176 / 211
魔笛
しおりを挟む
朝焼けの光が空を黄金色に染め上げる頃。
カルゴシアの町には美しい笛の音色が染み渡るように響いていた。
トンビの鳴き声の様な、オオカミの遠吠えの様な、
元々、イリスウーフには音楽の素養はない。それでもその悲しげな音に、誰もがその手を止めた。敵の首を刎ねる手と止め、弓を引く腕を止め、投げつける石を取り落とした。
誰もが天を仰ぎ見て、黄金色に輝く雲に打ち震え、世界の大きさに心を打たれ、笛の音に涙した。
「ああ……」
カルゴシアの騎士団、近衛騎士長のイザークは鉄塊のごとき巨大な両手剣をがらん、と取り落とし、そして両手で顔を覆った。
― なんと美しくはかなげで、そして悲しい旋律なのか ―
このイザークという男はおおよそ風流というものに全く理解を示さない男であったが、この時ばかりは美しい笛の音に涙を流した。
イザークだけではない。他の騎士団の皆も、そして騎士団だけでもない。冒険者達もそれは同じであった。武器を振る手を止め、弓を引く手を下ろし、ただただその音色の美しさに聞き入っていた。人だけではない。魔物達も。突き立てる爪を止め、その牙を収め、悲しげな眼で静かに聞き入る。
町の外では得物を襲おうとしていたオオカミがその歩みを止め、ネズミを狩ろうとしていたフクロウが枝にとまり、ともに耳を傾ける。
カルゴシアを中心に静寂の輪が広がっているようであった。
とりわけこの男にはその笛の音が心に染み入るようであった。
「ううっ……ああああッ!!」
剣も盾も取り落として、アルグスはその場に泣き崩れた。嗚咽を上げ、しゃくりあげ、呼吸も覚束ないほどに大声で泣き続ける。クオスの死から立ち直って随分と時間が立っていたようだが、その時の不安定さがぶり返してきたようである。
「話には聞いていたが……凄まじいな」
ガスタルデッロは朝焼けに燃える町を眺めながら腕組みをして呟く。どういう理屈かは分からないが、この男だけは笛の音の中でも普段と変わらない様子である。
いや、「どういう理屈なのか分からない」のは笛の音の方だ。
イリスウーフが笛を吹き始めると、途端にみながそれに聞き入り、そしてこのような異常な事態に陥ったのである。
「もういい、そこまでだ」
ガスタルデッロは演奏を続けるイリスウーフから「野風の笛」を取り上げた。
急に笛を取り上げられたイリスウーフは暫くの間は演奏によってトランス状態になっていたのか、呆けていたが、急に覚醒状態になり、ガスタルデッロに抗議をする。
「返してください、その笛は私の物です。私自身なのです。私が……」
「ワイウードから譲り受けたのか?」
そのガスタルデッロの言葉にイリスウーフは言葉を失う。どうやら何か言えないことがあるようだ。
「フッ、隠さんでもいい。おおよそのところは分かっている」
ガスタルデッロは満足そうな表情で笛を高く掲げ、東から差す朝日の光でよく見ようとする。
「長かった……三百年か……ようやく俺の手に取り戻すことができた」
イリスウーフは抗議の声は上げたものの、しかし力づくで取り返そうとはしない。この男が本気を出せば、自分を始末することなど赤子の手をひねる事よりも簡単だと分かっているからだ。
辺りを見回せば、やはり先ほど、笛の音が鳴っていた頃と変わらず、町の人々や騎士団の男たちは皆、戦う力を失くし、その場に泣き崩れ、俯き、活力を失くしたような状態だ。
「凄いものだな……ワイウードがスナップドラゴンによって生み出した魔笛、ただの魔道具ではないとは思っていたが。
美しい音色によって人から戦う力を奪い、悲しみの底に沈めて生きる気力すらも無くしてしまう文字通り死の笛か。
聞いた話からおそらく言われているような『剣』ではないだろうとは思っていたが、まさか体内に隠せるほどの大きさのものだとは思っていなかったぞ」
