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5 巫女

伝説③

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 好いた一心に身を任せた娘は、大胆にも国司の館へ忍び入り、御曹司の部屋へ居座った。幸嗣も行きがかり上追い出すわけにいかなかった。それに何より、久目が可愛くもあった。家人たちは渋い顔をしつつ、今に「熱も冷めるだろう」と遠巻きに眺めていたが、久目は10日ほど経っても出て行く気配がない。

 とうとう父親も見かねて、幸嗣を自分の部屋へ呼んだ。

「近々都で勅授がある。引き続いて叙位もあろうし、お前も正七位下あたりに補任されて朝堂に召されるかもしれぬ。草深い当地の女を携えるわけにもゆくまい。都には都の、お前にふさわしい女がおる」

 幸嗣は煩悶した。男女の間柄も割り切って考える若者ではあったが、久目は手放し難かった。そんな倅の顔を眺めているうち、幸麻呂の頭に一つの策が浮かんだ。自分自身の難題を、いささか乱暴ながらこの機に乗じて一気に片付けるべき頃合いかもしれぬと思ったのだ。

 倅のもとに居座っている女が巫女の侍女であったことは、当然幸麻呂も知っていた。国司は倅に、有無を言わさぬ口調でこう命じた。

「あの娘に言え。『我と添い遂げたくば、我の申す通りにせよ』と」


 父のもとを下がった幸嗣は、久目に告げた。

「喜べ。そなたを我が妻に迎えることを父がお許しになったぞ」
「それは、まことでございますか」

 久目は目を見開き、満面輝き出さぬばかりの喜びを表した。幸嗣はわずかの間を置いて言った。

「ただし、その前にしておかねばならぬことがある」
「それは何でござりましょう?」
「都人である我が、そなたと添い遂げることを、この地の神が許すかどうか。巫女の侍女であるそなた自身が、神をその身に下ろして許しを得なければなるまい。父はそう申された」

 一転、久目の顔色が曇った。

 既に自分は清浄を失った、神前に出られぬ身である。その自分が自らの身に神を迎えてその意を伺うなどと、どうしてそのような恐ろしいことができようか。

 だが、幸嗣を失いたくなかった。

「なぜ、私でなくてはならぬのでしょう。綾井様に頼めば、よもやお断りにはなりますまいに」
「綾井どのは淳土呂のかむなぎゆえ、男女の間について卦を立てるがごとき術には通じてはおられまい。こののち、我の妻となるそなた自身が、神に問うことこそふさわしかろう。我も父と同意である」

 煩悶する久目に向かって、もうひと押しと幸嗣は声を励ました。

「そなたは長く綾井どのに仕え、巫の術でもはや知らぬことなどあるまい。それのみではない。我とそなた、そして朝廷とこの土地の者たちが末長く睦み合うてまいるためにも、……そなたの働きは御仏の大慈大悲に適うと言えよう」

 久目は食い入るように幸嗣の目を見つめ、御曹司の真意を確かめようとした。

「まことに、仏の教えに適いまするか?」

 幸嗣は目を逸らすことなく、大きく一つ呼吸をして頷いた。

「偽りなど申さぬ」


 その2日後、国司の使者が巫女の庵を訪れた。国庁にて帝の御病気平癒を祈願する加持祈祷を執り行うゆえ、ぜひとも参列してもらいたいとの話だった。明日の夕刻に迎えの乗り物を寄越すという。郡司以下、村の主だった者も顔をそろえるとの話だった。

 仏事とあって、綾井は気が進まなかった。だが天皇の病平癒を祈願すると言われれば無下に断るわけにもゆかぬ。使者には「承知した」と伝えて返した。

 実は、村の主だった者も参列するというのは嘘だった。計画を考えた橘幸麻呂は、綾井を神の座から一人だけ引き離し、国府に3日ほど足止めさせるつもりだった。半ば強引に巫女を不在にし、留守を狙ってかねてよりの思惑を成就させようと考えたのである。


 翌日夕刻、綾井を載せた牛車が国府へ向けて発ったのと入れ替わりに、村の長老たちのもとを橘幸嗣と久目が訪れた。

 突然の来訪に驚く長老たちに幸嗣は、久目を巫女として神降ろしの儀式を行い、彼女を妻とする承諾を土地の神から得たいと申し出た。長老らが仰天したのは言うまでもない。

「儀式万端は神より定められた巫女が司っている。以前に侍女であったに過ぎぬ者が代われようはずがない」

 幸嗣の傍らで、長老と相対する久目は傲然と言い放った。

「私は幼き時より綾井様の傍らに在って、今や神事万般ことごとく掌中のものにいたしております。綾井様に勝りこそすれ、なんら引けを取るところはございませぬ。その上、何分なにぶんこのたびのことは私事、巫女様の煩いとなるはあまりに心苦しゅうございますゆえ、この私が自ら神の意をお迎えいたしたいと存じます次第」

 巫女の露知らぬ間に、神の座はかつての侍女の仕切りに委ねられることとなった。長老たちは前代未聞の曲事くせごとと内心憤慨し、また恐れおののいたが、国府の威光を振りかざしてこられては抗えない。久目を巫女に擬した神事は翌日挙行と決まり、花婿の父である橘幸麻呂もその場に列することが伝えられた。

 花嫁である久目が巫女の衣装を纏って神の座に姿を現し、儀式が始まった。大詰めとなるまで、久目は所定の手順を何一つ違えなかった。いよいよ神勅の段となったところで橘幸麻呂が突然立ち上がり、場内を圧する大音声で〝巫女〟に呼び掛けた。

かしこきあたりより仏法護国の大願これあり。さればこの身不肖なれど、大勇猛心を振るいて当地の神に問わん。この地より動座召さるるは可なりや否や」

 長老たちが腰を抜かしたのは言うまでもない。

 朝廷の権威を嵩に、幸麻呂は名を口にすることを禁じられた神に対して動座を迫るのも同然の問いを発したのだった。これほど傲岸不遜な振る舞いは想像するさえ恐ろしく、そして都人にこのような無礼を許した自分たちもまた末代まで呪われるであろうと、その場にいた村人の誰もが震え上がった。だが、驚き恐れるのはまだ早かった。

 巫女に擬したかつての侍女は、こともあろうに国司の問いに「神意」を伝えたのだ。

「西の方十里に、清水の湧きいずる丘あり。我、その地へ赴かん」

 その場所は、かねてより国分寺造立の代替地として考えられていた土地であったが、まだ村の者たちには伝えられていなかった。幸麻呂は仁王立ちのまま久目を凝視し、「確かに承った」と満場を威圧するように怒鳴り返す。朝廷の代理者たる自分には、土地の神も対等の交渉相手に過ぎないという宣告であった。そして幸麻呂はまだその場に無言で立っている。

 国司の斜め後ろには、御曹司の幸嗣が座っていた。顔色は青ざめ、大きく見開いた目で宙を凝視し口を固く引き結んで、一刻も早くこの場の幕が下りることを念じている様子であった。

 久目が、愛する男の父である幸麻呂に向かって、巫女の語り口を改めもせずに言い放った。

「とこしえに、そなたの子幸嗣と、我は添い遂げんと信ずるものなり」

 幸麻呂の口の端に深い侮蔑の笑いが浮かんだのを、その場にいた多くの者が見て取った。国司は、哀願するような侍女の眼差しに何の応えも示さず、その場に腰を下ろした。
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