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第一部 イケメン課長の華麗なる冒険
役員室に呼ばれる②
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野平の個室の前に立つ。2回ノックすると、中から「どうぞ」とだみ声が返ってきた。風間がドアを開けた先では、頑丈そうな木製のデスクに陣取ったハゲの肥満体が書類に目を通していた。
「失礼します」
「うん。そこに掛けて」
肥満体の男は書類から顔を上げずに、デスク正面の応接セットを指差した。
風間は素直に従って、デスクに一番近いソファの端に腰を下ろした。野平が立ち上がって、応接セットのテーブルを挟んで風間の正面に座った。
フタツ星薬品の総務担当取締役、野平康の風貌をひと言でいうなら「ヒキガエル」だ。頭髪は後頭部を残して禿げ上がり、全身を余分な脂肪が分厚く覆っていて、体重は100キロを超えていそうにも見える。ヒキガエルでなければ、スターウォーズに出てくるジャバ・ザ・ハットがスーツを着ているとも言えるかもしれない。
だが、社内で不用意にこの男のことをヒキガエルとかジャバと呼んだりすれば、翌日には当人の耳に入っていると噂されている。そしてその後には、地方営業所行きの辞令+ドサまわりの人生が待っている、とも。
にもかかわらず、なぜかこの男の悪口を声高に吹聴する者がいる。本人から暗黙の了解を得てその役回りを演じている者たちだ。野平の意を受けた者が煽動目的で親分をこき下ろし、同調したお調子者をブラックリストに載せるのである。こういう手法は組合運動が盛んだった頃よりさらに昔からこの会社に伝わってきたものだが、総務担当役員まで上り詰めたこの男も、それを忠実に踏襲していた。
そして野平子飼いの者が誰なのかは、入社10年くらいの経歴を経ないと到底見破れない。自分の注意力は万全だと高をくくっていると、思いもかけなかった者に足をすくわれる。社内の監視体制はそのレベルまで練り上げられていた。
風間は隙のない微笑を口の端に浮かべて、総務担当役員の言葉を待った。野平は探るような視線を1、2秒風間の顔に向けてから、口を開いた。
「最近どうだ。忙しいか」
「そうですね、……きりがない話なんですが」
風間は、自分の所掌する管理部門が、営業や開発といった部署ごとの「文化」とぶつかり合う場面が多くなり、その調整が非常にややこしくなっているという現状を、実例を交えながら説明した。最前線の部隊には部隊なりの矜持もあろうが、司ごとに「タコツボ」化してはいないか。グローバリゼーションや価値観の多様化を十分認識できているのか──かなり手垢がついてはいるが、そんな持論も展開した。
「なるほどな。昨今、サイバーテロ対策とかいろいろ厄介にはなってきた」
「まさにそれです。下手をすれば法務室の案件です」
「ガバナンス」と言いかけたところを、とっさに「法務室」と言い換えた。野平は無表情に腕組みをしているだけだった。
「厄介な話もいいが、君。何か面白い話でもないか?」
「面白い話なら、それはもういくらでもあります」
風間は、完全無欠のイケメンサラリーマンぶりを最大限に発揮することに決め、白い歯を輝かせながら、34歳のやり手課長にふさわしいと自分で確信している答え方をした。
「ほう。たとえば?」
「今朝、私の課の契約社員が休みたいと言ってきたんですが……」
「失礼します」という声とともにドアが開き、盆に緑茶を載せた真貴子が入ってきたため、風間は話を中断した。自分と野平の前に茶碗を置いて真貴子が出て行くのを待ってから、再開した。
風間は、小野寺沙希がアフターピルを規定より1錠多く服用してしまった話を野平に聞かせた。にこりともせずに聞き終えた野平は、立ち上がって自分のデスクに戻ると、引き出しから取り出した「レレレボ」のパッケージを仔細に眺め回しつつソファに戻ってきた。
「ふん……。こりゃ確かに分からんな! リニューアルしたばかりなんだから、もっとでっかい字で箱の表にでも注意書きせんと。『1回の服用量は2錠です!』。そう思わんか?」
「そのことは、営業本部でも多少議論されたらしいです」
「予想はしてたってわけだな」