音孔に指を当てながら、誰に話しかけるでもなく呟くガスタルデッロ。しかし彼の手の大きさからすると笛の大きさは随分と窮屈に感じられる。
音の届く範囲、カルゴシアの町の見渡す限りの地域ですでに戦闘は行われていなかった。中でも場所的に近かったガスタルデッロの周りの人間は笛の音によって立ち上がることもできないほどに気力を失っており、特にアルグスは足腰が立たないほどに疲弊しているようであった。
おそらくはつい先ほど仲間の一人を、自分の手によって亡くし、そのことも含めて自分を責めていたこと。そしてここ数ヶ月のムカフ島関連の探索によって失った冒険者仲間や、守れなかった市民達……そのことで内心自分を責めていたのが、ここにきて一気に噴出したのだろう。もはや彼が立ち直ることは不可能にさえ見えた。
「だが俺の求めているものはこんなものではない。この先にあるものだ」
そう言って彼は自分のうなじ辺りを確認するようにゆっくりと撫でる。頸椎は重要な器官ではあるものの、しかし彼にとってはそれだけの部位ではない。「転生者」であるガスタルデッロにとってそこは「竜の魔石」を格納している、心臓や脳にも等しき重要な部位なのだ。
やがて彼は音孔に指を当てて優雅に笛を構えると、唄口に唇を重ねた。
――――――――――――――――
「もういいぞマッピ……手を放しても」
ドラーガさんはそう言うと両手でふさいでいた自分の耳から手を放した。というかまあ、実際には彼の言葉は耳を塞いでいた私には届いていないんだけど、彼が手を放したので私も耳から手を放す。
「いったい……何が起きたの?」
私とドラーガさんに倣って、アンセさんとクオスさんも同様にふさいでいた耳から手を放した。
「おそらくは……野風が発動した」
カルゴシアの町には美しい笛の音色が染み渡るように響いていた。
トンビの鳴き声の様な、オオカミの遠吠えの様な、
元々、イリスウーフには音楽の素養はない。それでもその悲しげな音に、誰もがその手を止めた。敵の首を刎ねる手と止め、弓を引く腕を止め、投げつける石を取り落とした。
誰もが天を仰ぎ見て、黄金色に輝く雲に打ち震え、世界の大きさに心を打たれ、笛の音に涙した。
「ああ……」
カルゴシアの騎士団、近衛騎士長のイザークは鉄塊のごとき巨大な両手剣をがらん、と取り落とし、そして両手で顔を覆った。
― なんと美しくはかなげで、そして悲しい旋律なのか ―
このイザークという男はおおよそ風流というものに全く理解を示さない男であったが、この時ばかりは美しい笛の音に涙を流した。
イザークだけではない。他の騎士団の皆も、そして騎士団だけでもない。冒険者達もそれは同じであった。武器を振る手を止め、弓を引く手を下ろし、ただただその音色の美しさに聞き入っていた。人だけではない。魔物達も。突き立てる爪を止め、その牙を収め、悲しげな眼で静かに聞き入る。
町の外では得物を襲おうとしていたオオカミがその歩みを止め、ネズミを狩ろうとしていたフクロウが枝にとまり、ともに耳を傾ける。
カルゴシアを中心に静寂の輪が広がっているようであった。
とりわけこの男にはその笛の音が心に染み入るようであった。
「ううっ……ああああッ!!」
剣も盾も取り落として、アルグスはその場に泣き崩れた。嗚咽を上げ、しゃくりあげ、呼吸も覚束ないほどに大声で泣き続ける。クオスの死から立ち直って随分と時間が立っていたようだが、その時の不安定さがぶり返してきたようである。
「話には聞いていたが……凄まじいな」
ガスタルデッロは朝焼けに燃える町を眺めながら腕組みをして呟く。どういう理屈かは分からないが、この男だけは笛の音の中でも普段と変わらない様子である。
いや、「どういう理屈なのか分からない」のは笛の音の方だ。
