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終章 約定

鵯 完

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 聖往学園の生徒会室をノックし、返事を待たず高鳴る胸を抑えながらドアを開ける。10日前ここに入った時と同様、机の奥に生徒会長・水際佳恵様が座っている。俺は足早に歩み寄り、脇に抱えていた日輪高校長の感謝状を、手のひらが痛くなる勢いで彼女の目の前に叩き付けた。

「みっしょん……」

 だが、俺の行動は読まれていた。

 水際様は俺が言い終える機先を制し、「おめでとう!」と瞳いっぱいにお星様を散りばめて立ち上がった。足早に机を回って俺の正面に立つなり、「はっぐー!」と叫んで両手を広げて飛びかかってきた。

 そのままハグされるかと思ったが、生徒会長は俺の鼻先でピタリと動きを止めた。両手を広げたまま俺の顔を怪訝そうに見つめる。

「なに、あなた。その冷たい反応は」
「……何のことでしょう?」
「とぼけても無駄。この私が祝福のハグをしようとしてる瞬間にその大人ぶった冷淡さは何? チェリーボーイ特有の気後れが全然感じられないじゃないの! ねえ怒らないから教えなさいよ、たった10日のうちに何があったの? この私に断りもなく、転校ごっこを機にちゃっかり大人への階段を上がったんでしょ? 素直に認めたらどう?」
「な、何を認めろと」

 鼻息がかかりそうな距離で俺を凝視する生徒会長の顔に、不気味な笑いが広がっていく。

「とぼけるつもりね。いいわよ、日輪高校に連絡を取って徹底的に調査してもらいたいなら、そのつもりでいれば」

 ようやく生徒会長はハグ突入の体勢を解いた。しかし椅子まで戻っていく間も、試合中のボクサーのように俺の顔から目を離さない。

「どういう調査ですか」
「ああ、冗談だから忘れて。ところで座光寺君、今の生徒会は定数2の副会長が一つ空席になってるんだけど、あなたやってみる気ない?」
「遠慮します」
「あっさり二つ返事ね。どうせ帰宅部なんだから暇でしょ? そんなに財部君としっぽり過ごす時間が大切なの?」
「いやあ、『しっぽり』はありませんねえ」

 無事に帰って来れたという気持ちの余裕だろうか、この程度のことを言われても笑って流せるし、楽しいとさえ感じる。水際さんは軽く頷いて、感謝状に目を落とした。

「まあ、時間はあるし考えといてよ。とにかく、ご苦労さまでした」
「いえいえ。どういたしまして」

 かくして、和やかな雰囲気のうちに俺は生徒会室を出たのだった。


 それから数日後。


 俺はいつものように財部と一緒に下校し、途中で例の河川敷に立ち寄った。

「なあ」

 財部が空を見上げながら、俺に言う。

「たとえ『根元まで入った』としてもだ」
「うん」
「フィニッシュできなかったら、まだ童貞だよな?」

 いつの間に「意中」の江上さつきとそんなところまで進んだんだよお前。そんな呪詛、いや軽口を叩く代わりに、少し考えて「違うだろ」と答えた。

「フィニッシュもクソもあるか。そこまで行ったら覚悟決めろ。お前らもう夫婦だよ」
「夫婦かよ」
「だよ!」

 自分の耳で感じる以上の大声を出したのだろうか、財部が怪訝そうな表情で見ている。そんな自分を情けないと思って俺はため息をつく。

 だが続けてこんな言葉が出たのは、照れ隠しではなかったと確信を持って言える。

「世界は美しいよな」

 近くにあるベンチは今日も空席だった。季節は春から初夏へ移り行こうとして、空気中の水蒸気を増やしつつある。財部は下を向いて、芝生の一点を見つめていた。

「美しいと思うのか」
「お前は違うのか?」
「『美しい』って感じるのは、それ専用の色眼鏡を使ってるからだろ」

 財部は顔を上げない。俺は俺で、空を見上げたまま「未来のジャーナリストの思考はすさんでんな」と嫌味を言った。俺に反応を示すでもなく、財部は下を向いたまま持論を続ける。

「関係ねえよ。地獄だと思いたい時には地獄の、極楽だと思いたい時にはそれ用の色眼鏡掛けるのが人間だ」
「お前は常時、地獄専用か」
「かもな。少なくとも後悔せずに済む」

 俺は心の中で呟く。お前、いつまで地獄にいる気だよ。さっさと抜け出して極楽モードになれよ。眼鏡換えるだけなんだから簡単だろうがよ。

 財部に気付かれぬよう、右手の小指を見る。存在が滅し去っても約定は消えない。「神の名パスワード」と同じように。この約定の印が「ある限り」、今生であれ来世であれ、婢鬼は必ず俺の前に姿を現す。それまでの間、どんな女性に出会ってどんな恋愛をしようとも、それは「運命の女」に昇格した婢鬼が訪れるまでの、さざ波のような出来事に過ぎない。彼女が半ば力ずくで手中にした運命が成就するまで、気の遠くなるほど長い時間が必要だとしても。

 何なんだろう、この分かりやす過ぎるストーリーは。

 それは婢鬼自身にも似て息苦しく暑苦しく、「ゴンゲンサマ」の根元にあった依代のように途方もなく重い。このストーリーから抜け出すためのパスワードがあるとしても、俺はそれを知らない。だが、重いだの息苦しいだのと嘆くことの酷薄さを、少なくとも俺は本件で学んだ。小指の歯形は、その学んだ証だ。にもかかわらず「この状況を耐え忍ぶのに何が必要なのか」などと思わずにもいられない。

 きっと、みんな小さいことなのだ。嫋姉様が口にした周易の一節を、心に唱えてみる。至れる哉坤元、万物資りて生ず。乃ち順いて天を承く。


「俺さ、今度の件で思ったんだけど」
「うん?」

 何かを予感したのか、ようやく財部が顔を上げた。

「親父の後を継ぐの、やめらんねえかなって」
「どうしたよ」

 財部の顔は笑っていた。俺を相手の真面目な話にかつえていて、胸襟を開いてくれたことを素直に喜んだのかもしれない。それを俺は、正直に「すまない」と思った。

「なんで……いや。きっと神経が持ちそうもないからだろう」
「世の中の仕事なんてそんなのばっかだぜ。甘えだよ」
「そうか」
「そうだ。まあ、いきなり世間並みの荒事に首突っ込んだんだからしおれるのも無理ねえだろうけどさ」
「別に萎れちゃいねえよ。たださ……」

 大きな声で叫びたかった。若者らしく堂々と。だが少し考えて、ゆっくりと、呪を唱える心持ちで続きを吐き出した。

「世界を美しいって思うのは『権利』だろ?」

 財部は再び芝生に目を落とし、答えない。俺は続けた。

「美しいものを美しいと思いたい時にはよ、絶対に譲っちゃいけないだろ。誰かが地獄用の眼鏡を無理矢理掛けさせようとするなら、地面に叩き付けて、目茶目茶に踏み潰すしかねえんだよ!」

 唐突な俺の勢いに驚いたのか、財部が顔を上げるが、俺の方を向くのではなく前を見ている。視線の先の対岸にはたたずむ人もいない。

「二度と使えねえようにか?」
「そうだよ!」

 財部の横顔が緩み、そうだな、という呟きがヒヨドリの声と重なった。寂しげな笑いを表情に残したまま、腐れ縁の親友は顔を落とし、そうだなと繰り返した。

(了)
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