「ええ。……しかし、間違えて3錠服用しても、カスタマーはいつもの副作用と体感するだけだから、特に問題にもならないというのが販促室の見方で。ことさら注意書きを大書して、その……商品の回転にブレーキをかけるのもどうか、という判断があったんじゃないでしょうか。定価も33%引き上げたことですし」
「それは君の推測か? それ以上の根拠はあるのか?」
風間は笑顔をワンランクアップさせるべく白い歯を見せる。
「もちろん、推測です」
「要するに君の印象か」
「報告書の記述から見て、それで間違いないでしょう」
「多岐沢はどう思ってるんだろうな」
それは特段風間の答えを求めたわけでもなく、独り言のようにも聞こえた。取締役営業本部長である多岐沢伸一郎が、そんな瑣事にまで 嘴を挟むとも思えない。風間はこう答えておいた。
「多岐沢さんとしては、販促室の判断にご一任ではないかと思います」
多岐沢は入社年次では野平の三つ下だが、野平とは対照的なナイスミドルのオジサマで女子の人気も高い。そしてこの二人は、次期専務の座をめぐってライバル関係にある。常務は「行き止まり」ポストなので、専務には平の取締役から昇格するのが慣例であり、そして専務と副社長が社長への最終ステップとみなされている。
「どちらにしても箱書きには2錠と書いたわけですから、社の責任にはなりません」
「そりゃそうだ」
市中に流通する医薬品は、ドラッグストアや薬局で自由に買える市販薬と、医師が患者向けに処方する医療用医薬品に大別される。もともと市販薬専門だったフタツ星が医療用にも事業を拡大したのは12年前で、まだ技術的基盤が十分とは言えない。そんな事情もあり、フタツ星は国の承認を受けて日が浅い「レレレボ」を商品化する際、医療用医薬品専門の「バビロン製薬」から技術提供を受けていた。
アフターピルが通販でも入手できるようになって久しいが、あえてフタツ星がこれに手を伸ばしたのは、近い将来市販薬として認可されることも視野に入れた戦略があった。それだけに、思わぬ事故には神経をとがらせざるを得ないのだった。
重そうな体を背もたれに押しつけて、野平は足を組む。ズボンがはちきれそうに見えるが、総務担当役員が履くズボンはそう簡単に裂けたりはしない。そしてレレレボの箱を応接セットのテーブルに放り出し、つまらなそうな視線を風間に向けてきた。
「君自身の面白い話はどうだい?」
「失礼します」
「うん。そこに掛けて」
肥満体の男は書類から顔を上げずに、デスク正面の応接セットを指差した。
風間は素直に従って、デスクに一番近いソファの端に腰を下ろした。野平が立ち上がって、応接セットのテーブルを挟んで風間の正面に座った。
フタツ星薬品の総務担当取締役、野平康の風貌をひと言でいうなら「ヒキガエル」だ。頭髪は後頭部を残して禿げ上がり、全身を余分な脂肪が分厚く覆っていて、体重は100キロを超えていそうにも見える。ヒキガエルでなければ、スターウォーズに出てくるジャバ・ザ・ハットがスーツを着ているとも言えるかもしれない。
だが、社内で不用意にこの男のことをヒキガエルとかジャバと呼んだりすれば、翌日には当人の耳に入っていると噂されている。そしてその後には、地方営業所行きの辞令+ドサまわりの人生が待っている、とも。
にもかかわらず、なぜかこの男の悪口を声高に吹聴する者がいる。本人から暗黙の了解を得てその役回りを演じている者たちだ。野平の意を受けた者が煽動目的で親分をこき下ろし、同調したお調子者をブラックリストに載せるのである。こういう手法は組合運動が盛んだった頃よりさらに昔からこの会社に伝わってきたものだが、総務担当役員まで上り詰めたこの男も、それを忠実に踏襲していた。
そして野平子飼いの者が誰なのかは、入社10年くらいの経歴を経ないと到底見破れない。自分の注意力は万全だと高をくくっていると、思いもかけなかった者に足をすくわれる。社内の監視体制はそのレベルまで練り上げられていた。
風間は隙のない微笑を口の端に浮かべて、総務担当役員の言葉を待った。野平は探るような視線を1、2秒風間の顔に向けてから、口を開いた。
「最近どうだ。忙しいか」
「そうですね、……きりがない話なんですが」