イリスウーフが笛を吹き始めると、途端にみながそれに聞き入り、そしてこのような異常な事態に陥ったのである。
「もういい、そこまでだ」
ガスタルデッロは演奏を続けるイリスウーフから「野風の笛」を取り上げた。
急に笛を取り上げられたイリスウーフは暫くの間は演奏によってトランス状態になっていたのか、呆けていたが、急に覚醒状態になり、ガスタルデッロに抗議をする。
「返してください、その笛は私の物です。私自身なのです。私が……」
「ワイウードから譲り受けたのか?」
そのガスタルデッロの言葉にイリスウーフは言葉を失う。どうやら何か言えないことがあるようだ。
「フッ、隠さんでもいい。おおよそのところは分かっている」
ガスタルデッロは満足そうな表情で笛を高く掲げ、東から差す朝日の光でよく見ようとする。
「長かった……三百年か……ようやく俺の手に取り戻すことができた」
イリスウーフは抗議の声は上げたものの、しかし力づくで取り返そうとはしない。この男が本気を出せば、自分を始末することなど赤子の手をひねる事よりも簡単だと分かっているからだ。
辺りを見回せば、やはり先ほど、笛の音が鳴っていた頃と変わらず、町の人々や騎士団の男たちは皆、戦う力を失くし、その場に泣き崩れ、俯き、活力を失くしたような状態だ。
「凄いものだな……ワイウードがスナップドラゴンによって生み出した魔笛、ただの魔道具ではないとは思っていたが。
美しい音色によって人から戦う力を奪い、悲しみの底に沈めて生きる気力すらも無くしてしまう文字通り死の笛か。
聞いた話からおそらく言われているような『剣』ではないだろうとは思っていたが、まさか体内に隠せるほどの大きさのものだとは思っていなかったぞ」
音孔に指を当てながら、誰に話しかけるでもなく呟くガスタルデッロ。しかし彼の手の大きさからすると笛の大きさは随分と窮屈に感じられる。
音の届く範囲、カルゴシアの町の見渡す限りの地域ですでに戦闘は行われていなかった。中でも場所的に近かったガスタルデッロの周りの人間は笛の音によって立ち上がることもできないほどに気力を失っており、特にアルグスは足腰が立たないほどに疲弊しているようであった。
おそらくはつい先ほど仲間の一人を、自分の手によって亡くし、そのことも含めて自分を責めていたこと。そしてここ数ヶ月のムカフ島関連の探索によって失った冒険者仲間や、守れなかった市民達……そのことで内心自分を責めていたのが、ここにきて一気に噴出したのだろう。もはや彼が立ち直ることは不可能にさえ見えた。
「だが俺の求めているものはこんなものではない。この先にあるものだ」
そう言って彼は自分のうなじ辺りを確認するようにゆっくりと撫でる。頸椎は重要な器官ではあるものの、しかし彼にとってはそれだけの部位ではない。「転生者」であるガスタルデッロにとってそこは「竜の魔石」を格納している、心臓や脳にも等しき重要な部位なのだ。
やがて彼は音孔に指を当てて優雅に笛を構えると、唄口に唇を重ねた。
――――――――――――――――
「もういいぞマッピ……手を放しても」
ドラーガさんはそう言うと両手でふさいでいた自分の耳から手を放した。というかまあ、実際には彼の言葉は耳を塞いでいた私には届いていないんだけど、彼が手を放したので私も耳から手を放す。
「いったい……何が起きたの?」
私とドラーガさんに倣って、アンセさんとクオスさんも同様にふさいでいた耳から手を放した。
「おそらくは……野風が発動した」
0
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説


元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。

[完結] 邪魔をするなら潰すわよ?
