をヤルノの方に向け、正対するアシュベル
 
「お前は今までに一度だって」
 
 口の端がいやらしく吊り上がり、もはやこみ上げる笑みを抑えることにその力を注いでいるようだ。
 
「そう、ただの一度だって、僕に意見したことなんか無かったじゃあないか」
 
 自信と、確信した勝利から、その細身の体が何倍にも膨れ上がって見える。何度も何度も「今までに一度もなかった」ことを強調しながら、ヤルノに詰め寄る。
 
 失着である。
 
 女騎士ギアンテは狼狽えながらヤルノ少年の顔に視線をやる。
 
 実際、ずっと身の回りを警護している彼女ですらイェレミアス王子が兄どころか他人に意見をしたところを見たことがない。その「一度も見せたことのない姿」を、よりにもよって王子の影武者を疑っているこの男の前で見せてしまったのだ。
 
「まるでだな、イェレミアス」
 
 そして、その一度も見せたことのない王子の姿に、もはや次兄アシュベルは自分の勝利を疑う余地も無し。「やはりこの男は別人だ」と。「影武者に違いない」と。
 
 影武者を用意すること自体は構わない。王族ならば普通の事である。だがそれが王別の儀を後に控え、それを独力で乗り越えることが極めて困難なイェレミアスであれば話は別である。少なくとも王別の儀での『替え玉』は不可能となる。
 
 獲物を追い詰めたという余裕の笑みを浮かべるアシュベル。しかしそれに相対するヤルノの表情は如何にも精悍なものであった。
 
 同じ細身ではあるが自分よりも背の高く、増長によって膨れ上がっているアシュベルに対し一歩も退かない構え。キッとその双眸を睨みつける。
 
 ギアンテは、これほどの強い意志を感じさせる表情の王子を見るのも、また初めての事であった。この男はまだ自分の失着に気付いていないのであろうか。
 
「何とか言ったらどうだ? ……お前はいったい何者だ?」
 
 問い詰めるアシュベル。しかしヤルノはその問いかけには応えない。逆に兄に問いかける。
 
「何とか言うのはそちらです。侮辱の言葉を取り消してください」
 
 決して強い態度を崩さないヤルノ。明け方の雪の如く青白い肌を紅潮させ、その可愛らしくも美しい顔の眉間にしわを寄せ、体は怒りで小刻みに震えており、目には涙まで浮かべている。
 
 まるで猟犬に追い詰められ、逃げ場を失い、最後の抵抗に出んとする兎のようであり、愚かしくも胸を打つ必死な怒りの姿。
 
「む……」
 
 しかし、何を思ったのか、その抵抗の姿を見てアシュベルの態度が軟化したのだ。
 
「す、すまなかった……侮辱の言葉は撤回する」

 気まずそうに言葉少なく呟くと、軽く会釈をしてすぐに背を向け、すたすたと歩いて姿を消していった。

「ふううぅぅぅ……」

 緊張の糸が切れ、大きく息を吐き出すギアンテ。まるで生きた心地がしなかった。どう考えてもここで部屋から出て姿を現すことは悪手であったし、ましてや兄であるアシュベルに怒りの姿勢を見せ、抗議するなどあってはならないことであった。

 冷静さを取り戻したギアンテはきつくヤルノを睨みつけると、衛兵に一言声をかけてから部屋の中に入って固く扉を閉ざした。

「どういうつもりだ! ヤルノ!」

 手を引いて部屋の一番奥、廊下の反対側まで行くと前腕を使って壁に押し付けるようにヤルノに凄んだ。先ほど取り戻した冷静さが再び鳴りを潜める。

「いぇ……イェレミアスですよ、ギアンテ……」

 あくまでイェレミアスの演技を続けるヤルノ。しかし……

「ふざけるな! 今更取り繕ったって無駄だ!! お前のせいで計画は全てパァだ!! どうしてくれる!!」

 ヤルノはギアンテの手首を掴んで押し戻そうとするが、しかしまだ体格も幼いヤルノは、如何に女といえども騎士として体を鍛えているギアンテの腕を押し戻せない。

「僕は……イェレミアスを完全に演じて見せただけですよ」

 抑え込まれながらも抗するヤルノ。しかしその強情な態度はギアンテの怒りの火に油を注ぐだけである。

「いいか、王子は長兄ガッツォにも、次兄アシュベルにも、いや、それだけじゃない。他人に対して怒りを見せて抗議なんてしたことはない。一度もだ。お前は今までの王子なら決して取らない行動をとったんだぞ!!」

「でも……殿下は納得して退散しましたよ……?」

 ギアンテの腕から力が抜ける。

 実を言うと彼女もそれが気にはなっていたのだ。何故アシュベルはあそこで退いたのか。

「……そんなの、納得したわけじゃない。猜疑心を強めて、次は動かぬ証拠を押さえてくるに決まっている」

 ヤルノは知らないがギアンテは知っている。あの抜け目なく、猜疑心の強い男の事を。

「イェレミアス殿下だったならば、あの場で……私が侮辱されたくらいで声を荒げる事なんて、決してしない。お前はそれが理解できずに感情のままに行動して……」
「そんなことはない」

 今度はヤルノが、ギアンテの手首を強く掴んだ。

 先ほどまでの弱弱しい力とは違う。この線の細い、まだほんの少年の体のどこに、いったいこれほどの力があるというのか。あまりに強い力にギアンテは驚愕してヤルノの目を見た。

「もし王子がここに居たら、僕と同じように怒ったはずだ」

 真っ直ぐに彼女の目を見つめてくるヤルノの瞳には、今までに見たことの無いような力強さを感じられた。

「ば……バカなことを……お前は、王子の事を、何も分かって……」

「王子の事を何も分かっていないのはギアンテの方だ」

 真っ直ぐに見つめてくる瞳。

 鋼のように純粋で、朝露のように透き通っている。

「くっ……」

 たまらずギアンテはヤルノの手を振りほどいて目を逸らした。

 そうしなければ彼の目に取り込まれてしまうような気がしたから。何もかも見透かされてしまうような気がしたから。

 この少年は確信しているのだ。

 もし目の前でギアンテが侮辱されたなら、たとえ兄だろうとイェレミアスは決してそれを許しはしないと。

 今までに一度も王子が他人に意見をしたことが無いというのならば、今がその初めての時なのだと。

 王子にとって彼女は、それほどまでに大切な存在なのだと。

 そう言っているのだ。

「もういい」

 ヤルノに背を向けて俯く年嵩の女騎士は、少女のような目をして、早まる胸の鼓動を必死に抑えようとした。
しおりを挟む
感想 23

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

魔性の大公の甘く淫らな執愛の檻に囚われて

アマイ
恋愛
優れた癒しの力を持つ家系に生まれながら、伯爵家当主であるクロエにはその力が発現しなかった。しかし血筋を絶やしたくない皇帝の意向により、クロエは早急に後継を作らねばならなくなった。相手を求め渋々参加した夜会で、クロエは謎めいた美貌の男・ルアと出会う。 二人は契約を交わし、割り切った体の関係を結ぶのだが――

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...