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第三部 女王様の禁じられたよろこび

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 取締役営業本部長との戯れから6日。

 いつものように私はリクルートスーツ姿で家を出た。大学に寄り、ゼミの担当教授の部屋に顔を出して60過ぎの教授と軽く雑談をしてから、地下鉄で汐留のフタツ星薬品本社へ。玄関は通らず車寄せに出て、あらかじめ指定されていた番号のハイヤーに乗った。

 行き先は箱根の、バビロン製薬常務・真朋揚三が所有する別荘。旧華族家出身の夫人が相続した土地に真朋が建てたものと聞いた。

 実を言うと、都心を離れた別荘という話から私の脳裏には陳腐な漫画に出てくる古城のたたずまいが抗いようもなく浮上し、不覚にも少女のような期待に胸が躍った。とはいえ、車が神奈川県内に入るとじきに夜の帳が下り、スモークガラス越しに退屈な田舎の夜景を眺めているのは気が塞いだ。

 都心がどんどん遠ざかる。これでは革命勃発後に都落ちする女王の気分だ。

 思い起こされるのは我が宮廷の栄華の日々……。埒もない感傷に浸っているうちに峠道を越え、指定の場所に着いた時には午後9時を回っていた。


 私の目の前には、おとぎ話の古城には程遠いが、とりあえず施主のこだわりを実現させたらしい洋風の2階建て家屋があった。そこは林の中の傾斜地で、周囲に人家らしきものは見えず、もちろん人影もない。アーチ形の開口部を開けている南欧風のファサードに入る前に、私はざっと外観を観察した。

 白い外壁に、緑青の浮いた銅板葺きの屋根。2階の屋根の左側にヘタ付きの茄子のように立っている小塔は、単にメルヘンチックな外観を演出する以上の意味はないように思われる。
 正面の2階バルコニーは、銃眼のような二等辺三角形の孔を三カ所に穿った半円状の壁で囲まれ、小パーティーにでも使うのか、相当に広い。物干し台としては贅沢すぎる。バルコニーの奥には、三角形の破風の真下に取り付けられた照明が光を四方に投げ、建物の全体像を闇に浮かび上がらせている。

 2階左側に切られた縦長の二つの窓には、ステンドグラスの聖像画が内側からの灯りによって浮かび上がっている。もっとも真朋の家は浄土真宗らしいので、本人の信仰とは関係ないだろう。

 中に人がいるのは間違いないらしい。しかし大勢の客を集めてパーティーを催しているような雰囲気は微塵も感じられず、静まり返っている。

 背後でハイヤーがUターンして遠ざかっていった。

 とりあえずアーチを潜り、アンティーク調のポーチライトに照らされている玄関口に向かった。

 ファサード左右の壁際には、人の背丈ほどある台座に載った二つの白い頭像が、その間を通る者を威嚇するように向かい合っている。頭像は左が兜を被った古代ギリシャの戦士、右が二つの顔を持つヤヌス。正直、趣味が良いとは思えない。
 玄関の頑丈そうな木のドアには、ロココ様式というんだろうか、優美で繊細な細工が施され、施主の執心ぶりを窺わせた。インターホンを鳴らすと、ドアの奥でベルの鳴る音が響き、ほんの一秒ほどで「どうぞ」と男の声が返って来た。来客向けの丁寧な声色を聞いて緊張が少し和らいだ私は、把手に手をかけてドアを引いた。

「お待ちしておりました」

 磨き立てられた上がり口の床に、紺のスーツを着て安物のネクタイを締めた30歳くらいの男が正座している。私は就活生モードを崩すことなく「観月です。よろしくお願いいたします」と、型通り腰から上を曲げて挨拶した。

 体を起こした私と視線が合うと、男は「私はフタツ星の田所といいます」と言って、こぼれ落ちるような微笑を浮かべて軽く頷く。汎用性抜群の営業スマイルが顔に貼り付いて、剥がそうにも手遅れになって剥がせない、そんなタイプに見える。

 それにしても、木の床に正座させられている姿は見ているだけで痛々しい。たびたびこんな姿勢を取らされては安物のスラックスの膝がすぐに伸びるだろうと心配になるのだが、これはジャパニーズ・ビジネスマンという生涯続く被虐プレイの、ごく微細な一部にすぎない。

「今夜は私が案内をいたします。どうぞお上がりください」

 男が立ち上がろうとして目を逸らした時、ストラップで首からぶら下げているフタツ星薬品の社員証を私は素早く読み取った。営業2課課長補佐の田所登志也とあった。


 
 先週3万2千円で買ったパンプスを脱ぎ、黒褐色に磨き立てられた板の間に上がった。靴の先を戸口に向けて揃えて立ち上がると、田所が無表情に「こちらへ」と廊下の奥を指し示す。私は営業2課補佐の後ろに続いて廊下の奥へと進んだ。

 廊下の右側は襖と障子、左側には華美な装飾を施した両開きのドアがあるが、障子の内側は暗く、左右どちらからも物音は聞こえない。突き当たりを左に曲がったところに2階へ上がる階段があった。前に立つ田所は無言でその階段を上がっていく。

 途中で右に折れた階段を上がった先に、4メートル四方ほどの踊り場があった。左側はカーテンを閉め切った腰高窓、右手には重そうな金属製のドアがある。窓は建物の裏側に面しているらしかった。田所はポケットから鍵束を出し、ほとんど迷いもせず一つの鍵を選んで鍵穴に差し込んだ。

 重い開錠音が響いた。田所は把手を回してドアを押し開け、「少々お待ちを」と言って暗い室内に入った。壁際を探るうちにスイッチが見つかり、室内に照明が灯った。

「どうぞ」
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