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第三部 女王様の禁じられたよろこび

29*

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 最後に泣いたのはいつだっただろう。

 そうだ。やはり15歳のあの時が最後だ。それ以降、数えきれないくらい鳴いたり啼いたり哭いたり嘶いたりしてきたわけだが、そんな時の自分は牛や馬や鶏、時には豚だったりしたことはあっても、人ではなかった。悲しいと思って涙を流すことはただの一度もなかった。
 それで上等と高をくくっていた。


 私には父がいない。5歳まで父と呼んでいた男は母を捨てて他の女の下へ走った。以来、一度も会っていない。母は次から次へ男を取り換えながらも、私を一人で育てた。母を訪れる男たちが私を女として見始めていることに気付けば、いずれ何が起きるかは当然予測できたから、「然るべき成り行き」をいかに回避するか、そこに私は思春期の全力を割かなければならなかった。

 決して満足してはいないが、おおよその目的はなんとか達成できたと自負している。

 よくよく考えれば、今日まで私は奇跡的な隘路をくぐり抜けてきたのだ。


 GWを過ぎ、5月も終わりに近づいていた土曜日、上京してきた母と銀座で食事をした。私は焼肉は好きではないのだが、母がどうしてもと言うので、適当に選んだ店に入った。上京といっても、私の実家は都心まで電車で3時間という極めて中途半端なロケーションにある。つまり、すべてが東京の引力圏内にあり、地域の独自性から何から全部、「都」に収奪されていた土地だ。
 だから私のアイデンティティーは100%東京に帰属している。出身地は出生地という以外に何の意味も持っていない。

 母もまた、そういう土地の女として若い時代を収奪され尽くして47歳に至っている。久しぶりに私の顔を見たかったというのは口実で、実際は金をせびりに来たのだ。今年に入って3回目だった。

 これも育ててくれた恩返しと思って、母に会う時はいつも最初に30万円入った封筒を渡す。まず何より現金でなくてはならず、金額はこれ以上でも以下でもいけない。多ければ多いで浪費癖のある母はたちまち使ってしまうし、少ないのは私のプライドが許さないからだ。実際、私は大学入学後の学費や生活費はすべて自分で稼いできた。小中学校時代の、あの洗うがごとき赤貧は二度と思い出したくない。
 貧しいということはそれ自体が罪悪だ。金が無いのに生きているのは、単純に恥を知らないということでもある。

 いつものように何食わぬ顔で30万円入りの封筒をシャネルのバッグにしまい込んだ母は、メニューを見ながら「何にしようかしらねえ……」などと言っている。普段焼肉を食べない私は、オーダーを母に任せて烏龍茶を飲んでいた。

 母が不意にメニュー表から顔を上げた。

「あんたビールとか飲まないの?」
「私はこれ(烏龍茶)でいい」
「じゃ、私はビールもらうわ」

 ベルを鳴らして店員を呼び、瓶ビールにカルビとロースとタンと、後は野菜とスープを適当に頼んだ。私たちの間ではロースターが地獄のように赤熱して顔を焼く。私は焼肉のこれが何よりも耐え難い。あと煙。


 
 ビールが運ばれてきた。私が差し出した瓶をグラスに受けながら、母が上目遣いの視線を向けてくる。

「もう6社から内定貰ってるの? すごいじゃない」
「枯れ木も山のね、なんとかってやつ」
「でも、その中には本命の会社があるんでしょ?」
「まあね」
「お母さんに一社譲ってよ。一番下のとこでいいからさぁ」

 母の戯れ言に私は力の抜けた笑いを返す。母は地元でパート勤めをしているが、2カ月後に契約期間が切れる。既に3回契約を更新しているので次も大丈夫だろうと言っていたが、給与その他の条件で満足してるわけではなかった。

 バビロン製薬ならば案外話が通るかもしれない。箱根の別荘でプレイが大詰めを迎えた時、突然死したように装って私を慌てさせたお茶目な真朋常務(私の背中に乗っかっていたのは電源の切れた『コウイチ』だった)に相談すれば、何か適当な勤め口を紹介してもらえるかも。しかしそれは私の望むところではない。