シマ
ファンタジー
私はギルドが運営する治療院で働く治療師の一人、名前はルーシー。
クエストで大怪我したハンター達の治療に毎日、忙しい。そんなある日、騎士の格好をした一人の男が運び込まれた。
貴族のお偉いさんを魔物から護った騎士団の団長さんらしいけど、その場に置いていかれたの?でも、この傷は魔物にヤられたモノじゃないわよ?
魔法のある世界で亡くなった両親の代わりに兄妹を育てるルーシー。彼女は兄妹と静かに暮らしたいけど何やら回りが放ってくれない。
ルーシーが気になる団長さんに振り回されたり振り回したり。
私の生活を邪魔をするなら潰すわよ?
1月5日 誤字脱字修正 54話
★━戦闘シーンや猟奇的発言あり
流血シーンあり。
魔法・魔物あり。
ざぁま薄め。
恋愛要素あり。
転生したら死んだことにされました〜女神の使徒なんて聞いてないよ!〜
家具屋ふふみに
ファンタジー
大学生として普通の生活を送っていた望水 静香はある日、信号無視したトラックに轢かれてそうになっていた女性を助けたことで死んでしまった。が、なんか助けた人は神だったらしく、異世界転生することに。
そして、転生したら...「女には荷が重い」という父親の一言で死んだことにされました。なので、自由に生きさせてください...なのに職業が女神の使徒?!そんなの聞いてないよ?!
しっかりしているように見えてたまにミスをする女神から面倒なことを度々押し付けられ、それを与えられた力でなんとか解決していくけど、次から次に問題が起きたり、なにか不穏な動きがあったり...?
ローブ男たちの目的とは?そして、その黒幕とは一体...?
不定期なので、楽しみにお待ち頂ければ嬉しいです。
拙い文章なので、誤字脱字がありましたらすいません。報告して頂ければその都度訂正させていただきます。
小説家になろう様でも公開しております。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。

どうも、死んだはずの悪役令嬢です。
西藤島 みや
ファンタジー
ある夏の夜。公爵令嬢のアシュレイは王宮殿の舞踏会で、婚約者のルディ皇子にいつも通り罵声を浴びせられていた。
皇子の罵声のせいで、男にだらしなく浪費家と思われて王宮殿の使用人どころか通っている学園でも遠巻きにされているアシュレイ。
アシュレイの誕生日だというのに、エスコートすら放棄して、皇子づきのメイドのミュシャに気を遣うよう求めてくる皇子と取り巻き達に、呆れるばかり。
「幼馴染みだかなんだかしらないけれど、もう限界だわ。あの人達に罰があたればいいのに」
こっそり呟いた瞬間、
《願いを聞き届けてあげるよ!》
何故か全くの別人になってしまっていたアシュレイ。目の前で、アシュレイが倒れて意識不明になるのを見ることになる。
「よくも、義妹にこんなことを!皇子、婚約はなかったことにしてもらいます!」
義父と義兄はアシュレイが状況を理解する前に、アシュレイの体を持ち去ってしまう。
今までミュシャを崇めてアシュレイを冷遇してきた取り巻き達は、次々と不幸に巻き込まれてゆき…ついには、ミュシャや皇子まで…
ひたすら一人づつざまあされていくのを、呆然と見守ることになってしまった公爵令嬢と、怒り心頭の義父と義兄の物語。
はたしてアシュレイは元に戻れるのか?
剣と魔法と妖精の住む世界の、まあまあよくあるざまあメインの物語です。
ざまあが書きたかった。それだけです。

おっさんなのに異世界召喚されたらしいので適当に生きてみることにした
高鉢 健太
ファンタジー
ふと気づけば見知らぬ石造りの建物の中に居た。どうやら召喚によって異世界転移させられたらしかった。
ラノベでよくある展開に、俺は呆れたね。
もし、あと20年早ければ喜んだかもしれん。だが、アラフォーだぞ?こんなおっさんを召喚させて何をやらせる気だ。
とは思ったが、召喚した連中は俺に生贄の美少女を差し出してくれるらしいじゃないか、その役得を存分に味わいながら異世界の冒険を楽しんでやろう!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる