上 下
68 / 74
6 炎の谷

承天

しおりを挟む
 後ろから眺める嫋姉様の背はいかにも小さく、儚げだった。常日頃は高みに奉戴していたからそう感じるのかもしれないが、今の儚さが胸に迫って、何とも形容しがたい悲しみを呼び起こす。

「この地は呪われし怨霊の巷にございます。手前が出口まで案内いたしますゆえ、なにとぞこの場はお引き払いくだされませ」

 嫋姉様は振り返り、事もなげにおっしゃられた。

「我はここにて入滅いたす。左様心得よ」
「な……何を申されまするか」

 絶句する俺を、嫋姉様は「騒ぐでない」と制した。

 入滅とは、滅霊師の間では霊として自ら滅びることを意味する。嫋姉様は落ち着き払っておられたが、俺は惑乱するあまりその場でよろめき、立っているのが精いっぱいという見苦しいありさまをさらした。

 しかも、自分ごとき者が慰めの言葉をかけていただくなど、あって良いことだろうか。

「大袈裟な顔をいたすな。時至らば『滅』は必ず人に訪れる。如鬼神たる我もまた同じ」
「何ゆえ、今なのでございます。至らざれど手前は、一心にお仕えしてまいりました。なぜ斯様にもむごいお話を」
「爾には心が残る。相済まぬと思うておる。されど時は満ちた。これは爾の此度こたびの働きとは関わりがないことゆえ、ゆめゆめ心得違いを致すな。……『たんに曰く、至れるかな坤元、萬物りて生ず。すなわしたがいて天を承く』。我とて坤元より生じたれば、そのうちを廻るのみ。すなわち『滅』は爾らの怖れる『死』に非ず……。よいか座光寺。我はこれより後も、常に爾の側におる」

 嫋姉様が歩み寄って来られた。黒煙と火の粉がこのあたりにも激しく立ち込めるようになってきた。偉大なる如鬼神様は涙に濡れる俺の頬に手を触れ、微笑んだ。その袖口には黒い数珠が下がっている。

 嫋姉様の背が、俺より頭一つ分低いことを今さらのように驚く。頭巾の中から見上げておられるお顔を、俺は終生忘れまいと目に焼き付けた。

「父が」
「うん?」
「お世話になったと申しておりました」
「左様か。あれも立派になった」

 小さな御手が、俺の頬を離れていく。ゆっくりと背を向けるその姿を追うことは許されない。見苦しい振る舞いに及ぶのを恐れ、俺はその場に膝を着くしかなかった。

「見よ」

 嫋姉様の指差す先には、なだらかな円錐の形をした火山が靄の彼方にうっすらと見え、盛んに灰色の煙を上げている。時折、濃い橙色をした炎も煙の中に垣間見える。

今際いまわのきわに巫女は、おのが神に向けて叫んだ。『なぜ生きながら身を焼かれねばならぬか』と。かかる問いには、答える仏もおらぬ。ゆえに今も山があのように火を噴き上げ、哭き叫んでおるのだ。あさましいと思うか、爾」

 返す言葉に窮していると、不意に嫋姉様は振り向き、恐らく生涯忘れ得ぬ穏やかな笑顔をお見せになった。小さく「まあ、よい」と仰せの後、再び前を向かれる。

 庵を指して歩み去る嫋姉様の背から、温かくも厳しいお声が発せられた。

「泣くな座光寺。笑え。笑わねば生きてゆけぬぞ!」

 板戸を開けて、その尊い御姿は中の暗がりに消えた。笑えとのお言葉も忘れて俺は草の上に両手を着き、力なく頭を垂れる。

 地響きが四方を揺るがし、庵の先の霞の彼方に、巨大な噴煙の柱が上がった。火山弾と火の粉が激しく舞い落ち、黒煙が一層濃く立ち込める。程なくこのあたりも火の海となるだろう。

 藁を葺いた屋根に火の手が上がった。庵はたちまち炎に覆い尽くされ、俺の目の前で火焔の塊と化した。俺は泣きじゃくりながら、その燃えさかるさまを見つめた。炎の中から「確と見届けよ」と嫋姉様が言っておられるのだが、遂に耐えられなくなりその場にひれ伏してしまう。

 地面を拳で叩きながら、俺は号泣に身を任せた。


 ……どれほどの間、俺はそうしていたのか。顔を上げると、目の前では滅しつつある嫋姉様の魂魄さながらに、庵が炎を噴き上げ続けていた。俺は立ち上がり、涙を拭って足を前に踏み出した。

 炎上する庵の正面で手を合わせ、その横を通り過ぎた。彼方の山は火と煙を噴き続けている。俺は目を閉じて印を結び、その場で龍体に変生へんじょうする。尾を一振りして空に舞い上がった。

 日輪は何処にありや。上空はどこまでも白く分厚い雲が覆い、僅かな切れ目も見えない。あるいは、青空のない世界なのかもしれない。

 俺は、遠くで火柱と黒煙を噴き上げる火口を目指した。嫋姉様をお救いできなかった上は、せめて婢鬼だけでも連れ戻さなければ。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

彼女のキスは甘く冷たい

氷川瑠衣
ホラー
高校生同士の甘い初恋が悲劇を呼び、やがて恐怖へと化していく禁断のホラー。

風見星治
ホラー
心が、喉が、渇く

森の奥

山河李娃
ホラー
R-18要素あり。少年イブは森の奥に迷い込みが自分が誰でどこから来たか分からなくなってしまう。そこで青年イーサン達と出会い色々と面倒を見てくれるのだったが…その代償に色々なことをされてゆく。  怪しむイブだったが少しずつ計画が進むのであった…

KITUNE

hosimure
ホラー
 田舎に泊まりに来た女子高校生・りん。  彼女が山で出会った不思議な少年・コムラ。  二人が出会った山には昔から不吉な話があり……。  出会うべきではなかった二人に起こる事は、果たしてっ…!?

徒然怪奇譚

mao
ホラー
 思いついた時にひっそり増えるホラー系短編集、基本的に一話完結型なのでお好きなところからお読み頂いて大丈夫です。  実体験、人伝に聞いた話、脚色を加えたものなど色々です。嘘かまことか、信じるのはあなた次第……?  本当に怖いのはオバケか、それとも人間か。  ※カクヨムにも投稿してます。

【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】

絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。 下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。 ※全話オリジナル作品です。

ちょっと怖い話

けんまま
ホラー
霊感が、あるわけではないのに、よく、不思議な事に、遭遇する人っていませんか? そんな、人のお話を集めました。 ちょっと怖いお話集です。

見えざる者

駄犬
ホラー
※冒頭抜粋  ワタシには霊感があるらしい。「あるらしい」と、忌避感のある言い回しで、明文化を避けるのには訳がある。鏡越しに自分の姿を手取り足取り、他人と共有するような手軽さに欠ける霊という存在は、舌先三寸でいくらでも飾り立てることが出来るからだ。つまり、真偽を叩き台に上げて舌鋒鋭く言い合うだけの徒労なる時間が待ち受けており、幼少期から今日に至るまで建設的な意見の交わし合いに発展したことが一度たりともなく、苦渋を飲んでばかりの経験から、自ら率先して霊の存在を発信することがなくなった。だからワタシは、怪談話の中心となる「霊」について悍ましげに語られた瞬間、さめざめとした眼差しを向けがちだ。

処理中です...