 世の中には絶対に甘やかしてはいけない人間がいる。母はその典型だ。今、この人と社会的関係の上で距離を縮めるのは、私にとって危険以外の何物でもない。会うたびに30万円をせびる程度で満足させておくのが無難だと私は考えていた。

 ステンレスの皿2枚に盛られた肉が到着。ロースターに肉を載せていく母の目が輝き、焼肉についての講釈が始まる。

「あんた知ってる? 焼肉はね、この『サンチュ』って野菜にくるんで食べるのがおいしいのよ。これで野菜も一緒に食べれるから栄養バランスも取れてるし。野菜もしっかり食べなさいよ」
「ねえお母さん」
「何?」
「式はいつ挙げるの?」

 母が今の彼氏と結婚するという話は3月に聞いた。これが実現すれば私の父親を含めて4人目の夫ということになるが、今度の男は60歳に近い2代目商店主で、容姿もパッとせず、今までの旦那の中では一番低ランクらしい。しかし母は「愛し合っている」と言って譲らなかった。もちろん私は会ったことはない。

「年内にはって思ってるけど」
「暮れまで引っ張るつもり?」
「だってお互いいろいろ都合があるんだし。そんなに気になる?」
「うん。主にお金の面でだけど」

 一呼吸置いて肉を裏返し、改めて母の顔を見据える。 

「もう私を当てにしなくてもよくなるんじゃないかと思って」
「随分はっきりものを言うのね」
「何言ってんの。お母さんが幸せになってくれるなら、そっちも含めて大歓迎だって言ってるのよ」

 母は俯いて黙り込んでしまった。私は残り少ない母のグラスにビールを注ぎながら、言った。

「だから、これからはもう、こうやって会わずに済むでしょ?」

 私は少なからぬ期待を込めて、母の顔に視線を注いだ。母は縁ぎりぎりまで満たされたグラスをゆっくりと口に運ぶ。

「桜ちゃん」
「何?」
「私はあなたの母親よ?」
「分かってる。だから、私が忙しいことも理解してくれるはずだと思うの」

 母は視線を逸らして「何が忙しいのよ」と苛立たしげに呟いた。これが返答を要求しない独り言じみた呟きであることに私は満足し、黙ってカルビ3枚をロースターの上に並べる。肉の焼ける音と煙が上がった。



 6月に入ると蒸し暑さが増してきた。22歳になる誕生日5日前の晩、私は野平に呼び出された。


 今、ベッドで四つん這いになっている私の後ろで野平が腰を振っている。マムシ酒がよほど効いてるのか、この日は3回目にチャレンジしている。どうしてこいつらジジイは、意味もなく回数を重ねたがるんだろう?

「おい。俺のしつこさにはほとほとうんざりか?」
「いえっ……そんなことは、あんっ……」
「嘘つくな。アソコは口ほどにものを言うってな」
「もうしわけ、ございません」

 総務担当取締役は脂肪膨れした体を私の背中に乗せ、乳房を揉みしだきながら耳元で囁く。

「まだ極秘だが、レレレボに代わる次期避妊薬の治験を年内にやる。お前にも手伝ってもらう」
「ひ、それは、ほんとうに……うぁっ、そこだめ」
「本当だ。人事2課に俺の子飼いの女がいるから、そいつと連絡を取り合って」
「あん、いぃっ、き……きもち、いい」
「……被験者の人選やプラン作りをやれ。これは厚労省にも知らせず極秘でやる治験だ。いいか、調子に乗って吹聴するんじゃねえぞ。ひと言でも外部に漏らしてみろ。てめえを東南アジアの娼館に叩き売るからな。肝に銘じとけ!」
「は……いっ、ああんっ、駄目です、そんなに」

 野平はジジイとは思えぬ激しさで腰を打ち付けてきた。私は玉門から淫水を飛び散らせながら痴れ言をわめき、野平と同時にイった。ベッドに伸びた私の背後で、満足げな野平の荒い息が聞こえる。湿った太い指が汗ばんだ尻を撫でまわし、淫部に伸びてきた。陰核をまさぐられて腰から下が微かに痙攣する。

「少し休むぞ。30分経ったらもう一発だ」
「は……い」

 キョウの言葉が胸に甦る。「いくらでもジジイに抱かれろ! もっともっと変態になれ!」
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