風間は、自分の所掌する管理部門が、営業や開発といった部署ごとの「文化」とぶつかり合う場面が多くなり、その調整が非常にややこしくなっているという現状を、実例を交えながら説明した。最前線の部隊には部隊なりの矜持もあろうが、司ごとに「タコツボ」化してはいないか。グローバリゼーションや価値観の多様化を十分認識できているのか──かなり手垢がついてはいるが、そんな持論も展開した。
「なるほどな。昨今、サイバーテロ対策とかいろいろ厄介にはなってきた」
「まさにそれです。下手をすれば法務室の案件です」
「ガバナンス」と言いかけたところを、とっさに「法務室」と言い換えた。野平は無表情に腕組みをしているだけだった。
「厄介な話もいいが、君。何か面白い話でもないか?」
「面白い話なら、それはもういくらでもあります」
風間は、完全無欠のイケメンサラリーマンぶりを最大限に発揮することに決め、白い歯を輝かせながら、34歳のやり手課長にふさわしいと自分で確信している答え方をした。
「ほう。たとえば?」
「今朝、私の課の契約社員が休みたいと言ってきたんですが……」
「失礼します」という声とともにドアが開き、盆に緑茶を載せた真貴子が入ってきたため、風間は話を中断した。自分と野平の前に茶碗を置いて真貴子が出て行くのを待ってから、再開した。
風間は、小野寺沙希がアフターピルを規定より1錠多く服用してしまった話を野平に聞かせた。にこりともせずに聞き終えた野平は、立ち上がって自分のデスクに戻ると、引き出しから取り出した「レレレボ」のパッケージを仔細に眺め回しつつソファに戻ってきた。
「ふん……。こりゃ確かに分からんな! リニューアルしたばかりなんだから、もっとでっかい字で箱の表にでも注意書きせんと。『1回の服用量は2錠です!』。そう思わんか?」
「そのことは、営業本部でも多少議論されたらしいです」
「予想はしてたってわけだな」
「ええ。……しかし、間違えて3錠服用しても、カスタマーはいつもの副作用と体感するだけだから、特に問題にもならないというのが販促室の見方で。ことさら注意書きを大書して、その……商品の回転にブレーキをかけるのもどうか、という判断があったんじゃないでしょうか。定価も33%引き上げたことですし」
「それは君の推測か? それ以上の根拠はあるのか?」
風間は笑顔をワンランクアップさせるべく白い歯を見せる。
「もちろん、推測です」
「要するに君の印象か」
「報告書の記述から見て、それで間違いないでしょう」
「多岐沢はどう思ってるんだろうな」
それは特段風間の答えを求めたわけでもなく、独り言のようにも聞こえた。取締役営業本部長である多岐沢伸一郎が、そんな瑣事にまで 嘴を挟むとも思えない。風間はこう答えておいた。
「多岐沢さんとしては、販促室の判断にご一任ではないかと思います」
多岐沢は入社年次では野平の三つ下だが、野平とは対照的なナイスミドルのオジサマで女子の人気も高い。そしてこの二人は、次期専務の座をめぐってライバル関係にある。常務は「行き止まり」ポストなので、専務には平の取締役から昇格するのが慣例であり、そして専務と副社長が社長への最終ステップとみなされている。
「どちらにしても箱書きには2錠と書いたわけですから、社の責任にはなりません」
「そりゃそうだ」
市中に流通する医薬品は、ドラッグストアや薬局で自由に買える市販薬と、医師が患者向けに処方する医療用医薬品に大別される。もともと市販薬専門だったフタツ星が医療用にも事業を拡大したのは12年前で、まだ技術的基盤が十分とは言えない。そんな事情もあり、フタツ星は国の承認を受けて日が浅い「レレレボ」を商品化する際、医療用医薬品専門の「バビロン製薬」から技術提供を受けていた。
アフターピルが通販でも入手できるようになって久しいが、あえてフタツ星がこれに手を伸ばしたのは、近い将来市販薬として認可されることも視野に入れた戦略があった。それだけに、思わぬ事故には神経をとがらせざるを得ないのだった。
重そうな体を背もたれに押しつけて、野平は足を組む。ズボンがはちきれそうに見えるが、総務担当役員が履くズボンはそう簡単に裂けたりはしない。そしてレレレボの箱を応接セットのテーブルに放り出し、つまらなそうな視線を風間に向けてきた。
「君自身の面白い話はどうだい?」
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