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6 炎の谷
承天
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後ろから眺める嫋姉様の背はいかにも小さく、儚げだった。常日頃は高みに奉戴していたからそう感じるのかもしれないが、今の儚さが胸に迫って、何とも形容しがたい悲しみを呼び起こす。
「この地は呪われし怨霊の巷にございます。手前が出口まで案内いたしますゆえ、なにとぞこの場はお引き払いくだされませ」
嫋姉様は振り返り、事もなげにおっしゃられた。
「我はここにて入滅いたす。左様心得よ」
「な……何を申されまするか」
絶句する俺を、嫋姉様は「騒ぐでない」と制した。
入滅とは、滅霊師の間では霊として自ら滅びることを意味する。嫋姉様は落ち着き払っておられたが、俺は惑乱するあまりその場でよろめき、立っているのが精いっぱいという見苦しいありさまをさらした。
しかも、自分ごとき者が慰めの言葉をかけていただくなど、あって良いことだろうか。
「大袈裟な顔をいたすな。時至らば『滅』は必ず人に訪れる。如鬼神たる我もまた同じ」
「何ゆえ、今なのでございます。至らざれど手前は、一心にお仕えしてまいりました。なぜ斯様にも酷いお話を」
「爾には心が残る。相済まぬと思うておる。されど時は満ちた。これは爾の此度の働きとは関わりがないことゆえ、ゆめゆめ心得違いを致すな。……『彖に曰く、至れる哉坤元、萬物資りて生ず。乃ち順いて天を承く』。我とて坤元より生じたれば、そのうちを廻るのみ。すなわち『滅』は爾らの怖れる『死』に非ず……。よいか座光寺。我はこれより後も、常に爾の側におる」
嫋姉様が歩み寄って来られた。黒煙と火の粉がこのあたりにも激しく立ち込めるようになってきた。偉大なる如鬼神様は涙に濡れる俺の頬に手を触れ、微笑んだ。その袖口には黒い数珠が下がっている。
嫋姉様の背が、俺より頭一つ分低いことを今さらのように驚く。頭巾の中から見上げておられるお顔を、俺は終生忘れまいと目に焼き付けた。
「父が」
「うん?」
「お世話になったと申しておりました」
「左様か。あれも立派になった」
小さな御手が、俺の頬を離れていく。ゆっくりと背を向けるその姿を追うことは許されない。見苦しい振る舞いに及ぶのを恐れ、俺はその場に膝を着くしかなかった。
「見よ」
嫋姉様の指差す先には、なだらかな円錐の形をした火山が靄の彼方にうっすらと見え、盛んに灰色の煙を上げている。時折、濃い橙色をした炎も煙の中に垣間見える。
「今際のきわに巫女は、おのが神に向けて叫んだ。『なぜ生きながら身を焼かれねばならぬか』と。かかる問いには、答える仏もおらぬ。ゆえに今も山があのように火を噴き上げ、哭き叫んでおるのだ。あさましいと思うか、爾」
返す言葉に窮していると、不意に嫋姉様は振り向き、恐らく生涯忘れ得ぬ穏やかな笑顔をお見せになった。小さく「まあ、よい」と仰せの後、再び前を向かれる。
庵を指して歩み去る嫋姉様の背から、温かくも厳しいお声が発せられた。
「泣くな座光寺。笑え。笑わねば生きてゆけぬぞ!」
板戸を開けて、その尊い御姿は中の暗がりに消えた。笑えとのお言葉も忘れて俺は草の上に両手を着き、力なく頭を垂れる。
地響きが四方を揺るがし、庵の先の霞の彼方に、巨大な噴煙の柱が上がった。火山弾と火の粉が激しく舞い落ち、黒煙が一層濃く立ち込める。程なくこのあたりも火の海となるだろう。
藁を葺いた屋根に火の手が上がった。庵はたちまち炎に覆い尽くされ、俺の目の前で火焔の塊と化した。俺は泣きじゃくりながら、その燃えさかるさまを見つめた。炎の中から「確と見届けよ」と嫋姉様が言っておられるのだが、遂に耐えられなくなりその場にひれ伏してしまう。
地面を拳で叩きながら、俺は号泣に身を任せた。
……どれほどの間、俺はそうしていたのか。顔を上げると、目の前では滅しつつある嫋姉様の魂魄さながらに、庵が炎を噴き上げ続けていた。俺は立ち上がり、涙を拭って足を前に踏み出した。
炎上する庵の正面で手を合わせ、その横を通り過ぎた。彼方の山は火と煙を噴き続けている。俺は目を閉じて印を結び、その場で龍体に変生する。尾を一振りして空に舞い上がった。
日輪は何処にありや。上空はどこまでも白く分厚い雲が覆い、僅かな切れ目も見えない。あるいは、青空のない世界なのかもしれない。
