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6 炎の谷

宝剣

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 煮えたぎる溶岩の層を通過し、火口の外に出た。相も変わらず黒煙と火の粉が立ち込める地獄を、≪此方へ≫は出口を知っているかのように一直線に進み続けた。

 やがて≪此方へ≫は上昇に転じた。白一色の空が次第に青みを帯び、日差しが強くなる。遂に日輪が見えた。≪此方へ≫はその方向へ向かっていく。太陽に飛び込むつもりかと思った瞬間、視界が暗転した。

 「ゴンゲンサマ」の祠から飛び出すと、既に周囲は夜の帳が下りていた。黒々としたクスノキの巨樹が眼下に遠ざかり、フェンスの向こうには校舎が月光の中で翳っている。しかし≪此方へ≫は校舎など一顧だにする気配もなく、ぐんぐん遠ざかっていく。

 懐かしくさえ思えるS市の夜景が眼下を流れていった。それは哀しげに美しかった。俺は夜を行く孤独な悪龍だ。

 もし、手を繋いで夜間飛行にうつつを抜かす、お約束ファンタジー真っ最中のカップルが近くにいるのなら警告しておく。幸せに包まれて夜景を楽しむのは勝手だが、俺に近寄るな。暗黒面に堕ちた悪龍の悲しみに呑み込まれたくないのなら。

 二人そろって爆散するくらいでは済むまいぞ。


 ……それにしても、宝剣を追った婢鬼はどこまで行ったのだろう? 金色の3文字はただ一直線に進んでいく。

 はるか前方に海が見えてきた。≪此方へ≫は速度を緩めない。とうとう海岸線を通過して海面上へ出た。≪此方へ≫は高度を下げ、俺たちは月光の反射する海面を這うように飛び続けた。月光の中、遠く近くに船の輪郭が黒く浮かび上がるが、やがてそれらも見えなくなった。

 心細く思えるほど陸地を離れた時、≪此方へ≫は速度を緩め、旋回を始めた。海中の位置を探っているらしい。しばらくして少し高く舞い上がってから、≪此方へ≫は海面へ飛び込んだ。俺も後に続いた。

 月の光も届かぬ海中の闇を、婢鬼の形見はどこまでも深く潜っていく。だが、旅も終わりを迎えたらしい。彼女が残した黄金色の言の葉は下降の速度を緩め、それに応じて少しずつ輝きを失っていく。


 とうとう、婢鬼の名残は闇の中へ溶暗した。そこが海底だった。

 何かがうっすらと岩盤の上に立ち上がって揺れている。人の形をしているようだった。白い衣を纏い、目の下と頬に入れ墨が入っている女だ。俺は龍の身体をそのまま彼女の正面に立てて尋ねた。

「あなたが、志於綾井か」
「いかにも」
「なぜこのような場所におられるのか、仔細をうかがいたい」
わたしは、1300年前よりここにいる」
「それは存じませなんだ。ここから西方はるかに離れた丘で、あなたの一族が眠っている。そこへまいりましょう」

 綾井の霊は海藻のように揺れて笑った。

「いまさら、その地におもむく必要などない。禁じられた神の名を口にしたがゆえに、眠りを覚まされし幾千の者どもが地の底より噴き出たのは知っておる。それを見よ」

 綾井がわずかに青白い右手を持ち上げ、斜め横を指し示す。その指の先の岩盤の上に、横たわる二つの身体がぼんやりと浮かび上がった。久目が橘幸嗣の腰にうち跨り、御曹司の背中から自分の胸まで宝剣を貫き通している様子が映しだされ、ほどなく消えた。

「我が侍女は、斯様に思いを遂げた。罪深き男は討ち果たされたが、これのみにては荒ぶるものどもを鎮めることはできぬ」
「いかにも、お言葉の通りにございましょう。『名を呼ぶまじき神』のお怒りを、鎮め参らせぬ限りは」
「左様」
「いかようにいたさば、お鎮まり給われますか」

 闇にほの白く揺らめく姿から、不可思議な波動が伝わってくる。何の根拠もなかったが、俺はその瞬間に淳土呂の巫女が笑ったのだと信じた。

「神は川沿いの地より龍王台へ動座なされた。もはやその場より動き給うことはあり得ぬ。愚かな者が、禁じられた御名を発したがゆえ、かの者たちが縛めを放たれ表へ噴き出した。それゆえ、禁じられた御名はもはや無効である」
「無効……と申されますか」
「左様。この上は、新たな御名を発するを以て、神も新しくならざるを得ぬ」

 龍の「開いた口が塞がらない」顔とはどんなものだろう? 鏡があったら見たいものだ。いやはや、こういう仕組みだったとは。


 つまり巫女は、システムの管理者アドミニストレーターとしてパスワードの発行権を持ち、事実上「名を呼ぶまじき神」の上位者だったことになる。そのパスワードを久目が盗み、これを知った西塔が橘幸嗣に会わせるとの条件で聞き出して〝パンドラの箱〟を開いたのだ。それにしても、「名を呼ぶまじき神」とは言い得て妙という以前に、寒気がするほど身も蓋もない話ではないか。

「我はこの場を動けぬゆえ、そこもとがおかんなぎの役を承るがよかろう。その覚悟はあるか」

 座光寺家の跡取りとして様々に儀式諸般を教えられてきた俺だが、正直なところ巫術には不案内だ。だが、状況に応じて人間は常に想定外の立場に置かれる。むしろ、よほどのまぐれでもない限り、自慢のスキルを生かせるような機会は万に一つもない。人生とはそういうものらしい。

 俺は、承りましたと答えた。

「ならば此方へ参れ。……いかがした? もそっと近う」

 綾井との距離が分からなかったので、俺は龍の尾を少し強めに振って彼女の前に進み出た。

 鼻息がかかりそうなくらい綾井に近づく。焦点の定まらない、盲人特有の瞳。両手が持ち上げられ、探るように龍の首を確かめる。彼女の顔が傾き、耳元に口を当てられた。

 彼女の口は、それぞれ四つの音節からなる二つの「名」を告げた。先に告げられた古い「名」を破棄し、2番目に書き換えろという趣旨である。

 綾井の顔が俺の耳元を離れ、正面に戻った。

「『権現』の根の下に祠がある。その中に収められている依代を、新しい『名』に変えたのちに確と封印せよ。これにて終いとなる」
「承知した。必ずやお言葉の通りに」

 改めて巫女の顔を見つめた。あなたは、の地の皆と一緒にいることはできないのですか? 青二才が軽率な問いを発する前に、海水に揺れ動く彼女の顔に表れる悲哀はいっさいをきっぱり拒んでいた。悲しいと言う代わりに、涙を見せる代わりに、俺はもう一度彼女に近づいて、龍の短い腕を伸ばして彼女を抱擁した。かすかな戸惑いが、鱗に覆われた皮膚から身中へ伝わってくる。

 そして、巫女の背中に回した俺の手には宝剣が握られている。

 この剣を彼女の背に貫き通すのが俺の本来の役目だ。綾井も覚悟していただろう。だが、俺の手は剣を固く握り締めたまま動かなかった。

 巫女の背を励ますように叩いてから、俺は龍体を離した。
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