俺は、遠くで火柱と黒煙を噴き上げる火口を目指した。嫋姉様をお救いできなかった上は、せめて婢鬼だけでも連れ戻さなければ。
「この地は呪われし怨霊の巷にございます。手前が出口まで案内いたしますゆえ、なにとぞこの場はお引き払いくだされませ」
嫋姉様は振り返り、事もなげにおっしゃられた。
「我はここにて入滅いたす。左様心得よ」
「な……何を申されまするか」
絶句する俺を、嫋姉様は「騒ぐでない」と制した。
入滅とは、滅霊師の間では霊として自ら滅びることを意味する。嫋姉様は落ち着き払っておられたが、俺は惑乱するあまりその場でよろめき、立っているのが精いっぱいという見苦しいありさまをさらした。
しかも、自分ごとき者が慰めの言葉をかけていただくなど、あって良いことだろうか。
「大袈裟な顔をいたすな。時至らば『滅』は必ず人に訪れる。如鬼神たる我もまた同じ」
「何ゆえ、今なのでございます。至らざれど手前は、一心にお仕えしてまいりました。なぜ斯様にも酷いお話を」
「爾には心が残る。相済まぬと思うておる。されど時は満ちた。これは爾の此度の働きとは関わりがないことゆえ、ゆめゆめ心得違いを致すな。……『彖に曰く、至れる哉坤元、萬物資りて生ず。乃ち順いて天を承く』。我とて坤元より生じたれば、そのうちを廻るのみ。すなわち『滅』は爾らの怖れる『死』に非ず……。よいか座光寺。我はこれより後も、常に爾の側におる」
嫋姉様が歩み寄って来られた。黒煙と火の粉がこのあたりにも激しく立ち込めるようになってきた。偉大なる如鬼神様は涙に濡れる俺の頬に手を触れ、微笑んだ。その袖口には黒い数珠が下がっている。
嫋姉様の背が、俺より頭一つ分低いことを今さらのように驚く。頭巾の中から見上げておられるお顔を、俺は終生忘れまいと目に焼き付けた。
「父が」
「うん?」
「お世話になったと申しておりました」
「左様か。あれも立派になった」
小さな御手が、俺の頬を離れていく。ゆっくりと背を向けるその姿を追うことは許されない。見苦しい振る舞いに及ぶのを恐れ、俺はその場に膝を着くしかなかった。
「見よ」
嫋姉様の指差す先には、なだらかな円錐の形をした火山が靄の彼方にうっすらと見え、盛んに灰色の煙を上げている。時折、濃い橙色をした炎も煙の中に垣間見える。
「今際のきわに巫女は、おのが神に向けて叫んだ。『なぜ生きながら身を焼かれねばならぬか』と。かかる問いには、答える仏もおらぬ。ゆえに今も山があのように火を噴き上げ、哭き叫んでおるのだ。あさましいと思うか、爾」
返す言葉に窮していると、不意に嫋姉様は振り向き、恐らく生涯忘れ得ぬ穏やかな笑顔をお見せになった。小さく「まあ、よい」と仰せの後、再び前を向かれる。
庵を指して歩み去る嫋姉様の背から、温かくも厳しいお声が発せられた。
「泣くな座光寺。笑え。笑わねば生きてゆけぬぞ!」
板戸を開けて、その尊い御姿は中の暗がりに消えた。笑えとのお言葉も忘れて俺は草の上に両手を着き、力なく頭を垂れる。
地響きが四方を揺るがし、庵の先の霞の彼方に、巨大な噴煙の柱が上がった。火山弾と火の粉が激しく舞い落ち、黒煙が一層濃く立ち込める。程なくこのあたりも火の海となるだろう。
藁を葺いた屋根に火の手が上がった。庵はたちまち炎に覆い尽くされ、俺の目の前で火焔の塊と化した。俺は泣きじゃくりながら、その燃えさかるさまを見つめた。炎の中から「確と見届けよ」と嫋姉様が言っておられるのだが、遂に耐えられなくなりその場にひれ伏してしまう。
地面を拳で叩きながら、俺は号泣に身を任せた。
……どれほどの間、俺はそうしていたのか。顔を上げると、目の前では滅しつつある嫋姉様の魂魄さながらに、庵が炎を噴き上げ続けていた。俺は立ち上がり、涙を拭って足を前に踏み出した。
炎上する庵の正面で手を合わせ、その横を通り過ぎた。彼方の山は火と煙を噴き続けている。俺は目を閉じて印を結び、その場で龍体に変生する。尾を一振りして空に舞い上がった。
日輪は何処にありや。上空はどこまでも白く分厚い雲が覆い、僅かな切れ目も見えない。あるいは、青空のない世界なのかもしれない。
俺は、遠くで火柱と黒煙を噴き上げる火口を目指した。嫋姉様をお救いできなかった上は、せめて婢鬼だけでも連れ戻さなければ。
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